11.温泉
それからしばらく経った連休の日、幸路と右波は伊豆へ一泊旅行に出かけた。質素な生活に慣れている二人にしてはやや気張った温泉ホテルを予約した。着いてすぐに、このホテルに数多くある家族露天風呂の一つを予約し、ゆっくりと湯につかった。途中、右波が恥ずかしそうに言った。
「幸路、そんなにじろじろ見ないでよ。ちょっと恥ずかしいよ」
「いや~、お見通しだね。だけど、家族風呂だからいいでしょ? こういう広々としたお風呂って滅多に入れないし、うちのアパートじゃぁ、小さくて二人で一緒に入れないじゃない」
「そうだけど。それじゃ、たまには温泉旅行もいいよね。うち、温泉って始めてなんだ」
その後は、少し贅沢な食事をし、食後にはビリヤードをした。右波は手でボールの位置を探り、器用にキューを使ってボールを打つ。どうやら、ボールの位置をすべて記憶できるようで、幸路と同じくらいの事は出来る。幸路は感心した。
次に、右波が卓球をしようと言った時には、幸路がためらった。目が見えないのに、どうやってボールが打てるのだろう? と思わざるを得なかった。卓球台に着いて、右波はピンポン玉を台の上に落とし、跳ね返ってきたところを同じ手で掴んだ。これを2、3回試してから、「行くわよ」と言うと、台から跳ね返ったボールをラケットで打った。ボールはネットを超えて、幸路の台に入った。あっけにとられた幸路はボールを打ち返すことが出来なかった。右波は「ワン・ゼロね」と言うと、次のサーブをした。今度はさっきと反対のサイドに入り、幸路はまたしても打ち逃した。幸路がサーブをする番になった時、幸路は、まさか、相手のサーブは打てないだろう、と高を括っていた。幸路がわざと優しいサーブをすると、右波はいとも簡単にその球を打ち返した。またしても、あっけにとられた幸路は返球が出来なかった。そんな調子で、最終的には右波が勝ったのであった。それを周りで興味深く見ていた他の宿泊客は皆拍手をした。
「ねぇ、右波。なんであんなに卓球うまいの? どうやって、飛んでくるボールの場所が分かるの?」
「子供の頃ね、音の出るボールで随分練習したんだ。だけど、よく注意すると、普通のボールでも音が聞こえるようになるのよ。後は、やる気と集中力の問題よ」
「それ、信じられないよなぁ」
「ねぇ、運動してお腹空いたから、食べ放題の夜食に行こうよ」
「確かに。栄養補給しないと」
翌日は朝食の後、ホテルの屋上にある展望テラスから景色を眺めた。
「あ~、いい景色だ」
「ほんとだね。太平洋が良く見える。幸路はもう分かってるよね、この意味が。うちは太平洋岸で育ったから、海や草木の音や匂い、風、太陽の光、すべてを全身で感じてきた。そして、今も太平洋を感じている。父は太平洋の一部になってしまったし、母は太平洋を望む墓地で眠っている。母の死後は寂しかったけど、今は幸せ。ねぇ、偶然って素晴らしいね!」
幸路が思ったのは、素晴らしいのは右波だ! という事だった。
その後、右波は思いついたように言った。
「ねぇ。今度、したいことがあるんだけど」
「何?」
「一度、幸路をうちの故郷の高知へ連れて行きたい。うちの生まれ育った所を見て欲しい」
「それは良い考えだ。俺も行きたい。沖右波さんの生まれ育った南国、土佐の海岸へ。俺は大阪より西には行った事がないんだ」
「じゃ、計画しようね」
「うん、絶対しよう」
帰りの電車の中で右波が小さな声で言ったことがあった。
「ねぇ、幸路。なんだか、新婚旅行みたいだったね」
「そうだなぁ。新婚旅行かぁ。結婚......」
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