第五話 聖女は覚悟を問われる
シュハが、す……と音もなく柱から離れて距離を詰めてきた。
「どうなのですか?」
シュハが感情をうかがわせない眼差しを私に向けて、目の前まで近づいていた。
悲鳴を上げて飛び退こうとすると、シュハの腕が伸びて私の退路をさえぎった。
「何を怯えているのです?私はなにか変なことを言っていますか?」
息の吹きかかるほど近くで、シュハが私に尋ねる。
問い詰めるような口調ではないのに、誤魔化したり答えを濁すようなことが許されるとは思えない。
「……どういう方かと興味をもっていました」
「えっ……?」
「癒しの力が歪んでしまった、〈歪みの聖女〉。聖女がその力を失ったり、弱まってしまうことはあっても、歪んでしまうなんてことは普通、考えられない」
シュハの探るような眼が私の顔を捕らえている。
「どういう方が、どんな経験をして、〈歪みの聖女〉などと呼ばれるようになったか、以前から知りたかった」
私は何度か深呼吸をくりかえして、シュハの視線から逃れるように顔をそらす。
「……あなたが興味をもつようなことなんて、何も、ありません……」
「そうですか?」
「……どうしても知りたいというのなら、あなたの身を以って知ったらいい」
シュハが一瞬、意表を突かれたような表情を浮かべて、視線を下ろした。
その視線の先で、手袋を脱いで彼女の脇腹に触れている私の左手があるはずだ。
「……念の為に言っておきますけど、これだけ密着していたら、さすがに布の一枚や二枚は問題になりませんよ」
浅い呼吸を繰り返して、私はシュハの情感の薄い顔を睨んだ。
「もう、いいでしょう?」
シュハはしばらく息が吹きかかる距離で無表情に私を見下ろしていた。
だがすぐに、くすっ、と含み笑いをもらす。
──これまでで一番愉快そうな笑い声だった。
そのままシュハは何事もなかったように私から離れる。
窓際の柱の陰に戻り再び腕を組んで私を見た。
「……暗部に最初の指令で『皇女に近づくように』言われたのなら、彼女の探索者集団に入るかどうかは、あなたの裁量の範囲、と言えるのではないですか?」
「あっ、えっ」
淡々と答えるシュハに面食らったが、話題が戻ったのだと気付く。
「暗部には私から報告をしておくとして、先ほども言った通り、あなたは皇女に近づく目的があるのなら、その勧誘は渡りに舟だと思いますが」
「でも……」
私はぐっと自分の左手を握り締めた。
「ヴァレンシアは……私を、普通の、癒しの力を持った聖女だと思ってる。今の私は、ささいな体の変調や、傷の痛みを和らげることはできても、命懸けの場面で大きな怪我を癒すなんてできない」
きっと、私は治すべきその相手を、歪めてしまう。
「もし、そうなったら……」
すると、シュハが心底不思議そうに首をかしげた。
「だから、それの何が問題なのですか?」
「えっ」
「相手がそれで命を落とそうと、既に自分の手が及ぶ状態でなかったと言えば、いくらでもごまかしの利く話ではないですか」
「そんな……ことで……」
私は思わず力なくよろけて、背後の書架に背中からぶつかった。
「元のように癒すことはできなくても『歪める力』であれば、ある程度制御ができると聞いています。見た目に大きな傷を負った相手なら、それで十分ごまかせる」
なんでもない事のようにそう言って、シュハは淡々と言葉を続ける。
「無論、あなたが言ったように〈大陸正教会〉の暗部の企みが露見する危険性はもちろんある。皇女の命は安いものではない。いざとなればあなたは容赦なく切り捨てられるでしょう」
そう言うと、シュハは若干もの
「しかし〈大陸正教会〉は〈ソルディム〉の問題に対して、出遅れたというのは否めない。皇帝側が皇女の一人を探索者として
そして、シュハは腕を組んだまま目をすがめた。
「実を言えば、私もこれまでのように地上で探索者を問い詰めるやり方では、迷宮の実情を知るにも限界があろう、と暗部に報告するつもりでした」
「あ……」
私はこの前、シュハがアグリスを拷問していた光景を思い出した。
「〈黒き塔の旅団〉は、そういった意味でもうってつけの潜入先であることに違いはありません」
「…………」
「〈大陸正教会〉側の企みが露見した際のリスクは大きいが、同時に手詰まりだった〈ソルディム〉の問題を進める大きな手掛かりになろう、と私は思います」
「要するに」と、シュハは私を見た。
「いざという時、切り捨てられるあなた一人の覚悟次第、というわけです」
それだけ言って、シュハは足音を立てず、光を受けてただよう埃が舞う書庫の空気を横切って、書庫の扉へ向かった。
「……あなたは、自らこの任務に志願した、と聞いています」
扉を開けて出て行く間際、シュハは書架の前でうつむいている私に向けて、静かに言い置いた。
「あなたの目的を問い質そうとは思いませんが、あなたのような人が暗部の命を受けて、相手の命を奪うような任務に志願した理由には興味があります」
かすかな笑いを含んだ声が、硬直する私の首筋をなでるように告げられた。
「覚悟を決めた方は好きですよ。それが何に対する仕事であれ」
書庫の扉がぱたん、と音を立てて閉じられると、私は力なくずるずると書架の棚を滑り落ちて、その場にへたり込んだ。
〇
ヴァレンシアは一月後に再び迷宮に潜ると言っていた。
仮に返事をするとして期限はそれまで、と区切っておいたということだろう。
迷宮探索について全くの素人の私が迷宮に足を踏み入れようとするなら、最低限の準備と訓練は欠かせないので、その分も考えると──
──「……ちゃん、イサリカちゃん。フレンタの奴が呼んでんじゃない?」
「はっ、えっ?」
不意に呼びかけられて、私ははっと我に返る。
〈猫の手亭〉の常連客が少し心配そうな顔で私を見ている。
注文を運んできたついでに呼び止められ、少し立ち話をしていた。
それが、いつのまにかぼんやりしていたみたいだった。
これはまずい、と慌ててその顔見知りの客に頭を下げてお詫びをしてから、カウンターの前で「イサリカ!」と私を呼んでいるフレンタの前へ、慌てて駆け寄る。
「お前!何ぼやぼやしてんだ!」
「すっ、すみません……」
これは一しきり怒鳴られる、というか私が悪いのだから……、と思っているとフレンタが給仕の制服で腕組みをして息を吐いた。
「……おら、注文溜まってっぞ。手分けして持っていくから、お前はそっち頼む」
「?あっ、えっ……はい」
「前みたいに酒こぼすなよ。余計な手間増えんだから」
「ったく」ともう一度、大きく息を吐いて、フレンタは盆に載った料理と酒をテーブルへ運んでいく。私は他の注文を手にフロアへと持っていく。
(……フレンタさん、最近、前ほど当たりが強くなくなった……?)
何故だろう、と理由を考えたが、まるで見当がつかない。
アグリスがいなくなって〈猫の手亭〉は全体的に張り詰めたぴりぴりした空気がなくなった、とは感じる。そのせいだろうか。
──だが、こんな調子でいつまでも迷惑をかけられない。
私は一通り注文を運ぶと、自分の頬を両手でぱんっと音を立てて叩いた。
悩んでも、仕方ない。
行動してみるしかない、と心に決めてそれ以上、その事は考えず過ごした。
〇
「……おいおい、そりゃあ、場所位は知ってるがよ」
数日後、店に出て来たドットルを捕まえて私は尋ねた。
「なんでまた、そんなとこに用事があるんだ?」
「……個人的な、用事で」
今はまだ詳しく事情を説明はできないので、言葉を濁す。
すると、ドットルは顔を灰色の体毛に覆われた顔をしかめたが「まあ、いいけどよ」とうなずいた。
「イサリカは真面目だし、めったな事はないと思うがな……」
そう言って、ドットルはさらさらと紙に地図を描きつけた。
「別に秘密にされているわけでもないし……いいか」
渡された紙を見て、私は深々と頭を下げた。
教会の仕事のない日を選んでドットルに声を掛けた。
そして、その日の内に目的の場所へ私は出向いた。
雑然とした〈ソルディム〉の街並みにも慣れて、一人でも随分と余裕をもって街歩きができるようになってきた。
(この前……ヴァレンシアが色々と教えてくれたお陰……なのかな)
そんな事を考えて歩きながら建物の密集した中心部から離れていく。
比較的敷地の広い建物や、余裕のある造りの住宅などが並ぶ一角が見えてきた。
「ここか……」
そうして、私は大きな両開きの鉄製の門の向こうに見える邸宅の前で足を止めた。
そこが、ヴァレンシアの率いる探索者集団──〈黒き塔の旅団〉の本拠だった。
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