01-6

 真里那も、華里那もいなくなってしまったこの世界に、僕は生きている意味があるのだろうか。真里那が生きていたら。華里那が生きていたら。もっと色んな思い出が作れたのかな。あの日、あのとき、僕が真里那をあの場所に呼び出していなければ。あの夜、華里那の近くにいてあげたなら。こんなに辛くて、哀しい思いをしなくても済んだかもしれない。夢では真里那にも、華里那にも、何度も逢ってきているのに。現実でも逢いたい。逢いたいのに逢えない。誰か、僕を真里那と華里那がいた過去に戻してくれ。


  *


 転がっていたオレンジジュースの空き缶を蹴飛ばす。小さな川に架かる橋を軽快な音を奏でながら転がり、突然消えていった。


「あれ、消えた」


不思議に思っていた途端、「缶を蹴ったら駄目ですよ」と、何処からか聞こえてきた声。気のせいだ。だって、大人の僕が注意されるわけ…。


「あなたに言っているのですよ」


あれ、もしかして心の声が、漏れてしまっている…。


「大丈夫ですよ。わたくしにしか聞こえていませんから」

「えっ」


 突然目の前に現れた、赤枠で囲まれた重厚感ある扉。何が起きたのか見当もつかない。


「こんにちは。宮部誠人さん」


そう言って、扉の後ろから顔を覗かせてきた小さな人。フルネームを言われたが、聞き取れず、どこかで会ったことがあるのかと考えるが、目深に被るシルクハットのせいで顔がよく見えず、誰か全く分からない。


「あの、どちら様ですか?」


自転車に乗る婦人は、変なものを見るかのように僕のことをガン見しながら、扉の中を悠々と通り過ぎ、角を曲がっていった。


「えっ、え? なんで?」

「この扉も、わたくしも、宮部様にしか見えておりません」

「どういうこと…、ですか?」


 全身を覗かせてきたその人は、整えられた顎髭に、丸眼鏡、シルクハット、コート、シャツ、ネクタイ、スーツ、そのどれもが黒で統一されていた。唯一色が違っているのは、傘の柄を逆さにした茶色の杖。高級そうな見た目をしている。

 

「申し遅れました。わたくし、支配人の加能と申します。加えるに能力の能で加能です」


名前を聞いても、脳内の名簿にその名前は記載されていない。


「加能さん…。あの、どこかでお会いしたことってありましたっけ?」

「貴方が見た夢の中では、何度かお会いしたことがありますよ」


記憶には無いが、子供のころに夢の中で会っていたのかもしれない。とりあえず愛想笑いだけを浮かべておく。

 

「その扉って、何か意味でもあるんですか?」

「こちらは、過去に戻りたいと強く願われたときに現れる特別な扉です。宮部様、今、過去に戻りたいと強く願いましたよね?」

「え、いや、今まで何度も過去に戻りたいと思ったし、願ってもきましたけど」

「過去に戻りたいと思われても、願われても、強い想いをご本人様が抱かなければ、わたくしとこの扉が現れることは無いのです。それほど、今回は過去にお戻りになりたいのですね。お気持ち、お察しします」


深々と礼をする加能さん。そして声高らかにこう呟く。「ただいまより、この扉への入り方をご説明します」と。訳も分からない僕は、先生に質問する子供みたいに、まっすぐと手をあげて、「いや、あの! 僕、扉に入るとは一言も言ってないんですけど」と、戸惑い半分な感じで伝える。


「入らないんですか?」惚ける加能さんに、僕は、「今日じゃなくても、別にいいですよね? 強く願えばいつでも現れてくれるんですよね?」と訊く。


「宮部様は勘違いされていらっしゃるようですが、わたくしも、この扉も、貴方の前には一生に一度しか現れません。それが今なのです。逆に言えば、このタイミングを逃せば、宮部様は一生後悔の気持ちを抱いたまま生きなければなりませんよ」

「そうなんですか?」

「はい」


ゆっくりと頷く加能さん。言動の丁寧さから年齢を重ねた人のように思えた。


「あの、この扉に入るとどうなるんですか?」

「望まれた過去の年月日、時刻に戻ることができます。しかし、過去の出来事の結末を宮部様ご自身が変えることは許されておりません。変えることができない運命を、如何にして哀しみ、怒り、苦しみから引き離すことができるか。それが宮部様に与えられた試練となります。そして、過去に戻れるのは最長でも三日間、七十二時間だけです。タイムリミットを過ぎてしまいますと宮部様は永遠に、こちらの世界へ戻ってくることはできません」

「そんな」

「どれだけ哀しい想いをしたとしても、どれだけ怒りの感情を抱いたとしても、どれだけ苦しみを味わったとしても、起きてしまったことは宮部様が受け入れるしか無いのです」


 優しく接するように話しかけ、綽然とした態度を見せる加能さんが、段々と鼻に着き始める。

 

「一生に一度が、何で今なんだよ」


何となくの感情でぼやいたその一言により、加能さんはさらに優しさを増す。


「宮部様は長い間、彼女さんのことで苦しんで来られました。そして、大人になって彼女さんの妹と付き合い始めたのに、その妹さんも何者かによって奪われて。大切な存在を失くされた宮部様が抱いてきた感情というのは、深く、到底わたくしなどには計り知れないものでしょう。しかし、大切な存在を失くされた今、宮部様は変わろうとしているのです。この世に残された意味を知るためにも、宮部様には過去へ戻っていただきたいのです」


僕の心に着火した言葉。それは熱く燃え滾る。


「僕の何を知って言ってるんですか。加能さんには分かるわけないでしょ」

半分呆れた感情で口にする。それに対して、加能さんは泰然としている。

「はい。分かるわけありませんよ。わたくしは、貴方の心ではないのですから」

「だったら、分かったようなことを言わないでください」


こちらの怒りなど気にする様子もなく、一向に食い下がろうとしない加能さん。嫌気がする。


「わたくしは、これまで多くの方と出会ってきました。中には、過去に戻らず暗い闇の世界で生き続けている方もいらっしゃいます。そうした方をわたくしはもう見たくないのです。だからこうして―」

「それが余計なお世話なんです。大切な二人を失くした当時は哀しみましたけど、今の僕は別に苦しんでないですし、一人で暗闇から抜け出せますから!」


 一刻でも早くこの場から逃げたい。そう思っていたとき、何処からともなく現れた一匹の黒猫が、黄色い目を光らせ、僕のことを睨んだ。

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