喫茶店-第十一輪-

 煙突から煙が上っていく。これはいつの記憶か。

 思い出せない。ただ、空へと上がっていく煙を見上げる私は泣いていた。大きな入道雲の下、喪服を来た人々の中に混ざりながら──。

 届くはずもない煙に向かって、私はそっと手を伸ばしていた。

 静寂に包まれた場に、蝉の鳴き声だけがうるさいほど耳に残っている──。


***

 視界が暗転する。先ほどまでの夏空は、いつもの喫茶店の天井へと変わっていた。伸ばした手は、当然のように空を切る。

 頬には、ひと筋の涙の名残。そこだけが、わずかに熱を帯びていた。


「大丈夫ですか?」


 マスターの優しい声が響く。

 その声に導かれるように、私はそっと顔を上げた。


「……はい。大丈夫です」


 涙を見られた恥ずかしさと、言葉にできない想いを、たった一言で包み込んだ。涙を流していた私の“大丈夫”には、どれほどの説得力があるだろう──それでも、今ならはっきりと言える。

 悲しい気持ちより、今は前に進みたい気持ちのほうが強い。


 記憶の中で、煙突から空へと伸びていた一本の煙。どんなに断片的な記憶であっても、私はいつも、あの人の隣にいた。

 ──でも、今思い出した記憶の中に、彼の姿はなかった。

 喪服を着た人々のなか、ひとり泣いていた私。きっと、そういうことなのだ。

 そう思えば思うほど、心の奥がぎゅっと締め付けられる。けれど──どこかで、誰かが囁いている気がした。


“歩みを止めてはいけない”と。


 まだ、思い出すべき記憶がある。そう言われているような気がしてならなかった。


「もう少し……もう少しで全部を思い出せそうなんです。だから、止まりたくないんです」


 目元に残っている涙を拭いながら、自分を奮い立たせる。この先に、もっと辛い記憶が待っているかもしれない──そんな恐怖もある。けれど、マスターの見えない表情が、“大丈夫”と告げてくれている気がした。


「貴女は強いですね」

「そんなこと、ないです。一人だったら、きっと途中で立ち止まってました。隣で見守ってくれてる人がいたから……ここまで来られたんです」


 私は、感謝を込めてマスターに全力の笑みを向ける。その笑みに応えるかのように、マスターも優しく微笑んでくれた──気がした。

 マスターが梅の植木鉢を持ち立ち上がる。一度、カウンターに梅を置き、代わりに違う植木鉢を手にする。

 その鉢に咲いていたのは、鮮やかな赤色をした丸みのある花。遠くからでも分かるその輪郭には、どこか“可愛らしさ”すら宿っていた。


「お待たせしました。この花は……説明するまでもないですかね」

「はい。チューリップ、ですよね」


 春を連想させるチューリップ。

 その温かな色合いに、さっきまでの記憶の余韻が、ほんの少しだけ和らいでいく気がした。


「赤、黄色、白など色々な色の花を咲かせます。春の代表と言っても過言ではないこの花は、『思いやり』そして『博愛』という花言葉を持ちます。どれもが“優しさ”を連想させる──そんな花ですね」


 私の大事な人。

 花畑の中で、海辺を眺める高台で。病室のベットの上で。どの記憶の中でも、彼はいつも、私の隣にいてくれた。

 その存在が、どれほど私を支えていたか。

 ちゃんと、言葉で感謝を伝えたい。それを言うために、最後まで残した記憶と言われても疑わない。

 私はチューリップへと手を伸ばす。誰かの記憶の先に、私の記憶があると信じて。

 そして“ありがとう”と、彼に伝えるために──。

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