第30話 ただいま、そして、おかえり

「来とったんか。父さん…」

そんな言葉を、空に向かって呟いていた。京一の気持ちが、音を立てて、軌道修正されていく。会う事を拒んでいた自分が、消えて行く。今まで、何度も、素直になるチャンスはあった。そのたびに、会う事を拒んでいた自分が現れ、耳元で囁く、いいのかと…。社会に出て、父親と同じ立場で、社会人として生きてきた。職業が違うので、同じ経験をしてきたとは言い難いが、同じように壁にぶち当たり、酒を飲み、煙草を吸って、生きていくストレスと戦ってきたから、理解できる。生きていくと云う辛さ、自分のプライドの誤魔化し方、今の自分でいいのかという疑念、そして、生き抜くという言葉の意味。独身の京一が、これなのである。父親は、それにプラスして、母親に姉、京一という家族を背負い生きてきたのである。

「父さんらしいなぁ…」

瞳が潤んでいる様にも見える。少し、はにかむ京一の姿を、真由美は見つめていた。霧島の山から、吹き降ろされるヒンヤリとした風が、二人の頬に当たっていた。

京一は、不意に立ち上がり、ベビーカーの赤ん坊の顔を覗き込む。

「真由美、抱っこしてもいいか。」

そんな言葉を、笑みを浮かべて発していた。今まで、逃げていたものに立ち向かおうとしている。目の前にあるのに、目を逸らしてきたものに、視線を向けようとしている。

「いいよ。」

真由美は、快く頷いてくれた。赤ん坊など、抱き抱えた事のない京一は、どう抱っこしていいのか戸惑ってしまうが、真由美の助けもあり、小さな赤ん坊が、京一の腕の中でケタケタ笑っていた。素直に、かわいいと思う。

「一人目か。」

「ううん、上に、男の子が二人。三人目で、やっと女の子。」

「そうか…」

京一は、小さい、小さな赤ん坊を抱き抱え、自然と笑みがこぼれる。赤ん坊の笑みを見ているだけで、心が和んでくる。子供とは、不思議な力を持っているものだなぁと、改めて、感じている京一がいた。

「真由美…」

京一は、ふと、ある言葉が頭に浮かんだ。口に出そうとするが、思わず、飲み込んでしまう。

「何よ、京一。」

赤ん坊越しに、真由美の顔が見える。幸せそうに微笑んでいる真由美に、飲み込んだ言葉を発していた。

『真由美、幸せか…』

「何よ、急に…」

言葉を発した京一の方が照れてしまう。

「いや、何となくな。お前が、幸せかどうか、知りたくなったねん。」

「ふ~ん、どうだろ。幸せかな。元気な子供三人と、そんな私達を養う為に、一生懸命働いてくれる旦那。たまには、大きな喧嘩もするけど…。いい事も、嫌な事も、全部ひっくるめて、幸せかな。」

真由美は、満面の笑みを浮かべて、そんな言葉を口にする。

「そうか…」

そんな時、携帯のメール受信の音が流れる。京一は、赤ちゃんを抱いているので、すぐに、応対できない。

出なよ。そんな言葉と一緒に、我が娘を受け取る真由美は、彼女から…そんな言葉を付け加えてきた。京一は、携帯を取り出し、メール相手の名前を確認する。佳織からである。

「おじちゃん、彼女からのメールだって、いいでしゅね。」

我が娘の手を取って、京一に向かって、振っている。スーパー〈ひろせ〉の前で、思わず、送信してしまったメールの文面を思い出す。京一は、慌てて、佳織からのメール文面を確認する。

《失敗しましたか。でも、私は、京一が、会う事を選択すると信じています。佳織》

そんなメールの文章に、ますます、今の自分の気持ちが固まっていく。

「彼女、ちゃうわ。」

遅ばせながら、そんな突っ込みを入れる京一を、親子二人で、からかい始める。

京一は、目の前にいる真由美と赤ん坊を、どんな思いで眺めているのだろう。春間近の青空の下、二人の顔には、笑みがこぼれ、赤ちゃんは、ケタケタ笑っている。想像もしていなかった真由美との再会。思わぬ出来事が、見つめ返す時間を作ってくれた。元カノと赤ちゃんの笑みが、京一にとっては、癒しの時間であった。


その日の夕刻。京一は、高城町を後にして、再度、高崎町に戻ってきていた。車を、小学校の近くの空き地に止めて、実家まで歩いて行こうと考える。小学校から家までの通学路。子供の頃の様に、自然に<ただいま>と言えそうな気がしていた。

『よし、行くか!』

京一は、ハンドルを前にして、手のひらで自分の両頬を叩き、気合を入れる。

京一は、全てを解決する為の決意。幼い時、通っていた通学路を歩いて、父親に会おうとしている。

「こんなん、やったんやなぁ。」

あの頃は、十五分ぐらいかかっていた道程。今では、十分もかからないと思う。少し、古びたように感じる記憶の中の風景。懐かしさのあまり、視線をキョロキョロと、見動かしてしまう。あの頃は、当たり前だった風景が、風情のある町並みに変わっていた。

京一は、昔からある文房具や、スーパーマーケットの脇の道を通り、国道に向かって歩いていく。周りの風景を見味わいながら、ゆったりと歩幅を進める。

時間帯が夕刻、我が家に帰る車なのであろう、気持ち車の往来が激しく見える。そんな国道を横切った。もう100Mも歩けば、実家が見えてくる。急に、両足が重たくなってくる。その原因は、自分の中にあるのは分かっている。逃げたくなる気持ちを抑えて、足を前に進めた。国道沿いの脇道を曲がり、視線を前方に向ける。十八まで住んでいた我が家が見える。そして、今朝と同じの軽トラックが瞳に映った。

『行くぞ。』

一瞬、止まってしまった両足を、踏み出そうとしている。自分に言い聞かせる言葉で、重たい足を前に進める。鼓動が高まり、心臓が口から出そうになる。一歩、一歩と、足を進めるにつれて、父親の後ろ身がはっきりと見えてくる。年老いた老人の後ろ身が、夕日に照らされていた。


京一は、父親に手に届きそうな距離で、立ち止まる。

『父さん!』

胸の内で叫んでいた言葉が、声になって出てこないでいると、父親は視線を感じたのか、振り向く。京一と目が合ってしまう。身体が凍りついた様に動かない。そんな京一を前にして、何も言おうとしない。それに、十七年振りに帰ってきた我が息子を無視するかのように、淡々と、片付けの続きを始め出す始末。そんな父親の姿を見て、気負いが折れていく。京一は諦めた。感動の再会とまではいかないにしろ、何か言葉があると思っていた。京一は振り向き、歩いてきた道を戻ろうとした時、こんな言葉が聞こえてきた。

『京一、どげんしたと、自分の家やろ。』

父親の言葉であった。重たかった足が、急に軽くなるのがわかる。しかし、視線を合わせようとしない父親。京一も黙ったまま、父親の後ろを廻って、玄関まで歩いていく。ぎこちない空気が流れている。

『京一!』

玄関の引き戸に手を掛けた時、後方から、そんな言葉が聞こえてくる。京一が振り向くと、父親が、我が息子の方を向いて立っている。茜色に染まった後方の風景。

『お帰り!』

一瞬にして、京一の瞳から、溢れてくる涙。堪えようとしても、溢れ流れ出す。

『父さん、ただいま!』

やっと、発した言葉。京一が、一番言いかかった言葉が、茜色に染まる風景の中に、響いていた。

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