第26話 打ち止め
この頃からAさんという営業の人が出入りするようになった。M社長の知り合いのようだが、この会社の社員ではない。恐らくF関連の社員であろう。
営業の中には動きにメリハリがある人もいるが、この人はそうではない。
タチの悪そうな人だな、と感じた。人間相手に過大評価が普通の自分にしては珍しい評価である。
作業に必要なマニュアルを頼んでも、ちっとも持ってきてくれない。小まめでないというより、人の頼みを聞く気がない、という方が正解だろう。
ある日その人がやってきて、全員の履歴書を書いてくれと紙を配った。しばらく経ってM社長が慌てて飛んできて、今A氏が言ったことは忘れろ、と総ての紙を回収して行った。
何があったのだろう?
恐らくどこかの人材紹介会社にA氏がこの会社の社員をそのまま売り込もうとしたのだろう。
そうすれば仲介料がA氏に入る。他人の会社の人員を勝手に切り売りする。とんでもない話である。
会社員を名乗り、背広を着ていても、まともな常識を持つとは限らないものである。
小さな仕事を貰いT氏と二人で出先の会社で作業をする。もちろんT氏は後ろで眺めているだけだ。
回路を入力していると後ろで暇そうに眺めていたT氏が回路に文句をつける。
「ここの所なんとかならない?」
何を言っているのか分からない。延々と説明されて、T氏は回路を修正すればもっと簡単に答えが出せると主張しているのだと分かった。
「でもその回路が成立するためには途中にタイムマシンが必要になりますよ」
問題点を指摘してみた。
要はAとBを加えてCという結果を出すのに、その結果出力のCをそのまま戻してCとして出してやればAとBの加算は不要だという意味なのだ。もちろん論理的には無茶苦茶だ。
要は自分の靴の先を掴んで引っ張り上げれば宙に浮くと主張するのと同じだ。
操作していたマウスをT氏に渡す。
「私のプライドを気遣って貰わなくても結構です。ご自分で入力なさってください」
T氏は十五分ほどマウスと格闘していたが諦めた。
「君の言う通りだ」
そりゃそうだ。もう後ろで本でも読んでサボっていてください。私の仕事の邪魔をしないで。
分かったか? この間抜け。
ああ、心の内を流れるこの叫びを思いっきり真正面からぶつけたい。
またもや、暇になった。小さな会社はこうして生まれる仕事から仕事の合間が問題である。まったく稼ぎにならない期間。これをどう使うかだ。
『営業』は、毎日一本電話をかけるようになっていた。前回仕事をくれた人にだ。一日一本、仕事は無いかとの問い合わせの電話をかけるのが、この人の唯一の仕事になっている。残りの時間はいつもの通り、漫画かゲームをして過ごす。社長が顔をのぞかせたときはそれを隠して技術書を読むフリをする。決して自分から飛び込み営業の仕事をすることは無い。
毎日一回電話で呼び出される身を想像して、身ぶるいする。
「仕事ありませんか?」
「仕事ありませんか?」
「仕事ありませんか?」
もちろんそれは心優しい人に取っては拷問の一種だ。
私自身は何か暇を見つけて自社プロジェクトを始めなくてはと焦りはするが、『技術』担当に小さな作業が全部回って来るので、まとまった時間が取れない。少しでも手が空くと社長がどこかから仕事を見つけてきたり、何かの小さなプロジェクトを企画してそれにすべての工数が費やされる。
これではさしもの私もどうしようも無い。
仕事を回してくれるF社関連の人が気さくな人であることが唯一の救いだ。
同じフロアの女子サッカー選手が移籍していなくなってしまったのもこの頃だ。ときたま立ち話をする楽しみも無くなってしまった。
世界は止めようも無く変化し、とどめて置きたいものすべてが容赦なく消えゆく。
頃合いかも知れないな、と思った。
一人、社長の部屋を訪れ、話をした。
会社が大変なことも判っているし、もう資金が無いことも察しがついている。遠慮する必要はありません。いつ首にしてくれても結構です。どことなりと生きていきますから。
そう話した。
また新天地を探さなくてはいけなくなりそうだ。
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