10月8日・日「氷のビフロスト」

 その日わたしが着ていたのは、更紗の着物。

 木綿地だから格という観点で見れば普段着の扱いになるのだけれど……。どうしてこんなに美しいのか。複雑でエキゾッチクな、鍋島更紗特有のくっきりとした輪郭線の精緻な模様。帯は南国の、これまたオリエンタルな色合いの雲と龍の図柄を合わせた。これらがどれだけ大切に扱われていた品なのかは、触れればわかる。質感のやさしい布地が肌に心地いい。……いつものことだけれど、時間の止まったような蔵の中でひとり、虹那の残した着物を着て過ごしていると、いったい自分が誰なのか、今がいつなのか、……次第にわからなくなる。

 目をつむればこれもまたいつもと同じように、波の音が耳に届いた。

 この音を聞いているのは、わたしなのか、それとも……虹那なのか。

 それにしてもわたしはこんな優しい波音を、かつて聞いたことがない。

 小石の隙間を通る水の音は、時に低く、またやわらかく、わたしの耳朶をくすぐった。

 吊るされた鏡がランプの光を反射させて、ちらちらと瞬いている。

 午前中は物思いに耽りつつ、昨日梅乃さんが蔵の一番奥に置いていった「シン」という古い書を読んでいた。私家本なのか出版社の名前は書かれていない。作者の名前はインクで消されていた。その中身はというと……すらすら読めるのに内容が少しも入ってこない、心に残らない、不思議な本だった。

 店じまいの時間の近くになって、珍しく、外に人の気配があった。二十日ぶりのお客さまかもしれない、と思って、少し緊張した。

 チャイムが鳴り、蔵の扉がぎぎ、と音を立てて開いていく。外の光が蔵の中に入ってくる。わたしよそ行きの笑顔を貼りつけ、慌ててマスクをつけながら、いらっしゃいませ、と頭を下げた。


「驚いた。本当に遊崎さんが働いてらしたのね。おひさしぶりですわ」


 そう言って、憂うような、薄い笑みを浮かべて立っていたのは、元クラスメイトの龍烏さん、だった。

「素敵なおめしものね。ただ、少しお痩せになった? 顔色もあまり良くないようですけれど」

 首を傾げて見せる。彼女の美しい黒髪がさらりと流れた。相変わらず彼女の肌は、抜けるように白かった。私服姿の……マスクをしていない彼女の姿を見るのは、初めてだった。

「お母様のことはあとから伺って……。本当に残念でらしたわね。遅くなってしまいましたが、改めてお悔やみを申し上げます。でも……遊崎さんが元気そうで、ほっとしましたわ。LINEも既読がつかなくなってしまって、ずっと心配でしたの」

 どうして、とわたしは声にならない声で、小さく呟いた。

 なぜ彼女がここにいるのか。意味が、訳がわからない。龍烏さんはわたしの顔色から喫驚しているのを察したようで、小さく苦笑を浮かべて、

「父の知り合いに大層な好事家のおじさまがいらっしゃるの。その方がこのあいだ屋敷にいらしたとき、稀覯本ばかりを集めた風変りな古書店があるって話をしていらして。そこのお店を任されているという若い女性の特徴をお聞きしたときに、少し遊崎さんに似ていらっしゃるかしらって、思ったものですから。それでわたし、確かめに来たのですけど……」

 言い訳するようにそう言った。

 龍烏さんは閉じた日傘をトートバックと共に左手にかけつつ、こつこつ、と小さな足音を立てながら、蔵の中へゆっくりと入ってきた。そして、壁や天井を見渡している。無数の鏡やランプ、古く貴重な本ばかりが集められているのが……たとえ事前に話を聞いていたのだとしても……珍しかったのかもしれない。

「……何かお探しのものがございますか?」

 わたしはわざと仕事用の顔をして、そう訊ねた。

「そうね、『春と修羅』の初版とか?」

「ありますよ、何冊か」

「えっ……本当に?」

 龍烏さんは一瞬目を見開き、それからくすくすと笑った。冗談だと思ったのかもしれない。

 わたしも少しだけ冷静さを取り戻して、小さく笑って見せた。わざわざ会いに来てくれたことに、少しだけ、戸惑いよりも嬉しさを感じながら。

「久しぶり、龍烏さん。元気?」

「ええ、元気よ。まあ、何をもって元気というのかなんて、それぞれの見解によるのかもしれませんけど」

 それにしても。そう呟いて、龍烏さんはまた、ちらりと書架の方に目を向けた。

「なんというか、圧巻ですわね。でも、遊崎さんは文芸部でいらしたものね。ある意味落ち着くところに落ち着いた、ということなのかしら」

 文芸部、という言葉に、わたしはちくりと胸の痛みを覚えた。それはまるで間違えて飲み込んでしまった魚の小骨のように、わたしの心を苛んだ。

「遊崎さんのお姉さまはもうご卒業されてしまったけれど、あなたの妹さん、……ええと、沈花さん、とお呼びしていましたかしら。彼女、とても悲しんでいたわ。あなたに拒絶されたことがよほど堪えたみたい」

「……それを言いに、わざわざ?」

「まさか。わたし、それほど暇じゃないわ」

 龍烏さんのことだから、沈花のことをわたしに告げたのにも悪意はなく、嫌味でもないのだろう。本当に心から、そう思っているふうで。

 だから、余計に、つらかった。

「ここは古書店なのでしょう?」

「ええ、見ての通り」

「なら、こちらを」

 そう言いつつ、龍烏さんはトートバックから薄い冊子を取り出した。

「買い取ってもらえないかしら」

 表紙に『虹の橋』と書かれていた。

 それは去年の秋の成都祭で……わたしが学校を辞めてから……発行されたはずの、文芸部の部誌だった。

「ただでいいですわ。遊崎さんが本当にいらっしゃったら、渡そうと思っていたの。あなたが持っているべきだと思ったから」


 着物から私服に着替えて蔵から出ると、龍烏さんは日傘の陰でぼんやりとした表情を浮かべ、夕暮れどきの空を見つめていた。

 波音が少しずつ、満ち潮に導かれ、わたしたちのところへと近づいている。

「ごめん、待った?」

 そう、声をかけると、龍烏さんは小さく首を横に振った。

「こちらこそ急かしてしまったみたいでごめんなさい」

 龍烏さんはそれから、不思議そうに、わたしの顔を見た。

「どうしたの?」

「……わたし、遊崎さんのお顔、初めて見ましたわ」

 仕事中は接客する関係上マスクを着けているけれど、もともと息苦しくて好きじゃなかったから、私服になったらいつも、さっさとマスクは外してしまう。去年はリースのせいで体育の授業のときでさえマスクを着用していたので、その反動もあるかもしれない。

 わたしたちは一緒に食事をしたことすらなかったから。こうやって素顔をお互いに晒すのは初めてだった。

「わたしも。龍烏さんの顔、初めて見た」

「去年は色々と災難でしたものね」

 わたしは龍烏さんの横に並び、海を見つめた。夕日に晒されて、波が赤銅色に光っている。海の音は、今日も優しい。

「わたし、ずっと遊崎さんとお友達になりたかったのよ」

 くるり、と白い日傘が彼女の手の中で回った。

「六月だったかしら。あなたの首筋の匂いを嗅いだとき、本当はすごくドキドキしていましたの。……知っていらして?」

「からかわれているんだと思ってたよ」

 わたしは思わず苦笑した。龍烏さんも、くすくすと小さな笑い声を立てた。

「でも、いい匂いがしたのは本当ですわ」

「それ、多分貧乏の匂いよ?」

 歩き出す。海岸まで続く道は、無数の小石で覆われている。それを背にするようにして、舗装された小道を歩んでいく。家庭の匂いのする、背戸道を。

「わたし、高校に通っていた頃は龍烏さんが少し、苦手だった」

「やっぱり。なんとなくそう思っていましたわ」

「勝手にね、コンプレックスを抱いていたの。龍烏さんとわたしとでは生きている世界が違うって、そう思ってた。うち、母子家庭でめちゃくちゃ貧乏だったから、それを知られないようにするのでいつもいっぱいいっぱいだった。自分のこと、惨めだって認めたくなかったんだ。あ、ここからは日傘閉じて。道、狭いから」

 夜の帳が、降り始めている。細い背戸道を二人並んで抜ける。自然と距離が近くなる。

 いつも帰り道に立ち寄るマーケットに寄って、安い棒付きのアイスを二つ買う。包みの一つを龍烏さんに渡すと、彼女はきょとんとした表情を浮かべていた。

「どうしたの?」

「こういうの……というか、買い食いするの、初めて」

 道端で袋を破いて毒々しい青色の氷菓を頬張る。それを見て一瞬戸惑ったようだったが、龍烏さんも結局、わたしの真似をした。

「ごめんね、育ちが悪くて」

「何をおっしゃいますの。そんなこと、気にしませんわ」

 ただ甘いだけのこんなアイスでも、わたしにとってはずっと贅沢な品だった。今でも仕事をしていて、お金が入ってくるとはいえ、節制しなきゃいけないことには変わりがない。人生は、いつ、なにがあるかわからない。母のことは……教訓だったと思わなければならない。

「ねえ、一つお願いがあるんだけど」

「なんでしょう?」

「わたしがここにいること、誰にも言わないで欲しいの」

 わたしは真剣な口調と声で言った。

「ふふ、安く買収されてしまいましたわね」

 龍烏さんが笑った。

 でも、わたしは笑えなかった。笑わなかったそのことに、彼女も気付いたのだろう。

「……言いませんわ」

 と、小さな声で答えた。

「けれど、わたしからも一つだけ。もし許してくださるのなら……」

 お互いに、棒のアイスを握りしめ、見つめあった。

「ええと、下の名前で呼んでもいい?」

「いいよ、結香ゆかさん」

「わ、わたしのじゃなくて、その、……花さん?」

「なに?」

「……なんでもありませんわ」

 日が落ちていて、良かった。暗くてよく見えなかった、そう言い訳ができるシチュエーションで良かった。

 だって。

 わたしの顔も、龍烏さんの顔も、熟れたトマトみたいに真っ赤だったから。

「もっと早くに、打ち解けていたら良かったね。……ううん、違うか。今だから、高校を辞めた今だから、こうやって結香さんと屈託無く喋れるんだと思う。今日はありがとう、来てくれて。嬉しかった」

 わたしは言った。

 人嫌いだったはずなのに。そう自認していたはずなのに。……誰とも交わらない生活を続けているうちに、実は、人と人との交流に飢えてしまっていた……のかもしれない。それともそれが、わたしの本性だったのだろうか。

 でも、だからと言って姉や妹に会いたいかというと、……今更会ってなにを話していいのか、わからない。

 ましてや元クラスメイトになんて、絶対に会いたくなかった。たぶん龍烏さんとは違って、彼女たちは好奇の目で、哀れみの目でわたしを見るに違いないから。それも、偏見かもしれない。でも嫌なものは嫌なのだ。

「またお店に伺ってもいい?」

 龍烏さんが少し首をかしげるような仕草をして、そう訊ねた。わたしが浮かべた表情に、何か感じるものがあったのか。少し、不安そうだった。

「もちろん。待ってる。……でも、お客としてならあそこの本、めっちゃ高いからね。『春と修羅』はどれも美品で一冊七十五万円から、献呈署名入りは二百五十万円、だからね」

「それは……さすがにおいそれとは手が出せませんわね」

 それでも買えない、と明言しないところが龍烏さんだなぁ、なんて思ってしまう。そう思ってしまうことだって、わたしの彼女に対する勝手なイメージの押し付けであるのも理解しつつ、けれども少しずつ、そういったあれこれを解きほぐしていって、仲良くなれたらいいな、と思うのだった。


 龍烏さんを駅に送り届け、自分のアパートに帰ったあと、わたしは龍烏さんに渡された部誌の冊子を手に取って最初のページをめくってみた。目次を見るとわたしの名前と沈花の名前が二つ、並んで書かれていた。

 わたしはそっと、その文字に触れた。


 不思議な夢を見た。

 気づくとわたしは駅前のロータリーにいた。いったいどこの駅だろうと思って振り返ると、かつて何度も通った、閖町の駅前であることに気づいた。その時点でこれは夢なんだとわかった。明晰夢、と言うのだったか。

 こんな夢を見るほどわたしはリューシカが恋しいのだろうか、と自分に問いただしてみる。でも、答えは出なかった。少しだけ、切なくなっただけで。

 季節は夏のようだった。

 蝉の声がする。蒸し暑い。汗が頬を伝う。

 わたしはあの頃いつも着ていた……今では捨ててしまった……学園の制服姿で、改札を出てすぐの場所に立ち尽くしていた。

 

 目の前に、彼女がいた。


 折りたたみの椅子に腰を掛け、彼女がわたしに弾き方を教えてくれた、あのアコースティック・ギターを膝に乗せて、調弦をしていた。左耳に吊るされたピアスが夏の光を受けてちりちりと輝いていた。赤いフレームの眼鏡も、あの頃と変わらなかった。

 聞き覚えのあるイントロ。声をかけようとしたのと、彼女が歌い出したのが、同時だった。


There are places I remember

All my life though some have changed

Some forever not for better

Some have gone and some remain

All these places had their moments

With lovers and friends I still can recall

Some are dead and some are living

In my life I've loved them all


 あの船の中で、教えてもらった歌。ビートルズの、わたしの好きな、わたしも好きになった、あの、歌。結局、わたしはギターを弾くことなんてできなくて。合奏なんて、できなくて……。

 道行く人は、誰も振り返らない。彼女の前を素通りしていく。どうして、どうして、とわたしは思う。

 こんなにも美しいものを目の当たりにして、耳にして、どうしてみんな素通りできるのか、不思議でならない。

 空に大きな鳥が飛んでいる。

 その影が彼女を覆う。

 これは、夢。

 夢のはずなのに。

 どうしてわたしは、泣いているのだろう。

 どうしてこんなにも、涙があふれて止まらないのだろう。

 ごめんなさい、ごめんなさい……。気づくとわたしはそう呟きながら、その場にしゃがみ込んでいた。


 どのくらいそうしていたのだろうか。気づくと演奏は止んでいた。恐る恐る目を開ける。……リューシカが目の前に立っている。

「久しぶり」

 彼女は手を差し伸べながら、わたしに笑いかけた。

「一年と、ちょっと?」

「……うん」

 そうだね。わたしのせいで、一年も経ってしまった。

「ごめんなさい」

「そう思うなら会いに来て」

「……いいの?」

「それを決めるのは、わたしじゃないわ。わたしはいつでもここにいる、待っているって、最初に言ったじゃない」

「今も?」

「今もよ」

 夢はそこで終わった。

 真っ暗な部屋の中、布団をはね除けて時計を見ると夜の十一時になったばかり。

 まだ、間に合うのだろうか。

 わたしは涙で濡れた頬をぬぐいながら、都合のいい夢を見ていた自分自身が許せなくて、血の味がするくらい、唇を強く噛みしめた。

 どうして今更こんな夢を見るのかと、不思議に思いながら。

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