133話 嘘



 俺の頭はもう機能しなかった。ただ意味もなく、聞こえた言葉を反芻した。


「……人、殺し……?」


「うん。殺人犯。前科者なんだ」



 途切れ途切れに息を吸ったが、もう言葉を続けることは出来なかった。呼吸音だけが無駄に立派だった。



 ――しかし、その覚束ない酸素の補給を頼りに、凍りついた脳を再度叩き起こすことができた。



 嘘だろ。あのカルミアさんが? 誰かの命を奪ったと? 信じられない、信じたくない。でも眼鏡の奥で爛々と輝く瞳は、嘘をついているようには見えない。じゃあ今までの優しさは何だったんだ? 全部偽りだったって言うのか、ずっと騙してたって言うのか――。


 ……違う! それは、絶対に違う! ダンカムさんが言ってたじゃないか。俺が今まで見てきたカルミアさんの姿は嘘じゃないと。俺だってそう思ってる。


 そうだ、俺はよく知ってる筈だ。人の複雑さと難しさを。だからこそ俺は、観察して想像して試行して、それでも分からなくて、散々悩んできたのだ。自分についても、他人についてもだ。一言で表せたらこんなに苦労してない。その経験、ここで活かさなくてどうする。


 ……落ち着け。『人殺し』という言葉の強さに踊らされ過ぎだ。俺は仲間の隠れた一面を知っただけ。今までの優しさも、何らかの理由で人を殺してしまった過去も、それを隠し続けたことも、全部が本当のカルミアさんなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 理解しろ。受け入れろ。俺はそのためにここに立っている。そして、こういう時のために――大事な人と向き合うために、悩み続けて来たのだ。出来る筈だ……!




 思考を高速で巡らせながら狼狽えた後、改めて、強く真っ直ぐに彼を見つめた。その目線に込めた気持ちを、言葉にも出した。


「……そうだったんだね。正直、凄く驚いてる。でも、教えてくれてありがとう」



 カルミアさんは、少し寂しそうに苦笑した。


「……こちらこそ、聞いてくれてありがとう。どうしても、最後にしっかり話して謝りたかったんだ。ルークは俺の事を、頼れる優しい先輩だって言ってくれてたのに、期待を裏切ってごめんね。でも許さなくていい。許されようとも思ってない」


「そんなこと気にしないよ! だから、さ、最後だなんて……言うなよ……!」


「ううん。もう決めたんだ。本当はもっと早く消えるべきだった。俺には、楽しく生きる権利なんてとっくに無かったんだよ」


 さっきまで楽しそうだった筈の彼の顔には、全てを諦めたと言わんばかりの死相が現れた。


 本気だ。本当に彼は居なくなる。この会社から……そしてきっと、この世からも、だ。今俺と話しているのだって、身辺整理の一環なんだ。それを認識した時、今までで一番の恐怖が心に湧き上がった。



 彼の虚ろな微笑みと、遺言のような言葉は続く。


「自分には分不相応な幸せだって分かってたけど、皆と過ごすの、楽しくなっちゃってさ。つい長いこと、良い人のフリをして、騙すような真似をし続けてしまった。でも、もう――」



 なんだって?



 全ての感情を通り越して、失笑が漏れた。


「ははっ。……嘘つき」


 カルミアさんは、俺の言葉に、虚ろな微笑みのままで頷く。


「……うん。嘘つきなんだ。全部嘘。ずっと演技をしてきたんだ――」


「違ぇよ。そこじゃない」


「……えっ?」


「……せっかく沢山大事な話をしてくれたんだし、俺の返事も少し聞いてくれよ。……だって……これで最後にするつもりなんだろ……」



 限界を超えた今の俺の言葉が、彼の心に届くかは分からない。でももう迷わない。怯えない。


 カルミアさんの嘘に気づいたから。……その嘘から、彼の本心と、勘違いが、ほんの少しだけ透けたような気がしたから。


 散々悩んで、向き合おうと決めて、震えながらここに立っている俺に対して、そんな嘘と思い込みで終わらせようとしてるんだとしたら、ズルいじゃないか。



 大きく息を吸い、無骨な言葉を投げかける。


「良い人のフリで騙してたなんて、そんなつもりなかっただろ。それは嘘だって言ってるんだ。良い人の振る舞いだって、本当のカルミアさんだった筈だ……!」


「……うーん?」



 馬鹿にしたように首を傾げられたって負けない。俺を――俺が見てきたカルミアさんを、信じる。



「俺に謝る意味なんてないだろ。誰よりもカルミアさん自身が、人殺しの自分を許せないんだからさ。事件のせいでその許せない一面が出てきちゃって、結局これが自分の本性なんだって、自暴自棄になってるんだろ?」


「ははっ……いやいや。俺はクズで嘘つきだってのがバレたから、潮時だと思ったんだ。居心地が悪くなる前に撤退しようってね」


「……カルミアさんが自分をそういう奴だと思ってるのは分かった。でも俺は、喜んで人を殺したクズが自分の為に嘘をつき続けてたなら、罪悪感なんて持たないと思うんだ。カルミアさんは違う。楽しく生きる権利なんてない、皆を騙してしまった、って自分を責めて罰してるじゃないか」


「……うーん。クズでも多少の罪悪感は生まれるよ、仮にも五年いたんだし」


「い、いや、違う! そんなヌルいもんじゃない。あんたは誠実であろうとしてる。そんな血みどろの姿を皆に見せたのは、本当の自分を明かすべきだという贖罪しょくざいのためだろう? 事実俺にも、最後にしっかり話して謝りたかったと言った。それは罪悪感程度じゃ出てこない言動だ。俺達仲間に対して真摯に接したいって態度だろ!」


「そういう感じじゃないんだけどなあ……」


「ぐっ……い、良い人のあんたに懐いてた俺に対しては特に申し訳なくなって、お別れのために嫌われる必要があると思ったんだろ? 残酷なことを色々言ってたな。……確かに話してた行動の内容は手荒だったけど、その目的は、皆のための情報収集だったよね?」


「それは……そうだけど」


「あんたは結局、そういう人なんだ。いつだって、危険を恐れず最前線で俺達を守ってくれる。この期に及んで隠しきれてないよ。それが全部良い人の演技でしたなんて、そんな見え透いた嘘じゃあ、俺は嫌いになってやらないぞ」



 ついにカルミアさんが黙った。腕を組んで静かにこちらを観察している。



 拳を握り締め、言葉に力を込める。


「それよりも、何よりもさ……。本当にカルミアさんがずっと俺達を騙してたなら、良い人のフリがあまりにも上手じょうずすぎるなって記憶が沢山あるんだよ」



思い浮かぶ記憶の数々。どれも暖かい、優しい思い出。



「地域貢献して、皆で美味い酒飲んだな。自分にはリーダーの資格がないとか変な謙遜けんそんしてたの覚えてるぞ。稽古の合間に、平和でくだらないことを話すのが楽しかった。弱った俺に、そのままでいいって言ってくれたのも、忘れられない――」



感情が入って目頭が熱くなる。



「――俺の自殺未遂を、吐くほどに悲しんでくれた。死って言う単語を口に出すのが辛そうだった。奥さんと息子さんのことを、ずっと大切に考えてた。俺の未来を一緒に考えてくれた。襲われたウィルルに、生きててくれてありがとうって言ってた」



 腹の底から怒鳴った。


「全部嘘だって言うのか! ふざっけんな! そんなわけないだろうがァ!」



 溜め込んでいた文句と涙が噴き出し、止まらなくなる。


「そりゃびっくりするよ! 突然あんな怖い顔しちゃってさあ! 何もなかったみたいに過ごしたかと思ったら、今度は血まみれで現れてさあ! 終いにこんなでっかい隠し事してましたなんて、動揺しない方がおかしいだろ!」


 文句に滲むのは怒り。涙として流れるのは悔しさ。それらは、こんな形でしか彼を知ることが出来なかったというやるせなさ。


「でもさ……たったそれだけで今までの思い出を全部なかったことに出来るかよ! 俺にはあんたの過去と罪が受け止められないと思ったか? 勝手に俺を見限って突き放すな! 向き合えよ、ぶつかれよ、吐き出せよ、隠すなよ! っはあ、はあ――」



 荒々しく文句をぶつけた末に、ようやく、弱々しく、一番言いたいことを口にすることができた。



「何か大事なことを隠してるって、何となく分かってた。ずっと、話して欲しかったんだ。なのに、ちょっと知った途端に離れてくなんて……酷ぇじゃん。寂しいよ。――だって仲間だろ? 友達だろ……? 違うのかよ……。今更、違うだなんて言ったら、それこそ許さないからな……」



 俯く。震える自分の脚。床に落ちた涙。何も見たくなくて、目を瞑った。




 嫌な沈黙。俺の乱れた呼吸音だけが虚しく響く。




 やがて、カルミアさんの方から微かな衣擦れの音が聞こえた。



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