28 凪良家
茜色の西日が差し込む和室の中、異質な存在感を放つ大きな電動ベッドの側の椅子に腰をかけ、架美来はそこに横たわる女性へと静かに視線を落とした。
腰ほどまで艶やかに伸びる長い黒髪。
斜陽に照らされて輝く黄金の肌膚。
目鼻立ちの整った容姿――。
瞼を閉じ、静かに眠るその顔貌だけを一目すれば、誰もが御伽話の眠り姫のようだと称するだろう。
しかし、その下のかけ布団からのぞく手足と胴体の頑丈な拘束具、そしてベッドやその床に無数に貼り付けられた呪符はその美麗さとはまるでかけ離れた、無骨な印象を容赦なく振り撒いていた。
丸四年も眠り続け、身と心をこの家に束縛されている。
これこそが、現当主であり架美来の母、伊佐美のありのままの姿。
そしてこの先も永久に変わることはないだろう、架美来の置かれた現実だった。
「来ていたのかい、架美来」
背後からやってきた着物姿の男が、架美来に声をかける。男に気づくと、架美来は「
正絹の茶の羽織を纏う骨ばった細身。黒ぶちの丸眼鏡からのぞく深黒の双眸は、男の視る景色の全てに彩りが失われているような深い翳りが渦巻いている。
「ここ数日は伊佐美の調子が良くてね。今日もよく、眠っているよ」
「うん、そっか」
「会からまた新しい依頼を受けたのかい。陽満から連絡が来たよ」
「まあね。でも今度は間違いなく大物だ。これで前にパーになった分も少しは取り返せるかもしれない」
「断ってもいいんだよ。怪我もきちんと治ってないだろう」
「へーきへーき。
そう軽く笑う架美来に、正吉の表情がわずかに曇る。平気だと言う架美来の顔や手足には、未だ真新しいガーゼや包帯が巻かれている。
「何度も言っているが、今そこまで無理する必要はないんだよ。君達が生活できる分の蓄えはある。見習いの君が、青葉ヶ山まで出向してわざわざ危険な依頼を受けなくていいんじゃないのかい」
「
粛々と言う架美来に、正吉は黙り込んでしまった。
防人として求められる事の多い祓師は、栄枯盛衰の激しい業界である。
魔が物狩りの一戦で稼ぎを得る一方、討伐には常に危険が伴い、協力体制を築くどころか同業者潰しも平然と行われるのがこの業界だ。ゆえに当主の力を知らしめ続けることこそが、家を守ると言っても過言ではない。
しかし、凪良の血を全く引かぬ身分の低い正吉ではこの家の当主代理に成り変わるばかりか、本来は足を踏み入れる事すら許されないだろう。しかし近親者がこの世にいない彼女と、この家を守っていくためには、この歪な体制を甘んじて受け入れる事が皮肉にも最良の選択だった。
「……頼りない伯父で、すまない」
項垂れる正吉に「なーに言ってんの」と眉尻を下げて微笑した。
「伯父さんには感謝してもしきれないよ。本契約は
「君も伊佐美も、僕を随分と買い被りすぎだ。僕は、僕のできる最低限の事をしているに過ぎない。君達を守る事もできない、ただの臆病者さ」
唇に冷笑を浮かべて自嘲する正吉に小さく「違うよ。伯父さんは、良い人だよ」と返す。しかし返事はない。
「とにかく俺の事は大丈夫。鬼丸もフウカもいるし何とかなるって。あ、そうだ、伯父さん。依頼の申請書、すぐ確認してほしくて。今日中に準備進めたいから」
ベッドを挟んだ深い沈黙が落ちる手前で、大袈裟に弾んだ声を出す。わざとらしいな。そう心の中で架美来は自嘲したが、正吉は首肯して「一通り目を通しておくから、先に八雲に会っておいで。そのケーキの箱、八雲のだろう」と、膝に置かれた小箱をおもむろに指差した。
「バレてたか」
「野暮な事は言わないさ。ただ、紅羽にだけは見つからないようにね」
「ありがと、伯父さん」
嬉しそうに礼を言うと、正吉は今日はじめての笑みを架美来に向けた。
母屋の庭に広がる竹林の小道に入り、軽快な足どりで歩いていく。口の端を柔らかく上げて、ケーキ箱を大事に両手で抱える架美来の姿は、誰が見ても嬉しさに胸を躍らせる普通の子供だろう。
裏世界では、とある意味で傑出した祓師の一族として知られる凪良家。
先祖代々、数百年と絶える事なく防人の血筋を引き継ぎ暗躍する一家の分家であるここでも、広壮な土地と荘厳な屋敷が豪傑たる歴史と風格を感じることができる。
しかし、そんな
母屋から少し離れた竹林の中の道を歩き、草木のアーチを潜り抜け、幾重にも重なった結界を通り抜ける事でようやく辿り着くことができる。もしも客人が誤って足を踏み入れれば二度と出ることは叶わない迷路であっても、架美来なら目を瞑ってでも歩ける。
それも当然だ。青葉ヶ山に出向するまでは、四年もの間ほとんど毎日通い詰めていた場所で、そして架美来にとって唯一の憩いの場なのだ。
草木の茂る道を数分程歩き、架美来の目にようやく離れが見えた。
広々とした立派な母屋とは異なり、離れは小さな茅葺の粗末な庵室だ。
それに加え、出入り口以外の全ての窓や戸障子は固く閉ざされ、その上から伊佐美と同じ夥しい呪符が庵室の至る所に貼り付けられている。
その外観は不気味さを通り越し、もはや怖気立つ見た目をしているが、架美来にとってはただの見慣れた小屋でしかない。
小屋へ向かう途中で、ちょうど誰かが一礼をして玄関扉から出ていく所に出くわした。
紺の着物の上に、白い割烹着姿の麗人。
丁寧な所作を一見すれば、切れ長の目元が特徴的な女中に思えるが、その頭部には鬼丸と同じように折れた角が一本生えていた。「紅羽……」噂をすればとはよく言ったものだ。咄嗟にケーキ箱を後ろに隠すやいなや「あら、架美来様」とその女中――紅羽が架美来の方へとやってきた。
「こちらに来ておいででしたのね。まさか、またお怪我をされたとか」
「ちがうから。新規依頼が入ったから報告に来ただけ」
「それならば良いですが、架美来様はもっと御身体を大事になすって下さいまし。私どもで治療は施せますけども、当主代理が毎度あのような負傷をして万が一身に障りなどあったら大事ですからね」
「はいはい。俺の事はいいから、八雲は?」
口煩いお説教が始まる前に強引に話題を変える。
珍重な鬼丸とは違い、お節介焼きでよく口の回る紅羽の小言はうんざりする程に長いのだ。
「お変わりはありませんよ。今日も普段通り勉学に励まれております」
「頑張ってるんだ、八雲」
「ええ。最近は特に努めていらっしゃいますの。姉君に引けを取らないように、と」
徐に庵室の方へ目を向ける紅羽につられて、架美来も同じ場所へ視線を移す。愁然とした眼差しと風音だけが二人の間に流れる。
遣る瀬のない沈黙の後、紅羽はふっと庵室から視線を外し「私はお夜食の支度がございますので、こちらで」と言った。
「架美来様は、今日は此方でお召し上がりに?」
「いいや、あっちで食べる。フウカが作ってくれてるから」
「承知しましたわ。では、また何れかに」
小さく一礼をし、紅羽が架美来の前から立ち去る直前。
「胸中お察し致しますが、八雲様のご自愛を願うなら程々にしてくださいましね」
すれ違いざまに後ろ手に隠した小箱を紅羽が鋭く射る。
結局バレバレか。
ま、没収されなかっただけマシか。
音を立てずに立ち去る紅羽の背を見送って、架美来は庵室へと入った。
玄関を入ってすぐ正面にある一室。
ベッドや、デスクトップパソコンとモニターが置かれた作業用デスクが敷き詰められた、わずか六畳ほどの小部屋に居たのは、ベッドの上で体育座りしながらスマートフォンを弄る一人の少年だった。
「八雲っ」
少年がヘッドホンを外し、スマートフォンから画面から視線を外す。
「……ねーちゃん」
ほとんど呟きに近い声で少年――八雲は返事をした。
架美来と同じ深い睛眸の、目元涼しい鼻筋の通った顔立ちだった。その栗色の髪の毛先は不自然に白く染まっている。
「これ、青葉ヶ山のケーキ。初めての店だから味は分かんねーけど、たぶんうまい」
「うん。ありがとう」
デスクの上に小箱を置くと、八雲は小さくうなずいて口の端をわずかに上げた。
八雲は昔から思っている事や感情を表現する事が人よりも得意ではない。
ゆえに他人からよく誤解をされてしまう事が多いのだが、架美来だけは八雲の考えている事が大抵理解できた。
今日のケーキを喜んでくれている事も手に取るように分かる。
「今日何やってた?」
「IoT開発入門のWEBスクーリング。今終わったから、ゲームしてた」
「あいおー……?」
「マイコンのプログラミング。デジカメとかリモコンとか、それで作る」
「ダメだ。さっぱりわからん」
ベッドに勢いよくダイブし、架美来は甘えたがりの猫のようにごろりと八雲の隣に寝転がった。
「ねーちゃんの方は? 青葉ヶ山はどうなの」
「超ド田舎。田んぼしかない。虫多い。カエルウザい。車出さなきゃコンビニにも行けねーの。オマケに歪みのヒドさがやべーから魔が物出まくりでさ。一周回って笑えんぞ、あの山」
「学校は? またケンカとかしてないよね」
「いつの話してんだって。ちゃーんと大人しく、適当にやってるって。あーでも、一人いるんだよなぁ、ムカつくエロ餓鬼」
「この前、神獣と和合したって人?」
「そうそう! アイツさぁー、俺が親切に忠告してやったのに考え無しに依頼受けて、結局なんもできなかったんだぞ? しかもあんだけ豪語してて和合もできねーし。一回どうにかなったぐらいでエラっそうに、バカなのか? バカなんだな。あー! あのアホヅラ思い出すだけでイライラする!」
ベッドの上で行儀悪く足を激しくバタつかせる架美来に、八雲がぽそりと「めずらしいな。ねーちゃんがそこまで言う人」と呟いた。
「えぇー?」
「うん。おれ、ねーちゃんの学校の人の話、初めて聞いた」
「そう、だっけ」
「そうだよ」
そうすぐに答えて八雲はスマートフォンに目を落としたまま、続けて言った。
「友達、つくりなよ。おれの事はいいから」
いつもと違う、すんなりと耳に入ってしまう、はっきりした声。
これも、分かる。
八雲が今、何を言いたいのか。
「んな事、言うなよ。俺は、八雲だけいればいい」
そう言って、架美来は八雲の身体を抱きしめた。
その拍子で架美来と共にベッドに倒れ込んだ八雲の体は、架美来よりも一回り小さく、体表に骨が浮き上がって見えるほど痩せ細っていた。
「俺、もっと稼ぐよ。大物狩って、狩って、狩りまくって。二人だけで一生暮らせる金、貯めとくから」
「稼いでも、家のお金になっちゃうよ」
「報酬全部バカ正直に入れてねーから。これでも結構貯金あるんだぞ」
これは、本当の事だ。
依頼の報酬とは別に、架美来は回収屋から貰える特別報酬を少しずつ貯めていた。
グレードの高い大物を狩れば狩るほど稼ぎは大きくなり、獲物から希少な素材を持っていれば特別報酬の額も跳ね上がる。
わざわざ青葉ヶ山までやって来たのは、ただ単に地位と名誉を守るためじゃない。
「八雲はさ、行けるならどこに行ってみたい?」
そう尋ねると、少し間を置いて「ウユニ塩湖、とか」と八雲は答えた。
「ボリビアだっけ。んじゃ、最初はそこに行こうか。金が貯まったらこの家を出て、ボリビア行って……南米ならブラジル観光もいいな。そのまま世界一周とかしちゃってさ。いい場所があったらそこで暮らそうか。二人だけで、誰もいない、誰も俺たちを知らない静かなところで、ずっと」
目をつぶって、頭に描いていた未来を言葉にする度に抱え切れない程の思いがさらに膨らんでいく。
たかが子供の空想と馬鹿にされるような夢だ。
それでも叶えなければいけない。
四年前の事故から、この粗末な庵室に閉じ込められている八雲を自由にする。
その願いの成就こそが架美来の真の希望で、そして自らの生きる意味だった。
「姉ちゃんさ、もっと頑張るから。だから、待っててよ」
自分の身体に顔を埋め、強く抱きしめる架美来に、八雲は長い間を置いて「……うん」と小さくうなずいた。
窮屈な檻の中で身を寄せる哀切な二人の時間は、ただ
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次回、白光の焔 第29話の更新日は【11/23(土)】です。
どうぞお楽しみに!
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