第二幕 『心まで盗む泥棒』
「誠一郎さま!」
すぐに侑希子が立ち上がって彼に近寄り、目に涙をにじませる。
「無理しないでください。早くこちらに座って」
「心配かけたな、侑希子。私は無事だ」
そういって誠一郎は侑希子の肩に触れた。すると花岡男爵も息子を気にかける。
「本当に大丈夫なのか」
「傷口は痛みますがこの通りです」
誠一郎はえくぼをつくりながら微笑し、侑希子と共にソファに座った。
(ひとまずご無事でよかったわ……)
千景はほっと胸を撫でおろす。しかし、和冴だけは気を緩めない。
「誠一郎さま、犯人が窓の外から逃げたとおっしゃられましたが、あなたは先ほど殴られたときの記憶が曖昧だと我々に説明していましたよね? どういうことでしょうか?」
和冴の厳しい追及に、誠一郎は一度だけ口をつぐんだあと、膝上で拳を握りながら告げる。
「人が逃げていく足音がした」
誰もが息を呑み、誠一郎の言葉に耳を傾ける。
「二階には各部屋にサンルームかベランダがあるが、私と侑希子の部屋のベランダだけが屋敷の裏手に位置する。しかも近くに幹が太い木があるから逃げるのには最適だ」
「……人が逃げていく足音は、東雲さんの可能性もありますが」
「すまない。そこまではわからない。ただ、私の頭を殴った犯人からはどうも殺意が感じられなかった」
誠一郎はそう言い終えたあと、控えめな声で「お父さま」と呼ぶ。
「なんだ」
「なにか盗まれているものはありませんか?」
「む?」
◆◆◆◆◇
しばらくして、花岡男爵の叫び声が屋敷中にこだまする。
「む、村正の短刀がない‼」
その声は離れにいた千景たちの耳にも届いた。
千景は赤月を見上げると、彼は緊迫感を漂わせ一段と険しい顔つきとなっていた。
(白浪一族は不必要な盗みはしないわ。となると、別の泥棒が園遊会に忍んでいたというの?)
それにしては、誰かに状況を引っ掻き回されている気がする。
花岡男爵は警察官に両肩を支えられ、再び離れの部屋に戻ってくると、膝から崩れた。
「……短刀が二階の保管部屋から盗まれておったわ」
白い眉をこれでもかと垂れ下げると、誠一郎が小首を傾げる。
「村正の短刀……? 確か、お父さまが一階の鑑賞部屋の目立つところに置いていましたね。どうして二階の保管部屋に?」
「今朝、鈴蘭の花瓶と入れ替えたのだ! このことを知っているのは屋敷の中にいる者だけになる!」
彼は鷲のように鋭い目つきで周囲を見回し、威嚇する。三人の使用人などすくみ上って声を出せずにいた。
花岡男爵の目が、侑希子の姿を捉えて止まる。『やはり旗本を引き入れるべきではなかったか』とでも言いたげに睨んでいた。
(……いまの話をまとめると、事件は誠一郎さまを狙った殺人未遂ではなくて、短刀を盗んだ泥棒が、誠一郎さまの部屋から逃げようとしたときに、本人と鉢合わせして殴ったということなの?)
誠一郎はため息をつくと、和冴と向き合う。
「刑事さん、どうやら犯人は泥棒のようだ」
「……泥棒ですか。もしもそうなら、相手はただの泥棒ではないのかもしれませんね。例えば、白浪一族とか」
千景は目を見開いて、肩を揺らす。なぜ黄蝶が白浪一族のことをわざわざ口に出すのか。
ふと嫌な視線を感じて顔を上げてから、いま一度肩を揺らす。和冴と目が合った。
「おや、あなたはどこかで白浪一族という言葉を聞いたことがあるのかな?」
ハッとして周囲を見回すと、侑希子が「白浪とは歌舞伎の?」と言い、誠一郎が「一族とはどういうことなのだ?」と困惑していた。
(しまった。普通なら歌舞伎のほうを連想するはずなのに……! あら、ちょっと待って……この感じ、黄蝶さまではない……?)
顔を引きつらせると、赤月が千景を庇うように前に出た。
「俺が白浪一族のことを話したんだ。美術商の界隈ではわりと有名だからね」
張りのある声に、誰もが不思議と赤月の言葉に聞き入る。
「歌舞伎の名を汚す正体不明の泥棒たちが狙うのは、名のある秘宝ではなく、名のない西洋美術品ばかりでね。その厳選基準がわからないからこそ、我々の中でも危機感を募らせているんだよ」
「ああ、それならわしも聞いたことがある」
すると花岡男爵が顔を上げた。
「確か『心まで盗む泥棒』だというではないか」
「お父さま、心まで盗む泥棒とはどういう意味ですか?」
誠一郎の問いに、花岡男爵はその場に胡坐をかきながら答える。
「白浪一族に宝を盗まれたら、その宝に対する感心を失うのだ。だがわしの短刀に対する関心は失っておらん。おい、緒方の息子よ。必ず犯人を捕まえろ」
「もちろんです」
和冴が笑みを浮かべてきっぱりと言い切ると、赤月が白々しく呟く。
「でも不思議だよね。白浪一族は人を傷つけたりすることはないはずだけど」
「だからなんだ。悪党であることには変わりない」
和冴は先ほどとは打って変わって、荒々しく吐き捨てた。
◆◆◆◆◇
事情聴取が終わった頃には、日が傾いていた。
園遊会に参加していた来賓たちは、ほかの刑事たちから事情の説明を受けて、すでに帰路についていた。
千景たちの事情聴取が行われた離れの扉もようやく開け放たれ、冷ややかな空気が部屋に流れ込む。
「ちひろ、俺たちも帰ろう」
赤月に背中を押されて、千景はゆっくりと歩き出す。
「東雲さま」
不意に誠一郎から呼び止められた。振り返ると、彼は侑希子と寄り添いながら微笑んでいる。
「お二人のおかげで事なきを得ました」
「ぜひ近いうちにお礼をさせてください」
「お気遣いなく。礼には及びませんよ」
赤月がやんわりと告げると、侑希子が一歩前に出て、千景の顔を覗き込む。
「ねえ、ちひろさん。餡蜜はお好きかしら?」
「す、好きです」
「アイスクリンが入った餡蜜屋さんを知っているのだけれど、一緒にどうかしら?」
帝都の餡蜜屋の中でアイスクリンが入ったお店はひとつしかない。そこは女学生だったときに、侑希子とよく足を運んでいたお店だった。
(ど、どうすればいいの⁉)
千景は視線を彷徨わせてから赤月を見上げると、彼は千景の肩を抱いて頷く。
「ご厚意に甘えて、ご一緒させていただこうか」
「では改めてご連絡いたします」
誠一郎が頷くと、赤月は「ああ、それならこちらに一報を入れていただいてもよろしいですか?」と連絡先を教える。
そのとき、扉から二人の男女が飛び込んで来た。
「侑希子! 大丈夫か!」
「誠一郎さまはお怪我で済んだの⁉」
侑希子の両親だった。彼らは扉の向こう側でずっと待機していたようで、愛娘に抱きつく。
千景はそれを見て、ほっと一息ついた。
(とんでもない一日でしたけれど、大事にはならなくて本当によかったわ)
あとはもうひとつの危機を乗り切ればいいのか。
赤月と共に屋敷の廊下を歩いて玄関に向かおうとしたとき、背後から和冴が堂々と後ろに続いた。
玄関先には黒塗りの車が停まっていた。花岡家が千景たちのために用意してくれたタクシーらしい。赤月と千景が乗り込むと、なんと和冴まで後部座席に乗り込んでくる。
(せ、狭い……!)
千景は帽子を深々とかぶり直して肩を丸めていると、赤月が苦笑しながら告げる。
「狭いよ、刑事さん。どこまでついてくるつもりかな?」
「途中で降りる。出してくれ」
和冴は運転手にぶっきらぼうに告げると、腕を組む。ただでさえ窮屈なのに、彼はなにを考えているのか。
(黄蝶さまなの? 和冴さまなの? どちらなの⁉)
千景が顔を青ざめさせたり、真顔になったりを繰り返していると、ふっと和冴が笑みをこぼす。
「そろそろいいな。やあ、京介。相変わらず厄介ごとに巻き込まれているとは、恐れ入ったよ」
「久しぶりだね、和冴。おかげさまでね。でも和冴がいるなら心強いよ」
なんと二人は千景の目の前で握手を交わした。
(え……⁉)
目を白黒して握手を凝視している千景に対し、和冴は柔和な笑みを浮かべる。
「驚かせてすまない。実はあなたのお兄さんとは大学時代の同期でね。それを花岡家の者に悟られると、かえって京介の心象が悪くなるから黙っていたんだ」
和冴は帝国大学法学部出身だ。まさか赤月も同じとは。
いや、そんなことはいまはどうでもいい。
(ああ…………嘘。やっぱり――本人)
これほどまでに刺激的な一日は初めてだった。
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