第29話 再挑戦、落胆、そして、元カノ
早朝、午前六時頃。京一は、自分が生まれ育った家の前に立っていた。あれから、一睡もしていない。なぜか、眠たくならなかった。
「父さん、起きる頃か。」
もう十歩ほど、歩を進ませれば、玄関の前に到着するのに、一歩目を踏み出せない状態である。
「駄目や。いや、駄目とちゃう。行かな、行かな、あかん。」
自問自答をしている。緊張している。頭の中の言葉を口に出してしまう。
「フん、あ、あかん。駄目や!」
長い時間、粘ってみるも、足を前に出せないでいる。そんな言葉を発して、振り返り、車に戻ろうとする。
“ガラガラ・ガラ…”
背中の先から、玄関の引き戸が、開かれる音が聞こえた瞬間、昨日の様に、反射的で走り出していた。遠目で見えるぐらいの距離。電信柱に身を潜めて、父親の姿を見つめていた。まだ、日は昇り切っていない、薄明るい中、父親は仕事道具を軽トラックに積んでいる。子供の頃、見ていた情景であった。昔は、間近で眺めていた光景が、今は、身を潜め、遠目で眺めている。そして、父親の背中には力がなく、髪の毛が薄く、白髪になっていた。侘びしさを感じるが、そんな父親の姿を見ても、前に踏み出せない自分への苛立ち。そんな事をしている間に、父親が乗る軽トラックが、走り出してしまう。この瞬間、二度目の試みも失敗に終わる。十七年という壁の壁。自分の心の壁を、突き破れない自分を情けなく思う。
その日の午後、京一は、隣町の高城町にいた。この町は、京一が卒業をした<高城高校>がある町。高校を卒業するまでの三年間、自転車で一時間半かけて、通い続けた町でもあった。
「フぅー、駄目やなぁ。やっぱ、会わへん方がいいかなぁ。」
スーパー<ひろせ>の駐車場。ベンチに上半身の体重を腕から肘、膝にかかるように座っていた。お昼時、主婦らしき中年女性。京一と同じぐらいの年代の女性が多く見える。
京一は、父親に会う事を戸惑い、暗い気分のまま、なぜか、この場所に来ていた。高校が近く、授業を抜け出し、友達と暇を潰していた場所。携帯を片手に、メールの送信をしようが迷っている、送り主は、もちろん、佳織であった。飲みかけの缶コーヒーを、自分の脇、座るベンチの上に置いて、さっき買った未開封の煙草に手を伸ばす。
“今朝、試みるも、また、失敗〟
そんな文面と、睨めっこしながら、自分の不甲斐なさに呆れつつ、煙草に火をつける。煙を思い切り肺の中に入れた時、ベビーカーを押してきた一人の女性が、京一の隣に座った。視界の片隅に、スヤスヤ眠る赤ん坊の顔が瞳に映った時、指に挟んでいた煙草を、勢いよく消していた。そんな京一の行動を見ていたのか、隣の方から、こんな言葉が耳に入ってくる。
『すいません。』
俯いていた京一は、心地よく届いてきた言葉に、視線が女性に向ける。
「いえ、いえ…」
女性と目が合ってしまい、咄嗟に、目を逸らしてしまうが、どうしてか、二度見をしていた。瞳に映った女性の表情、京一の記憶に残っていた。一瞬にして、携帯の画面を開いたまま、動きが止まってしまう。女性の方も、何やら、動きが止まったようにも見える。
『京一!』
『真由美!』
お互いに顔を見合わせて、同時にそんな声を上げた。高校の時、付き合っていた女性が目の前にいる。卒業前、自然消滅のまま、連絡が途絶えた、今風でいう、元カノの真由美が、同じベンチに座っていた。
こんな時、女性の方が冷静であった。開いてるガラ携を指差して、送らないの?と一言続けた。
あぁ、と言いつつ、あの文面を佳織に送ってしまう。あれだけ、携帯と睨めっこしていたのに、元カノの前で、見栄を張る男というのも、格好が悪い。
春間近の快晴の空の下、高城中学校の脇の道。どちらからとも言う事もなく、母校<高城高校>に向かって歩いていた。まだ、付き合っている頃、よく二人で歩いた道。
「今日は、いい天気。小春日和って、こんな天気の事を言うやね。」
真由美につられるまま、歩いてきた京一は、そんな言葉で、今日はじめて、空を見上げた。昨晩は、あれだけ見上げていた空も、今朝の、再挑戦が失敗に終わり、俯いてばかりいた事に気付く。改めて、見に覚えのある高城の風景に目をやる。
「突然、驚いた。なんか、気難しそうに、ガラ携眺めている男がいるなぁと思ったら、京一なんやもん。」
「それは、こっちのセリフや。」
ヘビーカーを押している真由美の姿が、妙に新鮮に感じる。昔より、少し膨らみを感じるからか。
「それに、こんなかわいい赤ん坊まで、おるんやで、こっちの方が、びっくりやわぁ。」
「何言っとるんよ。、私ら、もう、三十五なんよ。」
真由美の言うとおりである。結婚をしていない京一には、驚きでも、一般の三十五であれば、結婚して、子供の一人や二人ぐらいいる年齢である。
「京一、この辺あんまし、変わっとらんやろ。」
ベビーカーを押しながら、京一よりも少し前方を歩く真由美が、立ち止まり、振り向いた。
「あぁ、そうやな。ホンマに、変わってへんな。」
記憶にある風景。町の中心部とはいっても、周りには、田んぼと山しかない田舎町。こんな田舎町は、十数年経っても、変わり様がないのかもしれない。
「でもね、観音公園の方なんか、結構新しい家も建ちおるんよ。国道も新しぃなったしね。」
正直、そんな小さな変化には、気づかないと思う。この土地で暮らしている人には、大きな変化でも、外に出てしまった人間からすれば、懐かしい風が吹き、匂いのする町であった。
「うっフフ、おかしい。」
突然、軽い笑い声が、耳に入ってくる。視線を真由美に向けると、肩が微妙に揺れているのがわかる。
「チョイ待ち、真由美、何が、おかしいねん。」
そんな言葉を発して、立ち止まっている真由美に歩み寄る。まじまじと顔を見つめると、笑いを堪えている。
「だって、さっきから、大阪弁ばぁ、喋っとる。なんか、別な人と話しとるみたいで、おかしくて…」
「しゃァないやろ。十七年も、大阪に住んどるんやから…」
なぜか、恥ずかしく、顔を赤らめる京一。恥ずかしいというよりも、当たり前の様に喋っていた言葉が、おかしいと思われた事に、耳まで真っ赤になっていた。
舗装されていない砂利道。周りは田んぼだけの風景。所々に、黄色いたんぽぽが顔を見せている。初春の匂いに包まれていた。二人は、高城高校の裏門の前で足を止める。
平日だというのに、自転車置き場には、まばらな自転車の数。
「…」
「今、試験休みじゃないね。」
真由美は、京一の表情を見て、そんな言葉を発していた。何となくではあるが、京一が思っている事がわかってしまう。
「あっ、そうなんや。」
何の戸惑いもなく、真由美の言葉を受け止めてしまう。京一の頭の中には、上級生、下級生とはず、多くの学生で、ごった返しになっていた風景が、浮かんでいた。
「ねぇ、もう学ランじゃないだよ。制服。」
えっ、軽く驚き、真由美の顔を見る。
「男子は、ブレザーで、女子も、ちょっと、変わったんよ。でも、私は、前の方が良かったけど…」
自分が、ブレザーが着る自分を想像してみる。何とも、しっくりこない事を思う。男は学ランやろ。そんな事を思ってしまう。そういえば、通勤の電車内で、ネクタイを締め、ブレザーを着ている男子学生を見て、違和感を覚えたのは、そんな事を思っていたせいかもしれない。あれ、ブレザーとジャケットの違いってなんやろ、不意にそんな事を考えてしまう。そして、スーツとの違い。一瞬で、色んな言葉で、自問自答をするが、答えは出てこない。まぁ、いいっかと云う、終着点につくまで、そんなに時間はかからなかった。
「じゃあ、入ってみようか。」
不意に、真由美が、そんな言葉を発していた。ブレザーとジャケットの違いという、どうでもいい事を考えていた京一は、思わず、声を上げてしまう。
「えっ!」
スタスタと、校内にベビーカーを押しながら、足を進める真由美の後ろ身。咄嗟に、右腕を差し出し、止めようとする仕草をしてしまう。
「おい、ちょい、やばいんとちゃうん。入ったら…」
学生でもない、三十過ぎの男女が、校内にいたら、面白くはあるが、拙いのではないか。まして、ベビーカーを押し、赤ん坊を連れているのである。京一は、そんな言葉を発して、真由美の後ろ身を追いかける事しか出来ないでいた。
「平気と違う。私ら、卒業生やよ。」
確かに、そう通りかもしれないが、アッケラカーンと、そんな言葉を言い放つ真由美に懐かしさを感じる。確かに、こんな奴だったと…二人は、ガラーンとした自転車置き場を横切っていく。グランドに向かう途中、教師らしき男性に出くわすが、「こんにちは、卒業生です。」と、大声を発して、会釈する真由美の言動につられて、軽く頭を下げているこの教師にも、問題はあると思うが、この高校のセキュリティーが心配になってしまう。
グランドが見渡せる短い石階段の所に、腰を下ろした。部活をしている生徒の姿はなかった。これからなのか、今日は、全部活部は休みなのか。ガラーンとした砂地のグランドを、二人は眺めていた。
「懐かしいな。」
京一は、遠くを見つめながら、高校時代の出来事が頭の中に巡っている。十代の若かりし頃、とうに忘れてしまっていたものが、この場所に来ると、不思議と思い出してくる。
「ところで、どうやっね。結婚は、しとるとやろ。」
そんな真由美の問いかけに、京一は、左手の甲を見せて、薬指をピコピコさせる。
「残念、まだなんよ。」
「あっ、そうなん…なんか、ごめん。」
なぜか、謝ってしまう真由美に対して、笑みを浮かべる京一。
「何で、お前が謝るねん。おかしいやろ。なかなか、縁がなくてな、三十五にして、今だ独身!」
そんな言葉を口にして、おちゃらけて見せる。まぁ、これから先も、結婚をする気はないんやけど、そんな言葉を押し留めといた。さっきまでとは違い、懐かしい風景を目の前にして、心が落ち着いている様である。
「みんなとは、会ってんのか。」
真由美の方に視線を送り、そんな言葉を続ける。
「フぅ~ん、どうだろ。地元に残っているみんなとは…でも、最近は会ってないかなぁ。」
「そうか、まぁ、結婚したり、働き盛りやもんな、時間がないんやろ。まぁ、俺ぐらいか。十日もかけて、里帰りする奴も…」
「えっ、どうゆう事?」
京一が発した言葉が理解できないようである。説明すると、長くなるので、そこは、軽く流してみる。
「そんな事より、みんな、変わっているやろナ。会いたいのは、会いたいなぁ。」
そんな言葉で、話の方向を変えようと試みた。
「私も、そうだけど、認めたくないけど、変わってたよ。卒業して、十七年だもん。当たり前だよ。でも、この前、同窓会やったのに、こんかったね。京一。」
確かに、同窓会の葉書は来ていた。大阪に住んでいるという事もあるのだが、京一は、欠席の葉書を送り返した。
「いや、仕事、仕事を、頑張っていたからな。」
過去形になっている。それだけが、出席しなかった理由ではないのだが、こんな言葉で、誤魔化そうとしていた。
「フぅ~ん、別にいいや。それで、いつまでおるん。」
「えっ、何、どうやろ。」
スーパーひろせの駐車場のベンチに座っている時から、京一の気持ちは、ほぼ固まっていた。父親に会わずに、このまま帰ろうとしていた。
「何、その曖昧な返事…実家に、泊まっているんでしょ。」
「えっ、ふん、あぁ…」
次々と並べられる真由美の言葉に戸惑い、曖昧な表現になってしまう京一に対して、真由美は、突然、身を乗り出すと、顔を覗き込んできた。
「喋る言葉は変わったけど、京一自身は、変らんね。嘘をつく時の仕草。絶対に目を合わせようとしないんだから…知っとる。両親、離婚したんでしょ。」
「…」
そんな真由美の言葉で困惑してしまう。狭い田舎町の集合体。隣の町の情報まで、耳に入ってくるのは、恐ろしい。
「ごめんね、カマを掛けるような真似をしてから…京一の事だから、まだ、父親とうまくいっとらんとじゃろ。」
真由美とは、高校に入り、卒業する手前まで、二年以上も、長い間付き合いをしてきた。一番、感情が豊かだった頃のお互いを知っていた。京一にとっては、初彼女。真由美にとってもそうである。誰よりも、高校時代の京一の事を知っている。
「あのね、京一。私、親になってみて、気づいた事ばぁ、あるのね。子供の事を、考えていない親なんていないものなの。私も、親の事が嫌いじゃった。チクチク言ってくる親の小言。でも、最近になって、悲しい事か、理解出来るとよ。」
真由美は、京一の事が好きであった。好きであったからこそ、京一の事を見つめていたし、知ろうとしていた。雰囲気からして、十七年前と、さほど変わっていない事に気付き、カマを掛けてみたり、何で、京一がここにいるのか、何となくであるがわかってしまう。
「…」
真由美に見透かされている様で、何も言えないでいる。周りの風景を眺めていた筈の京一が、俯いている。
真由美は、視線をグランドに向けていた。
「この場所で、色んな事があった。ここには、楽しい思い出も、つらい思い出も詰まっているでしょ。あれから、十七年も経っているのに、何やってんの。京一は十七年、何をやってたの。」
考えてみれば、この二人、いい別れ方をしていなかった。真由美の方からの別れ話、それから、顔を合わせても目を逸らす真由美に対して、別れたい理由も聞けないまま、大阪に行く事になった。煮え消えないというか、真面目すぎるというか、京一のそんな所が嫌になったのかもしれない。
「鋭いな、お前は…お前こそ、全然、変わっとらん。自分の思った事、ズバズバと言ってな。まァ、それが当たっているから、返す言葉もないやけど…」
言葉通りの事を思っている京一。懐かしくも、苦々しい感情に包まれる。遠い山と青い空の境目に視線を向けた。
「真由美、覚えているか、高二の今の時期か、バイクとの接触事故で、入院した時も、今みたいに怒ってたよな。」
不意に、昔の事を口にしてしまう京一。隣の真由美は、軽く目が鋭くなっていた。
「当たり前でしょ、あんな悪戯したんだがら…」
チョトンとした表情をしている。真由美が言う悪戯という意味が理解できなかった。
「京一、もしかして忘れとるね、その顔は…」
「悪戯って、お前が、病室に駆け込んできて、喚き散らしてたんやろ。」
「違うよ。私が駆けこんできたら、京一の顔に白い布が被せていて、両手も絡ます様に、胸の所に組んでいで…誰が見ても逝ったと思うでしょうが…死んだと思うでしょうが…。私が泣き崩れていたら<死ぬワケないやろ!>って、起き上がってきて、そら、怒るでしょ。」
「そんな事したか。」
「したよ。最低、覚えとらんとね。」
京一の記憶には、悪戯の所は消し飛んでいた。そんな京一に、軽い怒りを抱いた真由美は、遠い記憶の中に、ある事を思い出した。
「ねぇ、京一…」
頭を傾げ、悪戯の事を思い出そうとする京一の隣で、真由美はそんな言葉を呟く。あの時に、言おうとして忘れてしまっていた事。シャレになっていない京一の悪戯に怒り、大事な事を言うのを忘れていた。
「真由美、そんな事をほんまにしたか。」
「京一、そんな事よりもあの時、あなたのお父さん来とったよ。」
静かに、そんな言葉を口にする。完璧に京一の記憶にはない出来事。怒りの熱も冷めつつ、真由美は、ゆっくりと話し始める。
「あの時、京一の悪戯に腹が立って、病室を飛び出していったのね。そしたら、病室の前に、作業着を着たおじさんがいたの。私と目が合うと、目を逸らして、帰ろうとするの。後ろ姿で、すぐに京一のお父さんだってわかった。なんで、だったんだろうね。<入らないんですか。>って、声を掛けたら、<京一は、大丈夫なのか。>って聞くから、私は、京一の悪戯の事を話したの。すると、笑みを浮かべていた。<あいつらしい、良かった。>って、そのまま、病院の廊下を歩いて行った。」
そんな真由美の語った言葉に、驚いている京一。あの頃は、父親とは、ほとんど会話を交わしていなかった。父親の顔を見ることなく、生活をすることが当たり前になっていた。父親と顔を合わせない事が前提に、バイトのシフトを組んでいた記憶もある。
真由美も、そんな京一親子の状況を知っていた。だから、病室に戻った時、この事を話そうと思っていた。なのに、追いうちを掛ける様に、悪戯にかかった真由美の事を、からかい始めた。そんな京一に、怒りを覚えた真由美は、京一の父親が来た出来事がどこかにぶっ飛んでしまい、病室で大喧嘩をする。今となっては、どうでもいい事なのだが…
真由美の話を聞いている内に、何やら、穏やか表情に変わっていく。忘れてしまっていた思い出。記憶の奥底にしまい込んでいた記憶が、蘇ってきた。はっきり、この場に、この土地に来なければ、一生思い出すことなどなかったであろう出来事が、京一の頭に浮かんでいる。京一は、不意に、青空を見上げていた。
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