第10話『いいのだろうか』


 深夜。時間は遡り、日が変わってすぐのこと。



「ハイネ! 聞きたいことがある!」


「っ、き、キシガミくん!?」



 真夜中だということも忘れ、ユーシャはルームメイトを叩き起こす。


 突然のユーシャの行動に、すっかり眠っていたハイネもパチクリと目を覚ます。しかしながら、ハイネが驚いたのはユーシャが扉を叩き開けたことでも、大声で呼ばれたことでもない。無愛想であまり気付かれないが、この少年はなかなかに気遣い人であることをハイネは知っている。そんなユーシャが深夜に騒音の配慮も考えず大声を出したという事態に、ハイネは驚いたのだ。


 つまるところ、ただ事ではないということだ。



「聞きたいことがある」



 ユーシャがハイネに尋ねたのは、この同居人が勉強熱心で知識に富んでいたというだけではない。もし教師陣に尋ねても、事の経緯を聞かれた時点で門前払いは確定だ。彼らは教師であると同時に勇者で、悪魔を――魔王を狩る側だ。そしてそれは勇者を志す生徒側も同様である。そもそもユーシャを快く思っている生徒はほぼいないに等しい状況だ。ならば頼るのは、唯一会話を交わすルームメイトしかユーシャには当てがなかった。


 そして何より、このルームメイトには頼れる根拠がある。



「お前はこの前、封印に関する本を読んでいたよな」



 そう。先日、いくつか読み散らかした書物の中にそのような題材の本があったことをユーシャは覚えている。


 そしてこのルームメイトは、こんな可愛い顔をして、ちゃっかり禁書庫の本などを拝借していたりする。


 そのことについてハイネは「知識を求める意欲は誰にも止められないんですよね」とのこと。


 やはり勇者学園こんなところに通う人間は、どこかまともではないのかもしれない。



「う、うん。確かに読んだけど」



 目を擦りながらのその回答に、ユーシャは手応えを感じる。



「なら俺に、封印を解く方法を教えてくれ」






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 小さな足の甲が、こめかみへと入る。


 その筋肉のないしなやかな足からは想像できない威力が走り、ユーシャの体は大きく仰反る。



「貴様はッ──」



 すかさず追撃が入り、次は脇腹を強打する。


 呼気が肺から漏れ出し、瞬間的に息ができなくなる。



「それをッ──」



 しかし、ユーシャも柔な鍛え方はしていない。漏れた息を無理矢理噛み締め、踏み止──、



「───ッッッ」



 だがそこへ、寸分の──一瞬の間も置かぬ突きがユーシャの腹部中央へとめり込まれる。二撃目まではなんとか耐えていたユーシャの膝は地面を触れる。



「──知っていたのか! ずっと……。知っていて、我を嘲笑っていたのか! このような所に閉じ込められ、虚しく時を浪費する我を……貴様らは嘲笑っていたのかッ!!」



 返事はない。崩れたユーシャは視界を伏せたまま、動かない。



「……ッ。我が間違っていたようだ。長年の幽閉生活で我も歳を取ったとみえる。人の子相手に見込みがあるなどと甘い考えを……」



 頭を振って、背を向ける。



「マロン。さっさと其奴を追い出せ。このようなゴミの顔を見ていては、我も死ぬに死ねぬわ」


「よろしいのですか?」


「二度は言わぬ。さっさと其奴を外へ──



「嗤いなど、しない」



 体を起こすことも出来ぬユーシャは、しかし魔王の足首を掴んで訴える。



「……貴様ッ」


「嗤うわけがない。お前が笑っていないのに、俺が笑えるわけ……ない」


「ッ……」



 思わず、言葉に詰まってしまう。それほどまでに、今直視した少年の瞳は真っ直ぐで、それでいて力強くあった。


 これほどまでに、か弱く脆弱な人間の癖に。


 まるで、あの時の……自分を閉じ込めた、あの勇者のように。


 だからこそ、腹が立った。



「だから何だと言うのだ! 貴様が誰を嗤おうと、我が何を嗤おうと、元より貴様には関係のない話だ! 人間であり勇者である貴様などにッ!」


「関係なんて知らない。関係がないというのなら、今からそれを作ればいい。それでお前を救えるのなら、俺は何だってやってやる。命を賭して戦うことも、悪魔に魂だって売ってやる。だから魔王、もう一度、俺と外の世界へ来い」


「ッ…………」



 逃げてやろうと、何度も思った。


 やりたいことも、やらなければいけないことも、たくさんあった。


 だからこんな塔すぐに壊してやろうと、そう考えていた。


 だが無理だった。この塔は壊せなかった。


 まず魔力が封じられている。この塔と学園にはわたしの魔力を封じる封印が施されている。魔法も魔術も、わたしが魔力を介して扱う全ての事柄が不可能となっていた。


 だがそれはいい。魔王を相手に魔力を野放しにしているなど、あり得ないことだ。


 だからわたしは次に、己の力のみで塔を破壊しようとした。だが駄目だった。この塔はそもそも、わたしの力では破壊できないよう魔法が施されていたのだ。


 高度な魔法だ。扱える者は少なく、解く方法も限られている。おそらく、勇者の仲間の誰かが勇者の魔力を介して施したのだろう。ならば解くためには術者か、もしくは勇者本人でないと不可能だ。


 すぐに出れぬとわかったわたしは、いつか訪れるであろうその隙を伺い、そして数年が過ぎ──、



『行方不明?』



 わたしを封印し、『勇者姫』として称えられるようになった女のその後を聞いて、わたしはついに、ここを出ることを諦めた。



「俺は『勇者姫』の息子だ。俺の血があれば、お前をここから出してやれるかもしれない」



 確かに、そうだ。魔法は、ものによって術者が死んでも残り続けるものが存在する。そういった場合用いられるのが、術者の血液などの遺伝子情報だ。正攻法の解呪が効かない魔法などには、外法ではあるが術者の死体などが用いられることがままにある。しかし死体すらも消滅している場合には、術者の子孫などの血縁の肉体を用いることで解呪に成功した例も存在する。


 だがそれは、決して簡単なことではない。本来は解くことの出来ぬ封印を、他者を媒介に無理矢理解こうというのだ。封印の強度は術の難度と、術者の実力次第で大きく変わる。そしてこれを施したのは勇者の仲間と勇者姫自身。魔王を除けば、最高強度の封印だろう。そんな封印を解くのに、ただの血液だけで済むわけがない。下手をすれば魔力全て、最悪命はおろか魂さえも捧げねばならないかもしれない。


 つまり、この少年はそうしろと……自分の身全てを捧げると、そう言っているのだ。



「何故だ……」



 わからなかった。



「何故、貴様はそこまでする。何故、貴様はそこまでできる。我とお前は会ったばかりなのだぞ。それに……」



 知らずうちに体は地面へへたり込み、冷たい床が腿を撫でる。それでも、それでも魔王は問うことを止められない。止めることなどできはしない。



「それに、我は魔王なのだぞ。お前たちとは違う悪魔で、この地上を貴様ら人間から奪おうとしているのだぞ。なのに何故、お前はそこまでわたしに尽くそうとする。お前の母とわたしは、宿敵なのだぞ」



 魔王と呼ぶには小さすぎるその手が、ユーシャの服の裾を小さく掴む。さきほどまでユーシャを圧倒していたとは思えない、それは弱々しい手だった。


 そんな小さな手を、ユーシャはそっと握り返す。



「そんなことは関係ない。俺の母親が勇者姫で、お前とどんな関係にあったかなんて、そんなこと俺にはどうだっていい話だ。俺はお前と母親の関係を継続させたいんじゃない。俺は魔王、お前自身と新しい関係を結びたいんだ」



 握られたユーシャの手に、少しだけ力が込められた気がする。



「それは……それはお前が、わたしを囚われの姫だと勘違いしたからだろう」


「きっかけは、確かにそうだ。俺の目標は、囚われの姫を魔王から救うこと。それは今でも変わってはいない。だけど違う。俺は囚われの姫であるお前を、魔王であるお前から救いたい。魔王というお前自身に囚われた、お前を」



 二人の瞳は見つめ合い、握られた手はさらに力を込められる。


 端から見れば、それは愛の告白だったかもしれない。


 だが、このユーシャという少年には、そんな浮ついた考えなど微塵もありはしない。それを魔王は理解して、この数日間で嫌と言うほど思い知って、思わずクスリと笑う。



「なんだそれは」



 今まで殺意も愛も、等しい数だけこの身に受けてきたつもりだった。だがこのような不思議な感情を向けられたのは、この長い永い人生で初めてのことだった。


 愛でも、情でも、ましてや殺意とも違う。そんなよくわからない感情を向けられたのは、今が初めてだ。


 それが、つい可笑しく思えてしまって。ついつい、笑ってしまった。



「はは……」



 そしてまた、知らなかったことがあった。


 笑っても、涙とは出るものなのだということを。


 いくら長生きをしていても、知らないことばかりが増えていく。


 そんなことを、久しぶりに思い知らされた気がした。



「魔王」



 そしてそんな魔王の目元を、ユーシャがもう片方の手で拭う。


 少しばかり乱暴なその拭い方に、魔王は仕方ないと眉を寄せるが、今はむしろ心地いい。



「俺にお前を、救わせてくれ」



 ユーシャは立ち上がり、一度離れたその手をもう一度魔王へと差し出す。


 差し出された手を見つめ、次にユーシャの顔を見る。


 誰かに縋るなんてこと、これまでの人生には決してなかった。物心ついた時から何でもできた。大家たいかの娘として生まれ、何不自由なく暮らし、恵まれた才を磨き生きてきた。それでなんでもできた。


 ただ一度、勇者という壁に阻まれるまでは。


 そして諦めた。


 乗り越えられぬと、一人ではどうにも出来ぬと知った時、自分はあっさりと諦めた。自分自身を。


 だがこの少年は、一人で出来ぬのなら自分に掴まれと、そう言ってくる。


 いいのだろうか。縋っても。

 いいのだろうか。頼ってしまっても。


 魔王でも悪魔でも、勇者ですらないただの人間の少年に。


 この暖かそうな手を握ってしまっても、いいのだろうか。



 それで自分は本当に、救われるのだろうか。


 ただ。ただ思う。


 たとえ嘘だとして。たとえ救いなどなかったとしても、その手をとってみたいと。

 ほんの少しだけ、そんなことを思ってしまう。


 ならば。


 いいのかもしれない。どうせもうすぐ死ぬ命。死に際のほんの些細な戯れに、その手をとってしまっても。死ぬ前にほんのささやかな夢など見てしまっても。


 いいのかも、しれないな。



「───あ、」




 パン、パン、パン────。




 唐突に、そんな渇いた音が聞こえて二人は動きを止める。


 誰かが手を叩くような音。そんな音が、部屋の入り口の方から聞こえてくる。



「いや〜〜、実に泣けるねぇ」


「お前は──」



 そこにいた男の顔に、ユーシャは覚えがある。



「お前じゃない。『先生』、だろうが問題児。まったく、貴様の担任は口の聞き方もまともに教えていないと見える」



 そこにいたのは入学翌日、魔王の塔からユーシャを連行した体育教師だった。



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