8月25日・木「朝に雲、暮れて雨」

 夏休みがとうとう残り一週間になってしまった。

 学校の宿題は全部、八月になる前に終わらせていたけれど、肝心の……小説の方が、未だにまとまりきらない状態だった。

 幽霊部員からの原稿があがって来ていることも想定外だった。おかげでお姉さまは編集作業にかかりきりで、相談することもできずにいた。こういうのもスランプというのだろうか。姉に渡した小説のラストを少し変えようかと思って手を入れているうちに、なんだかとりとめがなくなり、収拾がつかなくなってしまっているのだった。

 わたしはスマホのアプリを使って小説のラストをいじりながら、いつの間にか無意識に自分の足と足とを絡ませ、布団の上で何度も、切ない気持ちになっていた。……文章を書いていると、どうしてもモデルにした夜々子さんの姿が目に浮かんでしまう。あの夜、みんなで夕食をいただいたあと、三味線を弾いていた夜々子さん、深夜、二人だけの寝室で……睦みあっていた彼女たちの姿、今でも目に焼き付いている。

 ただ、どうしてわたしがそれを目にしてしまったのか、今でもよくわからない。

 家鳴りがした、と思ったのだ。

 天井が揺れている、と。

 夜の一時過ぎだった。

 恐る恐る階段を上って行ったわたしは……。

 見てしまったのだ。絡み合う、二匹の蛇のような。

 ……あの日の情景を思い出しそうになったわたしは、ため息をついて、スマホの文章作成アプリを閉じた。そしてそのまま、寝転んだ姿勢のまま、窓の向こう側の空を見上げた。外は気持ちよく晴れていた。それだけでなんだかちょっと、下腹部の疼きが消えて、心の靄が晴れるようだった。わたしは小さくため息をつき、取り散らかってしまった文章をメールに添付して沈花に送った。そして何かいいアイデアがあったら教えてほしい、と書き添えた。

 それだけ済ませてしまうと、わたしは起き上がって、伸びをした。同じ姿勢でスマホをいじっていたせいで、首のうしろが強張っていて、痛いくらいだった。

 もうそろそろ頃合いだろうか。わたしはスマホに表示された時刻を見つめた。リューシカのところには、夏休みのあいだはいつも、朝の満員電車を避けるようにして、心持ち少し遅めに出かけることにしていた。

 ちらりと続きの居間を見る。母が眠っている。たぶん明け方近くに帰宅して、そのまま力尽きてしまったのだろう。化粧を落とした様子もなく、万年床に突っ伏して、身動き一つしない。その姿を横目で見下ろしつつ、わたしは夏の制服に着替え、母を起こさぬように、静かに玄関の扉を開けた。そういえば仕事前に少し咳をしていたことを、なんとなく思い出した。

 扉を閉めるときにも、母は動かなかった。


 電車に揺られているあいだ、わたしはお姉さまから送っていただいた小説、『痛みのない街』を読んでいた。

 それは夜のうちに届いたメールに添付されていたもので、原稿用紙に換算すると三十枚くらいになるだろうか。いつまでも完結させられずに悩んでいるわたしのために、姉が送ってくれたものだった。

 ……長い長い戦争が、人々から痛みを奪った。物語はそう始まっていた。

 でも、それは少し、語弊があるかもしれない。

 戦争のせいで傷つき、心に、体に痛みを負った人たちがそれから逃れようとして、痛みを消し去る術を、手に入れるに至る。

 もはや人は痛みを感じなくなった。心の痛みも、肉体的な痛みも、何一つ。

 そして戦争が終わっても、捨ててしまった痛みが戻ってくることはなかった。

 人々は痛みをなくした代わりに、快楽をも失ってしまった。肉体が欲するところの「欲」を失ってしまった。眠らなくても苦痛を感じず、食べなくても困らず、睦みあうことは面倒だった。娯楽はなくなり、後のに残ったのは緩慢な死だった。

 街の片隅の、小さな料理屋に、頭のおかしい女主人がいた。

 女主人はアルバイトの女の子の肉を削いで食べた。痛みがないのだから、主人も女の子も特に気にはしなかった。ただの気まぐれだった。冗談のつもりだった。けれども、そこには忘れられてしまった快楽があった。女の子は自身が少しずつ食べられていくことに性「欲」を覚え、女主人は相手の体を食材として扱う食「欲」に溺れた。

 相手を食べること、食べられることが至高の快楽になるだなんて。店は繁盛する。客が求めるのは、可愛らしい女の子の肉。失われてしまった性「欲」と食「欲」。頬肉のシチュー、スペアリブのハニーソース掛け、耳朶のピーナツバター和え、眼球のプティング、エトセトラ、エトセトラ……。その街に一人の女の子が現れる。自身を食材にして欲しいと願って。なぜそう思い至ったのかは書いていない。きっと、彼女にとっては自明のことだったのだろう。あるいは、お姉さまにとっては自明なことだったのかもしれない。女の子は体に香辛料を染み込ませて、ゆっくりゆっくりと馴染ませて、先輩の女の子と一緒に、店に供される。彼女はやがて同じ食べ物の女の子に、親切なその年上の女の子に、恋をする。決して叶わない恋だとわかりながら。だって、その先輩は女主人のことが好きなのだから。それでも恋をする。恋することをやめられない。今まで感じたことのない、抗いがたい感情を抱く。その先輩だって、女主人にしてみたら、数多くいる商品の一つに過ぎないのだけれど。でも、仕方がない。恋する相手は選べない。どうしようもない。彼女たちは少しずつ体をすり減らしていって、心をすり減らして行って、最後は仲良く、ミンチになって、ひとつのハンバーグになる。肉汁のたっぷり詰まった、……合挽き肉の。

 物語はそこで終わっていて、わたしはきっと青い顔をしていたのに違いない、電車から降りたときに、駅員さんから大丈夫ですか、と声をかけられる始末だった。

 わたしはしばらく駅のホームのベンチに座りながら、ぼんやりと、手にしたスマホを見つめていた。スマホはわたしの体温が移ったのか、それとも稼働させ過ぎていたせいなのか、生暖かくて、気持ちが悪かった。……人の体温をした機械なんて、手にしていたら気持ちが悪いだけだ。

 朝の陽射しが、わたしの制服を、スカートから伸びたわたしの足を、眩しいくらいに白く照らしていた。スマホの画面だけが、割れた保護フィルム越しに、暗く沈んでいた。姉は、

 ……姉は、どうしてこんな小説を書いたのだろう。


 きっとそれ、ラブレターだったんじゃないかしら、と。リューシカがウイスキーの入ったグラスに口をつけながら、小さな声で言った。

「ラブレター?」

 わたしは訊ねた。

 蝉の声と、水の音が絶えない。そこはいつもの船の上。蔀を覆う夕顔の花が、室内からは影になって揺れている。

「恋する人には自分じゃない、好きな人がいた。少しでも気を惹きたくて……と思うと、いじらしい物語だと思うのだけど」

 そういうものだろうか。

 お姉さまがあのお堅い、無口な雨様に恋をしていた……なんて、それこそ小説のようだと思ってしまう。でも、なんとなくわかるような気もした。

 わたしは暗灰色の、緩やかに波打つリューシカの髪を指先で弄びながら、ぼんやりと彼女の言葉に耳を傾けていた。

 左耳に吊るされたピアスの鎖が、わたしの指の動きに合わせてちりちりと揺れていた。

 先端に光るミルクに虹を溶かしたような不思議な石は、まるで生きているみたいに右に回ったり、左に回ったりしている。

「でも、思うのだけれど」

 リューシカが少しだけくすぐったそうな声で、言った。

「最後のハンバーグは、誰に供されたものだったのかしら」

「お客さん……じゃないの?」

「そうかもしれない。でも、もしかしたら女主人だったのかもしれない」

 痛みのない街、というタイトルのこの小説は、誰に捧げられたものだったのか。

 リューシカの説が正しいのなら……雨様が好きだった人は、雨様が思っていた人は、一体誰だったのだろう。


「でも、痛みがない、なんて……まるでみんな、死んでいるみたいね」


「え?」

 船がちゃぷり、と音を立てて、ひときわ、大きく揺れた。

 わたしは体勢を崩してしまって、慌ててリューシカに抱きついた。

「揺れたね」

 リューシカがわたしの背中に手を回しながら、船の外を見遣った。舳先の更に向こうの水面が、縦に長く、波打っている。何か、大きな生き物が通った跡みたいに。

 わたしはリューシカの汗の匂いを嗅ぎながら、その白いおとがいを見つめていた。赤い唇を、見つめていた。

「キス、してもいい?」

 リューシカが何も言わずに目を閉じたので、わたしはそっと、彼女の唇を奪った。

 強いお酒の味がした。

 酔ってしまいそうだった。

 舌を伸ばすと、リューシカがそれに応えた。

 くちゅ、くちゅという音が頭の中から聞こえていた。

 それは雨の音に似ていた。ううん、記憶の中から聞こえてきた、京都の雨の音、そのものだった。

 わたしは、あの夜のことを思い出していた。

 夜々子さんが、一花さんと抱き合っていた、あの夜の姿を。まるで白と黒の蛇が絡み合うように、睦みあうふたりの姿を。

 盗み見ているのだということも忘れて、息をすることすら忘れて、わたしはその行為を襖の隙間から、ずっと見ていた。

 わたしは本当の閨事というものを、初めて知った。愛し合う者同士の情交というものを、初めて知った。母親の恋人たちにされたいたずらは、あの夜の行為に比べたら、子どもの遊びみたいなものだった。

 したい、と思った。

 リューシカとあれがしたい、と思った。

 口付けをしたままリューシカの太ももに手を延べた。その先まで、指を伸ばそうとした、そのときだった。

 彼女はやんわりと、わたしの手を払いのけた。

「どうして」

 とわたしは訊ねた。

「誰にそそのかされてきたの」

 リューシカが少し怒ったような顔で、そう言った。

「わたし、あれほど気をつけなさいって言ったのに」

 今日はもう帰りなさい、と告げられ、わたしはなんだか狐につままれたようになりながら、船を降りた。

 なんだかふわふわして歩きづらくて、わたしは自分が欲情し、下着が濡れているのにさえ、気づいていなかった。


 西日がまぶしくアスファルトを照らしている。

 街路樹が濃い影を落としている。

 時間が経つにつれて、なんだか情けなくて、胸の奥が苦しかった。口の中にも苦い味が広がっていた。

 わたしは人が嫌いだった。

 男も女も大嫌いだった。

 人と接触するなんて、もってのほかだと思っていた。

 ……だから、罰を受けたのだと思った。

 湿った下着が、時間が経つにつれて肌に張り付いて、不快だった。それが一層、恥ずかしくて、いたたまれなくて、わたしの心を苛んだ。

 全部、わたしが悪いんだ。

 あんなに性的なものを忌避していたはずなのに。

 ……恥ずかしげもなく、あんなことをしてしまって。

 全部、全部わたしが悪かったのだ。

 そう思った。

 そう思わなければ、泣いてしまいそうだった。

 リューシカには嫌われてしまっただろうか。次に会うときに、どんな顔をしたらいいのだろう……。

 暗澹とした気持ちのままアパートに着くと、母はわたしが出て行ったときと同じ格好のまま、布団の上に伏せていた。

 さすがに腹が立って、情けなくなって、お母さん、と少し強めに声をかけた。いくら酒に弱いからといって、この姿はあんまりだ。

 でも、母からの返事はなく、ぴくりとも動かない。

 ちょっと、いい加減起きなよ、そう、再び声をかけながら、わたしは母の肩を揺すった。

 むき出しの母の肌は夏なのに、冷たかった。

 ……母は、いつまでも、目を覚まさなかった。

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