9月30日・土「満月、そして、彼女の残滓」
さぱん、ころころころ……。
さぷん、から、ころろ……。
目をつむるとかすかに、童の歌のような、波の音が聞こえてくる。
ここからほど近い浜辺、海ぎわ一面の小さな丸石……ごろた石というのだそうだ……が波にさらえられて、独特な音を立てている。
港からも遠く、入り組んで迷路のような背戸道を越えたこの店は、普段から閑散としていて、訪う人も滅多にいない。近くに疫病が流行った時代の病院跡地があるせいか、気味悪がって、この店に用のある奇特な人間以外は、誰も寄り付かない、近寄りたがらない。
目を開くと、一面の古書の群れ。
それも、全てが稀覯本と呼ばれる類いのもの。
わたしが商う……といってもわたし自身は雇われなのだけれど……古びた本が、蔵の中の壁面を、覆い尽くしている。
そう、ここは、蔵だ。かつてはこの地にあった寺の境内に建てられていたものをそのまま使っているそうだが、今では幾基かの無縁仏の墓石の跡を除けば、寺だった頃の名残は見当たらない。
蔵には窓がない。
古書の群れを、天井から吊るされた無数の鏡が幾億にも像を結びながら、時々床に置かれているこれまたいくつもの鮮やかなランプの光と共に、乱反射されている。
わたしは椅子に深く腰かけ直して、天井を見上げた。
蔵に薫きしめられた淡い沈香の匂い。
天井の向こう側の、
ぼんやりと思った。
さぱん、ころころころ……。
さぷん、から、ころろ……。
波音が土蔵を改めた店の中に、静かに沁みた。
今度は目をつむらなくても、それとわかった。
ここ、閖町の対岸飛び地は、穏やかなところだ。
ふと考えてしまう。小さな湾を隔てた向こう側……あの入り組んだ川辺の場所に、今もリューシカはいるのだろうか、と。
真水と海水との違いはあれど、繋がっている、……そう今でも思うのは、わたしのエゴだろうか。
海は歌うように、小石の群れをまるで赤子が眠るゆりかごみたいにやさしく揺らして、寄せては返していく。昨日も、その前の日も、明日も、ずっと遠い未来まで。変わらない海のさまが続いていくのだろう。
なら、川は? 川の流れはどうなのだろう。川の水は遡上したりしない。ただ、流れていくだけ。一方的に。……戻ることなんて、できはしない。
首を振って、わたしは、小さくため息をつく。
着物の帯のあいだからこれも虹那の遺品である懐中時計を取り出して、時間を確認する。九月になって、だいぶ日が傾くのも早くなった。
わたしは椅子から立ち上がると、蔵を出て、店の表札を裏返した。そうしてからカウンター裏の急な階段を二階に上がって、秘密の部屋に入った。
そして、再び小さくため息をついてから、着物の帯を解いた。
母が死んで、わたしの生活は一変した。
葬儀や死んだあとの手続きに関連したあれこれは、母の勤めていたスナックのママが手を貸してくれた。母の直接の死因がよくわからず、リースの罹患が疑われたせいで、母がアパートに戻ってきたときにはすでに、亡骸は火葬されたあとだった。
極々小さなお式の最中、何か助けられることがあったらいつでも頼って欲しい、と言ってきた中年の冴えない男は、たぶん、母の恋人だったのだろうと思うけれど、もう、それも、どうでもいいことだった。
機械油の匂いのする、落ち着かない感じの人で、こちらを見る目つきに厭らしさを感じた。わたしの一番嫌なタイプだった。おためごかしを言っていてもその魂胆が透けて見えるようで、こんな人に頼るくらいなら、独りで生きていくほうが百倍マシだった。結構です、もう、わたしたちに関わらないでください。はっきりと拒絶の意を示すと、男は押し黙り、それ以上何も言ってこなかった。
学校は夏休みのあいだに休学した。
休学、といっても、実質的には自主退学だった。学校側の体裁として、そのような処置が取られただけで。制服もその時点で見るのも嫌になって、捨ててしまった。……そもそも、あんな馬鹿高い授業料なんて母が死んでしまえば払えるわけはなかったし、頼るツテもなかった。母の実家がどこにあるのか、わたしは知らない。父が生きているのかどうかさえ、わたしは知らないのだ。
学校を辞めることを姉にも沈花にも言わなかった。何も言わずに連絡手段を全て絶った。使っていたLINEのアプリも消してしまった。彼女たちに言ってどうなるものでもなかったし、あれこれ心配されるのも嫌だった。憐れみの目で見られるのは尚更嫌だった。虚勢を張り、貧乏を隠す生活にはうんざりしていた。これからは誰も、わたしを小蝶と呼ばない。誰もわたしをお姉さまとは呼ばない。それでよかった。逆に清々したくらいだった。もちろん罪悪感がないわけではなかった。けれどもわたしには、考えなきゃいけないことが沢山、沢山あったのだ。
この歳で、一人で生きていく為にはどうしたらいいのか。
母のように女を売り物にするのは真っ平御免だった。
それなのにわたしは、あまりにも無力だった。
……リューシカには頼れなかった。
そんなことをしてしまえば、余計惨めになるのは目に見えていた。それにわたしは、リューシカのメールアドレスも電話番号も知らない。直接会いに行って、母が死んでしまったから助けて欲しいなんて……言えるわけがなかった。
好きだったから。
とてもとても、彼女のことが好きだったから。
蔵を出ると、すでに夕焼けが空を覆っていた。
オレンジ色の炎のような、目が痛いくらいの空だった。
着物から私服に着替え終えていたわたしは、鞄の底からスマホを取り出して、小説投稿サイトのアプリをタップしてみた。……やっぱり。
任那の小説の更新は、一年以上されていない。
彼女に何かあったのか、それとも単にエタってしまっただけなのか、わからなかった。わたしの推し、わたしの背骨、生きる希望だと思っていたネットの小説家は、ひっそりと消えてしまった。母が死んだあの日と、ほとんど同時に。
さぱん、ころころころ……。
さぷん、から、ころろ……。
後ろを振り返る、そこは小石の浜辺。波が蔵のそばまで迫ってきている。満潮が近いのだろう。
蔵……わたしの勤め先の稀代な古書店……が黒いシルエットになって、夕日を切り抜いている。
わたしがここを知ったのは、母の葬儀が終わって三ヶ月経った、ある日のことだった。いつものようにアルバイト情報を検索していたわたしは、とあるサイトに奇妙な求人を見つけたのである。
『身長155センチ。体重48〜51キロ。女性。年齢は18〜24歳くらいまで。ただし、自分で着物の着付けができる人。学生不可。仕事内容は古書店の代理人……月給■■■。休日は基本的に土・日・祝日。それ以外の休暇や、交通費に関しては応談。』
年齢が一つ足りないのを除けば、わたしの為にあるような話だった。それに正社員扱いで、給金も破格だった。短期のバイトを繰り返しつつ、母のわずかな貯金を食いつぶしながらなんとか生きていたわたしは、後先をあまり考えずに、その奇妙な依頼主の元へと電話をかけてみたのだった。
その人の……わたしのオーナーとなるその人の名は、
家と家との隙間の、人ひとり分しかない小道が、わたしの前後に、迷路のように続いている。背戸道という名称も梅乃さんに教えてもらった。
暗く、街灯もないが、家々の明かりはやわらかくこぼれ落ち、わずかに背戸道を照らしている。
ここ……この海辺の町がリューシカのいるあの閖町と同じ町内だというのが、今でもまだ信じられない。遠く隔たっている。ここには水の匂いはしない。少しヨードが混ざったような、海の匂いだけが漂う。あの美しい水路もない代わりに、入り組んだ小道と、美しい波の音が近く遠くに聞こえる。そんな町に、わたしは今、住んでいる。
背戸道を抜け、小さなマーケットで食材を買い、新しく越してきたアパートに着く頃には、空には星が瞬いている。岬の先に大きな満月が、赤々と光っていた。……あれほど猛威を振るっていたリースもいつの間にかすっっかり成りを潜めてしまい、感染症上の分類も5類になったせいか、日々のニュースに上がることすらなくなって、往来でマスクをつけている人も、今では半々といったところだろうか。もちろん、全く感染症自体が無くなってしまったわけではなくて、病院でのクラスターも散発的にはあると聞くけれど。それでもまるで、リースは世界に溶け込んでしまったかのようだ。あの真昼の空に浮かんでいた小さな点……暗黒星も、なぜかわたしには、見えなくなってしまった。
ふと思う。彼女は予想しただろうか。この世界の急激な変化を。絶対的な他者が、いつの間にかわたしたちの中に紛れ込んでしまったことを。
わたし自身、以前と変わらないのは、こうして自炊をすることだけ、なのかもしれない。
蛇口からコップに注いだ水に、口をつける。一息に全部飲み干す。水道水が少し塩辛く感じるのは、海辺に住んでいる、という気分のせいか。
一年。
あれからもう、一年経ってしまった。
ことことと雪平の中で解凍した里芋が煮えて、音を立てているのを見つめつつ、わたしは今日何度目かになるため息をついた。
「もしこの仕事をお受けしていただけるのならね、……あなたに孫娘の残した着物を、着て欲しいのです」
初めて梅乃さんとお会いした、面接のときのこと。開口一番にそう言われて、わたしは二の句が告げられなかった。
指定された喫茶店には、わたしたち以外の客は誰もいなかった。店員が注文を取りに来ることもなかった。それでも紅茶は運ばれてきた。あらかじめ、彼女が頼んでおいてくれたのだろう、と思った。
アールグレイの、ロイヤルミルクティー。
「求人広告を出してから、応募されてきた方は多数いらっしゃったのよ。ですけど、明らかに身長や体重、年齢が合わない方が多くて……それに何と言っても雰囲気がね、どうしても違う、と思ってしまう人ばかりだった。けれどもあなたを一目見たときに、ああ、この子を待っていたんだ、って。思ったのよ」
白髪の、着物姿の老女が、まるで少女のように、やわらかな笑みを浮かべている。とても身なりがよくで、着物も、一目で高価なものだとわかる。
「大変不躾ですみません。あの、お嬢様はその……」
わたしは椅子の上で腰の位置を直しながら、訊ねた。死んでいるのか、とは、さすがに訊けなかった。
「ええ。十九でした。わたしに似て着道楽な子でしたよ」
砂梅乃と名乗ったその人が、テーブルに置かれていたティーカップをそっと持ち上げた。わたしもなんだか少しいたたまれなくて、同じようにカップを持ち上げて、口をつけた。ベルガモットの香る、美味しいお茶。もしかしたら、その子の好きだったお茶、なのかもしれない。
「あなた……花さん? 着付けはおできになるのでしょう? 着丈も問題なさそうだし、なにより顔があの子によく似ている。でも、……まだ十七歳なのね。履歴書には高校中退と書かれてあるし、どうしてあなたのような若い子が応募してくださったのかしら」
「母が亡くなって、それで」
「お父様は?」
「最初からいませんでした」
「頼れる方はどなたか……いらっしゃらなかったの?」
親類縁者は一切いない。一瞬リューシカの顔が浮かんだが、違う、頼る相手なんかじゃない、と自分に言い聞かせて、首を横に振った。
「それは、お辛いことを言わせてしまいましたね」
「いいえ」
生きていく。生き続けなければならない。それより辛いことなんて、この世にあるのだろうか。
梅乃さんは履歴書をちらりと見て、
「それで、お受けしていただけるのかしら。お住まいがだいぶ遠いみたいだけれど」
と言った。
「アパートは……母が亡くなった場所でもあるので、もともと引き払おうと思ってはいたんです。なのでこちらの近くに越してくるのに、支障はありません。ただ、お金がなくて……。あ、いえ、ええと、だから、わたしでよければ喜んでお受けしたいと思います。でも、これってなんだか『トニー滝谷』みたいな話ですね」
わたしが失言したのを取り返すみたいに、苦笑しながら、冗談めかして言うと、梅乃さんもくすくすと笑ってくれた。そうね、その通りかもしれないわね、わたしも村上春樹は大好きよ、と。じゃあ、まずは引越しの用立てをさせてもらうわね。あ、気にしないで、わたし、あなたのことが気に入ってしまったの。
そのようにしてわたしは彼女の孫娘である虹那の、代わりとなった。毎日客のこない古書店で、虹那の着物を着て、ひなが一日過ごすのが、……わたしの仕事となったのである。
それはまるで、夢の中の出来事みたいな日々の、始まりだった。
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