第二幕 『指先に宿る真実』

「あのときは本当に最悪だった。飲み屋でお前は飲みつぶれたあげく、たまたま隣にいた知らない奴らに丁半賭博を持ちかけて……一文無しになったときは置いていこうと思ったよ」


「でも和冴が連勝して取り返してくれたよね。本当に嬉しかった」


 東雲に扮した赤月がにんまりと唇に弧を描くと、和冴は心底嫌そうに顔をしかめた。


「もしかして照れているの?」


「チィッ」


 和冴が盛大な舌打ちをした。男二人に挟まれ下を向いていた千景は思い切り肩を揺らす。


(ひぃっ……!)


 和冴が人に気を許している姿など見たことがない上に、赤月の怖いもの知らずな発言が怖い。どうしてこんなに恐ろしい人に「照れているの?」と聞けるのか。


「すまない、驚かせたな」


 気付けば和冴が心配そうに眉根を寄せ、千景を見下ろしていた。


(普段のわたくしに対する態度と違い過ぎませんか⁉)


 それを顔に出すわけにはいかないため、やんわりと苦笑する。


「いえ、お気になさらず」


「いやいや、気にするって。妹を脅すなよ。車から降ろすぞ。どこまで付いてくるつもりだよ」


「お、お兄さま!」


 笑顔で毒を吐く赤月の服の裾を掴んでたしなめると、和冴は重々しいため息をつく。


「お前、どうせ実家に帰らずにいつものホテルにいるのだろう? 本庁に近いからそこから歩いて帰る」


「刑事さんが一緒だと心強いけど。狭い車内は苦手なんだよね。どうして助手席に乗らなかったの?」


「……別にいいだろう」


「どうせ俺になにか伝えたくて、ちひろの存在に目もくれず、勢い任せに乗ってきたのだろう」


「うるさい!」


 大きな声に、千景がつい表情を引きつらせると、和冴は片手で顔を覆う。


「……不注意だったのは認めよう。でもお前、そんなに過保護で大丈夫なのか?」


 彼の問いに、赤月は考えをめぐらすように視線を逸らす。


「愛おしいと思うからこそ、そばで守ってやりたくなるものだろう?」


「は?」


 呆れ声を出した和冴に向けて、赤月が目を細める。


「和冴も昔はこう言っていたよね。確か、自分の婚約者はほかに頼れる者がいないから守ってやるんだって」


 その言葉を聞いて、千景は絶句する。


(――なによ、それ)


 千景は膝上でぐっと拳を握り締める。


(守ってやる、ですって?)


 外面がいいだけの安い台詞だ。彼がこんなにも軽薄な人だとは知らなかった。


 せっかくだから面を拝んでやろうと顔を上げたとき、千景は目を見開く。


(なぜ心を傷つけられたような、泣きそうな顔をしているの?)


 和冴は眉間にしわを寄せ、目を伏せていた。


「……そんなことを言った覚えはない」


「そう? でも侑希子さまから聞いたけど、森島千景さんは風邪をこじらせて療養中なのだろう? 早く帰ってあげないと」


「…………ああ」


 和冴はそれっきりなにも言わなかったが、わずかに唇が動いた。


『今日、現れると思っていたんだけどね』


 千景は帽子を深々とかぶりなおしてから顔をこわばらせる。


(まさか、わたくしを探していたの?)


 やがて車はとあるホテルのエントランス前で停まる。


 重々しい空気を破ったのは和冴だった。


「明日の十四時過ぎに、ここのラウンジに向かう。今回の出来事についてお前の見解を聞きたい」


「もちろん、いいよ」


「できればちひろさんからも当時の状況を聞きたい。堅苦しい事情聴取にならないよう努めるから……協力してもらえるだろうか?」


 和冴にじっと見つめられ、千景は今日初めて彼の目を真っすぐと見つめる。


「わかりました」



◆◆◆◆◇


 千景は赤月の後ろにぴったりとついてホテルの中を歩く。


 これ以上なにも考えたくなくて終始うつむいていたが、ほこりひとつない深紅の絨毯や、遠くのほうから華やかな音楽が聞こえてくることから、庶民が気軽に泊まれるところではないと感じ取った。


「ここが俺たちの部屋だ」


 そういって赤月が扉を開けたとき、千景は真顔のまま顔を上げ、彼を押し込むように部屋に入ると、勢いのまま両手で背広服の襟を掴む。


「和冴さまと知り合いとはどういうことですか」


 千景は自分でも驚くほどの低い声が出た。そのことに動揺しながらも、問い詰める。


「なにが目的でわたくしに近付いたのですか? 前にも言いましたが、わたくしは緒方家にとって価値のない人間なのです!」


 自分で自分の首を絞めるような言葉しか出てこないことに、千景は段々と胸が苦しくなってきて、両手が震えはじめる。


 まるで、緒方家から逃げ出したあの日と同じような痛みが身を貫く。


 千景は目を閉じて歯を食いしばると、喉奥から悲痛な言葉を絞り出す。


「どうしてあのとき、わたくしに傘をかざしてくれたのですか……!」


 赤月がずぶぬれの千景の存在に気づかなければ、最悪な場合、人さらいの手によってどこかへ売り飛ばされ、もっと悲惨な目に合っていたのかもしれない。


 彼はわけありの悪党だが、千景を一人の人間として尊重してくれた。そのことには感謝している。


(和冴さまと大学の同期というなら、当時からいとこのわたくしのことも知っていたはず)


 千景はそう考えてから、声にならない叫びを上げる。


(――ああ、だからこそ箱庭で生きる者同士、仲良くしようと言ったのね)


 赤月は千景の境遇になにかを見出したから近づいたのか。もしかしたら今までの優しさは打算的なものだったのかもしれない。


(わたくしは馬鹿だわ。勝手に彼の優しさを信じて、勝手に期待してしまって、勝手に裏切られた気分になって。こうして八つ当たりをしているのだもの)


 いつまで経っても赤月の返答はない。千景が自嘲するように唇を歪めたとき、彼は口を開く。


「俺が君に傘をかざしたのは……」


 彼は一度、言葉を途切れさせたあと、意を決したように続ける。


「君が、助けを求めていたから」


「!」


 千景は一瞬だけ目を見開き、体の力を抜くように膝から崩れ落ちる。


(どうしてあなたはわたくしの存在に気づいたの?)


 もう惨めな想いはしたくないのに、双眸から涙があふれて止まらない。


 喉の奥が焼けるように熱くなり、嗚咽を押し堪えるためにうつむくと、赤月が千景の身を隠すようにすっぽりと覆った。


「今日はいろんなことが起きて、たくさん気を遣って疲れたよな」


 優しい手つきで背中を撫でられ、千景は身を強張らせながらも、彼の鼓動に耳を傾ける。


「それに危険な目に会わせてしまった。ごめんな」


 違う、彼のせいではない。その想いを込めて、小さく首を横に振ると、一段と抱きしめられる。


「お詫びと言ってはなんだが、君の知りたいことをひとつだけ答えよう」


「……え」


 千景は頬を涙で濡らし、真っ赤になった瞳で赤月を見つめる。


「嘘偽りなく、真実だけを君に」


 彼は目を細めて、口角を上げていた。


(この人は――なんて残酷な提案をするの)


 白浪一族のこと、アーティファクトのこと、赤月と和冴の関係、どうして千景に近付いたのかなど、聞きたいことはたくさんある。


 だが、いま脳裏に浮かんだのは、最も素朴で単純なことだった。


「あなたの本名が知りたいです」


「……!」


 赤月は表情が抜け落ちたように真顔になった。


「そんなのを知ってどうする」


 彼の声が心なしか震えていた。千景は小首を傾げる。


「駄目なのですか?」


「駄目ではないが……君になんの利益があるんだ」


 利益か、と千景は言葉を舌の上で転がす。


「そんなものはありませんが……現実味のない出来事ばかりでしたから、あなたが一人の人間であることくらい、実感したくて」


 東雲京介でもなく、赤月でもなく、ただ目の前にいる人物の正体を知りたい。ただそれだけだった。


 真っすぐと赤月の目を射抜くと、彼は戸惑った顔をしながら口を開く。


「俺は名を変えながら生きてきた。は、死亡扱いとなっている。それでもか?」


「はい」


 はっきりと告げると、赤月は無表情のまま目を伏せる。


「わかった。手を貸してくれ」


 千景が右手を差し出すと、赤月がそれを左手で受け取り、自身の右手の指先で文字を描く。


『綾』『木』『雅』『鷹』


 彼の指先は震えていたが、確かにこう書かれていた。


「あやきまさたか。これが生まれたときの名だ」


 視線が交差し、千景はあることに気づく。


 彼の黒い瞳孔にわずかに青が混ざっている。

 まるで陽が沈んだ空のように昏い色だ。


 しばらくして、赤月は千景から手を離した。


 千景は自分の右手をじっと見つめてから、手のひらに残る指先の温もりをなぞる。


「あなたらしい名前ですね」

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