第三章 迷宮へ

第一話 聖女は旅支度を整える

 前日から何度も欠けがないように確かめておいた装備や物資を身に着けた。

 そうして、自室の鏡に映して改めて確認する。


 頑丈ななめし革のブーツに、丈夫な裏地を縫い付けておいた修道服、カンテラや鞘に入った小剣などを吊り下げた革ベルト、水筒や清潔な布、乾燥した薬草などを詰めた背嚢──


 諸々もろもろの準備を確認し終える。

 そして、私は胸元の聖女の証である聖印を握り締めて祈りを捧げた。


 「〈方舟の主〉様……我が道行きに貴方の恩寵と加護のあらんことを……」


 旅立ちの前の聖句を唱えた後で、少し迷いつつも、再び口を開いた。


 「我が同道どうどうの者たちに慈悲深き貴方の計らいにより、地に潜む苦難の罠より遠ざけられんことを……」


 聖句を唱え終えて、一つ息を吐く。


 「うん……行こう」


 短くつぶやいて、私はしばらく空けることになる〈猫の手亭〉の自室を振り返る。

 今は、心なしかがらんと寒々しく見えるその部屋を出て行った。


 〇


 「まさか、イサリカが探索者になるとは……」


 階段を下りて厨房に顔を出すと、芋や人参の皮をいていたドットルが手をぬぐって近づいてきて、旅装を整えた私を頭からつま先まで眺めた。


 「なんだ、なかなかサマんなってるじゃないか」

 「ドットルさんに色々と相談に乗ってもらったお陰です、あの、ありがとうございました」


 元は探索者だったというドットルに、準備の手伝ってもらったり、まだ使える装備や物資を融通してもらったのだ。

 私が深々と頭を下げると「よせよ、水臭い」と片手を振った。


 「それより〈黒き塔の旅団〉なんて、いきなりがんがん探索を進めるとこに入ったんなら、どんだけ準備したって足りねぇぞ」

 「そんなに……ですか?」


 私が尋ねると、ドットルは喉の奥をごろごろ鳴らしてうなった。


 「まあ、救護班に入るってんなら、前に出て戦闘するよりはマシだろうが……それでも迷宮ん中は油断できねぇ。そういう場所だよ、あの中は」


 ドットルは表情を曇らせるが、少し迷うような素振りを見せた。

 そうして軽く私の肩を叩いた。


 「……そうだな、正直なとこ言や心配だよ。お前さんが決めたことってんなら、俺が口出す筋合いはねぇんだけどよ」

 「ドットルさん……」

 「迷宮ん中じゃ、絶対に仲間からはぐれるな。一人になってはぐれた奴は、まず助からない」

 「分かりました」


 ドットルの忠告に深くうなずくと、厨房を出て酒場のフロアへ向かった。


 「あ」


 カウンターの裏に出た所で、テーブルを拭いていたフレンタと目が合った。

 じろっ、と鋭く目を向けてくるフレンタに私は深々と頭を下げた。


 「あの、しばらく店を空けることになって、すみません」


 こつこつと酒場の床を歩いてくるフレンタの足音が聞こえる。

 私の前に立って、引き締まった腰に手を当てるのが見えた。


 「顔上げろ」

 「えっ?」

 「いいから」


 唐突に言われて、なんだろう、と言われた通りに半ばおっかなびっくりに顔を上げると、ふわりとした軽い布の感触が肩に掛けられた。


 驚いて見ると、私の肩に深緑の外套が掛けられていた。

 フレンタがほっそりとした手を伸ばして、葉の形をしたブローチで外套を留める。


 「私が使ってた外套だよ」

 「えっ……」

 「故郷の里を追い出される時にかっぱらってきたやつ。もう今更おれは使わねぇから、お前にやる」


 そう言って、フレンタは外套のフードを形よく整える。


 言われて、私は外套の布地に触れてみる。

 重さをほとんど感じないのに、破れ目一つ見当たらない丈夫な素材だと分かる。


 爽やかな木の匂いを感じた。


 「あの、こんな貴重な物、受け取れ……」

 「おめぇが帰ってこなかったらよ」


 いくらなんでもこんな貴重な品を受け取れないと思ってフレンタを見返す。

 しかし、彼女は尖った耳の後ろをがりがりとかいた。


 「最近はこの店も繁盛してんのに、ずうっとおれ一人で客さばいてかなきゃなんねぇだろうが。……そんなめんどくせぇのごめんだぞ」

 「あ……」


 私は目を何度もしばたく。

 すると、フレンタは給仕の服の裾を揺らしてフロアへと戻っていった。


 「礼も謝罪もいらねぇ。……でも、無事に帰ってこい」


 そう言って、フレンタは再びテーブルを拭き始める。

 その背中に、私は大きくうなずき、こうべを垂れた。


 「はい。分かりました、必ず……帰ってきます」


 顔を上げて、一つ息を吐いて、私は〈猫の手亭〉の店の扉に向かった。


 「いってきます!」


 私は精一杯声を張って店の扉を出ると、店の前の水路に掛かる橋を渡った。


 〇


 〈黒き塔の旅団〉の本拠である町外れの邸宅は門が開かれていた。

 そこに団員らしい探索者たちが続々と集まってきている。


 私はその人の流れにまぎれて、早足に門へと向かう。


 周りの様子をうかがってみると、家族のいる団員も多いのか、小さな子供を抱きかかえてあやしたり、人目もはばからず抱き合っている男女の姿も見かけた。

 見送りに来て涙を浮かべている老女の姿もある。


 (そう、だよね……)


 〈黒き塔の旅団〉に所属する団員たち一人一人に生活があり、人との繋がりがあり、背負うべきものがある。


 そして、ヴァレンシアは彼ら一人一人を背負って立つ存在なのだ。


 皇女という立場で大陸の平和をおもんばかるのもヴァレンシアにとって重い責務なのだろうが、顔の見える一人一人の命を預かるというのは、それとはまた別の重さがのしかかるに違いなかった。


 ──そういう道を、ヴァレンシアは自分で選んだのだ。


 ぼんやりと考えかけた私は、はっとしてその思考を振り切るようにかぶりを振る。

 目の前に迫った〈黒き塔の旅団〉の本拠の門を、私はくぐった。


 〇


 団員たちは門をくぐるとそのまま屋敷の中庭へと向かっていた。

 種族も年齢も様々な彼らの後について私も歩いていると、背後から声がかかった。


 「イサリカ!」


 振り返ると、いかにも身軽そうな装束に黒く塗られた革の胸当てを身に着けたリュッカが、頭頂部の耳をぴょこぴょこ動かして駆けてきた。


 「わあ、本当に来たんだ……」

 「そりゃあ来るよ」


 目を丸くする獣人種の少年に、私は苦笑する。


 「ヴァレンシアにちゃんと返事をして、〈黒き塔の旅団〉に入ったんだから」

 「そうか。うん、そうだよな」


 リュッカは何度も感慨深そうにうなずいて、そして、私へ笑顔を向けた。


 「分からない事があったら俺に聞いてよ。仲間になったんだから、遠慮しなくていいからさ」

 「うん、ありがとう。私もリュッカがいてくれると心強いよ」


 どうあれ、新入団員には違いないのだから、リュッカがこう言ってくれるのはありがたい。私の言葉を聞いて、リュッカはうつむいて鼻をこすっていた。


 リュッカと共に中庭へ出ると、既に団員は揃っているようだった。

 団員たちはしばらくさざめくように声を上げていた。私はその様子をぼんやりと眺めていたが、やがてその声が徐々に静まっていく。


 奥の回廊に、きびきびとした足取りでヴァレンシアが姿を現した。


 「やあ、みんな。こうして集まってもらうのももう何度目になるだろうねえ」


 奥の回廊で足を止めたヴァレンシアが、砕けた口調で団員に語りかける。

 でも、その口調と裏腹に、ヴァレンシアは隙なく装備を着こなしていた。


 銀の胸当てと飴色のなめし革のコルセットが胴体を覆い、腰には鞘に精緻な細工の施された細剣レイピアが光っていた。


 「私は毎回、これが最後になるように、って思ってみんなを集めてるけど、まあなかなか一筋縄でいかないもんだね」


 そう言って苦笑するヴァレンシアの脇には、銀色の鏡のように磨かれた仮面の剣士──ミラがいる。

 漆黒の外套をまとったその腰にも、鞘に入った細身の長剣がのぞいていた。


 「私はこの〈ソルディム〉の街にある迷宮を攻略するつもりで〈帝都〉からやってきた。富や名声のためでなく、平和の為に、皇帝の血に連なる者の責務としてね」


 ヴァレンシアは結い上げた蜂蜜色の髪を日の光に輝かせて告げる。

 あの日、私に語ったのと同じように。


 「あるいは、そんなことを言うこの私は、他の探索者にとっては目障りな存在かもね。色々言われるし、危険な目に遭ったこともある」


 その言葉に、私は無意識に左手で拳を握り締めていた。


 「みんなの中にも色々と目的があるんだろうね。金や名誉や、或いは皇女である私の力となって手柄を立てることを考えている奴もいるかも」


 そうヴァレンシアが団員ににっと笑いかけると、団員たちから冷やかすような笑い声が上がった。それに、ヴァレンシアは気分を害した風もなく笑顔を深める。


 「……でも、今ここにいるってことはさ、みんな自分の目で見てみたいわけだ」


 ヴァレンシアはそこで笑顔に不敵なものをにじませた。


 「迷宮の一番奥、そこにある物を」


 そして、ヴァレンシアは拳を目の前に突き出した。

 団員たちが一瞬にして、しんと静まり返る。


 「幸いなことに私たちはそれに一番近い場所まで進んでる。後少し……なんて保証はできないけど、それを目にする可能性が一番高いのは、私たちなんだ」


 ヴァレンシアの言葉と共に、団員たちの間で士気が高まるのを感じる。


 「誰も目にしたことのない深みまで、欲望のはらわたを食い破ってその奥底まで」


 そして、ヴァレンシアは一声吠えた。


 「行くぞ‼〈黒き塔の旅団〉‼」


 高らかに〈ソルディム〉の空に響き渡ったヴァレンシアの声に、その場に集う団員たちの喝采かっさいが重なった。


 ──これが、皇女ヴァレンシア。

 自ら〈ソルディム〉の迷宮攻略を目指して、〈黒き塔の旅団〉を率いる者。


 私は、団員たちの喝采の鳴りやまぬ中、一人、拳を固く握り締めた。

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