第29話 文化祭前夜

 日が沈んでも文化祭の準備は進められていた。すっかり夜に包まれた窓の外に気を向ける学生は一人もいない。煌々とした教室の照明と校舎に満ちた熱気が、今この瞬間だけ、学校をいつもとは別の空間にしていた。


 どの教室からも楽しげな笑い声が響いていて、この熱狂が永遠に続いていくような、そんな錯覚をおぼえた。


 人の行き交う廊下で、伊織、と声をかけると彼女だけが、俺の声に振り向いた。俺は伊織に追いついて、


「ちょうどよかった。空き教室に行くとこだったんだ」


 原稿を見せた。見せてと伸ばしてきた手を避けると、伊織は


「む。おあずけ?」


 とむくれて、それから微笑んだ。


「いよいよ明日だね。不安なような、楽しみのような……」


「ドキドキする」


「そうだね、ドキドキする」


 俺と伊織は空き教室まで黙ったままだった。だけど、それは気まずい沈黙じゃなくて、文化祭前日という今日を噛み締めるような時間で、伊織と一緒に歩いているというだけのことが、すごく幸せだった。


 俺は原稿を図書委員の黒石に渡した。黒石は、瑠璃垣の噂に一番怒っていた男子だ。


「確かに受け取りました。何としてでも明日に間に合わせますよ!」


 彼はさっそく原稿を読み、ノートにレイアウトのメモを取り始めた。


「土壇場で悪いけど、よろしく」


 黒石の返事は穏やかで、既に集中していることが分かった。俺は邪魔をしないよう、そっと離れて、伊織のそばに向かう。伊織は俺を見て、にやりと笑う。


「君、生徒会の演劇に出るんだって?」


「見に来る?」


「もう桐子に誘われてるんだ。瑠璃垣さんも一緒」


「あの二人が話してるところ、想像つかないな」


「桐子は瑠璃垣さんのこと、気になってるみたい」


 そんな他愛ない話をしていると、赤根崎が俺を迎えに来た。


「明日、午前中はクラスの当番だから。お昼ごろ、合流しよう」


 伊織は、楽しみにしてる、と笑った。


+++


「藍田くん、台詞覚えた?」


 生徒会室で、赤根崎が台本を片手に俺に尋ねる。


「今のとこ、自分の台詞の前後は……」


「じゃあ、一度合わせてみる?」


 台本を閉じた赤根崎が第一声を発すると、目の前の赤根崎が一瞬別人に見えた。俺は置いていかれないよう、気合を入れ直す。


 下校時間まで、俺と赤根崎は練習を続けた。

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