リライト
言えなかった言葉を重ねて捨てて、折り畳まれた紙が蓋をする。それすらも積み重なって、天井になる。書けなかった言葉も同様に、重なり捨てられ折り畳まれる。
散々だ、と私は思う。
あなたの人生設計を円の中に書いてください。
就活を始めたとき、最初に躓いたことだった。私のこれまでの人生が、走馬灯のようにぐるぐると頭の中に巡り廻った。散らかった本棚を眺め、これが私の人生だと思ってみるのもなんだか違った。夏目漱石に当たり散らして、太宰治を踏んづけて、フィリップ・K・ディックが降ってきた。
私の人生は本と共にあったと、かっこよく言いたいけれど、私は人が本の虫と聞いてイメージするほどの本好きではなく、ただ単に本が好きなだけの一般人だった。
そもそも、本の虫という言葉自体、私は好きじゃない。
本が好きなら本に関わる仕事をすればいいと、人は言う。無責任な言葉が返しの付いた針のようで、私の心は掻き乱された。親も言った。私は、巫山戯るなと思った。
私より先に居なくなるくせに、私の人生に入り込もうとしないでよ。私の心の弱い部分を、無遠慮に踏み鳴らそうとしないでよ。そんな風に思ったけど、これもまた重なり捨てられ折り畳まれた言葉だった。
中学生の頃、学校でイジメがあった。私はそれを見ていて、とても気分が悪くて、胃液が沸騰しそうなほどに煮えたぎるのを感じていたのに、何もしなかった。喉まで出かかっていた「だせえんよ、気分悪か」という言葉は、やっぱり折り重なり捨てられた。
思えば、私の人生は、そんなことばかりだった気がする。
だから、夏目も太宰もディックも私の人生であるはずがない。
結局何がしたいのかわからないまま、親の土足の言葉から逃れるように地元を出て、一人暮らしをしながらその日暮らしをしているのが私だ。好きだった太宰も夏目もディックも全部置いてきて、なのに音だけは捨てられず、埃ひとつ無いギターを眺めながら強いお酒を無意味に煽る毎日に、いい加減嫌気が差す。
私は何がしたいのか。何者になりたいのか。就職活動に挑戦する前から失敗した私は、何者でもない。何者かになるためのスタートラインにすら、立とうとせずに、今も私は無意味に酒を煽っている。
こんな私を、ミナちゃんはどんな気持ちで待ってくれているんだろう。こっちに出てきて最初にできた友達、生まれてはじめて出来た恋人。
こっちに来て未練がましくギターを掻き鳴らしながら歌っていた私の叫びを、彼女は褒めてくれた。かっこいいって。
だけど、かっこいいのは彼女のほうだ。しっかりとした自分を持っていて、アルバイトをして貯めたお金で急にベースを買ってきて、毎日のように公園で練習している彼女は、私にとっては最高にかっこいい。
だけど、私はあの日以来、ギターを鳴らしていない。
ロング缶を乱雑に置くと、ドンッという鈍い音がローテーブルから返ってきた。同時に、ヒビが入り放題なスマホの画面が光り、己の存在感を主張する。震えるスマホのバキバキの画面には、通話ボタンが表示されていた。
私に朝から連絡を寄越してくるような知り合いなんて、いたっけ。表示される名前を見るに、どうやら居たらしい。応答ボタンを押してスピーカーにすると、ミナちゃんのトゲトゲとした声が返ってきた。
「なっちゃんおはよう」
「おはよう」
電話相手であるミナちゃんの声が、普段よりもトゲトゲして聞こえる。ザラザラとしたノイズのような音も混ざっていて、一瞬通話音質が悪いのかと疑ったけど、どうやら違うらしい。酒焼けか何かだろうか。
昨日、吐くまで飲んでたというようなことをSNSで書いていたのを見た気がする。
「どげんしたと? こげん時間に」
「なっちゃんの博多弁が沁みるわ」
「いや、なん?」
日が差し込まない窓を見やると、カラスが二羽、ベランダの手すりに立ち止まっていた。カラスたちは何を思ったのか、こちらを睨んでいる。
そんな顔をして見るんじゃない。私が何かをしたか。カラスたちを睨み返すと、スマホから大きく息を吸い込むような衣擦れによく似た音が聞こえてきた。
「バンドしない?」
「は? なんば言いようと?」
「だからさバンドしようって」
「そげんことやなかとよ……本気で言いようとね? 私最近ギターばいっちょん弾いとらんけんね?」
未練がましく持ってきた音楽は、私の心をトゲトゲと蝕むだけで、癒やしてはくれなかった。東京……正確には神奈川に来てすぐの頃に弾いてみたら、音楽は癒やしてくれるどころか私の心に爪痕を残そうとしてきて、心を掻き乱されるのが嫌で、私は持ってきた音楽をそっと置いておくことにした。
彼女と出会ったのは、その時だった。
言葉のように重ねて捨てようかとも思ったけど、どうしても捨てられなかった。そんな自分も、また腹立たしくて、いっそのこと私自身を捨ててやろうかなんて考えちゃったりもして、それでもやっぱり捨てられなくて。
私は未練がましく生きている。
そんな私がバンドなど、おかしな話だ。夏目が好きだったというピーナッツの砂糖がけよりも、ずっと甘くおかしな話。薄皮の苦みなんて感じられないほどに。
「まあ、考えといてよ」
「考えとってって言われても……」
「返事はいつでもいいから」
通話が切れて、スマホをベッドに放り投げる。運良く枕に当たり、大破は免れたらしいスマホがまた震えた。ミナちゃんからのメッセージ。「あんたの燻った言葉を叫びを私に聴かせて」なんて、無責任な言葉を投げてくる。
そんな彼女のことが、私は好きだ。
私がどうしているか知っているくせに、私が何を考えているかわかっているくせに、何度も何度も「もう歌わないの? ギターは?」と聞いてくる彼女が好きだ。彼女の土足は、なぜか心地がいいから。
無意識に伸びた手が、ギターを掴んでいた。ケースから引っ張り出された未練の塊は、黒光りして私の顔を映している。涙に濡れた私の顔が、真っ赤に腫れた私の目が、ギリッと歯ぎしりする私の口が、視神経を伝って脳に入り込んでくる。私の心を踏み荒らし、踏み鳴らす。
音にならない乾いた音が響き、弦をおさえる指が震え、鼓動をかき鳴らしていく。窓から差し込んだ光が、私の手元を確かに照らした。ジャカジャカとかき鳴らされるミュートの音が、聴覚神経を伝って脳へと伝播していく。
ただの信号、ただの振動、けれども大切な音。
「そうやった」
駆け出した足が止まらない。バタンと低い音を背にしながら、未練の塊を、私の魂を抱えて階段を駆け下り、流れていく青空に見下されながら風を感じた。雲が白々しく、私に問いかける。私は答える。これが答えなんだと。
私はずっと、嘘をついていた。生きているという嘘だ。私はただ閉じこもって、引きこもって、殻の中でいつ来るかもわからない明日を待っていた。不貞腐れたように眠りこけて、確かに目の前にあった答えから目を逸らして、現実はそんなもんだと無理に納得させようとして、だけど結局、私はこうなんだ。
驚いたように目を丸めるミナちゃんを見つめながら、私はかき鳴らす。
あのときの間違っていた自分、見過ごしてしまった罪。言えなかった言葉を、立て損ねた中指を立てながら歌う。折り畳まれた紙が開かれて、積まれていた言葉の折り紙たちが解き放たれ、音を立てて私の心を崩していく。
自分自身に唾を吐いて、実家に置いてきた言葉を、持ってきたけど見ないようにしていた音楽を取り戻していく。誰に何を言われようと、これが私なんだと。
それでいいじゃないか、と言うのは簡単なことじゃない。
それでも、目の前で笑顔で涙を流しているこの子は、私を諦めてくれなかった。私が私でいることを、私の言葉をずっと待ってくれていた。
我ながら単純だ。
たった一言、ひとつの誘いでこんなに吹っ切れるなんて。こんなにも、気持ちがいいなんて。
息を切らしながら、彼女の肩を掴む。
「一生……一緒にロックやろう」
頷きながら細くなる彼女の瞳が、陽光に照らされてとても綺麗に見えた。対する私はきっと、汚い顔をしていることだろう。ぐちゃぐちゃな頭の中を、心の中を、私自身を映し出したような顔をしているかもしれない。
だけど、それでもいい。
それが、私なんだから。
君が待ってくれていた私を、私は認めていこう。君が好きだと言ってくれた私を、私も好きになろう。私の最高にかっこいい恋人が、最高に駄目人間な愛する彼女が、聴きたいと言ってくれた言葉を叫びを見下ろす雲たちにも聴かせてやる。
だから――。
「大好き!!」
発狂寸前!癒やされライティング【短編集】 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki
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