アイスと白蛇

松原凛

アイスと白蛇

 父の首に、女の白い腕が巻きついていた。

 わずかに開いた引き戸の隙間に目を凝らしながら、首筋を生温い汗が伝う。昼間の熱気は引いていたけれど、空気は相変わらずじっとりとして重い。

 女の顔はよく見えなかった。あかりのついていない玄関は薄暗く、父の首に巻きついている女の白い腕だけが不気味なほどくっきりと浮かび上がって見えた。

 にわかには信じがたい光景だった。見たくもないのに、両足を地面に括りつけられたように離れない。耳の奥を引っ掻くような母の甲高い声が、警告のように耳元で響く。

 お願い、証拠掴んできて。いい、わかった?

 そのとき、隙間から、父の背中が動くのが見えた。ゆっくりと、こちらに顔を向ける。

 思わず後ずさりをして方向転換し、門に向かってダッシュした。足がもつれる。どこを走っているのだかもうわからない。走れば走るほど身体が地面に沈んでいきそうだった。

 来なければよかった。すぐに帰っていれば、あんなものを見ないですんだのに。

 砂の塊を飲み込んだ後のような、異物が入り込んでくる感覚だけが私の中に、はっきりと残っていた。


 そもそも今日あの家に行ったのは、母に頼まれたからだった。

「信じられない、これ見てよ!」

 昨日の夜、母は甲高い声を上げながら、携帯の画面を突きつけてきた。写真に写された紙には、七月勤務表、と書いてある。真ん中あたりに父の名前があった。母は独身の頃、父と同じ会社で事務をしていた。おそらく元同僚にでもむりやり頼み込んで送ってもらったのだろう、と見ただけで察してため息が出た。

「あの人、会社に行くと嘘をついたの。葵、お願い。お父さんの後をつけて何をしてるのか確かめてきて!」

 まともなお願いじゃなかった。中二の娘に父親の素行調査をさせる母親がどこにいるだろう。いくら夏休みが始まったばかりで、私が毎日どこにも行かずに家でゴロゴロしているからといって。普通の母親、たとえば志織のお母さんみたいにいつも落ち着いた感じの人なら、絶対にそんなこと言わない。けれどそんなことを母に訴えたところで通じるはずもないと、私は半ば諦めた気持ちで、わかった、とだけ答えたのだった。

 朝、父のくたびれた背中を眺めて歩きながら、馬鹿みたいだと思っていた。

 父は車を持っていない。まだ五年も乗っていないレクサスを維持費がもったいないからとあっさり手放したとき、私はがっかりした。年齢以上に老けて見えるザ・おじさんだけど、いい車に乗っていることだけが唯一父のいいところだと思っていたのに。そもかくそういうわけで父は毎日駅まで歩いて行き、電車で通勤している。今日も、だからそうするだろうと、思っていた。

 私ははじめから信じていなかった。母は浮気だなんだと騒いでいたけれど、あの父に限って有り得ないと、内心鼻で笑っていた。普通のサラリーマンの父親に比べたらちょっとばかりお金を持っているかもしれないけれど、見た目はぱっとしない五十代半ばのおじさんだし、無口だし、車にも服装にも無頓着で、趣味といえば家で映画鑑賞くらい。会社を休んだのだって、急に予定が変わったとか、一人になりたいとか、そんな理由だろう。

 でも、家を出てからの父の挙動不審ぶりは、ちょっと異常なほどだった。首を小刻みに動かしては当たりに目を配らせ、一度道を逸れたかと思えばまた同じところに戻ってきたり。どう考えても後ろめたいものがあるとしか思えない様子に、まさか、という思いが募る。

 それほど注意しているのにもかかわらず、背後の私の存在には少しも気づかないのもなんだか気の毒だった。むしろ、気づいてくれるのをひそかに願っていたのに、父は最後まで後ろの私の姿を見つけてはくれなかった。

 父はわざとらしい遠回りをしながら三十分ほど歩き続け、やがて明確な意思を持って住宅街の角を曲がり、訪問営業にでもやってきたかのように広い庭のある家に入っていった。昔ながらの二階建て。塀のまわりを背の高い木が囲い、門の前まで行かないと家の姿は見えなかった。門に隠れて覗き見ると、父はチャイムを押して扉を開け、まるで自分の家かのようにごく自然に中に入っていった。誰にも迎えられなかったことが、父がその家に頻繁に出入りしている証拠だった。

 誰の家なのか。父があの家で何をしているのか。視界が滲む暑さの中、汗と一緒に嫌な予感が流れでる。

 そのまま帰る気にもなれず、私は近くの図書館に向かった。最寄りの図書館よりも大きいのでたまに利用するところだった。ロビーは吹き抜けになっていて、コンクリートの壁はひんやりとして心地よかった。外国文学の棚から気になるタイトルを選び、途中自販機でチーズバーガーとカフェオレを買って食べ、また自習スペースに戻って本を読んで過ごした。ほたるの光が鳴り出して現実に引き戻されるとまた、あの家のことを思い出した。知らない家に入っていった父。もしかして、とまさか、を繰り返しながら私の足は、そうしなければならない呪いにでもかかっているみたいに、自然とあの家に戻っていた。

 ほんの少しだけ様子を見て帰るつもりだった。塀の影からそっと覗いてみるけれど、夕焼けを帯びて陰っている以外とくに変化はなかった。誰もいない。人も、車も、自転車もない。それなのに扉がほんの数センチほど、開いていた。誰かいるのだ、と確信した。誘い込まれるようにそっと庭に足を踏み入れ、扉に近づく。

 扉の奥は薄暗く、しかし今度ははっきりと人の動く気配があり、私は息を止めた。

 見慣れた父の少し曲がった背中。くたびれた首に、女の白い腕が巻きついていた。

 なんで、と思った。怒りっぽく声を荒げる母とは対照的に、父はめったに感情的にならない。思っていることも言葉にしない。休日は遊びにも出かけず家にいる。遊びとは無縁の人なのだと、だから、ずっと思っていた。

 それとも、遊びじゃなかったら。あの女に本気だとしたら。私たちは、父に、捨てられるのだろうか。知らないうちにどこかに売り払われたあの白いレクサスのように。

 証拠は、どこにもない。私が見たこと。私の頭の中にだけ。つまり忘れてしまえば、何も知らなかった昨日までと同じように、普通に戻れるはずだった。でも、忘れられるはずがないことも、知っていた。なかったこと、になんて、できない。

 明日、もう一度あの家に行ってみようか。

 暗闇に手を伸ばしてそこにあるかもしれない何かを探るように、私は、知りたいと思った。

 私の知らないお父さん。お父さんが会いに行った女の人のこと。


 標識、民家、停まっている車、畑に並ぶ大きな向日葵。小さな目印を見過ごさないようゆっくりとペダルを漕ぐ。今日は徒歩ではなく自転車だからまだましだけれど、もっと早く出ようと思っていたのにだらだら準備をしていたらすっかり日が高くなってしまった。痛いほどの日差しが肌に張り付く。まわりの景色が熱に溶けて、自分の体ごと輪郭を失ってしまうような気がした。

 歩いて三十分かかった距離は、自転車では十分で着いた。

 私の通う中学の学区内だ。家からこんなに近い場所で父が浮気をしていた、という事実に愕然とする。散歩に行くくらいの距離を、カモフラージュのためにわざわざスーツを着て家を出て、浮気相手の家で一日を過ごし、夜になってから何食わぬ顔で家に帰ってきてご飯を食べる。いったいどこからがどこまでが本物の父だったのかわからなくなる。それとも、全部、嘘だったのか。

 昨日は気づかなかった、「奥田」という表札が目についた。奥田。名前がわかると、白い腕のイメージしかなかった謎めいた人物像が、現実的にかたどられていくようでぞっとした。奥田という名の蛇みたいな女が大きな口を開けて、父をぺろりと飲み込むところまで浮かび上がってくる。

 古い木造二階建ての家だった。塀で囲われた広い庭にはむせ返るような緑が茂っている。家の脇に、もう一つ、昨日は気づかなかった物を見つけた。いかにも手作りといった感じの、ログハウス風の犬小屋。木陰で犬が気持ちよさそうに寝ている。丸めた茶色い毛布のようにも見える。

 カラカラと扉が開いて、人が出てきた。寝ていた犬が飛び起きて、嬉しそうに尻尾を振る。

 紺色のワンピースを着た女の人が、私を見て不思議そうに首を傾げた。

「こんにちは。うちに何か?」

「いえ、あの」

 この人だ、と頭の芯がしびれるほどはっきりと思った。知らない人に見えた父の背中。その首に巻きついていた二本の白い腕。この人が、父の。

 恐ろしい蛇みたいな女を想像していた。でも、実物は、想像していたよりずっと儚げで、綺麗な人だった。肩にかかった薄茶色の髪が、日の光に透き通って見える。

「犬が気になるの?」

 女の人が微笑んで言った。

 あ、はい、と私は小さくうなずく。

「小次郎っていうの」

 毛布のように見えた犬は、薄茶色の柴犬だった。主人の姿を見つけた途端に飛び起き、三角形の耳をぴんと立て、お腹の白い毛並みをすり寄せて甘えている。

「ごめんね、お客さんだから少し待ってて」

 心地いい声、と思った。ささやくような音量なのに、よく通る声。中学生の私を、お客さん、と呼ぶ。

 触ってみる?という問いに、私は思わず頷いていた。犬はべつに好きではないし触ってみたいとも思わなかったのに、どうしてか抗えなかった。

 吸い寄せられるように私はその家の敷地をまたぎ、庭に足を踏み入れる。犬のつぶらな目が突然カッと目を開いて噛みついてきたらどうしよう、と不安になって手を伸ばすのを躊躇っていたら、おかしそうに笑われた。

「大丈夫よ。噛んだりしないから」

 私は恥ずかしくなって、小声で、はい、と答えた。

 おそるおそる手を伸ばして、丸い頭に触れてみる。短く硬そうに見えた茶色の毛は意外と柔らかく、ほんのりと温かかった。犬は噛みついたりしせず大人しく撫でられていたけれど、警戒されているのが手のひらから伝わってくる。

 手を離すタイミングがわからず撫で続けていると、

「暑いでしょう」

 と女の人が言った。

「よかったら、上がってアイスでも食べていく?」

 心地よく、甘い声で、私を誘う。


 おじゃまします、と小声で言いながら女の人に続いて靴を脱ぎ、家にあがった。祖母の家に似た、古い家の匂いがした。

 人の気配を感じない静かな家の廊下を歩きながら、昨日、帰るなり母に詰め寄られたことを思い出す。

「どうだったの?証拠はつかめた?」

 この人は娘に何を求めてるんだろう、と冷めた私の視線を、母は当然のように無視した。

「駅に行って、改札通ってどっか行っちゃった。本当に仕事だったんじゃない?」

「仕事? そんなはずないでしょう!」

 バンッ、と母が机を叩いた。

「こっちには勤務表があるんだから。休みなのに嘘ついたのよ。浮気に決まってるじゃない!」

 耳を塞ぎたくなる。どうして普通に話せないんだろう。芝居じゃないんだから、いちいち大きな音を立てたり喚いたりしなくても伝わるのに。母の金切り声を聞くたび、うんざりした気持ちになる。そんなだから、お父さんも逃げたくなるんじゃないの。

「とにかく、何かおかしいことがあったらすぐに言うのよ。いいわね!」

 わかったよ、と私は面倒から逃れるためにうなずいた。

 でも、頼んだ母も、まさか私がその浮気相手の家にノコノコ上がり込んでいるとは思わないだろう。さらにのんきにアイスまでいただいているだなんて。

 瞳さんと並んで、縁側に腰掛けてアイスを食べる。あっさりとしたバニラの甘さがおいしい。

「このアイスが昔から好きで、買い物に行くと絶対に買っちゃうの」

 紺色のワンピースから伸びた白い足を少女のように揺らしながら瞳さんが言った。若い人だと思っていたけれど、それは父と比べると随分若く見える気がしただけで、近づくと薄く化粧をした顔に刻まれた目尻や顎の皺が目についた。案外、母と同じくらいの歳なのかもしれない。

 棒つきの細長いバニラアイスは、母が以前よく買ってきていたものに似ていた。いつからか安っぽいといって買わなくなった白い棒アイス。大人の女の人でもこんな風においしそうにアイスを食べるんだなと、すこし意外に思う。

 瞳さんは、全体的に色素の薄い人だった。日差しの下で透き通るような薄茶色の髪に同じ色の眉毛は、生まれつきだという。

「よく外国人に間違われるのよ。両親も、生まれも育ちも日本人なのにね」

 と瞳さんは肩を竦めて笑った。たしかに同じ人種と言われてもぴんと来ないほど、瞳さんは肌が白い。日焼けなんてしたことないみたい。

 どうして父なんだろう、とますます不思議に思う。こんなにきれいな人なら、もっとお金持ちでかっこいい男の人とたくさん付き合えそうなのに。それにこんなに広い家に一人でいて寂しくないのだろうか。

 寂しい、と自分で思ったことにひやりとする。寂しいから、父を呼ぶのだろうか。

 いっそ全部聞き出したい気持ちに駆られるけれど、でもその瞬間、嘘みたいに穏やかなこの時間が終わってしまうと思うと言い出せなかった。

 アイスを食べ終えてしまうと、途端に胸に穴が空いたように虚しい気持ちが押し寄せた。私がもし、偶然この家の前を通りかかっていたら。瞳さんが父の浮気相手じゃなかったら。あり得ないとわかっているけれど、考えてしまう。もしそうならこの人を、純粋な気持ちで好きになれたかもしれないのに。

「あのね、葵ちゃん。もしよかったらなんだけど」

 帰るとき、玄関でサンダルを履き終えた私に、瞳さんは微笑みながら言った。

 私ね、ずっと家にいて暇なの、だから。

「明日もまた、遊びに来ない?」


 夕飯は酢豚だった。豚肉と酢が夏バテに効くらしく、夏によくうちの食卓に並ぶメニューのひとつだ。大きめに切られた豚肉と人参と玉ねぎのつやつやとした表面は、レストランのショーケースに並ぶ食品サンプルに似ていた。野菜の瑞々しさや揚げ物の衣、どれだけ繊細に表現されても決して本物にはなれないものたち。酢豚だけじゃなく、テーブルの上のすべてが嘘に見えてくる。ご飯も、味噌汁も、お茶も、それを囲む父も母も私も。

 昨日、父は夕飯の前に帰ってきた。スーツを脱いで、お風呂に入って、テーブルにつき、三人でご飯を食べた。そして今日も、昨日と同じように淡々と料理を口に運んでいる。まるで浮気なんてしたこともない、生真面目な父親のように。

「ごちそうさま」

 食べ終わって食器を手に立ち上がると、母が私を見上げて言った。

「あら。早いわね」

 苛、とした。何を言ってるんだろうこの人は。娘に父親の尾行なんてさせておいて、今さら普通の母親みたいな顔をするのか。でも、母は知らない。私が何も見ていないし知らないと言ったから。

『明日もまた、遊びに来ない?』

 柔らかく耳に滑り込むような声が頭の中を反芻する。

 瞳さんがどういう人なのかわからない。年齢も、仕事も、家族がいるのかいないのか。私が本当にそれを知りたいのかも、もうよくわからなかった。


 縁側と続きになっている居間に、のれん越しに柔らかい日差しが差し込む。畳はひんやりとして心地よく、つい緊張感も忘れて寝そべりたくたくなってくる。

 肌が弱いのよね、と瞳さんは言った。この家に来るようになって三日目の午後だった。

「日焼け止めを塗ってもすぐに焼けちゃうの。縁側が限界。だからいつもは庭で我慢してもらってるんだけど」

 それでね、と瞳さんは両手を軽く合わせて続ける。

「でもいつも庭だとかわいそうだから、小次郎を散歩に連れていってほしいの。葵ちゃん、お願いできないかしら」

 ああ、と私はぼんやりとした頭で思う。ついに、母だけでなく瞳さんからも、お願いされてしまった。

 でも、母の脅すような金切り声とは違って、瞳さんのお願いは普段と変わらないおっとりした口調で、さらに魅力的なご褒美までついていた。

「もちろんお小遣いは払うわよ。それと、アイスもね」

「行きます」

 と言うと、ありがとう、と瞳さんは嬉しそうに笑った。

「じゃあ、明日からお願いね」

 母と瞳さんどちらにもいい顔をしている私は、もしかしたら二人ともを騙しているのかもしれない、と笑うときにできる瞳さんの顎の皺をぼんやりと見つめながら思う。

 でも、瞳さんだって、私を騙している。きっと、騙している自覚すらないままに。


 庭で昼寝していたときとは違って、犬は後ろから何かに追われているように、ぐいぐい先へ引っ張っていく。私は小走りでときどきつまづきそうになりながら、リードを離さないよう強く握りしめる。

「ちょっと、待って」

 犬の散歩なんて初めてだった。歩くペースもつかめないまま、私は後をついていくので精一杯だ。瞳さんはいつも庭で遊ばせていると言っていたけれど、犬の足取りはまるでよく知っている道みたいに迷いがなかった。

「あれ、川口?」

 自転車が止まる短い金属音とともに、聞き覚えのある声がした。

 はっと声のほうに顔を向けると、片足だけ地面につけた中途半端な体勢で立っている長身の男の子と目が合った。運動部の男子らしく、Tシャツから伸びた太い腕が、真っ黒に焼けている。

 吉村、と息継ぎのついでみたいに短く、彼の名前を口にした。その名前を口にするとき、私はいつも緊張してしまう。小学校の頃は、こんな風ではなかったのに。

 吉村とは小学校から一緒の幼なじみで、今は親友の彼氏だ。目と鼻の堀が深く、育ちすぎたドングリみたいに大きな目で人の顔をまっすぐに見ながら話す。あの目力にやられたんだよねえ、と付き合い始めたばかりの頃、志織がはしゃいでいたのを覚えている。

「何してんの?」

 吉村は表情を変えずに言った。

「何、て、犬の散歩だけど」

 見ればわかるでしょ、と言いたい気持ちを堪えて、不自然に見えないようにリードを手繰り寄せる。

「でも、そいつ、そこのでかい家の犬だろ?」

 吉村はすでに見えなくなった家の方向を指差して言った。

 え、と思わず上ずった声が漏れた。

「知ってるの?」

「たまに、女の人が散歩してるの見かけるから」

 女の人、瞳さんだろうか。でも、肌が弱いからいつもは庭で遊ばせていると言っていた。混乱しかけて、夕方の話かもしれない、と思い直し、そうなんだ、と曖昧に頷く。

 川口、あの女の人とどういう関係?

 吉村の黒々した瞳が私をまっすぐに見つめる。一言もそんなことは言っていないのに、嘘を一つずつ剥がされていくような心地悪さを感じる。

 そういやさ、と吉村が唐突に話を変えた。

「もしかして、おまえら、ケンカでもした?」

 おまえら、というのが私と志織を指しているのはすぐにわかった。

「そんなんじゃないよ」

 素っ気なく返すと、吉村は納得いかなさそうに首を捻る。

「そうなの? なんかあいつこの前、そんなようなこと言ってたけど」

 あれはケンカだったのだろうか、と夏休み前の出来事を頭に浮かべながら思う。


『そんなに信じられないの?』


 たしかに私は志織にそう言った。もう吉村くんと話さないで、なんて、志織が言い出すから馬鹿馬鹿しくなって、つい意地になって言ってしまったのだった。

 それ以来、なんとなく気まずくなってしまい、毎日していたメッセージのやりとりも途絶え、夏休み遊ぶ約束もなくなってしまった。でも志織は部活で忙しいから私と遊ぶ暇なんてないだけかもしれない、と言い聞かせていた。

 夏休みが終われば、また元どおり。べつに、大したことじゃない。

 それなのに、と胸が焼けるように熱くなる。それなのに、彼氏にはいちいち、ケンカなんて言うんだ。

「なんかあったら言えよ。力になるから」

 大きな目で私をまっすぐに見て、吉村が言った。

 力になれることなんてないよ、と内心思いながら、ありがとう、と答えた。同時に、そんな薄っぺらい言葉を軽々しく吐ける奴だったのかと白けた気持ちになる。

 志織は、吉村のどこが好きなんだろう。目が好きだと言っていたけれど、ほかには?

 あれほど毎日惚気話を聞いていたはずなのに、どうしてか、ほかには何も思い出せなかった。


 散歩を終えて帰ると、瞳さんは机に置いたノートパソコンに向かってキーボードを打っていた。焦げ茶色の縁のメガネをかけている。

「おかえりなさい」

 瞳さんは長い前髪を耳にかけながら振り向いて言った。

 ただいま、と返して、ちょっと後ろから覗いてみる。

「お仕事ですか?」

「そう。ネットの記事を書いてるの。映画や本のコラムとかね。たまに作家さんにインタビューすることもあるのよ」

 名前を聞いてみたけれど、知らない人だった。

「今書いてるのはスピルバーグの名作映画五選。スピルバーグは知ってるでしょう?」

 それなら知っている。私は見たことがあるスピルバーグ作品を挙げていった。一番最近観たのはシンドラーのリストだ。

「中学生でシンドラーのリストを見てるなんて、すごいわ葵ちゃん」

 すごくないです、と私は首を振った。

 シンドラーのリストは、父が好きな映画だ。たまに思い出したようにDVDを借りてきて観ているので知っていた。大勢のユダヤ人労働者に見送られながらシンドラーが汽車で旅立つシーンを、涙を浮かべながら真剣に見入っていた父の横顔を思い出したら胸が痛くなった。

 瞳さんも父と一緒に映画を観たりするのだろうか、とふと思う。居間には小さな模型みたいな黒いテレビがあるけれど、ついているところを一度も見たことがない。

 父を意識した途端に気まずくなってトイレに行こうとしたとき、

「はい。散歩に行ってくれたお礼」

 と言って千円札を手渡され、ちょっとお菓子を変えるくらいの金額だと思っていた私は慌てて手を振った。

「いえ、いいです、散歩くらいでそんな」

「もらって。本当に助かったんだから」

 すみません、と私は受け取って、大事に財布にしまった。母は何か手伝いをしても、お小遣いなんてくれたことがない。人生初のアルバイト代に胸が高鳴る反面、本当にいいのだろうか、と戸惑う。

 たまに、女の人が散歩してるの見かけるから。

 なぜか確信があった。吉村が言っていた女の人は、きっと瞳さんだと。でも、自分でもできることをあえて私に頼んでお金まで払う理由は、どれだけ考えてもわからなかった。

 縁側に座ってアイスを食べた。柔らかな光を帯びた縁側、白いワンピースを着た瞳さん、白いバニラアイス。そこにあるものが少しずつ輪郭を失っていって溶け合うような、泣きたくなるほど優しい時間だった。

「昔よく、父とここでアイスを食べたの」

 と懐かしそうに瞳さんは言った。

 父、という言葉が、行き場を失ったように頭の中を巡った。

 こんな広い家にいつも一人でいるから、勝手に天涯孤独な人なのだと思い込んでいた。当たり前のことなのに、瞳さんにお父さんがいることが、ショックだった。

 私は瞳さんのお父さんを知らないのに、瞳さんは私のお父さんを知っている。きっと、私よりも、ずっと多くのことを。

 そう気づいたとき、初めて瞳さんを、ずるいと思った。


 志織からメッセージが届いたのは、お盆に入る少し前だった。絵文字だらけの文面には夏休み前までの気まずさはなく、

『毎日部活でヘトヘト。休み入ったら遊ぼうね!』

 といつもの屈託のない明るさで書かれていた。それから、定時報告のような惚気話もついてくる。吉村の部屋で、吉村の誕生日祝いをしたこと。ケーキと紺色の帽子をプレゼントて喜んでくれたこと。

 そういえば吉村の誕生日は八月だったな、とぼんやり考えながら返信メッセージを作っていると、

「ご飯中に携帯を触るのはやめなさい」

 と目の前の母がいかにも不機嫌な声で言った。

 ごめんなさい、と私は慌てて返事をし、携帯電話を置いて箸を持つ。

 今日の夕飯は焼き魚と南瓜の煮付け。昨日は椎茸の肉詰めだった。父の嫌いなおかずばかり出すのは、最近頻繁に帰りが遅くなる父への当てつけだろうか。そういうことをすればするほど父の足が遠のいていくのに、結果ばかりに気を取られている母はたぶん一生かかっても気づかない。

「葵、最近毎日、どこに行ってるの?」

「図書館だよ」

 訊かれたら動揺すると思っていたけれど、案外普通に答えられた。母に言えない秘密が増えていく罪悪感を覚えつつ、でも本当のことなど言えるはずがないのだから、と言い聞かせる。

「そう」

 もっと問い詰められるかと思ったのに、母はそれきり口をつぐんで甘辛いタレを染み込ませた南瓜の煮付けを黙々と食べていた。

 食べ終わる頃、父が帰ってきた。

 ただいま、とだけ言って私の後ろを通り過ぎた父の服から、何か小さなものが、ふわりと舞うように床に落ちた。人間のものとは違う、短く固い黄土色の毛だった。

 呆然と見つめながら、確信する。私が帰った後、あの家に、父はいたのだ。仕事ばかりで趣味もなく退屈だと思っていた父の一部に、瞳さんがいる。疲れた表情と背中でどれだけ巧妙に隠されても、私は、気づいてしまう。

 母が気づかないだろうか、と不安になる。もし犬の毛に気づいたとして、嫌な顔をするくらいで、それが何かの証拠になるはずもないのに。

 不安は拭えないどころか、汚いものを飲み込んで育つ怪物のようにみるみる膨らんでいく。

 きっと、きっかけなんて、ほんの些細なことなのだ。父の勤務表や、スーツについた犬の毛のように。ほんと些細なことで嘘が剥がれて、家族が壊れてしまうのかもしれない。

 柔らかくなりすぎた南瓜が、箸でぐしゃりと崩れた。

 不安で潰れそうになりながら、でも悪い遊びを憶えた子どものように、私は明日もきっとあの家に行ってしまうのだ。


 小学校の頃、父が連休に入ると必ず家族旅行に行っていた。父が飛行機嫌いなため、夏の旅行はいつも国内の避暑地、冬は温泉と決まっていた。母と私は近くのショッピングモールに買い物に出かけ、父はホテルで映画を見ながら過ごす。そんなのんびりした旅行も、私が中学にあがると同時になくなった。

 たった二年前までのことが、幼い頃に何度か見た夢のように遠く思える。

 二度目に父を尾けたのは、お盆休みの終わりがけだった。お盆といっても父方の親戚の家に一度お昼を食べに行っただけで、それ以外は普段と何も変わらない日常がだらだらと続いていた。

 ただ、その日はいつもは何をするでもなく家で過ごしていた父が、朝から「映画を観に行ってくる」と、出かける支度をし始めた。

「夕方までには帰るから」

 とわざとらしく付け加えて。紫色のポロシャツに微妙に丈の短いストライプの入ったズボン。いつも通りため息が出るほどのセンスのなさだと思いながら、チラチラと鏡を見て薄い前髪や口の周りをチェックする父を、私はじっと見ていた。

 それに昨日の帰りがけに、瞳さんが言っていたから。

「明日は用事があるから、また今度ね」

 用事というのが父と会うことだと確信した私は父が出た後しばらくして、宿題の調べ物をしに図書館に行くと母に告げて家を出た。

 回り道をしながら三十分も後をつけるのはもう懲り懲りだと思い、自転車で先回りをして、瞳さんの家の近くで待機していたら案の定、父が角を曲がってやってくるのが見えた。

 父は、何を見ているのだろう。怒りにも似た感情が、胸の奥からこみ上げる。周囲を気にして、知り合いに会わないか慎重に目を凝らして。それなのに、近くにいる娘にも気づかないで。あのどんぐりみたいに小さな目は、何かを見ているふりをしてじつは何も見てなどいないのかもしれない。

 父が入っていき閉められた扉から離れてふと縁側のほうに目を向けたとき、人の気配に気がついてはっとした。

 瞳さんだ。二つの黒い目が、私をじっと見ていた。

 けれどそれは一瞬で、瞳さんは長い髪を揺らしながら背を向け、部屋の奥に姿を消した。

 見られた。見られた。見られたーー

 塀に立てかけておいた自転車のハンドルを持とうとして手が滑り、ガタンと地面に倒れた。慌てて起こしながら、頭の中では必死に言い訳を考えていた。

 今日は用事があるから。瞳さんに言われたことを、忘れていたのだ。いや、本当に用事だったら、父とは関係のないことだったらと、淡い期待を持っていた。

 ハンドルが汗で何度も滑り、自分が動揺していることを知る。

 こんなことに何の意味もないとわかっている。父のしていることは、今さら揺らぎようがない。

 やっとのことで起こして跨った自転車を漕ぎながら、もうここに来るのはやめようと思った。


 思った、はずなのに。

「いらっしゃい、葵ちゃん」

 昨日のことなど忘れたように笑顔で私を迎える瞳さんに、私はぎこちなく笑い返した。

 もうすぐ夏休みも終わる。今日で本当に最後にしよう、と今度こそ心に決めながら、私はまた、おじゃまします、といつも通りに言いながらこの家の敷居を跨ぐ。

「雨が降りそうだから、今日は散歩はいいわ」

 とおもむろに瞳さんが言ったので、お茶を飲んでいた私は、え、と顔をあげた。次の言葉を言う前に、瞳さんが続けた。

「それより、降らないうちに買い物を済ませたいから、お留守番お願いできる?」

 でも、と言いかけて、でも断る理由もないことに気づき、あ、はい、と曖昧にうなずく。

「来てもらって早々、ごめんね。そんなにかからないから」

 いえ、と答えながら、瞳さんが手にした黒い艶のあるハンドバッグを見てドキリとした。見たことのあるブランドのロゴ。見るからに質がよさそうな。

 父があげたのかもしれない、とふと思った。物に執着しない父が女の人にプレゼントをするところなど想像もできないのに、見れば見るほどそうとしか思えなくなる。

 証拠をつかんできて、と言った母の金切り声が、引っ掻くように耳の奥で鳴る。そうだ、私はここまで来てまだ何も証拠を見つけていない。

 瞳さんが出て行くと、途端にそうしなければいけない使命感に駆られて立ち上がった。父の裏切り。私がここに来ていたことの意味を、探さなくては。

 居間には探すところが何もないほど、物がなかった。台所にも、鍋やフライパンやいくつかの調味料、必要最低限のものしか見あたらなかった。何かあるとすればたぶんほかの部屋、瞳さんのバッグや服なんかが置いてあるどこかの部屋だ。

 何度かトイレに行くとき、居間から出たことはあった。奥行きのある廊下はいつも薄暗くひんやりとして、今が昼間だというのを忘れさせた。

 ギシ、ギシ、と音を立てながら歩いていると、どこからか、奇妙な音が聞こえてきた。耳を澄ませてみると、それは音ではなく、人の声だった。

 うう、うう、と呻くような掠れた声に、背筋がぞくっとする。この家には今、私以外誰もいないはずなのに。

 怖い。でも、引き返そうとも思わなかった。暗闇で手探りするように、父の後ろ姿を追いかけたあのときと同じ。怖さよりも、知りたいという欲求のほうが、強かった。

 いくつかの扉を通り過ぎ奥に進むほど、唸り声は次第にはっきりと響くようになった。もはや幻ではなく、現実のものとしか思えないほど。言葉は聞き取れないけれど、助けて、と訴えているようにも聞こえた。

 ここだ。

 廊下の突き当たりの部屋の前で足を止めた。この中に誰かがいる。でも、誰が。扉にかけた手が震える。唸り声がまた大きくなった気がして、一気に扉を引いた。

 暗闇に光が混ざり、埃っぽい灰色の空間が開けた。そこに横たわっていたのは、骸骨が服を着ているのかと思うほど痩せこけた老人だった。

 ひっ、と小さく声が漏れて、慌てて口を押さえた。辛うじて男性とわかる老人の肌は、色素がひとつ残らず抜け落ちたように真っ白なのが暗がりの部屋でもわかった。

 恐怖で全身が粟立った。暑い。その部屋は尋常じゃなく蒸していた。居間ではいつも扇風機が回っていて、庭から心地よい風が流れ込んでいた。犬の散歩の後でも、だから不快感を感じたことはなかった。でも、この暗い部屋には扇風機もエアコンもついていない。窓も扉も閉め切られ、強烈な匂いに鼻がおかしくなりそうだった。何かが腐ったような匂い。食べ物か、それとも、このおじいさんの身体が。

「私の父よ」

 いつの間に帰ってきたのか、後ろに立っていた瞳さんが言った。まるで初対面の者同士を紹介するように、何でもないことのように。

「大丈夫よ。寝てるだけだから」

 目の前の老人は、唸ってはいなかった。皮だけが貼りついて残っているような細い喉が、音もなく、ゆっくりと動いている。そのわずかな動きだけが、老人が生きていることを示していた。

「でも、こんなに暑いところで」

 死んじゃう、と私が言うより先に、瞳さんが続けた。

「あなたは何も心配しなくていいの」

 関係ないんだから、と言われた気がした。

 かわいそうに、と続けて、瞳さんが言った。

 私は聞き間違いだろうかと思いながら、ようやく振り返って瞳さんを見た。

「だって、そうでしょう」

 あなたは、お父さんを追いかけて、この家にたどり着いた。そう、私は、母に頼まれて、父の後を追いかけた。誰のために。そんなことに何の意味もないと、最初からわかっていたのに。

 現実と妄想の境目がなくなる。今まできれいだと思っていた女の人の輪郭がぼやけて得体の知れない生き物のように蠢いている。

「ごめんなさいね。いつか、ちゃんと返すから」

 瞳さんが言った。顎の皺と一緒に淡いピンク色の唇が動く。それは私の妄想ではなかった。

「返すって、なにを?」

 決まってるでしょうとでも言うように、瞳さんはいつもと変わらない落ち着いた声で、あっさりと告げた。

「あなたのお父さん」

 息が詰まる。知っていたんだ。この人は、私が父の娘だと知っていて、家に招き入れた。かわいそうだから。父に嘘をつかれて、裏切られて、かわいそうだから。

 どうして、と口の隙間からほとんど声にならない言葉が漏れる。隠しきれていると思っていたのは自分だけで、本当は最初から何もかも見抜かれていたのだと気づいて恥ずかしさと怒りが込み上げる。

「似ていないと思ってても、他人から見れば、案外すぐに親子ってわかるものよ」

 見透かしたような言葉に頭が熱くなって、その細い身体を突き飛ばして逃げ出したい衝動に駆られた。それでも、まだ訊かなければならないことがあると思い直して、どうにか堪えた。

「いつ?」

 私はふるえる声をできるだけ抑えて、短く尋ねた。それは、いつなの。

「そうね。私がこの家を出るときかしら」

 少し考える素振りをしたけれど、それすら初めから決まっていることのように、穏やかな口調のまま告げる。

 お父さんを返す。いらなくなった鍵を返すみたいに。貸したこともないのに。

 そのとき、はっきりと確信した。この人は、父のことを、少しも好きなんかじゃないんだ。

 ずっと、府に落ちなかった。若くて綺麗で相手なんてたくさんいそうなのに、どうしてうちの父なのか。バレるかもしれない危険を犯してまで、父を家に呼ぶ理由。どうでもよかったんだ。父が家庭を失おうと、会社を休もうと、この人にとってはどうでもいいことだった。お金さえ、渡してくれれば。

 絡まった髪が櫛でするすると流れだすように、いろいろなことが府に落ちていった。私が気にしていなかっただけで、日常の中で少しずつ、変化はあったのだ。

 休日はいつも家にいて、趣味は家で映画鑑賞くらい。遊びも人付き合いもほとんどしない大人しい父親。でも、最初から節約家だったわけじゃなかった。徐々に、いろいろなことに興味を失っていった。大切にしていた車を売ってしまったのも。全部、この人のためだった。

 唇がちぎれそうなほど強く、噛み締めていた。痛い、と思ったら、血の味がした。

「いらない」

 私は言った。

「返してくれなくて、いい」

 泣いたらダメだ、と強く念じながら。目の前に立つ女を睨みつける。白い蛇みたいだと思った最初の印象は正しかった。いつか家族で旅行に行ったときに見た、白蛇の大群の不気味さを思い出す。その顔は黒く塗りつぶされて何も見えない。笑っているのか、哀れんでいるのか、綺麗なのか、醜いのかも、なにもわからなかった。

 もう、どうでもいい。二度と会うこともない。

 老人が横たわるその部屋は、吐き気がするほど濃厚な死の匂いがした。

 私はその気配から目を背けて、無我夢中で長い廊下を駆けた。


 街頭が灯り始めた夕暮れの道の途中、私は携帯電話を取り出して、メッセージを送った。

『今から家行っていい?』

 返事はすぐに返ってきた。いいよ。たったそれだけだけれど、まっすぐ家に帰らない理由には充分だった。

 小学校から同じだった吉村の家は、知っていた。母子家庭でお母さんが遅くまで家にいないことも。今日は志織が部活の合宿で海辺の施設に泊まっていることも。

 笑ってしまうくらいあっという間に、吉村の親子が住む小さなアパートについた。薄いピンク色の二階建て。学校帰りに少し寄り道したときに、たまに前を通る。なんて近いんだろう。こんなに狭い世界で、私たちは恋愛したり失恋したり、浮気したりされたりを繰り返している。

 チャイムを押して、ところどころ剥げ落ちたクリーム色のドアが開く。夕闇の景色の中で、部屋から漏れる明かりがまぶしかった。

「よお」

 白いTシャツにジャージの短パン姿の吉村はぶっきらぼうに言った。前髪に思いっきり寝癖がついている。

「どうかした?」

 できる、と、思った。親友を裏切ることくらい、簡単だ。

 力になるから。吉村はそう言った。じゃあ、教えてよ。家族を捨ててまでのめり込むほどのものが、そこにあるのか。誰かの大切な人を奪うってどういう気持ちなのか。経験してみないと、わからないから。

 だから、ここに来た。家に帰りたくなくて、ほかにどうしようもなくて。

 でも、ドアを開けた吉村の、いかにも寝起きのぼうっとした顔の温度差を見ていたら、途端に、全部が馬鹿馬鹿しくなった。

 裏切るのは簡単だ。でも、吉村は志織を裏切らない。裏切られる痛みを、知ってるから。

 立っていられないほどの虚しさが押し寄せる。何をしているんだろう。あの家から逃げて、親友の彼氏の家まで来て。

「ごめん」

 結局、何もできなくて。おまけに運動不足なのにいきなり走ったせいで、声を出すだけで喉が痛い。

 それでも、

「ごめん、なん、でもない」

 と切れ切れに絞り出して言うと、

「なんだそれ」

 吉村は呆れたように言って、外に出てドアを閉めた。

「暗いし、送るよ」

 さりげなくかけられた優しさに、涙が出そうになる。

 好きだったんだ、と声に出さずに告白する。私も、ぶっきらぼうだけど意志の強い目にやられた一人だった。

 吉村くんと付き合うことになった、と志織が嬉しそうに言ったとき、悔しかった。その口から吉村の名前を聞くたび、胸が軋んだ。

 そんなに信じられないの?

 そう、たしかに、あのとき。壊れてしまえばいいと、思った。

 帰り道を示すように、街頭がぽつぽつとついていく。その道を、私たちは決められたように人一人分の距離をとって歩く。

 あのさ、と私は群青色の空を仰ぎながら漏らす。

「ちょっと、重い話してもいい?」

 吉村は怪訝そうに眉をひそめながら、いいけど、とぶっきらぼうに答えた。

「うちのお父さん、浮気してるんだよね」

 吉村は目を開いて、それからどこか府に落ちたように、そっか、と呟いた。


「遅かったじゃない。どこに行ってたのっ!」

 私も父もいつまで経っても帰って来ないから、苛々していたのだろう。玄関を開けるなり目を吊り上げた母が詰め寄ってきて、私の肩を揺さぶった。友達の家、と言おうとしてやめた。

「お父さんの浮気相手の家」

 その瞬間、母の目が漫画のようにみるみる大きくなっていく。

 どこの女よ! と激昂した母の叫び声を遮って、

「お母さんが私に言ったんでしょ」

 と言ったのと同時に、そうか、一ヶ月もあの家に通っていたのだ、と目が覚めるように気づいた。あの家の奥にある暗い部分に触れないようにして、なにも知らずに、居心地いいなんて思っていた。

「今まで隠してたの? なんで……っ」

 突然、母が泣き出しそうになって、両手を伸ばした。目を逸らさずにじっと見返すと、ふるえる手を私の肩に戻した。

「お母さんが、悲しむと思ったから」

 そう言うと、母は、ああ、と力が抜けたように崩れ落ちた。

「ごめんね……ごめんなさい、葵……っ」

 嗚咽にまじって繰り返される謝罪の言葉を聞きながら、それは私に父親の素行調査をさせたことか、今私の首を絞めかけたことか、どっちに対しての言葉だろうと、ぼんやり考えていた。

 夜になっても父は帰ってこなかった。今日は帰ってこないような気がした。

 寂しい。会いたい。潤んだ声であの人にそんなことを言われたら、きっと今の父はすぐにでも飛んでいく。たとえ夜中でも、明日仕事を休んででも。

 私たちは、父に捨てられるのかもしれない。でも、父も、いつかあの人に捨てられる。

 誰もいなくなった家の鍵を捨てるのと同じようにあっさりと捨てられ途方に暮れる父を、目の前で見たかのように容易に想像できた。

 ふいに、夏休みが始まって、まだあの家に通いだしたばかりの頃のことを思い出した。

「働き者ねえ」

 何十匹も連なって、大きな昆虫の死骸を運ぶ蟻の行列を眺めながら、瞳さんは感心するようにつぶやいた。自分の体よりもはるかに大きな餌を仲間のために巣まで運ぶ様は、たしかに黙々と作業をする工場員みたいで健気だった。

 その蟻の行列の前に、瞳さんか溶けかけていたアイスを、わざと垂らした。

 蟻の列から何匹かがするりと抜けて、地面にできた小さな白い水たまりに群がるのを、

「ごほうび」

 と微笑みながら言って、それからまた溶けかけのアイスを舐めた。

 欲に負けて蜜に飛びついた蟻は、あの後何食わぬ顔をして巣に戻ったのだろうか、と今になって思う。それとも戻り方がわからなくてべつの巣で生きているのかもしれない。

 夏のはじまり、昼間の縁側、光に包まれた庭の景色、それからあの美しく白い横顔を、私はきっと、帰ってきた父を見るたび思い出すのだろう。


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アイスと白蛇 松原凛 @tomopopn

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