第20話

 そして、土曜日。待たせたら悪いなと思って五分前に集合場所へやって来たが、待ち人はすでに到着していた。俺を見つけるなり、大きく手を振ってアピールする。今日も元気だな。


「井口さん、お疲れ様です!」

「お疲れ様……って、仕事じゃねえのに」

「えへへ、そうでした」


 新藤は、なんかこう、細い肩紐で吊り下がったみたいな型のワンピースに、薄手のジャケットを羽織っていた。職場で着ているスーツはパンツスタイルしか見たことがなかったから、スカート姿は新鮮だ。少しだけ覗く手首や足首の細さが、女の子だと突き付けてくる。素直に可愛い。


「……変、ですかね? この格好」

「え?」

「普段は、動きやすいのでズボンを履いていることのほうが多いんですけど、今日はちょっと頑張っちゃいました。せっかく誘ってもらえたので、一緒に歩く井口さんに恥をかかせないようにしないと! と思いまして。……空回っちゃいました?」


 いつもより早口で、捲し立てるように言葉を並べられる。緊張してるのかな。まあ俺も、アラームの三十分前に目覚めるくらいにはそわそわしてたし。職場の同僚とプライベートで会うって、なんか変な感じがするよな。蓮は、もはやノーカンだけれども。


「いや、全然そんなことないと思う。似合ってるよ」

「……! 本当ですか? 嬉しいです!」

「ああ。じゃ、行くか」

「はい!」


 いつもの笑顔が戻った新藤と共に、雑踏の中を歩き出した。




 時間をもらったのは良いものの、いきなり本題を切り出す胆力がなかった俺は、ひとまず映画でも観ようと提案してみた。賛同を得られたので、何か観たい作品はあるか、と尋ねたところ、新藤が指さしたのは海外のアクション映画のポスターだった。


 気を遣って女性向けの作品を外したのか、純粋にこういうのが好きなのか。新藤ならどっちでもあり得る気がする。前者の場合、さすがに訊いても答えないだろうから、気にするのはやめて映画館へ入った。


 席について間もなく、照明が落ちて映画の上映が始まった。名前の分からない海外の俳優たちが、日本語の吹き替えで順番に喋り出し、やがて激しいアクションシーンへと身を投じていく。銃火器、化学、異能力、超人的な身体能力、なんでもありのバトルアクションだ。


 臨場感溢れる大胆なアングルに、大迫力のステレオサウンド、手に汗握る怒涛の戦闘シーン。めちゃくちゃ格好良い。水分補給も忘れて引き込まれていく。すげえ……。


 他のことが全部、頭から吹っ飛んだ。およそ二時間弱、ただただ食い入るように、デカいスクリーンを眺めた。




「すごい迫力でしたね! 最後の辺りなんて特に、画面から飛び出してきそうで、私思わず仰け反っちゃいました!」

「……ああ、そうだな」


 映画館を出た俺たちは、少し歩いた先にあるカフェで休憩ことにした。洒落たチョコレートケーキを食べる傍ら、新藤が映画の感想を語っている。


 映画は、かなり面白かった。アクションの完成度にも、濃密なストーリーにも、感動した。そして今、吹っ飛んでいた思考が戻りつつある俺の脳内を占める気持ちは。


(……トランペット、吹きたい)


 心の底から感動するものに出会うと、その感動をひとしきり噛み締めた後、俺は楽器が吹きたくなる。俺もこんな風に、誰かの心を揺さぶる音楽ものを創りたいと、そう強く思うのだ。


 それができるかもしれない機会が、一ヶ月後に迫っている。しかし、今の状態では、観客も自分も満足できる演奏になんてならない。だから。


 今すぐ、練習したい。楽器吹きたい。音楽やりたい。そんな欲求が、体中で暴れ回っていた。


「――さん、井口さん!」

「! な、何?」

「いえ、なんだか、ぼんやりしていたので……」

「ああ……悪い。なんでもない」


 真正面からの呼びかけで我に返る。気付けば、新藤はチョコレートケーキを食べ終わっていて、俺が頼んだアイスコーヒーはすっかり温くなっていた。どのくらい時間が経っていたのだろう。


 気まずさを誤魔化す為にアイスコーヒーを口へ運ぼうとした時、新藤が淋しそうに呟いた。


「……あの、今日はもう解散しましょうか?」

「え」

「少しお疲れのようですし、また今度、元気が有り余っている時に誘ってください!」

「あ、いや、俺は――」

「ただ、解散する前に一つだけ、お伺いしたいことがあります」


 真っ直ぐな目に射抜かれて、俺も視線が逸らせなくなる。自分の膝の上でギュッと手を握り締めながら、新藤は口を開いた。


「私、この前のラブレター、本気で書いたんですよ。井口さんに伝えたいことをたくさん考えて、何度も何度も書き直して、途中で恥ずかしくなって赤面したりもしながら、ありったけの気持ちを詰め込んだんです。……本当は、『これからもよろしくお願いします。』で終わりにするつもりだったんですけど、書いている内に、好きの気持ちが溢れて止まらなくなってしまって、付け足しちゃいました。……お返事は、貰えないのでしょうか?」 

「…………」


 あの手紙を受け取ってから、一週間が経過した。俺はまだ、手紙の返事も、「大好き」の返事もできていない。


 明るく元気で、仕事も一生懸命で、人を気遣うこともできて、快活に笑う、新藤。職場では見られない女の子らしい面もいくつか見たし、どれも可愛いと思った。楽しく付き合っていく未来を、想像できないわけじゃなかった。


 でも、そんな彼女に、俺が、返事? わざわざ休日を割いてデート紛いのことをさせた挙句、演奏会の心配なんてしている、俺が? 上の空のまま、偉そうに選択権を振りかざすのか? 何様だよ。


 優先して考えるべきは新藤とのことだと分かっている。けれど今日、俺自身が優先したいのはこちらではないと、気付いてしまった。


 やっぱり、俺の頭は並列処理ができない。だから、一つずつ。


「……悪いんだけどさ、返事、もう少し待ってくれないか?」

「え……?」

「真剣に、集中して考えたいから、俺にその余裕ができるまで待ってほしいんだ」

「……待つ、と言うのは、いつまでですか?」

「前に、演奏会が控えてるって話、しただろ? 大体一ヶ月後くらいなんだけど、それが終わるまで」

「演奏会……」

「本当にごめん」


 クソみたいな要求を告げて、頭を下げた。自分勝手、なんてレベルじゃない。仕事を優先したいとかならギリギリ理解されるかもしれないが、プロの音楽家でもない俺にこんなことを頼まれるのは、どんな心境なのだろう。


 そう言えば蓮が、「私よりピアノが好きなのか」と彼女にブチ切れられた、とか言っていた気がする。そしてピアノを殴られた、とも。話を聞いた時は軽く引いたものの、たぶん今、俺も同じ状況になろうとしている。学習能力ゼロか。人の振り見て我が振り直せよ。もっとも、俺の場合は彼女ですらないけれど。


「分かりました」

「ごめん…………え?」


 聞き間違いかと思った。しかし、頭を上げると、新藤はまだ真っ直ぐ俺を見ていた。


「分かりました、良い子に待ってますね」

「え、あの……頼んでおいてアレだけど、良いのか?」

「はい。井口さんが音楽を好きというお話は、食事をした時にたくさん聞きました。出会って数ヶ月くらいしか経っていない私では、まだ勝てないですよ。だから今回だけは、引き下がってあげます。特別ですよ? もう」


 拗ねたように言った後、えへへ、と笑った新藤。可愛い。ものすごく可愛い。こんなに素敵な相手を前にして、俺は何を言っているのだろう。


 ただ、今の俺の中では、彼女を抱き締めたいという欲求よりも、演奏会を成功させたいという欲求のほうが、勝ってしまっているのだ。


「ありがとう。ほんと、ごめんな。……あ、興味なければ無理にとは言わないけど、良かったら聴きに来てくれないか? 絶対、良い演奏にしてみせるから」

「はい、ぜひ。井口さんが好きなもの、私もちゃんと知りたいです。楽しみにしてますね」

「ああ」


 力強く頷く俺を見て、新藤は笑顔で立ち上がった。テーブルの伝票を手に取り、「今日は私の奢りです!」と言い残して去って行く。温いコーヒーを片手に、俺はその後姿が見えなくなるまで眺めていた。

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