第37話

 実里がふっと手紙から顔を上げ、俺の顔を凝視した。目は大きく見開かれ、両手で握りしめた便箋にしわが寄っている。

 俺はそんな実里の表情を、記憶の奥底に焼き付けるようにして眺めた。


「……仁くんだ」


「え?」


「やっと、やっと仁くんに会えた……」


 気がつけば実里の両目の奥から大粒の涙がこぼれ落ちていた。俺は戸惑い、ポケットからハンカチを取り出すことすらできずにオロオロする。実里がこんなふうに泣くのを、初めて見たかもしれない。


「この手紙に……書いてあったんだ。『仁くんは大切な人だから、何があっても絶対に離れないこと。離れても必ず迎えに行くこと。仁くんがいつか夢を見つけたら、精一杯応援すること』って。仁くんはね、教室の隅で目立たない私を見つけてくれた、かけがえのない存在だった。今も、昔も……。私も、私も仁くんをずっと、好きだから」


 くしゃくしゃになった便箋を、震える手で俺に差し出した。懐かしい実里の字が並んだそれを見て、俺の視界までぼやけていく。ああ、こんなことって。こんなことが、俺の人生に訪れるなんて。実里という人間が、時を超えて俺の生きる道を変えていく。暗闇だった未来を照らすように。クリスマスイブの夜に降り積もった真っ白な雪を、色鮮やかに染めていくみたいに。


「これを、きみにあげたかったんだ。高校生の俺が精一杯背伸びして買ったものだから、大人になったきみに合うか、分からないけど」


 俺は自分のタイムカプセルとして埋めた小さな箱を開け、中から指輪を取り出した。小さな花があしらわれたデザインで、実里らしいと思って買ったものだ。もちろん、そんなに高いものではないけれど、生まれて初めて行ったジュエリーショップで店員さんに説明をしてもらいながら選んだものだ。


 25歳の俺が、安物の指輪をあげるなんてばかばかしいって跳ね除けられるかもしれない。笑われるかもしれない。もっと高級なブランドの指輪じゃないと、大人になった彼女に合わないかも、と。色々と不安はあったが、実里は俺が差し出した指輪を見て、目を何度も瞬かせた。


「これを、私に?」


「ああ。もしタイムカプセルを開ける時まで一緒だったら、その、プロポーズの意味も兼ねて——って、バカだよな、本当に。高校生が考えそうなことだ。……そんなに重いものじゃなくて、普通にプレゼントとして受け取って欲しい。バカな俺の、格好悪いカッコつけに、付き合って欲しい」


 実里がいまだ震えている左手を俺のほうにゆっくりと差し出してきた。その行動の意味するところを察した俺は、指輪を手に取り、彼女の薬指にはめた。サイズはちょっと違っていて、指輪の方が大きかったけれど、小さくて入らなかったら本当に笑っちゃってたから良かった、と呟く彼女を見て、愛しい気持ちがまた溢れてきた。


「ありがとう……これ、嘘じゃないよね。夢じゃないよね」


 指輪をはめた左手を見ながら、珠のような涙をひとつ、またひとつとこぼしていく彼女を、俺はそっと抱きしめた。寒くて震えていた身体が、二人分の体温に熱を帯び、溶けていく。輪郭はぼやけて、初めから二人で一つだったのではないかという感覚に陥った。それぐらい、全身で実里を感じていた。


「ああ、嘘でも夢でもない。俺の本当の気持ちだよ」


 実里が、俺の背中に腕を回し、両手に力を込めるのがわかった。嗚咽を漏らすように泣く彼女の背中を、俺はずっと摩ってた。雪が止み、しんしんと冷える夜の学校の校庭で、まだ見ぬ未来に二人の希望を重ねる。


 聖なる夜が、道を分かつはずだった俺たちを同じ場所にもう一度繋ぎ止めてくれた。こんな夜はきっともう来ない。だからこそ、今この瞬間に彼女の温もりを感じられることを全身で噛み締めていた。


 もう寒くはない。


 彼女とこの先一緒にいられるのなら、七年間の空白だって、色を帯びて埋まっていく。


 俺たちは雪の沈んだ聖なる夜に、溶けた心を互いにずっと抱きしめていた。

                                     


【終わり】               

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る