梅-煙と誇りのあいだで-
喫煙者の肩身は狭い。大学で唯一の喫煙所は、校舎の一番端。
木陰に隠れてはいるけれど、真夏の炎天下を歩いてここまで来る人は少ない。化粧が落ちるから──と、数少ない同性の喫煙仲間にも断られて。
仕方なく一人でベンチに腰を下ろす。
蝉の鳴き声に耳を傾けながら、口に咥えたタバコに火をつける。肺に溜め込んだ煙をゆっくり吐き出すと、メンソールの冷たさが喉を抜け、胸のざわめきが少し和らぐ。
もうすぐ夏休みか──バイトの予定しか立っていない夏休み。
去年買った水着は、着る機会もないままタンスの奥。消えていく煙を見送りながら、そんなくだらないことを考える。
手にしたタバコは、気付けば一年の付き合いになっていた。
吸い始めた理由も、続けている理由も、人に言えば笑われてしまう。胸の奥に隠した本当の理由は、煙に包まれたまま。
そんなくだらない事を考えていると、名前を呼ばれる。
「こんな暑いのに、お前も物好きだな」
「お互い様でしょ」
君は狭い木陰を求めて、私の隣に座る。
天然水を片手に、くしゃくしゃのタバコ箱をポケットから取り出して、いつものように火をつける。
蝉の鳴き声に混ざって、二人分の煙が夏の空へ消えていく。
「……あんた、あの子と付き合うんだって?」
「なんでお前が知ってんだよ」
「相談、乗ってたからね」
軽口を叩いたけれど、指先が震えていた。
私の言葉を聞き照れる仕草を見せる。その笑顔を、私に向けてほしかった──そう思うのを、煙でごまかす。
「女に興味ないってカッコつけたの、誰だったっけ」
「うるせーな。自分でも驚いてんだよ」
会話を装いながら、心の奥で我慢を続ける。
吸っていたタバコを灰皿に押しつけ、新しい一本に火をつける。
額を流れる汗を拭いながら、崩れていく化粧と同じように、気持ちも崩れていくのを必死で見ないふりをした。
「彼女ができたばっかりの彼氏さんが、こんな所でタバコ吸ってていいのかしら?」
「いいんだよ……今日で辞めるつもりだし」
「……え、辞めるの?」
咥えていたタバコを落としそうになる。
高校時代から隠れて吸い続けていた君が、禁煙?──笑い飛ばすどころか、胸の奥に重い石が落ちたようだった。
「どうして」
「あいつが、嫌そうだったから」
理由を聞けば“彼女のため”と言う。それを羨ましいと思ってしまう自分を見つけて、どこか悲しくなり、タバコを挟む指に力が入ってしまう。
人のために変われる君を──君に想われているあの子を羨ましいと思ってしまう自分が惨めだった。
「意外と彼女優先派なんだ」
「なんだよそれ」
わざと軽く返したのに、声が震えていた。
思考が乱れて、灰皿に押しつけるタイミングを外す。吸い殻が手の甲に落ちた。
「っ……!」
熱さに声が漏れ、持っていたタバコを落とす。
「危ねぇな」
君は慌てて駆け寄り、天然水を私の手にかけた。冷たいはずの水よりも、近すぎる君との距離が火より熱い。
「綺麗な手してんだから、気をつけろよ」
「……そんなこと、君も言えるんだ」
真顔で言うその言葉に、息が止まった。
笑いに変えようとして、うまく笑えなかった──その言葉を、きっと彼女にも言うんだろうな、と思ってしまう。
「赤くはなってないみたいだし、大丈夫だろ。……吸い殻落とすとか、初心者かよ」
「うるさいなぁ」
君は笑って私が落としたタバコを灰皿に捨てる。それを見ながら、私は新しい一本に火をつけた。
その姿を見た君が、呆れるように私に言葉を漏らす。
「俺が言える事じゃないけど……吸い過ぎだろ」
「うるさいなぁ。脱喫煙者はどっか行った行った」
追い払うように手を振ってみせても、胸のざわめきは消えない。
「……ほら、もう吸わないから残りやるよ」
差し出された箱には、同じ銘柄のタバコが三本だけ。
それを渡して、君は背を向けて歩き去る。その後ろ姿を、この場所で見るのは、もう最後なんだろう。
「……私も、もう吸わないよ」
小さく呟いた。
後輩が好きになった同じ人を、私も好きになって。興味があるふりをして始めたタバコ。
──全部、笑われるような動機だった。
蝉の声にかき消されるように、喫煙所に私の笑い声だけが小さく残った。
吸い終えたタバコを灰皿に押しつけ、残りの箱を投げ入れる。ポケットには、君からもらったくしゃくしゃの箱だけ。
蝉の声を背に、私は涼しい校舎へ歩き出した。
始まる前に終わってしまった恋を映すように、最後の煙の匂いが夏の空へ消えていく。
「新しい水着でも、買いに行くか」
無意識に漏れた言葉。
誰に聞かせるわけでもないその声に、自分で少し笑った。そう言えた自分が、惨めで、それでも誇らしかった。
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