2.花に帰す②

 

 リファが分厚い本を閉じると、かすかに舞い上がった埃が、窓から差し込む西日できらめいた。

 古びた書物の豪奢な装丁を、手のひらでそっと撫でる。そこには色あせた金色の文字で、〝大陸神話〟という文字が刻まれている。


 ふと見ると、表紙を撫でた指先が少し荒れていた。

「また軟膏を塗っておかないと。薬草まだあったかなぁ」

 冷えた指を擦り合わせる。そう遠くないうちに訪れる冬の乾いた風は、油断すると、あっという間に手指のあかぎれを増やしてしまうのだ。


 リファは大きな書棚を埋め尽くす本の隙間に、手にしていた書物をそっと納める。もう何度も読んだ本たちだが、もとより年季が入っているので、慎重に扱わないと傷んでしまう。


 午後の読書に耽っていたら、いつの間にか日は傾き、すぐそこに夜が迫っていた。橙色に深い青とわずかな黒が混じり合い、空が塗り変わっていく時間だ。


 金具が錆びてきた窓を軋ませながら開く。秋の爽やかな風がリファの前髪を柔らかく揺らした。

 鬱蒼うっそうとした深い森の中を吹き抜けてくる、花と緑の匂いをはらんだ風は、リファをからかうように頬を優しく撫でていく。


 こうやって、ただ夕陽を見るために窓を開けるのが好きだった。先ほどまで元気に遊びまわっていた子供を寝かしつけるみたいに、ゆっくりと色を変えて凪いでいくこの時間が心地よい。


「明日もいい天気になりそうだなぁ」

 深呼吸し、ぐんと背伸びをしつつ独りごちた。

「こういうときはお茶でも淹れて、のんびりするのがいちばん……」

「なーに年寄りみたいなこと言ってんのよ」

 唐突に、場の空気にそぐわない台詞が背後から飛んでくる。

 

 リファがその声にむっとして振り返ると、背に半透明の羽根を生やした小さな生き物――人間の少女に近しい姿をしている――が、蝶か小鳥のように宙をくるくる舞っていた。


「ぼうっとしてないで夕飯にしましょうよ。若者には黄昏れてる暇なんてないのよ」

「別に黄昏れてないし……せっかくいい気分だったのに、サラは情緒がないんだから」

「ぶつくさ言わないのー」

 ホラきびきび動く! と急かされて、リファはしぶしぶ窓を閉めた。


 風で少し乱れた長い髪を、手首に巻いていた紐で束ねる。

 散髪が面倒で伸ばしっぱなしの髪は、少しくせっ毛で重たいので、料理をするときは結んでおかないと邪魔になってしまう。 


 お腹すいた、としつこくせがんでくるサラの額を指先で軽く弾いてやると、ふわふわ宙に浮いている小さな身体が、勢いでくるんとひっくり返った。

「なにすんのよ、もう!」

「癒やしの時間を邪魔してきた食いしん坊さんに仕返し」

 いたずらっ子の笑みを浮かべるリファに、サラがやれやれと首を振って、「若者というより子どもね」と呆れたように言った。


「食い意地はってるのは事実でしょ?」

「はってないわよ! まったく、崇高なる上位精霊に対して失礼な言い草ね!」

 サラは怒りを表しているつもりなのか、小さな薄い羽をぱたぱたとはためかせた。手のひらに乗ってしまうほどに小柄な体躯では、怒ってもあまり怖くはないし威厳もない。


 自らを上位精霊と称した彼女は、「まぁいいわ。子供の言うことと思って見逃してあげる」と尊大に振る舞う。一方で「だから早く夕飯作って」と催促さいそくすることも忘れない。

「はいはい、分かりました」

 苦笑いしつつ、リファは台所に向かった。


 森で拾い集めた枝をこぢんまりとした竈に放り入れ、朝起こした火の残り火を再燃させる。息を吹きかけたり小枝を足したりしながら火の勢いを調節し、鍋で湯を沸かしている間に今朝収穫した葉野菜と根菜を洗って一口大に切り刻んだ。

 リファが手を動かしている横で、保存していたラタ牛の干し肉をサラが勝手にちぎって他の具に混ぜており、それも仕方なく入れることにする。


 塩や香辛料で味付けしたスープを煮込む傍ら、リファが丸パンを三個、火で軽く炙っているのを見て、サラが思い出したように言った。

「そういえば、今夜はあいつも来るんだったわね」

「そうだよ。たぶん、もうそろそろじゃないかな」


 リファが答えると、うげ、とサラは露骨ろこつに嫌そうな表情をした。

「あいつも本当にご苦労ね。ただの幼馴染みのくせに図々しいやつ」

「もー、またそういうこと言う……仕事終わりで疲れて来るんだから、いちいち悪態つくのやめなよ」

「そうそう、リファちゃんの言うとおり」

「あんたがそうやって優しくするからつけあがる――って!」

 ごく自然な流れで会話に入り込んできた声に、サラがハッとして振り返る。リファも、鍋のスープを木杓子でかき回しながら顔を向けた。


 いつの間に現れたのか、柔和な表情を浮かべた青年が一人、出入り口の扉を開けて立っている。

「お仕事お疲れさま、ヤナギくん」

「おいしそうな匂いだね」

 ヤナギと呼ばれた青年はニコニコしながら玄関の扉を閉め、上着を脱いだ。そこに駆け寄ったリファが上着を受け取り、壁のコート掛けに掛ける。


 二人のやりとりに、サラがしかめっ面をさらに苦々しくした。

「ちょっとリファ、そこまで甲斐甲斐しくしてやらなくてもいいでしょ。あんたがご飯作ってあげてるんだから」

「好きで作ってるんだからいいの。サラはヤナギ君に厳しすぎ」

 めっとリファが軽く叱ると、サラは不機嫌そうにそっぽを向いた。

 

 ヤナギは「まぁまぁ」と宥めるようにリファに微笑みかける。

「サラに同意するのはしゃくだけど、わざわざ台所からここまで来なくてもいいんだよ。火から目を離すのは危険だからさ」

「あんたはなんでそう一言多いのよ!」

「確かに危ないね。気をつけるよ」

 真面目にうなずいたリファに、サラが「あんたも突っ込みなさいよ!」と小さな身体を怒らせた。


 噛みつくサラをよそに、ヤナギは食卓のいつもの席に腰を下ろす。リファは急ぎ足で竈のほうに戻り、スープの煮込み具合を見た。

「今日はサラのぶんのスープ多めによそってあげるから、機嫌直して。ね?」

 それを聞いたサラは、むすっとした面持ちのまま、「……干し肉たくさん入れたら考えるわ」とそっぽを向きながら呟く。どうやら、ご機嫌とりには成功したらしい。

(やっぱり食い意地はってるじゃない)

 呆れながらも、リファはできあがったスープを器によそう。ちゃんとサラのぶんは干し肉を多く入れてあげた。

 

 さすがにパンとスープの二品だけでは寂しいので、先日ヤナギが持ってきた支給品の紙袋から黄色い塊を取り出した。これならサラも満足してくれるだろう。

 三人そろって食卓につく。丸パンとスープ、そしてスライスされたチーズという質素な食事を前にして、リファとヤナギは静かに指を組んだ。


 神がもたらす自然の恵みに感謝し、明日の平穏を願う、ささやかな儀式だ。

 自分たちが住まう地を守護する守神もりがみ、そしてあらゆる自然物に宿り、生活の糧となってくれる精霊たちに敬意と謝意を示すこと。信仰が根付く国においては、小さな頃から習慣づけられる行為だ。

 サラは自身が精霊であるので、食前の儀式は行わないが、必ず二人が食べ始めるまで待ってくれるのだった。


 壁と卓上のランプの淡い明かりに包まれて、部屋には暖かな空気が流れていた。

 窓の外はすっかり暮れて、深い森を見下ろす夜空には星がちらついている。宵の静寂に溶けていくような穏やかな時間が、森の中のこぢんまりとした一軒家に満ちている。


「今日はこんなことがあったんだよ」と楽しげに語るリファの声に、ヤナギが優しい表情で耳を傾け、相づちを打つ。

 サラが時折からかうように口を挟み、リファと軽く言い合いになって、それから互いに笑い出す。いつもどおりの、他愛ない夕餉ゆうげの会話だ。


 こんな日々を送るようになってから、どれくらい経つだろう。何の変哲へんてつもない、ありふれた幸福に満ちた三人だけの食卓。


 かつてのリファには想像もできなかった日常が、今では当然の顔をしてここに在る。

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