蒼天繚乱ー荒波の如く。幕末の騒乱ー坂本龍馬と陸奥宗光

長尾龍虎

第1話 小説 蒼天繚乱ー荒波の如く。幕末の傑物ー坂本龍馬と陸奥宗光

 

小説 蒼天繚乱

―幕末の傑物 荒波の如くー

坂本龍馬と陸奥宗光

   天下を巻き込んだ野望と、維新の志士の執念の物語

そうてんりょうらん ばくまつのけつぶつ あらなみのごとく さかもとりょうまとむつむねみつ

                RYOUMA&MUTSU! 

   ~the top  samurai ~~大政奉還せよ! 龍馬と陸奥宗光の「日本再生論」。

             「薩長同盟」「名外相・陸奥宗光」はいかにしてなったか。~

                ノンフィクション小説

                 total-produced&PRESENTED&written by

                NAGAO Kagetora長尾 景虎


         this novel is a dramatic interoretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〝

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



          あらすじ


  黒船来航…

  幕末、龍馬は土佐(高知県)に生まれた。陸奥宗光は紀州(和歌山県)生まれだ。町人郷士の坂本八平直足の末っ子である。 龍馬は「坂本の仁王様」とあだ名される乙女姉にきたえられる。それから江戸に留学して知識を得た。勝海舟に弟子いりした坂本龍馬にとって当時の日本はいびつにみえた。龍馬は幕府を批判していく。だが龍馬は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。

 勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……

 龍馬は維新夜明け前に近江屋で暗殺されてしまう。墓には坂本龍馬とだけ掘られたという。やがて明治時代に募金によって高知県桂浜に龍馬の銅像がたてられた。外務省には陸奥宗光の銅像が建てられた。 おわり

               




         一 立志



 私長尾景虎の先祖・上杉鷲(わし)茂(もち)が、

その東京赤坂氷川の老人の豪邸に自転車で足しげく通うようになったのは、

明治時代も深まった頃だった。

帝大卒の上杉鷲茂は東京の新聞社勤務であったが、その老人の伝記を書くために通うようになっていた。白髪のひげ面の羊のような老人は小柄で瀟洒な家の、元・幕臣。名を勝安(かつやす)芳(よし)(勝海舟(かつかいしゅう))という。そう勝海舟、そのひとである。

「上杉さんよ、おいらのことを調べてどうするんでぃ?」

「先生の伝記本を書きます」

「それで? どこまで書いている?」

「まだ数ページ…です」

「ははは。おまえさんが書けなければ?」

「それなら遺書を書き、僕の子供、孫、ひ孫、玄孫…必ず完成させるよう遺書を書きます」

「数年後や十年後ならいいが、百年後なら遅いぜ」

上杉鷲茂は苦笑いした。海舟は「それよりも真の英雄西郷隆盛の伝記も書いているんだろう? だが、おいらの弟子の坂本龍馬と陸奥宗光こそ書くべきだな」

先祖は瀟洒な豪邸の居間で、海舟にいわれたという。

「ほう、〝維新回天〟の龍馬と陸奥宗光ですか。」

「そう。坂本龍馬と陸奥宗光、おいらの自慢の弟子だった、なあ。龍馬の伝記も書いてくれ。…懐かしいなあ。それにしても福澤の奴、俺や榎本釜次郎(榎本武揚)がどんどんと出世していくもんだから嫉妬してやがるんだぜ。馬鹿野郎ってんだ。〝やせがまんの説〟だのくだらねえ。本にする前に原稿掲載を許可してくれとさ。これが書類だ」

「あの慶應義塾の福澤先生が? で、この、福澤先生の〝やせがまんの説〟に勝安芳(勝海舟)先生は何と返します?」

勝海舟は笑って言ったという。

「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張!」

「ほう。…自分のことはいいから勝手に言っていろ、と?いいですねえ~」

勝海舟は縁側に歩き、蒼天を、遠くを見る目をして、

「…〝カミソリ外相〟陸奥宗光……龍馬、あの世で元気にしているか? …あの坂本龍馬の人生そのものが〝やせがまん〟の連続だったろうなあ」と語った。

 これからも坂本龍馬と陸奥宗光の人生を語ることとしよう。話を戻す。






 坂本龍馬より先に銅像になったのは陸奥宗光である。

 宗光の宝物は若き日の自分と海援隊たちとの石板画(白黒写真)………

 宗光と言えば『カミソリ外相』の言葉と行動。札付きの悪童だった陸奥宗光は幕末に活動し、明治新政府の幹部から外務大臣となり、外交に身を投じた。日本の国際外交の父である。

 陸奥の生家の門(門だけ残し保存管理されている)管領は、

「陸奥宗光は上級武士だったが、不良少年でした。〝不作法(不祥事)〟〝禁足(追放)〟……陸奥は仲間思いの熱血漢でした」とおっしゃる。





陸奥が、勝海舟(麟太郎、幕臣)を斬りにいったはいいが勝に看過され、勝海舟の弟子になり坂本龍馬とともに幕府海軍操練所に入ったという有名なエピソードのひとである。

亮子は陸奥陽之助(宗光)の二番目の婚約者であるが、実は龍馬暗殺のあと、しばらく陽之助はずっと未婚のまま……と考えられていたが嘘で、すぐに一般女性・蓮子と結婚をしている。二番目の妻が美貌でしられる亮子であり、現在のわれわれが見ても大変に美貌であり、美しい女性である。まるで女優の綾瀬はるかや皇族のような。わからないが。

本当は遊郭の元・芸子であるが、亮子は猛勉強した。語学が堪能で、美貌であり、礼儀正しい。

陸奥宗光は彼女に九十通もの手紙を送った。中には山形の監獄からの手紙もあったという。政府転覆を企てて、西郷らと呼応したが、バレて、監獄行き(懲役五年)となったのだった。

そこで監獄で猛勉強をして、のちの〝カミソリ外務大臣〝陸奥が誕生する。

陸奥宗光こと陽之助の上級武士の父親が、財政再建をはたしたが、藩のいざこざで失脚すると、陸奥家は没落……貧しい平民となり、身分が違う、とばかりに結婚話もなくなった。しかし、陽之助は亮子と恋仲になり、半ば駆け落ちの如く亮子と一緒になり江戸に出た。(事実は亮子は芸者の身分で陸奥陽之助と結婚した)

江戸で陽之助は偉い学者さんの弟子になり身を立てようとするが不祥事(女性関係・遊郭狂い)が元で破門された。陽之助は一計を講じた。

幕府の海軍操練所にはいり、某藩士や脱藩浪人らと一緒になって黒船で身を立てようとした。

陽之助はお殿様のような暮らしから、一介の浪人となり、生活のために学んだ。

貧しい平民に馬鹿にされる度に、みじめさ、が先に立つ。

自分は……侍・有名士族…であったのに。

すべては父親の失脚のせいだ。しかも、貧しい暮らしで、父親・母親まで病気で失う。

陽之助はすべての人生を、不幸を、恨んだ。

陸奥陽之助(宗光)は若い頃は自己中で我の強い若者であった。が、艱難辛苦の末にのちの坂本龍馬に「この国で(刀を二本腰に差さないでいいのは)おれと陸奥陽之助だけだ」という評価を受けている。ながく自己中が続いたが、その為の反発や失敗を〝バネにして〝彼は『孫子の兵法』『ストラテヒー(戦略)』『孔子の論語』などや最新の『交渉の深層心理学』などの書物から交渉を学んだ、という。

陸奥陽之助は大変な勉強家であったが、頭脳明晰で、記憶力がよく、外国語の才能もあった。だから、のちに〝カミソリ外相〝とよばれる名物外務大臣になるのである。

だが、彼は海援隊の仲間からは嫌われていて、龍馬の死後は、追放のような形で海援隊を離れている。だが、海援隊は坂本龍馬の死後数年で解隊になった。

晩年は「坂本龍馬は維新八策のときに西鄕隆盛に「わしは役人にならない。世界の海援隊でもやりますかいろうのぅ」といった。かっこよかった」という主旨の話を何度もいろいろなひとに回想して話した。だが、陸奥の創作の可能性が高いという。

晩年は「私利私欲にまみれた志の低い藩閥政治家ばかりだ。桂小五郎(木戸孝允)も西郷吉之助(隆盛)も大久保一蔵(利通)も高杉晋作もなにより坂本龍馬も志が高く清貧であった。世の中の評価はさておき、いまの政治家は拝金主義者や二世議員やただ有名なだけの無能ばかりである」と問題定義していて明治政府を憂いていた。

その陸奥が死んだとき、公家の西園寺(さいおんじ)公(きん)望(もち)は「とうとう陸奥宗光が冥土にいってしまった。他の藩閥政治家は叩いても死なないような輩ばかりだ。嘆かわしい。」

と、陸奥陽之助の死に、天を恨んだという。


陸奥宗光はのちの海援隊出身だが、その前身の幕府海軍操練所では、勉強ばかりしていて、剣術の修行をせず、先輩たちからからまれることも多かったという。

「陸奥、また勉強しとるだか?」

「お前は学があるからって剣術をせぬのは何事か。それでも武士か」

数人の練習生につるし上げられる。陸奥は「これから大事なのは剣術ではない。知識だ!」

というが、「なんだと? この! 武士をなめるな」と暴力を振るわれそうになる。

そこを止めたのが坂本龍馬だった。

「おんしら、やめや! いかんち」

不貞塾生たちを蹴散らす。竜馬は陸奥の頭脳をほめた。

「おまん、こげな難しい外国語の数学や化学の問題を全部解いたんか? すごいのう!」

坂本龍馬の陸奥宗光の評は、〝大変に頭がいい。大人物になるだろう〝『陸奥宗光伝』より。

陸奥は龍馬の〝右腕〝になった。

龍馬は陸奥に〝交渉術〝を教える。例えば、長崎の大富豪・大浦慶(おおうらけい)に海援隊に支援金をほしいとき、龍馬はハンサムな陸奥をお慶にあてがった。

「陸奥とば、いいますきに。お慶さん、頼んます」

「おお、いい男じゃなかと。気に入ったばい。さっそくお酌をしなされ」

「……ははあ。」

宗光は戸惑うしかない。

〝いろは丸事件〝では、徳川御三家の紀州藩に、『万国公法』を持ち出して、紀州藩に三万五千両もの賠償金を出させる。竜馬の交渉術は見事で、

「強いもんが必ず勝つもんじゃなかきに。弱いもんでも交渉術次第で勝てるんじゃ」という龍馬は、陸奥にはまぶしく見えたろう。

そんな龍馬が暗殺されたら、復讐を思った陸奥宗光は正常人といえるだろう。


陸奥宗光。陸奥(むつ) 宗光(むねみつ)(天保一五年七月七日(一八四四年八月二〇日) - 明治三〇年(一八九七年)八月二四日)は、日本の政治家、外交官、武士(紀州藩藩士)。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之(ようの)助(すけ)。

天保一五年(一八四四年)八月二〇日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上三丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛(うし)麿(まろ)。生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫である。伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が八歳のとき(一八五二年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。

若き日の陸奥宗光

安政五年(一八五八年)、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。

文久三年(一八六三年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応三年(一八六七年)には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。

龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志一五人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。



陸奥宗光、幼名、陽之(ようの)助(すけ)。

札付きの悪童だった。和歌山の城下でも、〝悪童〟で通っており、その少年時代は、のちに『カミソリ外相』といって喝采を浴び、遂には自由交渉や外交の祖となる知の巨人となる男とはとても思えない。

城下で悪辣な悪戯をしては、怒られた。だが、謝るでもなく、

「この、馬鹿野郎!」と逃げながら言うという悪童三昧である。

 洗濯物に、泥をぶつけたり、飼い犬を殴ったり、井戸に蛙を何匹もいれたり……

「また、馬鹿の仕業じゃ!」近所の人は激怒するが、相手は上級武士の息子である。腹は立つが、相手が悪い。

 陽之助の父親は、一度、正成は陽之助を殴ったことがある。

 あまりのことでの、折檻であったが、陽之助の悪戯は治らなかった。






 ――牛麿もかわいそうであったなあ。あれが悲憤するのも無理はない。まったく土佐守は鬼畜のようなやつだ。情け容赦もなくここまで痛みつけられたら、いつかは藩庁の奴ばらに復讐してやろうという気持ちがおこって、あたりまえじゃ――

小次郎(のちの陸奥陽之助・宗光)が、宗広失脚ののち味わってきた屈辱の生活は、復讐の念願を身内に深く根づかせることになった。

 坊(ぼ)ん坊(ぼ)んと呼ばれ、大勢の家来、女中にかしずかれ、九歳まで生きてきた小次郎は、厄介になっている農家の手伝いをした。草刈り、水汲み、牛を曳(ひ)く汗と埃(ほこり)にまみれた作業をいとわず、いくらかの賃金を得るためには、どのような仕事もする。

小次郎は、はたらきつつ胸中でひとつの言葉をくりかえす。

「おのれ水野土佐め。このままでは置かぬ。きっと仕返しをしてやるぞ。復讐だ。復讐だ」

まさに晴耕雨読の生活である。小次郎は夜更けまで学問を独学で学んだ。

陸奥と言えば「英会話」だが、これも死物狂いで身につけた「復讐のための道具」であった。そのさなかで高杉晋作や久坂玄瑞らが中心となって結成した御楯組(みたてぐみ)に参加した。御楯組の血判書には、攘夷を仰せだされた天皇の勅意を奉じ、外国人の首を斬り、国家の御楯となるという、物騒な趣意がしるされていた。

 小次郎が直接に面談した人々は、薩摩の岩下左次右衛門、大久保一蔵(利通)、吉井幸輔、長州の桂(かつら)小五郎(こごろう)(木戸(きど)孝(たか)允(よし))、周布正之(すふまさの)助(すけ)、伊藤俊輔(博文)。土佐の乾(板垣)退助、小笠原唯八(ただはち)、坂本竜馬、越前の中根雪江。肥後の宮部(みやべ)鼎蔵(ていぞう)、将軍後見職徳川慶喜側近の愿(はら)市之(いちの)進(しん)らである。

参考文献『荒ぶる波濤』津本陽著作(PHP文庫)参照


 明治維新後十月、陸奥陽之助は東京で航海指南補佐海援隊をやめて、外務省役人の生活を始めた。

幕末後は剣術航海士は時代遅れであり、海援隊は龍馬の死後「自然消滅」、ひとりで外交官として独立したのだ。この頃、陸奥宗光の懐刀といわれる同郷の山東直砥(さんとうなおと)をつかって、陸奥は外相として有能な仕事(外国との不平等条約の改定)に尽力する。あえて山東氏には触れないが、それも無理からぬことだ。山東本など売れる訳がない。

陽之助は執務室で仕事をする。もう、重要な役職についている。

外交交渉の勉強にと外国人や学者を呼び個人講義も受ける。ブレーンはやはり山東直砥である。そのときばかりはお茶をかいがいしく運ぶ。

お客は「お茶、おいしいです。玉露ですな。陸奥の奥さんのいれてくれたお茶がおいしいです。陽之助さんは努力家ですから世界の交渉がわかる。さらに謀略性もある。グレイト!」

また維新後大成功した元・海援隊の陸奥陽之助(陸奥宗光)はお佐那の針灸師の店に通うのだった。当時、土佐新聞の記者が、坂本龍馬の最初の伝記小説『汗血千里の駒』を取材して掲載していた。

佐那子は陸奥の取材のついでに取材を受けた。

「あの、龍馬の婚約者の千葉佐那さん?」

「……はい」

「……佐那さんは暗殺された龍馬をおもい独身を貫いているとか……」

「そのような立派なものではないのですが…」

「佐那さんは立派です。それだけ坂本龍馬を思っている。最近のおりょうさんを知っていますか?」

「……いいえ。」

「龍馬の女性遍歴は平井加尾さん、千葉佐那子さん、樽崎おりょうさん……それと…」

「これ! いいかげんにせんか。佐那さんに失礼じゃろうが」

陸奥と佐那のふたりは笑顔になるのだった。

佐那はため息をつき、

「龍馬さまの大活躍の汗血千里の駒なんてスローガンなだけ」とぼやいた。

すると陽之助が「佐那さん、がまんですよ」と励ますのだった。

兄・重太郎の子孫は「佐那は龍馬をすごく尊敬しておりまして心から慕っておりました。一緒にいて心地よかった。温かい人、思いやりのある、何でも頼ってついていったら大丈夫な人」という。「佐那は不幸だった。というが充分幸せな人生だった筈」



  蒼天の江戸の秋の午後……

 坂本竜馬はいつぞやの土佐藩の山内容堂公の家臣の美貌の娘・お田(た)鶴(づ)さまと、江戸で偶然出会った。お田鶴は徳川幕府の旗本のお坊ちゃまと結婚し、江戸暮らしをはじめていて、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。

「お田鶴さまお久ぶりです」

「竜馬……元気そうですね」

ふたりは江戸の街を歩いた。

「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」

「ああ! ほんに江戸はええぜよ!」

 忘れてはならないのは龍馬とお田鶴さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。

「幸せそうじゃの、お田鶴さま。旦那様は優しい人ですろうか?」

「つまらぬ人です。旗本のたいくつなお坊ちゃま。幸せそうに見えるなら今、龍馬に会えたからです」

「は……はあ」

「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。人妻のわたしは抜け殻、夜……抱かれている時も、心は龍馬に抱かれています。お前はわたしのことなど忘れてしまいましたか?」

「わ、忘れちょりゃせんですきに」

 二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。

「お田鶴さま」

「竜馬」

「なぜお田鶴さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお田鶴さまを幸せに出来るんじゃ?!」

そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた男・吉田松陰である。

「なにとぞ護国大明神! この日の本をお守りくだされ! 我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」

 龍馬たちは唖然として音をたててしまった。

「おお! 返事をなさった! 護国大明神! わが祈りをお聞き入れくださりますか!」

松陰は門を開けて神社内にはいり無言になった。

 龍馬とお田鶴も唖然として何も言えない。

「お二人は護国大明神でありますか?」

「いや、わしは土佐の坂本竜馬、こちらはお田鶴さまです。すまんのう。幼馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」

 松陰は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。

「護国大明神! このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります! 吉田松陰、もはや命は捨てております! 幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます! なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」

 松陰は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお田鶴は唖然とするしかない。しばらくして松陰は「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如く何処ぞかに去った。

 すると次に四人の侍が来た。「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が竜馬たちにきいた。

「あっ、見かけた」

「なに! どちらにいかれた?!」

「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」

「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。「まあ、晋作」

「わたしは長州藩の桂小五郎と申します。捜しておられるのは我らの師吉田松陰という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む! お教え願いたい」

 四人の武士は高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)であった。

 龍馬は唖然としながらも「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」

「かたじけない。ごめん!」

 四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(高杉晋作)は「おい! 逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きているぞ!」と振り返り言った。

「なにが起こっちゅうがよ?」

「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた。いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと晋作も去った。

「黒船……?」竜馬にはわからなかった。




あるとき偽善者が「ひとに義がなければ駄目だ。お金でなんでも買えるわけではない!拝金主義は駄目だ!」というと板垣は、

「おれは現実主義者だ。確かにお金で何でも買えないが綺麗事過ぎる。どんな綺麗事をいったところでお金がなければひとつのおにぎりさえ買えない。綺麗事をやめろ!」

と激昂したという。板垣は非現実な綺麗事をもっとも嫌った。

「おれは神なども信じていない。子供の頃、「神がいるならおれに罰を当ててみろ!」と稲荷神社のお守りを厠に捨てたが何の罰もあたらなかった。当時の人間がいう食べ合わせが悪いという「うなぎと梅干し」「てんぷらと西瓜」を大勢の前で食べたが腹をこわさなかった。すべては現実主義である」

板垣は言い切った。

現実主義者であったため、少年時代に自ら稲荷神社のお守りを厠に捨ててみて、神罰が当たるか試したことがある(結果、何事も起こらなかった)。同様の主旨で、退助が神田村(こうだむら)に蟄居していた時、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。

「お前さん、この板垣を斬りにきやがったんじゃな?」

「……な? 何故わかる」中岡慎太郎の心も読んだ。

「だが、あんたの倒幕の志は立派だ。お前は凄い」

「……そうきにか?」

「ああ! おんしは立派じゃきに!」

ふたりは意気投合し、板垣は中岡慎太郎と倒幕の密略を練ったという。

武市瑞山の命令で自分を斬りに来た中岡慎太郎を見透かし、暗殺を留まらせた。その時、中岡と意気投合し、共に倒幕に身を投じる事となった。


「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と岩倉具視が評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。

敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として十五代将軍・慶喜として登場した徳川慶喜。徳川三百年の幕引き役を務めるのが慶喜という運命の皮肉。

徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。

「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。

閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。

『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照

著者が徳川慶喜を「知能鮮(すくな)し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。

だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。

慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通と西郷隆盛らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。

実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。

徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。

「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」

幕末の〝熱い時代〝にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。

本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)

その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。

孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。

まさに、策士で、ある。

歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。

大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。

大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。

新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通・西郷隆盛らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。

大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。

「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」

 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・一六歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。

「身分もなくす! 幕府も藩もなくす! 天子さま以外は平等だ!」

 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。〝負けるが勝ち〟だ」

 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄! だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。

 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。

 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。

 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。

 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」

*NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用


 吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。

 だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。

 吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」

「先生! 先生!」「下がれ! 下がれ!」長州藩の例の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。

 松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です! どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります! 狂い戦ってください! 二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」

「先生!」晋作らは泣き崩れた。

黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。

 唐(とう)丸籠(まるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。

「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ! 幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。

「うるさい! この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」

「若者よ、今こそ立ち上がれ! 異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ! 若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ! この日の本を守る、熱き志士となれ!」

 またも役人は棒で松陰をボコボコにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。

「耐えるんだ、皆! 我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」

涙涙ばかりである。

江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。

 やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。

 柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生! 先生!」「兄やーん! 兄やーん!」

 座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」 

と言った。

 介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。

 松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。

 そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」

 役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」

 しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。

「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。

「ごめん!」

 吉田松陰の首は落ちた。

 雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。

 高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ! 先生の首はどうしたー!」

「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」

 長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。

「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」

 ……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!

 長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、

「是非に大老殿のお伝えくだされ! 松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると! 聞け―幕府!きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ! この高杉晋作がきっと後悔させてやる」

 雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。


 坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。

「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを『鶏鳥小屋や鶏』というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに『内輪もめ』している場合じゃない」

「わかってくれちゅうがか?」

「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは、長州は倒幕でいきますよ」

 竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で『この世の春』を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。

 武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して『人斬り』をしている時期であった。

 高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」

「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」

「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」

「それはええですろうのう!」

 竜馬はにやりとした。「それ坂本さん! 唄え踊れ! わしらは狂人じゃ」

「それもいいですろうのう」

 坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。


 竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。

 晋作は呆れた。「なにーい?! 勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」

「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ」

「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」

「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」

「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ! 君はまんまとだまされたんだ! 目を覚ませ」

「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ」

 同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、「聞く必要などない! こいつは我々の敵になった! 俺らが斬ってやる!」と息巻いた。

「待ちい、早まるなち…」

 高杉は「坂本さん、刃向うか?」

「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」

 高杉は考えてから「わかっていた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな」

「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。

夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。

 勝海舟に越前福井藩の三岡(みつおか)八郎(はちろう)(のちの由利(ゆり)公正(きみまさ))と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。

(二〇一四年四月六月、坂本竜馬の新たな書状が、個人所有の古い骨董品のテーブルの下から発見されたという。筆跡鑑定でも龍馬の書状に間違いがないという。内容は明治政府の財政問題の官職を、計算と予算案に長けた三岡八郎を登用するように、というものだった)

 龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。

 そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。

 龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。

 容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、

「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。

「日本人? ほう」

 坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。

坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。

 おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。

「やめちょけ」

「誰やねんな、あんたさん?! あんたさんに関係あらしません!」

 興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。

「……借金は……幾らぜ?」

「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ」

 宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。

「おまん、おりょういうがか? 袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」

 おりょうは激高して「うちはおこも(乞食)やあらしまへん! 金はうちが……何とか工面するよって…黙りや」

「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが? 幾らぜ? 三両か? 五両かへ?」

「……うちは…うちは……おこも(乞食)やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。

「そうじゃのう。おまんはおこも(乞食)にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」

 おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。

「そいでいいかいのう? お登勢さん」

「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」

 おりょうは答えなかった。

 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。

 

 陸奥宗光こと、陸奥陽之助は悪童であったことは述べた。

 陸奥は、のちに坂本龍馬との関係が深くなる。海援隊代表の側近として、紀伊藩に損害賠償を迫ったのも陸奥宗光である。

 しかし、この頃は悪童の〝紀伊悪童〟のひとりでしかない。

 陽之助は確かに悪童であったが、孫子の『兵法』『兵法三十六計』『軍略』『ストラテヒー』だけは好きだった。英語に興味を持ち、ジョン万次郎の元を訪ねたり、尊皇攘夷や倒幕を夢見た。自己中で自分が一番で、他人を滅多に褒めなかったが、龍馬だけは褒めていた。

「これからは英語と尊皇攘夷と倒幕だ。この国は天子様の治める国じゃきい。いや、すぐにでもそうせんといかんちぃや!」

 言うことだけは大きい。そういう高い志を示すと、きびすを返すように、他家の飯釜の中に蛙を入れたりする。女中は悲鳴を上げる。

 その日の夕飯に、女中は怒られながら「もうあの悪童の陽之助とは絶縁しなされ」といわれる。蛙臭い飯は、不味かった。


朝鮮では抗日運動が過熱を極めていた。

朝鮮独立運動家の安重根(アン・ジュンクン)はアジトで同志たちにお互いの指を切って血判状をつくっていた。このひとは日本では狂気じみたテロリストという型にはまった悪人みたいな悪人と描かれることが多いけれど、地元の韓国では熱心なキリスト教徒で、英雄という風に韓国の学校では教わるという。

独立運動の英雄……かたや狂気じみたテロリスト…国の見方でこうもイメージが違うという典型的なケースである。

この人物は旧・哈(ハ)爾浜(ルビン)駅で、背後から当時の初代内閣総理大臣であり、初代朝鮮総督でもある伊藤博文を発砲して拳銃で暗殺した。

十月二十六日に伊藤博文が哈爾浜駅に下り立った。出迎えたコ氏と並んで、露国軍の将兵を並んで閲兵(えっぺい)したという。

日露戦争からわずか五年後である。戦争の経験も生々しい中のこと、ホールに群がった人の中から、洋服の男がかけてきて出て、「伊藤博文、覚悟!」と叫んで六連発銃を連発でうちまくった。

伊藤はまず右の肺に火を感じ、次に腹部に一弾を受け、からだが崩れた。なおも三発目は、耳元をかすめ、四発五発六発は、随行員に命中して倒れる。

間髪を入れずに、露国兵士が暴漢に覆いかかって取り押さえた。

青ざめた顔のコ氏は伊藤博文を介抱する。

「しっかりしてください! 公爵さま」

「……犯人は韓国の者か…?」

伊藤博文のカラダからは血がどっと流れる。

もはや、出血多量で眼がかすみかけている。

「そうであります! 韓国人です」

「……やはりそうか……その青年にいってくれ。この伊藤も君の怨みはよくわかる、と…」

「閣下! 伊藤閣下!」

「………もう駄目だよ……」

「……閣下―!」

「大韓独立万歳!」安は叫ぶ。明治四十二年満州のハルビン駅でのことである。

この暗殺事件を機に急速に日本と朝鮮の関係は悪化する。

日本では「朝鮮憎し」の感情が爆発する。

第三代朝鮮総監の寺内正毅という男は「伊藤閣下は朝鮮に甘すぎた。だが、わたしが来たからには朝鮮に強くいくぞ」などという。

話を戻す。



「運命?」

「そう運命ですきに……そう思うしかないですろう」

「そんな運命はいやでございまする。かごの中の鳥だなんて」

「では、どげんしろと?」

「わたしたちふたりが新しい日本を新しい日本をつくるのでございまする」

「……新しい日本? 維新回天? 日本国のふたたびの洗濯ですろうか」

「はい」

ふたりは愛情をもつようになる。

惹かれ合うふたり。女中にからかわれる佐那。

龍馬のために〝折り鶴〝をつくる佐那子。時が過ぎていくうちに龍馬と佐那のふたりの関係は深くなっていく。

そんな中、龍馬の父親が病気で倒れる(脳溢血)。戻った坂本龍馬は佐那子の〝折り鶴〝をみる。

佐那子は「龍馬さま! こちらのことはご心配なさらないでください! 父上さまのことはお祈り申しあげています」

「大事にいたらなければすぐに戻りますきに」

「龍馬さまもどうかご無事で」

手をつなぎ、駕篭は動き……号泣のふたり。それはふたりの間にさした最初の暗い影でした。龍馬の御父上の命はこのときすでになかったのです。

「佐那はどうしてる?」

「ずっとお部屋にこもったままでございまする」

「そうか。重太郎……やはり、佐那は龍馬のことを」

「父上。龍馬さんと佐那を夫婦にしましょう!」

龍馬と佐那子、ふたり。おくやみをのべる佐那子。

「おまんさまこそさぞ悩まれたことですろう?」

「いいえ」

「人民のこころを儂はしりませんきに。この国を回天させるのにまだ実力がたりない……」

「わたくしは龍馬さまとともに……日本の母になる覚悟にございます!」

「佐那さん……」

土佐でいろいろなひとに「江戸の女など……」

「江戸の女に子供ができたら江戸の子供になる…」

「いかんきに…」とさんざんいわれたことをふせる坂本龍馬。

「佐那子さん。わしはおまんを不憫に思いますきぃ。わしに嫁いでもいいことはひとつもないきにな。不幸になるだけじゃきに」

「龍馬さま、わたしは土佐にとつぐのではありません。龍馬さまに嫁ぐのです。どんな国難でもわたしは龍馬さまのお心に嫁ぎたくおもいます。たとえカゴの中の鳥でもふたりが信じあえばちゃんとした夫婦になるに違いありません」

「佐那さん」

「龍馬さま」

ふたりは抱擁した。深い深い抱擁。

「いかんきに! わしは誰とも結婚せん! 国を維新回天するまで死ねないし結婚どころじゃあないきぃ」

佐那は「何も心配してません。いつまでも待ちたいと思います。佐那子は待ちまする。」

「……すまんきに。すまんきに、佐那さん。」

坂本龍馬は泣いた。それはどんな涙であったのか? わからない。





海援隊(亀山社中)の隊士達は熱い涙を流し、「龍馬とおりょうさん幸せ、に」

「はい」

「まさか、土佐の坂本龍馬が京都の女中と結婚とは。おめでとさん!」

婚礼。日本中がふたりの結婚を祝福しているよう。しかし、そのときでも不穏な動きが…。幕府・見回り組が暗殺未遂。龍馬はおりょうの知らせで長州の三好とともに寺田屋から捕り物たちより逃げ切る。(寺田屋事件)

捕り物劇は不発。幕府・見回り組や捕り物たちは龍馬に逃げられる。龍馬をすくったのがおりょうの呼んだ薩摩藩士たちだった。しかし、この事件は長い間、公にされなかった。

寺田屋で龍馬は左腕を負傷。おりょうはかいがいしく薩摩藩邸内で介護をした。

龍馬とおりょうは薩摩藩の船で九州へと逃れ、結婚。

霧島山で日本人初のハネムーンをやった。

「龍馬はん」

「おりょう、ありがとう」

ふたりは抱擁する。

「うちの旦那様は霧島山の山頂で剣を握り、「日本を回天させる」といったんじゃけえ。それをやるしかない」

「そうじゃのう。おりょう。膝まくらしてくれ」

「こうどすか?」

「おう。気持ちいいのう」

「…龍馬さんはまるで子供や」

「おりょう。これからわしは坂本龍馬ではなく、才谷梅太郎ということにする」

「梅太郎? おかしな名やわ。……龍馬さんは龍馬さんやわ。名前をかえなければ危ないちぃことどすか?」

「そうじゃ。それにのおまんも儂と一緒では危ないがじゃ」

「かまいまへん。うちは龍馬さんの妻どす」

「おりょう……下関の三好慎蔵さんのところにいってくれ。おまんの身のためぜよ」

「龍馬さん。死ぬ気どすか?」

「いや。いよいよ大政奉還と倒幕じゃ。時期が来るまでおまんは長州で暮らしぃや」

「……せやけど」

「わしは死なん。海援隊で世界の海に黒船を浮かべて商売をするんじゃきに。」

龍馬暗殺まで、あと七ヶ月……



 話を戻す。

 土佐藩参政の吉田東洋が斬り殺された暗殺事件で、下手人捜しが始まった。

 主要な探索のメンバーは乾退助と後藤象二郎である。

 この頃、『土佐勤皇党』の武市半平太は有名になっていた。その弟子のひとりが〝人斬り〟岡田以蔵である。また、この頃は全国的には有名ではないものの坂本龍馬という人間が大活躍であるという。乾退助らは訝かしい顔になる。


「陸奥宗光様で?」闇討ちを仕掛けようとした以蔵が、ハッとする。

「おう、そうじゃ。おんしは岡田以蔵じゃな? まずは刀を引けい」

「……おみそれしました」以蔵は闇の中に消える。

 その後日、陸奥宗光は武市半平太の『土佐勤皇党』のアジトを訪ねる。

「武市、おんしの勤皇は何処までじゃ?」陽之助は尋ねる。

「は?」意味が分からず、武市は訊く。「どこまでとは?」

「この国を天子様の国にするがか?」

「……無論で御座いまする」

「で、政は誰が行うのだ? まさか天子様や公家や皇族か?」

「……いえ。そこまでは考えてはおりませぬ。とにかく土佐勤皇党は天子様の党」

「そういう具体的な策もなく、おんしらは〝勤皇〟〝勤皇〟と……いっているだけか? 甘いんじゃ、ボケ! 具体策あっての行動でなければ何も成らんぞ!」

「……申し訳御座りませぬ」

 武市半平太は謝罪した。流石は乾陸奥宗光こと陽之助だ。


 

武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。

 土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。

 武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」

 半平太はそういって連行された。

 吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。

 以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。

 当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを『武市先生』と呼び慕っていた。

 だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に『毒まんじゅう』を差し出されるとすべてを話した。

 以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。

 一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。

 だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。

「幕府は腐りきった糞以下だ!」

 勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。

 ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。





禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池(いけ)内蔵(くら)太(た)もいた。そして中岡慎太郎も……。  

桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。

「御所御門に発砲するとは何ごとか?! そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ」

「そんな話があるかー!」

 鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります!」

 武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出たが、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。

「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」

 入江(いりえ)九一(くいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。

 右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。

「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」

「ああ」

「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」

 久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。

 やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。  


 竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。

 のちに「海援隊」とする日本初の株式会社『亀山社中』という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。

 すべては日本の国の為にである。

 長州藩が禁門の変等という『馬鹿げた策略』を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。

 京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。『逃げの小五郎』………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。

 だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。

 勿論、竜馬たちだって『薩摩の犬』に成り下がった訳ではなかった。

 ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。

 だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。



大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち〝八つ当たり〝という訳ではなかった。*ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。

それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。

畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。 

六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。『筋金入りの〝攘夷思想〟』のひとである。

熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。

「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」

松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。

松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも『尊皇攘夷・夷狄殺戮』主義を捨てなかった。

長州藩は『馬関攘夷戦』で壊滅する。

それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。

これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木(まき)和泉(いずみ)である。

天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を〝朝敵〟ではなく、〝官軍の藩〟とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。

松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。

いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。

高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂! もうちと考えろ! 異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。

それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。

丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は三km飛ぶが、日本の大砲は一kmしか飛ばない」という。

「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。

文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。

ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。

談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。*


桂小五郎のちの木戸孝允は新選組から『逃げの小五郎』と呼ばれるほどおこも(乞食)や夜鷹(売春婦)や商人などに化けて京で新選組ら反長州藩士派らの凶刃から逃げていた。

坂本龍馬は京で指名手配されたが、才谷梅太郎という変名で逃げていた。

指名手配の似顔絵が似てなかったのも幸いした。

龍馬は夜鷹に化けた桂小五郎と話した。

桂小五郎は「長州藩が追い込まれ、朝敵になったのもすべては奸族・会津・薩摩のせいだ! 久坂らの死も憎っくき薩摩のせいなんだ! 僕がこんな姿で逃げなければならなかったのか。すべての元凶は薩摩だ」

「じゃきに桂さん! このままじゃあ長州藩は滅びるぜよ! そこでその薩摩と同盟を結び、薩長同盟で徳川幕府を倒さねば長州は滅びるぜよ」

「あの薩摩と同盟? 馬鹿なのか。坂本君。あんな腐れ外道の薩摩と」

「そうじゃ! その腐れ外道とじゃ! 薩摩と同盟を結ばねば幕府軍の総攻撃を受けて長州藩はおわる。長州藩がおわってもいいきにか?」

「確かに長州藩はもはや風前の灯じゃ。だが、薩摩と結んで長州藩は助かるだろうか?」

「ああ、間違いない! 長州藩はにほんそのものだ! 奇兵隊とやらも使える。あとは武器じゃ! 今、長州藩は幕府に睨まれて武器を外国から買えん。そこでわしらカンパニー亀山社中の出番じゃ! 薩摩藩払いで武器を買い長州へ、長州藩は薩摩に足らんコメや食糧を薩摩にやればあいこじゃ」

「僕は…長州藩が助かるなら薩摩とあわない訳ではない。あくまで長州藩の為ならだ」

「ホントきにか? 桂さん!」

「ああ、じゃが僕がよくとも高杉や奇兵隊や長州藩のご家老お殿様はわからんぞ」

「じゃが、桂さんは薩摩と結んでもええんじゃろう? 同盟を!」

「薩長同盟か? 無理じゃないか? 両藩とも親の仇のように憎み合っている」

「それはわしが何とかするき! よし、後は高杉さんじゃ!」

「無理だ! 僕は恥を忍んで薩摩とあうかも知れんが、晋作は薩摩に頼るくらいなら滅亡を選ぶだろう! そういう男だ」

「だが、薩長同盟が軽挙妄動ではないとわかる。高杉さんは馬鹿ではない!」

「だが、高杉が一番薩摩を恨んでいるんだ! 松陰先生や久坂玄瑞らが死んだのも薩摩のせいだからな」

「高杉さんを説得するぜよ! 今、長州は孤立している。幕府軍に攻められたら実は次は薩摩討伐なんじゃ」

「なにっ!」

「薩摩もそれはわかっちぅ。だから西郷さんもわかるはずじゃ。薩長同盟がなければ長州藩も薩摩藩も滅びるがぜよ! 薩長同盟で徳川幕府を倒さなければ日本は外国の植民地ぜよ」

こうして龍馬は高杉晋作を説得した。

最初、高杉晋作や奇兵隊は激しく抵抗した。いや激昂した。「長州藩のためにあの薩摩に助けを求めろというか、龍馬」

「そうじゃ! しかし、薩摩に頭をさげるのじゃないき! 利用するんじゃ!」

「利用?」

「長州藩を滅びさせない為に薩摩を利用すればいいきに! 薩摩は武器をぎょうざん持っちゅう! 長州藩の大村益次郎(村田蔵六)さんの話じゃあ、あとミニェー銃二千から三千挺の鉄砲がなければ長州藩は幕府軍に必ず負けるいうちょった。負けたら長州藩はおわりぜよ」

大村益次郎は「そうです。最新式の銃さえあれば長州藩は幕府軍に勝てます」という。

龍馬は「幕府軍総勢と戦って長州藩一藩だけで勝てるとはわしも思っちょらん。というと幕府軍の先鋒は芸州きにか? 先生」

「いえ、芸州藩は同じ外様。先鋒を断るでしょう。ということは徳川幕府は譜代の彦根藩辺りを先鋒にするでしょうね」

「じゃろう! ほれみい、薩摩と同盟を結ばんと勝てんがじゃ。高杉さん!」

「わしらは薩摩を憎んでいる! みろ! 草履の裏に薩摩・西郷・薩奸と書いて毎日踏みつけるほどじゃ! これが我ら長州の憎悪じゃ!」

「……じゃが! 長州藩がたすかるには薩摩と同盟を結んで幕府を倒すしかないがじゃ!このままでは四民平等の国が維新が成らん! 日本の夜明けが成らんがじゃ!」

「しかし…」

「おまんがやらんで誰がやるがじゃ? 高杉さん、長州藩は日本の為に働くんじゃなかったきにか? 所詮は長州藩か」

「………わかった」

*だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると〝抗戦派(進発派「正義派」)〝と〝恭順派(割拠派「俗論党」)〝という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。*

そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。

「お文さん………何故ここに?」

「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」

「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」

「違います! 寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも〝桂さんこそ長州藩の大人物〟とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」

桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている? やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。

こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。

もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。

彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。

坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。

しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。

遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」

「同盟はなんもなっとらん」

「え? 西郷さんが来てないんか?」

「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」

龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?! 桂さん! 西郷さん! おんしら所詮は薩摩藩か? 長州藩か? 日本人じゃろう! こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙っているんじゃ! 薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ! そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」

こうして紆余曲折があり、同盟は成った。

話を戻す。

「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」

*晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は八〇人だったが、最後は八〇〇人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派〝徳川幕府への恭順派〝を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。

高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろずの国を見んとしぞおもふ」

*『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊一三七~一五四ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊一五四~一六八ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献参照





若い頃の栄一は尊王壤夷運動に共鳴し、文久三年(一八六三)に従兄の尾高新五郎とともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地襲撃を企てた。

 しかし、実行は中止され、京都に出た渋沢栄一は代々尊王の家柄として知られた一橋・徳川慶喜に支えた。

 話しを前に戻す。

 天保五年(一八三四)、栄一は十二歳のとき御殿を下がった。

 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように栄一は召し抱えられ、内示がきた。

 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。栄一は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。

 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。

 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。栄一は十六歳で城を離れざるをえなくなった。

 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは渋沢にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「栄さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた渋沢栄一は算盤に熱中した。

 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように商売に励んだ。

 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。

 栄一の父は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、死んだ。

 父はいろいろなところに借金をしていたという。

 そのため借金取りたちが栄一の屋敷に頻繁に訪れるようになる。

「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」栄一は頭を下げ続けた。プライドの高い渋沢にとっては屈辱だったことだろう。

 渋沢は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。渋沢は蘭学を死に物狂いで勉強した。

 本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。

 あるとき、本屋で新刊の孔子の『論語』を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。

「これはいくらだ?」渋沢は主人に尋ねた。

「五百文にござりまする」

「高いな。なんとかまけられないか?」

 主人はまけてはくれない。そこで渋沢は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、孔子の『論語』はすでに売れたあとであった。

「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら渋沢はきいた。

「大番町にお住まいの与力某様でござります」

 渋沢は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。

「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」

 与力某は断った。すると栄一は「では貸してくだされ」という。

 それもダメだというと、渋沢は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い渋沢栄一でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」

 渋沢は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。

 渋沢の住んでいるのは本所江戸王子で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、渋沢は写本に通った。

あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、

「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。渋沢は断った。

「すでに写本があります」

 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。渋沢は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇文の値がついたという。栄一は売らなかった。その栄一による「論語の写し」は渋沢栄一記念館に現存している。


 渋沢は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により渋沢の名声は世に知られるようになっていく。渋沢はのちにいう。

「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 大飢饉で、渋沢も大変な思いをしたという。

 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。

 渋沢はその頃、こんなことでいいのか? と思っていた。

 だが、渋沢も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。

「火事場泥棒」的に尊皇攘夷の旗のもと、栄一は外国人宿泊館に放火したり、嵐のように暴れた。奇兵隊にも入隊したりもしている。松下村塾にも僅かな期間だが通学した。

 だが、吉田松陰は渋沢栄一の才に気づかぬ。面白くないのは栄一である。

 しかし、渋沢栄一は「阿呆」ではない。軍事力なき攘夷「草莽掘起」より、開国して文化・武力・経済力をつけたほうがいい。佐久間象山の受け入りだが目が覚めた。つまり、覚醒した。だが、まだ時はいまではない。「知略」「商人としての勘」が自分の早熟な行動を止めていた。今、「開国論」を説けば「第二・佐久間象山」でしかない。佐久間象山はやがて幕府の「安政の大獄」だか浪人や志士だのいう連中の「天誅」だかで犬死するだろう。

 俺は死にたくない。まずは力ある者の側近となり、徐々に「独り立ち」するのがいい。

 誰がいい? 木戸貫治(桂小五郎)? 頭がいいが「一匹狼的」だ。西郷吉之助(隆盛)?

薩摩(鹿児島県)のおいどんか? 側近や家来が多すぎる。佐久間象山? 先のないひとだ。坂本龍馬? あんな得体の知れぬ者こっちが嫌である。大久保一蔵(利通)? 有力だが冷徹であり、どいつも「つて(人脈)」がない。

 渋沢栄一は艱難辛苦の末、わずかなつて(人脈)を頼って「一橋慶喜」に仕官し、いつしか慶喜の「懐刀」とまでいわれるように精進した。根は真面目な計算高い渋沢栄一である。

 頭のいい栄一は現在なら「東大法学部卒のエリート・キャリア官僚」みたいな者であったにちがいない。

 一橋慶喜ことのちの徳川慶喜は「馬鹿」ではない。「温室育ちの苦労知らずのお坊ちゃん」であるが、気は小さく「蚤の心臓」ではあるが頭脳麗しい男ではある。

 だが、歴史は彼を「阿呆だ」「臆病者だ」という。

「官軍に怯えて大阪城から遁走したではないか」

「抵抗なく大政奉還し、江戸城からもいち早く逃げ出した」

 歴史的敗北者だ、というのだ。あえて「貧乏くじ」を引く策は実は渋沢栄一の「策」、「入れ知恵」ではあった。

 まあ、「結果」よければすべてよし、である。

 


明治維新後五月、陽之助四十五歳。陸奥はおりょうをつれて龍馬の墓に列車で向かった。十六年ぶりの再会であった。

陸奥は花束をもって列車を降りた。

おりょうは高知県へは久しぶりの帰郷であった。

そこに龍馬の姉・乙女がいた。

「乙女お姉さん…ごめんなさい。うちが、しっかり龍馬さんを見ていなかったから…」

おりょうが泣いて謝るが乙女は花束を受け取って、笑顔をつくり、龍馬暗殺時と同じように左腕を差し出した。

「さあ、おりょうさん」

「お姉さん…」

〝十六年といえばあまりにも長い歳月でした。しかし、姉のその一言が長い別離のわだかまりを吹き払ってくれました〟樽崎龍自伝より。

〝このとき夫婦の長い苦難がようやくおわりを告げたのです〟

龍馬夫婦が晩年一緒に暮らした家が長崎に残っている。

庭に生い茂るハナカイドウの木はふたりが一緒に植えたもの。ふたりはつつましく暮らした。話を戻す。


 

 


「まずは維新へ一歩前進ぜよ」

「…維新?」

桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。

龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。

「どのようにかね、坂本さん?」

「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復二年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」

「そうですか」小五郎は興味をもった。

 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。

 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」

 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。

「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 

「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」

「そうじゃ」 

 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。

「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」

「なればおんしは倒幕派か?」

 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。

「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」

「おわるけど?」 

 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」

「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。

「それではいまとおんなじじゃなかが?」

龍馬は否定した。

「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」

「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」

「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。

 

 



桂小五郎は万廻元年(一八六〇年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。

 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。

攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。

幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。

幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。

だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。

 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。

 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「尊皇攘夷は青いきに」ハッキリ言った。

「松陰先生が間違っておると申すのか? 坂本龍馬とやら」

 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」

「外国でえなくどいつを叩くのだ?」

 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。

「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」

「なに、徳川幕府?」 

 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。

 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。


 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。

 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。

 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。

 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        

 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。



「懐剣じゃと?」

 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        

「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」

「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。

「…まさか…公方さまを…」

 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。

 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」

「……無理とは?」

「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」

 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」

「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」

「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」

「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」

「大事?」

「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」

 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。

 この頃、文久二年(一八六二年)三月一六日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだ。

 家茂は妻・和宮と話した。

 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」

「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」

「でも……徳川家の跡取りがなければ徳川はほろびまする」

 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」

 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……

 薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。

 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。

 話しを少し戻す。


長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。

 当然、晋作も長崎に滞在して、出発をまった。

 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。

 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。

 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。

 …それにしてもまたされる。

 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。

「また、私をお売りになればいいでしょう?」

 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であったという。吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。

 ……自分のことしか考えられないのである。

 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。

 当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。

 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。

 晋作は上海にいって衝撃を受ける。

 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。

 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。

 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!

 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。

 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。

 しかし、すぐに捕まって処刑される。

 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?

 ……俺には回天(革命)の才がある。

 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!

「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」

 高杉晋作は革命の志を抱いた。

 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。




            

 龍馬(坂本龍馬)にももちろん父親がいた。

 龍馬の父・坂本八平直足は養子で山本覚右衛門の二男で、年わずか百石の百表どりだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。いきおい兼業することになる。質屋で武士相手に金の貸し借りをしていたという。この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。坂本家は武家ではあったが、質屋でもあった。

 坂本家で、八平は腕白に過ごした。夢は貿易だったという。

 貧乏にも負けなかった。

 しかし、八平の義父・八蔵直澄は年百石のほかに質屋での売り上げがはいる。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。

 そのため食うにはこまらなくなった。

 それをいいことに八平は腕白に育った。土佐(高知県)藩城下の上町(現・高知県本丁節一丁目)へ住んでいた。そんな八平も結婚し、子が生まれた。末っ子が、あの坂本龍馬(龍(りょう)馬(ま)・紀(きの)(直(なお)陰(かげ))直(なお)柔(なり))である。天保六年(一八三五)十一月十五日が龍馬の誕生日であった。

 父・八平(四十二歳)、母・幸(こう)(三十七歳)のときのことである。

 高知県桂浜……

 龍馬には二十一歳年上の兄権平直方(二十一歳)、長姉千鶴(十九歳)、次姉栄(十歳)、三姉乙女(四歳)がいて、坂本家は郷士(下級武士)であったが本家は質屋だった。

 龍馬は、表では威張り散らしている侍が、質屋に刀剣や壺などをもってきてへいへいと頭を下げて銭を借りる姿をみて育った。……侍とは情ない存在じゃきに。幼い龍馬は思った。

 幸は懐妊中、雲龍奔馬が胎内に飛び込んだ夢をみた。そのため末っ子には「龍馬」と名付けたのである。

 いろいろと騒ぎを起こす八平の元で、龍馬は順調に育った。幸も息子を可愛がった。

 しかし、三歳を過ぎた頃から龍馬はおちこぼれていく。物覚えが悪く、すぐに泣く。

 いつまでも〝寝小便〝が治らなかった。

「馬鹿」なので、塾の先生も手を焼く。すぐ泣くのでいじめられる。

 そんな弘文三年に、龍馬は母を亡くした。龍馬が十二歳のときだった。

 母のかわりに龍馬を鍛えたのが、「坂本のお仁王様」と呼ばれた三歳年上のがっちりした長身の姉・乙女だった。

 乙女は弟には容赦なく体罰を与えて〝男〟として鍛え上げようとした。

「これ! 龍馬! 男のくせに泣くな!」

「……じゃきに…」龍馬は泣きながらいった。         

「泣くな! 男じゃろ?! あんさんは女子じゃきにか?」乙女は叱った。

 そして続けて「あんたが生まれたとき、あたしたちはびっくりしました。黒子が顔にあって、背中にふさふさ毛が生えちゅう。じゃきにな龍馬、母上は嘆いたのよ。でも、あた            

しが慰めようとして、これは奇瑞よ。これは天駆ける龍目が生まれたのよ……って」

 龍馬はようやく泣きやんだ。

「あとはあなたの努力次第じゃ。ハナタレのままか、偉いひとになるか」

 高知で「ハナタレ」と呼ばれるのは白痴のことである。それを龍馬の耳にいれまいとして乙女はどれだけ苦労したことか。しかし、今はハッキリと本人にいってやった。

 この弟を一人前の男にしなくては……その思いのまま乙女は弟をしつけた。

平井収二郎の妹・加尾との初恋とわかれもあった。土佐上士と下士との諍いを和解させたのも坂本龍馬である。吉田東洋に見込まれる龍馬だったが、東洋は土佐勤王党の武市半平太(瑞山)が大嫌いだった。「わしはおまんの様な狭い認識しかない人間は大嫌いじゃ!」 

ハッキリ怒鳴って言ってやった。何が勤皇攘夷じゃ! 馬鹿者が! 今は開国じゃろう。

 十九歳の頃、龍馬は単身江戸へむかい剣術修行することになった。

 乙女はわが子のような、弟、龍馬の成長に喜んだ。

 乙女は可愛い顔立ちをしていたが、からだがひとより大きく、五尺四、五寸はあったという。ずっとりと太っていてころげると畳みがゆれるから、兄権平や姉の栄がからかい、「お仁王様に似ちゅう」

 といったという。これが広がって高知では『坂本のお仁王様』といえば百姓町人まで知らぬ者はいない。乙女は体が大きいわりには俊敏で、竹刀を使う腕は男以上だった。末弟に剣術を教えたのも、この三歳年上の乙女である。

 龍馬がいよいよ江戸に発つときいて、土佐城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、早朝からひっきりなしに祝い客がくる。客はきまって、

「小嬢さまはぼんがいなくなってさぞ寂しいでしょう?」ときく。

 乙女は「いいえ。はなたれがいなくなってさっぱりしますきに」と強がりをいう。

 龍馬が十二歳のときに母親が死んでから、乙女は弟をおぶったり、添い寝をしたりして育ててきた。若い母親のような気持ちがある。それほど龍馬は手間のかかる子供だった。 いつもからかわれて泣いて帰る龍馬は、高知では「あのハナタレの坂本のぼん」と呼ばれて嘲笑されていた。泣きながら二丁も三丁も歩いて帰宅する。極端な近視でもある。

 父親はひとなみに私塾(楠山塾)にいれるが、毎日泣いて帰ってくるし、文字もろくすっぽ覚えられない。みかねた塾の先生・楠山庄助が「拙者にはおたくの子は教えかねる」 

といって、塾から排斥される。

 兄の権平や父の八平も「とんでもない子供だ。廃れ者だ」と嘆く。

 しかし、乙女だけはクスクス笑い、「いいえ。龍馬は日本に名をのこす者になります」などという。

「寝小便たれがかぜよ?」

「はい」乙女は強く頷いた。

 乙女の他に龍馬の支援者といえば、明るい性格の源おんちゃんであったという。源おんちゃんは「坊さんはきっと偉いひとになりますきに。これからは武ではなく商の時代ですき」という。のちの坂本龍馬は剣豪だったが、その剣でひとを斬り殺したことは生涯で一度もなかったといわれる。






 京都のお登勢さんの宿『寺田屋』に、坂本龍馬をたずねた板垣退助(乾退助)は〝龍馬払い〝で豪華な食事と芸子遊びをしてキセルでタバコをくゆらせていた。竜馬は寺田屋にもどってきたが、板垣とは初対面であったという。「おまん、だれぜよ?」

板垣は寺田屋の浴衣姿で芸子にもたれかかり横になって、

「ふーん、あんたが勝海舟の一番弟子の坂本龍馬か………ずいぶんうす汚れとうきに。儂は、乾(板垣)退助だ。土佐藩士。上士。今は藩参政だ」

板垣(乾)は面長で眉目な美男子である。乾(板垣)退助。この時十九歳。後に明治政府の農商務大臣、さらに名外務大臣となる板垣退助である。

「なるほどおんしの方はわしを知っちゅうがか。」

「おまん、先月の五月十日のことは知っているきにか?」

「ん!?」龍馬は黙った。

「幕府が朝廷に対し、攘夷を決行すると約束した期日だよ」

「幕府に替わって長州が、その日下関海峡でアメリカ商船に砲撃したことか?」

「おう! 長州はその後、フランス、オランダの軍艦も砲撃したきぃ」

「じゃが、今月、報復攻撃にあっさり打ち破られたようじゃの」

「さすが、勝海舟についてりゃ情報は早いな」

「で?」

「俺はちょうど長州に行っていて、その現場を見てきたぜ」

「おう! そりゃすごいのう! 詳しくきかせてくれ!」

板垣は芸子らに人払いを命じた。竜馬は銭がたんまりはいった財布をお登勢に渡し、

「お登勢さん、この中から今までの分払うといてや」と言った。

板垣は長州藩の『攘夷決行・異国艦隊への砲撃』を龍馬に語った。

「あんたはどう思う? 幕府がいう様に、長州が軽挙妄動をしたと非難するかい?」

「いや、これで西洋列国の実力と日本の無力さが思い知らされた。平和ボケした武士どもや空念仏の攘夷論者も目が覚めたろう。ここからが日本人の踏ん張りどころだ。国の改革が始まるがぜよ。長州の行動は決して無駄ではない」

板垣は〝なるほど。馬鹿ではないな〟と思った。

「ところでおんしゃあこの俺に何の用きにか?」

「いやあ、勝海舟が作ろうとしている海軍塾は………なかなかいい見通しだと思ってな!」

「ん?」

「でさあ、俺様もそこに…投資してやろうと思ってな」

「おお! そうか! おんしゃ海軍塾に投資したいがか! そりゃあ、大歓迎ぜよ!」

龍馬は喜んだ。「よし、わかった。勝先生に話すきになあ」

「いろいろ情報を仕入れてみると、今、海軍塾に入るとどうやら坂本龍馬という男が、先輩ヅラして塾頭として上にいることがわかって…俺様の上に立つ奴はケツの穴がどの程度の男かと思ってな」

「神戸には明日立とう。わしゃ長い事眠っちょらんきに、寝る」

「え?」

龍馬は着物姿のまま、畳に寝転がり、眠った。もう熟睡している。

板垣は驚いた。「なんだ? あっというまに熟睡してやがる。なんなんだよ、こいつは。初対面の男の前で、いきなり大の字で寝るかよ。無防備? いや、お人よしか? 変なやつ…」

 翌日、板垣はもっと驚いた。竜馬が汚い服でいるとお登勢さんが

「駄目です、坂本さん。まずはお風呂にはいらんと。ちゃんと体を洗うんどすえ! 髪もちゃんとあらって! 顔を洗って」………なんだよ、いい年こいてガキ扱いされてるぞ…情けない男だなあ。板垣退助は呆れる前に驚いた。

朝ごはんも飯粒をぼろぼろ落とす。飯を食っているのにそばで立ち小便して、袴にもらす。……なんじゃ、こいつは。これじゃ、まったくのアホだぜ。北辰一刀流の達人ってのは嘘じゃないのか? 龍馬は板垣のような常識人とプライドの高い男には理解しかねる人物であったに違いない。のちの英雄の坂本龍馬も、いってみれば身分は〝只の脱藩浪人〝である。

参考文献・漫画『おーい!竜馬』作・武田鉄矢・漫画・小山ゆう(小学館文庫)第七巻(改筆)(実際には板垣退助と坂本龍馬はあったことがない。この小説の設定上あっているだけ)

  

 




        二 黒船来る!





歴史上の人物は、その時代に傑出し、活躍し、英雄と呼ばれて民衆から慕われた人々である。さまざまな分野で、その人たちが生きた時代に、その人自身が持つ並はずれた才能によって、数多くの制約・重圧とたたかい、成功や失敗にかかわらず、群を抜く功罪で名を後世に残した。

時代は幕末、米沢の雲井龍雄は、近代国家建設に尽力し、維新の大業を純粋なものにしようとした。藩閥政府の中心である薩長に反抗して刑場の露と散る。

昇り竜の如し、雲井龍雄伝をものしてみたい。(『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店参照)



陸奥宗光が貧乏武士というか、百姓というか。これはこの小説の設定であり、本当は武士の跡取り息子である。侍であり、腰の帯に刀と脇差しを差している。本当は父親は幼い頃に殺されて貧乏生活だった。尊皇攘夷の志士であり、過激派でもある。

そのうち、京洛や地方で浪人衆のあいだで流行りだした尊皇攘夷にかぶれた。

尊皇攘夷……………

日本の象徴の天皇を守り、敬うことで、天下の天下は天下なりとなる。朝廷や天子様(天皇陛下)の為に、外国の異人たちと戦い討ち滅ぼし、日本国を外敵から守る!

この危険な思想に、宗光たちはかぶれた。

だが、そんな尊皇攘夷の志士も、和歌山藩(現在の和歌山県)の田舎にいるうちは駄目である。

同年のある月夜のある日、夜四つ(午後十一時)。尊皇攘夷思想の連中と、田舎の山中の無人の寺院内だった。

志士かぶれの数十人が話し合っていた。態度や思想だけは立派で、勇ましい。

月明かりがあたりを蒼白く照らすが、蝋燭の炎が、境内を鬼灯色にする。

しかし、誰かが藩の捕り方に、集会のことを密告した。捕り方たちがやってきた。

連中は、突撃してくる。

「ご用改めである! 神妙にしろ!」

捕り方たちは集会の名簿や、誰それ、までは知らなかった。

大勢が刃向かう。斬り合いになる。

陸奥宗光や同士たちは、夜陰にまぎれて逃げるのに成功した。

鯉口を切りながら、駆け抜けた。

だが、仲間の一人は慣れない刀で応戦し、斬られて死んだ。

そののち、捕縛された連中も、何も語らぬまま斬首となる。

くそったれめ! 宗光は下唇を噛む。怒りで手足が小刻みに震えた。

一歩間違えば、おれも斬首だった。くそう! 落涙し、手の甲が濡れる。

 身分の差なんてくそくらえ! エセ侍からの脱却を決意する。

「虐げられる百姓のままでは終われない。エセ侍のままではおわれない!

 侍に、尊皇攘夷の攘夷の志士になってやる!」

 宗光は強く、こころに誓った。侍に………尊皇攘夷の尊皇の志士……に……なる!




陸奥宗光は幼い頃から家業に従事して商才を発揮した。父親は本好きで、幼い頃、孔子の『論語』であっている。(実際は幼い頃に父親は殺されて貧乏生活だった)

彼にとって当時の日本はいびつにみえた。宗光は尊王壤夷運動に共鳴していた。

宗光には、幼い頃の記憶があってよく夢に出てきたと日記に書いている。それは藍玉をつくる男の影である。実際に父親が商人で、紡績業でもしていたのだろう。



歴史上の陸奥宗光は、紀州の、田舎者である。

農家の藁葺き屋根の木造家屋、緑の森や田圃が広がる。耕作用の牛馬が糞尿をたれ流し草を食んでいる。牧歌的な印象の村だが、時代は、激動の徳川幕府統治下二百六十年である。

宗光は、若い頃は色男ではないが、醜男だったのでもない。

陸奥の家は確かに、武家で、つまり、武士だ。侍だ。だが、幼い頃に父は死んだから、、食うにも困った。

眉目秀麗という訳でもないが、まさに武士の息子というような跡取り息子だ。

色白な肌は、流石は武家の息子、である。

華奢な身体に、艶やかな髷の髪型をもち、おおきい鷂(はしばみ)色の瞳の宗光は十七歳。見た目では、童顔で、十四歳に見える。

風邪も引かない大丈夫な武家の息子である。

少年時代の宗光は頭の回転が速く、権威や家格にものおじしないやんちゃな息子であった。

「おれは権力も殿様も、なんとも思わない。同じ人間じゃないか」

宗光はまだ、幕府や武士・百姓町人などの官尊民卑を、知らなかった。

「……武士の何が悪い!」

「宗光。お前は剣術より、算盤や物書き、商売を学べ。これからは武士より、商人の時代だ」

「算盤の時代ですか? 先生」

「おうとも」塾の先生は頷く。徳川幕府統治下なので、立派な着物姿である。髷もしている。武士で、商売人でもあり、商売に長けた武家の先生である。

宗光はこの先生の下で、商売のイロハを学ぶ。

賢く、利発な武士に、青年になる。




愁いを含んだ早春の光が、障子越しに差し込んでいた。

障子を開けると、縁側の外には四季折々の菜の花が育つ庭がある。

萱葺屋根の豪邸である。が、村では老舗ではない。豪家として知られた。

立派な建物、むしろ風流な豪農木造民家。結婚式には似合いだ。

新郎が陸奥宗光(牛麿)、新婦は元・女中の女性、である。

女は宗光がはじめて会ったころにくらべると、まるで別の女のように様変わりしていた。こけていた頬に肉がついて、血色もよく、大きな茶色い目がきらりきらりと光っている。痩身は痩身だが、手足から骨張った感じがなくなり、身体が丸味をおびている。

髪はつややかな光沢がつきまとっている。いま、女性の一番と美しい時期を迎えようとしていた。

みんな祝いの酒を飲み、酒臭い息で、ご馳走をもぐもぐ食べている。

「おめでとう! 宗光(牛麿)、いよいよ、お前も妻帯者かあ」

「腰を痛めるなよ。奥さんがかわいそうだからのう」

「それより、武士になって何かかわったかい? かわらんべな」

「そうそう。武士の格式や習いより、商売だべなあ。商売の方が面白いだっぺ?」

「まあ………」新郎の宗光は、やっと声を出した。

「そうですが……」

「なんじゃ? 牛麿。もったいぶった話し方をしてえ。しっかりせんか!」

先生は紋付き袴のまま、クダを巻いた。

「これこれ、義兄さん。飲み過ぎですよお」義叔母さんが笑う。

「こんな祝いの場で、しらふでいられるかいぃ。のう? 牛麿?」

新郎と新婦のふたりは、顔を見合わせて、微笑んだ。

「でも、わたしはその方がいいわ」

長い睫を伏せて、蓮がかすかに言った。

「なにがいいんだ?」

「旦那様が江戸に行かない方がいいわ」

「案外に不人情な女だな、おめも」

「だって、行ったらもう会えないかもしれないもの」

女は吐息を漏らし、顎をひいた。

恋愛結婚などこの時代、ある訳がない。

 その日の夜、いわゆる初夜な訳だ。二人とも布団に横になっている。が、なかなかいやらしいことをすぐに励む訳はない。すぐにというのもやはり、無理な話である。

男女関係にしても、そういうことはなるのかも知れない。

だが、そうそう性欲もんもんの人間ばかりじゃない。

 結婚から三年後、子供も出来て、陸奥宗光は二十二歳になった。

「江戸にいく!」宗光は決意する。

「剣術修行だ!」

 またとない機会であった。




宗光が千葉剣術稽古場に入門したのは、その年の七月、江戸に来て二ヶ月が経っていた。

華のお江戸で、尊皇攘夷などで進退窮まっていた陸奥宗光は、折良く出府してきた親類の弥八右衛門に救われた。しかし、それですぐに親類の推薦で緒方洪庵の蘭学塾『適塾』にはいる、とか、父の後見人の許しを得て商売に戻る、とかの状況ではない。

弥八右衛門は、熱心に帰郷を勧めたが、やがて、諦めた。

宗光の決心が固いのを知る。と、とりあえずは緒方洪庵の『適塾』ではないが、江戸のおよそ有名とはいいがたい蘭学塾に、宗光を入れた。

宗光は猛烈な勉強をはじめた。それは、乾いた砂が水を吸収するかのようなものだった。

蘭学塾の先生の書物を、研究しながら、片端から書き写す。

宗光の鈍重な紀伊訛りは、時折、塾生たちの笑いものになった。

が、宗光の勉強の真剣さを知ると、数ヶ月後には嘲笑は止んだ。

なんでもやってやろう、宗光はそういう気持ちになっていた。江戸に来てすぐの頃の、手足を縛られたような状況とはまるで違っていた。

青空に解き放たれたとらわれた鳥のような、宗光の気分は完全に自由だった。

蘭学塾と同じく、江戸の千葉剣術稽古場でも鍛錬を重ねた。

「若先生だ。技が早いから見逃さずにのう。しっかり、学べ」

剣術稽古場の仲間が、小声で囁くように後輩にいう。

紀伊内の先生の稽古場の剣術とはまるで違うな。

宗光は剣術の先生の千葉栄次郎の木刀さばきに見とれながら、茫然と思った。この剣豪をもやぶった剣術の天才が、いるのか。






伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。

 伊藤博文は思った筈だ。

「イマニミテオレ!」と。

 明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から四ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。

 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという(この小説の設定。井上馨は伊藤博文の哈爾浜遭難事件後、病気を抱えながら享年八十歳で死ぬ。死ぬのは伊藤博文の方が先である。死ぬ、というより伊藤は暗殺だが)。

 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や渋沢栄一や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。

 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。

 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。

 尊皇攘夷など荒唐無稽である。

 

 観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。

 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。

 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。

 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。

 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。

 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。

 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。

 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。


 渋沢は決心して元治元年の二月に慶喜の家臣となったが、慶喜は弟の徳川民部大輔昭武とともにフランスで開かれる一八六七年の万国博覧会に大使として行くのに随行した。 慶応三年一月十一日横浜からフランスの郵船アルヘー号で渡欧したという。


坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。

久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。

「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」

大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。

だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。

だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。

京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。

大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。

結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。

 話を少し戻す。


 龍馬は江戸に着くと、父に教えられた通りに、まっすぐに内桜田の鍛冶橋御門へゆき、橋を渡って土佐藩邸で草履を脱いだ。

 藩邸にはすでに飛脚があって承知しており、龍馬の住まう長屋へ案内してくれた。

 部屋は三間であったという。

 相住いの武士がいるというがその日は桃井道場に出向いていて留守だった。龍馬は部屋にドスンと腰をおろした。旅による埃が舞い散る。

 部屋はやたらときれいに掃除してある。しかも、机には本が山積みされている。

「こりゃ学者じゃな。こういう相手は苦手じゃきに」

 龍馬は開口したままいった。「相手は学者ですか?」

「いいえ。剣客であります」

「郷士ですな?」  

「いえ、白札です」

 白札とは、土佐藩独自の階級で、準上士という身分である。

「わかった。相住むのはあの魚みてぇな顎の武市半平太じゃな」

 龍馬は憂欝になった。正直、藩でも勤勉で知られる武市半平太と相住まいではやりきれないと思った。


 武市半平太を藩邸の者たちは「先生」と呼んでいた。

「なんじゃ? 大勢で」

 顔はいいほうである。

「先生の部屋に土佐から坂本龍馬という男がきました」

「龍馬がきたか…」

「龍馬という男は先生を学者とばいうとりました」

「学者か?」武市は笑った。

「あの魚みてぇな顎……などというとりました。許せんきに!」

「まあ」武市は続けた。「どうでもいいではないか、そのようなこと」

「天誅を加えまする」

「……天誅?」

「ふとん蒸しにしてくれまする!」

 武市半平太は呆れて、勝手にせい、といった。

 なかまのうちひとりが龍馬の部屋の襖をあけた。すると驚いた。フンドシ姿の裸で、のっそりと立っている。「なんじゃ?! 坂本その格好は?!」

「わしは馬鹿じゃで、こうなっちゅう」

「このお!」

 大勢がやってきた。「かかれ!」

 龍馬に大勢でとびかかった。行灯がかたむき、障子が壊れ、龍馬は皋丸をけったりしたため気絶する者まででる。四半刻ばかりどたばたとさわいでいるうちにヘトヘトになり、龍馬はふとん蒸しで、みんなが乗りかかった。息ができず、死ぬような苦しみになる。

「もうよかが! あかりをつけいや」

 武市半平太がやってきていった。不機嫌な声でいった。龍馬は解放されると部屋を出ていった。


「なぜ先生は龍馬の無礼を咎めなかったのです?」

 と、事件のあときくものがあった。

 武市半平太は「徳川家康も豊臣秀吉も、だまっていてもどこか愛嬌があった。その点、明智光秀にはふたりより謀略性があったが、愛嬌がなかったために天下をとれなかった。

英雄とはそういうものだ。龍馬のような英雄の資質のあるものと闘っても無駄だし、損でもある」

「龍馬は英雄じゃきにですか?」

「においはある。英雄になるかも知れぬ。世の中わからぬものぞ」

 そのころ「英雄」は、千葉道場で汗を流していた。

 竹刀をふって、汗だくで修行していた。相手は道場主千葉貞吉の息子重太郎で、龍馬より一つ年上の眼の細い青年である。

 そんな剣豪を龍馬は負かしてしまう。

「一本! それまで!」貞吉が手をあげる。

 重太郎は「いやあ、龍さんにはかなわないな」などという。もう、親しい仲になっている。龍馬は友達をつくるのがうまい。

 江戸での月日は早い。

 もう、龍馬は免許皆伝まじかである。

 そんな千葉道場主の貞吉の息子重太郎には、さな子という妹がいた。二つ違いの妹であり、幼少の頃より貞吉が剣を仕込み、免許皆伝とまではいかなかったが、才能があるといわれていた。色が浅黒く、ひとえの眼が大きく、体がこぶりで、勝気な性格だった。

 いかにも江戸娘という感じである。

 そんな娘が、花見どきの上野で暴漢に襲われかけたところをおりよく通りかかった龍馬がたすけた、という伝説が土佐にはあるという。いや、従姉だったという説もある。

 龍馬はさな子を剣でまかした。

 その頃から、さな子は龍馬に恋愛感情を抱くようになる。

 さな子が初めて龍馬をみたときは、かれが道場に挨拶にきたときだった。

「まぁ」とさな子は障子の隙間から見て「田舎者だわ」と思った。

 と、同時に自分の好むタイプの男に見えた。ふしぎな模様の入ったはかまをきて、髪は篷髪、すらりと背が高くて、伊達者のようにみえる。

「さな子、ご挨拶しなさい」父に呼ばれた。

「さな子です」頭を下げる。

「龍馬ですきに。坂本龍馬ですきに」

「まぁ、珍しい名ですね?」

「そうですろうか?」

「ご結婚はしてらっしゃる?」さな子は是非その答えがききたかった。

「いや、しとらんぜよ」

「まあ」さな子は頬を赤らめた。「それはそれは…」

 龍馬は不思議そうな顔をした。そして、さな子の体臭を鼻で吸い、〝乙女姉さんと同じ臭いがする。いい香りじゃきに〟と思った。

 さな子はそのときから、龍馬を好きになった。



嘉永六年六月三日、大事件がおこった。

 ………「黒船来航」である。

 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。

 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。

 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。

 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。

 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。

 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。

 二、海防の軍艦を至急に新造すること。

 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。

 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。

 五、火薬、武器を大量に製造する。

 勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。

 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎(勝海舟)は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重要視した為である。

 幕府はオランダから軍艦を献上された。

 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。

  次の日の早朝、朝靄の中、龍馬が集合場所に向かって歩いていた。人通りはない。天気はよかった。

「いゃあ、遅刻したぜよ」と坂本竜馬がやってきた。

 立派な服をきた初老の男が「坂本くん、遅い遅い」と笑った。

「すいません佐久間先生」竜馬はわらった。                      

 この初老の男が佐久間象山だった。佐久間は「おい坂本!」と龍馬にいった。

「黒船をみてみたいか?」

「は?」龍馬は茫然としながら「一度もみたことのないもんは見てみたいですきに」

「よし! 若いのはそれぐらいでなければだめだ。よし、ついてこい!」

 象山は「よいよい!」と笑った。

 象山は馬にのった。龍馬は人足にバケて、荷を運んで浦賀へと進んだ。

 途中、だんご屋で休息した。

 坂本竜馬はダンゴを食べながら「先生は学識があるきに、わしは弟子入りしたんじゃ」

「おい坂本」象山はいった。「日本はこれからどうなると思う?」

 龍馬は無邪気に「日本はなるようになると思いますきに」と答えた。

「ははは、なるようにか? ……いいか? 坂本。人は生まれてから十年は己、それから十年は家族のことを、それから十年は国のことを考えなければダメなのじゃぞ」

 佐久間象山は説教を述べた。

 やがてふたりは関所をパスして、岬へついた。龍馬は圧倒されて声もでなかった。すごい船だ! でかい! なんであんなものつくれるんだ?!

 浦賀の海上には黒船が四船あった。象山は「あれがペリーの乗るポーハタン、あちらがミシシッピー…」と指差した。龍馬は丘の上に登った。近視なので眼を細めている。

「乗ってみたいなぁ。わしもあれに乗って世界を見たいぜよ!」

 全身の血管を、感情が、とてつもない感情が走り抜けた。龍馬は頭から冷たい水を浴びせ掛けられたような気分だった。圧倒され、言葉も出ない。

 象山は「坂本。日本人はこれからふたつに別れるぞ。ひとつは何でも利用しようとするもの。もうひとつは過去に縛られるもの。第三の道は開国して日本の力を蓄え、のちにあいつらに勝つ。………それが壤夷というものぞ」といった。

 その年も暮れた。

 正月から年号が嘉永から「安政」にかわり、龍馬も二十歳になった。

 龍馬にとっては感慨があった。

 ……坂本の泣き虫も二十歳か……

 われながら自分を褒めたい気分にもなる。しかし、女をしらない。相手は「坂本さん! 坂本さん!」とそそってくるさな子でもよかったが、なにしろ道場主の娘である。

 女を知りたいと思うあまり、龍馬はお冴のわなにはまってしまう。

 国元でも「女との夜」についていろいろきいてはいた。まるで初陣のときと似ちゅう… とはきいていたが、何の想像もつかない。

 遊郭でお冴に手をひかれふとんに入った。お冴は慣れたもので龍馬を裸にして、自分の服も脱いで「坂本さま」と甘い声をだす。

 そんなとき、龍馬は妙なことをいいだす。「……わしの一物が動かんぜよ」

「まぁ、本当」

 お冴は笑った。龍馬は余りの興奮でインポテンツになってしまったのだ。

「これじゃあ……お冴さんのあそこを突くことも出来んきに…」

 龍馬は動揺した。お冴は父親の仇を討ってくれとも頼んだ。

 それっきり、龍馬は夜の行為ができないままだった。

 さな子はそれをきいて笑ったが、同時に嫉妬もした。「あたしが相手なら大丈夫だったはずよ」さな子は龍馬にホレていた。夜のことまで考えていたくらいである。

 お冴とは二度目の「夜」をむかえた。

 こんどは勃起したが、突然、大地震が襲いかかってきた。

 安政元年十一月三日、江戸、相模、伊豆、西日本で大地震がおこった。

「いかん」

 龍馬はとっさに刀をひろいあげて、「お冴、中止じゃきに」といった。

 立っていることもできない。

 大揺れに揺れる。「逃げるぜよ! お冴!」龍馬は彼女の手をとって外にでると、遊郭の屋敷が崩壊した。

「あっ!」

 お冴は龍馬にしがみついた。

 ……これは大変なことになっちゅう。土佐もどうなったことじゃろう…

 龍馬の脳裏にそんな考えがふとよぎった。

 ………土佐に帰ってみよう


 江戸にいるうちにいつの間にか龍馬は、「おなじ土佐藩士でも、上士は山内家の侍であり、郷士は日本の侍じゃ」と考えるようになっていた。

 土佐城への忠誠心は、土佐郷士は薄いほうである。

 江戸から戻り、土佐を歩くうちに「なんだ。これなら帰らずともよかったぜよ」と思った。土佐では先の大地震の被害がみられない。地盤がかたいのだ。

 龍馬が帰宅すると、「ぼん!」と源おんちゃんが笑顔で出迎えた。

「ぼんさん、お帰りんましたか」

「帰ったきに」龍馬はいった。「おいくりまわりの者(ぶらぶらしている人という意味。土佐弁)じゃきに」

「ぼんが帰りましたえ!」おんちゃんは家のものをよんできた。

 家の者に挨拶した龍馬だったが、やはり乙女はいなかった。嫁いだという。

 龍馬はさびしくて泣きたくなった。

 さっそく龍馬は岡上の家へと向かった。

 すると乙女が出てきて「あら? 龍馬」と娘のような声でいった。可愛い顔で、人妻のようには思えない。「いらっしゃい! あがっていって。主人は外出中だけれど…」

「おらんとですか?」

「ええ」

 龍馬は屋敷の中に入った。




 江戸の千葉道場に戻ると、貞吉も重太郎も涙をにじませてよろこんで出迎えてくれた。 ……土佐もいいが、江戸っこは人情がある…

 龍馬はしみじみ思った。

 土佐に帰っている間に、重太郎は妻をもつようになっていた。               

「お八寸というのだ。せいぜい用をいいつけてくれ」

「お八寸です。どうぞよろしくおねがいします」頭を下げる。

 涼しい眼をした、色白の美女である。龍馬のすきなタイプの女性だった。

 ……こりゃいかん。わしがすきになってはいかんぜよ

「龍さんはどうだい? 結婚は……相手ならいないでもないぞ」

「待った!」

 龍馬はとめた。さな子の名がでそうだったからである。



 龍馬がひとを斬ったのはこの頃である。夜、盗賊らしき男たちが襲いかかってきた。龍馬は刀を抜いて斬り捨てた。血のにおいがあたりを包む。

 しかし、さすがは龍馬の剣のすごさである。相手からの剣はすべて打ち返した。

 ひとりを斬ると、仲間であろう盗賊たちはやがて闇の中へ去った。

 腕を龍馬に斬られた男も逃げ去った。

「なんじゃきに! わしを狙うとは馬鹿らしか」

 龍馬はいった。刀の血を払い、鞘におさめた。只、むなしさだけが残った。

 ひとの話しではお冴がコレラで病死したという。お徳より先に、龍馬の初めての女になるはずだった女子である。龍馬は「そうか」といたましい顔をしたという。

 武市半平太はしきりに龍馬に、

「おんしは開国派か? 壤夷派か?」ときく。

「わからんぜよ。わしは佐久間先生のいうことに従うだけじゃきに」龍馬は頭をかいた。 そんな最中、飛脚から手紙が届いた。

 龍馬は驚愕した。父・八平が死んだというのだ。

「どげんした? 坂本くん」武市が尋ねた。

「父が死んだ……みたいです」

 龍馬は肩を落とした。

「それはご愁傷さまだ」武市は同情して声をかけた。「土佐に戻るのかね?」

「いいや。戻らぬき」

 龍馬にはものすごいショックだったらしい。二十二歳になっていた龍馬は、その日から翌年にかけてほとんど剣術修行をするだけだったらしい。逸話が何もないという。

 それだけ父親の死が龍馬にとってはショックだった訳だ。

 ほどなく北辰一刀流の最高位である免許皆伝を受けた龍馬は、千葉道場の塾頭になった。 この当時、長州藩の桂小五郎(のちの木戸考允)は斎藤のもとで神道無念流の塾頭になり、土佐の武市半平太は桃井春蔵(鏡心明智流)の塾頭となっていた。

 ひとくちに、〝位は桃井、枝は千葉、力は斎藤〟というのだそうだ。

 桂小五郎は、龍馬より二つ年上の二十五歳だった。

「坂本くん。一本どうだい?」

「稽古きにか?」

「そうだ。どちらが強いかやろうじゃないか」桂小五郎には長州(山口県)訛りがない。

「あんたと勝負するちゅうんか?」

「そうだ!」

 やがて、仕方なく防具をつけて、ふたりは試合をすることになった。

 対峙すると、この桂小五郎という男には隙がない。龍馬には気になることがあった。自分の胴があいているのだ。桂の剣が襲いかかる。

 龍馬より桂のほうが一枚上手のようである。

 ……どういう手で倒すか?

 桂と対峙して、龍馬に迷いが生じた。……このまんまでは負けるきに!

 龍馬は片手上段でかまえた。桂はびっくりする。こんな手はみたこともない。

 龍馬はさそった。

 ……打つか?

 桂に迷いが生じたところで龍馬は面を打った。

「面あり!」

 あっけなく、桂の負けである。

 ……なんだあれはただの馬鹿胴だったのか…片手上段といい、この男は苦手だ…

 桂は残念がった。

「わたしの負けだよ、坂本くん」桂は正直にいった。

「桂さんもすごかったぜよ」

 ふたりは笑った。


 大阪から一路、龍馬は土佐に戻った。

 途中、盗っとの藤兵衛とわかれて、単身土佐にかえってきた。龍馬にとって江戸出発以来二度目に帰郷である。今度は北辰一刀流の免許皆伝ということもあって、ひとだかりができる。せまい城下では大変な人気者である。

 武市半平太はすでに土佐に戻っていて、城下で郷士、徒士などに剣術を教えていた。その塾の名は「瑞山塾」といい、すでに土佐では人気のある私塾になっていた。瑞山とは武市の雅号のことである。

 龍馬の兄・権平は「龍馬、おんしも塾を開け。金なら出してやる」という。

 すると龍馬は「わしはやめときます。ぶらぶらしときますきに」という。

「ぶらぶら?」

 権平は不満だった。何がぶらぶらじゃきにか? 北辰一刀流の免許皆伝者が…

 龍馬は珍しもの好きである。

 さっそく噂をきき、絵師・河田小竜という男のところへ向かった。

 河田小竜は唯一、日本中を旅して学識をもち、薩摩の砲台や幕府の海軍訓練所にもくわしい。また、弟子のジョン万次郎から米国の知識まで得ていた。

 河田邸はせまっくるしい。そのせまい邸宅にところせましと大きな絵がかざられている。「おんしは坂本のはなたれじゃなかが? 何しにきた?」

 絵を描きながら、河田小竜は龍馬にきいた。「絵師にでもなりたいきにか?」

「いいや。先生の話しばうかがいたいき、きたとです」

「話し?」

「はい。世界の話しです」龍馬はにこにこいった。

 河田小竜は「しょうがないやつだな」と思いながらも、米国の男女平等、身分制度のないこと、選挙のことなどを話した。龍馬に理解できるだろうか?

 小竜は半信半疑だったが、龍馬は「米国には将軍さまも公家もなく、男も女も平等きにかぁ……いやあおどろいた」と感心してしまった。

 龍馬のこのときの感動が、日本を動かすことになるのである。

 そんなとき、一大事が江戸で起こった。

 ……伊井大老が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されたというのだ。伊井直弼大老は幕府の代表のようなものだ。伊井大老が暗殺されるということは幕府の力がなくなるということである。「龍馬! 一大事じゃ!」兄は弟に暗殺のことを伝えた。

 ………これは大変な世の中になるぜよ……龍馬の全身の血が逆流して、頭がくらくらした。眩暈を覚えた。生涯、これほど血のわいたときはない。

 ……よし! わしも何かでかいことするぜよ!

 龍馬はそう思い、興奮してしまった。



         三 脱藩と寺田屋事件





 上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。

 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。

 高杉は思考が明瞭である。

 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。

 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。

 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。

 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。

 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。

「買う」

 即座に手にいれた。

 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。

 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。

 高杉の二十三歳の若さがみえる。

 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。

 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…

という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、

 ……壤夷以外になにがあるというのだ!

 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。

 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。

「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」

 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。

 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。


  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。

 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。

 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。

「江戸へおもむけ」

 藩命は冷ややかなものだった。

 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。

 晋作は、

「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。

 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。

 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、

「くわして話しは江戸でせい」

 といって晋作の話しをとめた。

「は?」

 晋作は唖然とする。

 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。

 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。

 ……長州は口舌だが、実がない!

 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。

 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。

 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。

 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。

 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、

「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。

 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけだ!」

 といった。

 そして、続けて、

「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。

 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。

 晋作は江戸についた。

 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。

 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。

 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけです。

 ……壤夷で富国強兵をすべし!

 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!

 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。

 ……この国を回天(革命)させるのだ!

 晋作は血気盛んだった。

 が、藩世子は頷いただけであった。

「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」

 そういっただけだ。

 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、

「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。

「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」

 たしかにその通りだった。

 晋作は早すぎた天才であった。

 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。

「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」

 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。

 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。

 ……わかってない!

 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。

 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。

 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。

 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。

 晋作はよく女を抱いた。

 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。

 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。

「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」

 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。

 晋作は走った。

 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。

 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。

「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」

 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。

 ……ちくしょう!

 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。



 龍馬は一八六一年に「土佐勤王党」に参加したが、なんだか馬鹿らしくなっていた。「土佐だけで日本が動く訳じゃなかが。馬鹿らしいきに」

 龍馬は土佐の田舎で、くすぶっていた。

 ……わしは大きなことを成したいぜよ!

 龍馬は次第に「脱藩」を考えるようになっていた。

 ……藩の家来のままじゃ回天(革命)は成らぬがぜよ。

 兄・権平の娘(つまり姪)春猪はいつも「叔父さま! 叔父さま!」と甘えてくる。利発な可愛い顔立ちの娘である。

 春猪には計略があった。龍馬叔父さんと知り合いの娘とを交際させる…という計である。その計は九分まで成功している。

 げんに春猪は、ともかくも龍馬叔父さんを五台山山麓の桃ノ木茶屋までおびきよせたではないか。龍馬が遠くから歩いてくる姿を確認してから、

「ほら!」

 と、春猪は「きたわよ」とお美以にいった。

 お美以は下を向いて恥かしがった。

「お美以さん、だまっていてはだめよ。ちゃんと叔父さんに好きだっていわなきゃ」

 春猪はにこりといった。

「ええ」

 お美以は囁くようにいった。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。

 九つのとき、お美以は龍馬に連れられて梅見にいっている。あのころ、龍馬は江戸から一度目にかえってきたときである。龍馬は、お美以の手をひいたり、抱き抱えたりした。しかし、なにしろ十一歳も年上である。九つのお美以としては龍馬は大人である。

 しかし、女の子は九つでもおませである。龍馬を好きになった。

 まあ、これは「はしか」みたいなものである。年頃の女の子は年上の男性を好きになるものだ。まだ子供であるお美以は母に、

「わたくしは、龍馬おじさまのお嫁様になります」といってあわてさせた。

 今、お美以は十代の美少女である。

 しかし、龍馬は彼女を子供扱いした。「お美以ちゃんはいつまでも子供の頃のままじゃきにな」といった。

「そんな……」お美以は泣きそうな顔をした。

「龍馬おじさまは、お美以さんに御無礼ではありませんか?!」

 それを知って春猪は叔父龍馬に食ってかかった。

 龍馬は「子供は子供じゃきに」と笑ったままだ。

 そののち龍馬は源おんちゃんにめずらしく怖い顔をして、

「春猪に、人間の娘をおもちゃにしちゅうなといってくれ」といった。

「おもちゃに?」

「いえばわかるきに。わしは忙しいので出掛ける」

 龍馬は出掛けた。

 春猪は複雑な気持ちでもあった。じつは春猪は龍馬叔父に好意をもっていたのである。 ……初恋……? そうかも知れない。私は龍馬おじさんのお嫁さんになりたい!

 しかし、当の龍馬にはそんなことは知らない。



『脱藩の準備』を龍馬はしはじめた。

 とうぜんながら脱藩には金がいる。刀もほしい。

 龍馬の家は土佐きっての裕福な武家だけに、名刀がしまってある。だが、兄の権平が脱藩を警戒して、刀箪笥に錠をして刀を取り出せなくしていた。

「どげんするきにか…」

 龍馬は才谷屋を訪ねた。才谷屋は坂本家の分家である。坂本家のすぐ裏にあって、こちらも商業を営んでいる。北門が坂本家、南門が才谷屋の店口となっていた。

「伯父さんはいるきにか?」          

 龍馬は暖簾をくぐり、中にはいった。

「ああ、坂本のぼんさま」

 番頭は用心深くいった。というのも、権平に、〝龍馬が金か刀の無心に来るかもしれぬが、あれのいうことに応じてはならんぞ〟と釘をさされていたからだ。

「あるじはただいま留守でござります」

「伯母さんは?」

「いらっしゃいますが、何やら気分が悪いとおやすみでございます」    

「なら、刀蔵の鍵をもってきてくれんがか」

「……それは」

「本家のわしが頼むのだぞ。わしは奥で酒飲んじゅるきに、持ってきとうせ」

 どんどん入りこむ。

 やがて夕方になった。

「おや、めずらしい。龍馬じゃないかが」

 お市おば(龍馬の祖父の従弟の妻)がいった。その姪の久万、孫の菊恵をつれて朝から遊びにきていたが、龍馬をみつけると笑顔になった。

 しかし、お市おばも龍馬の算段を知っている。……脱藩はなりませぬ!

 散々説教するが、龍馬は(何を寝言ば、ゆうちゅるがか)と思いながら頷いているだけだ。やがて伯父の八郎兵衛が帰ってきた。

「伯父さん。刀ば見せとうせ」

「あっ、龍馬がか」

 龍馬をみただけで顔色を変えた。本家からの情報をすでに掴んでいたからだ。

「刀は駄目だ。それより、家の娘を嫁にしちゅうがかか?」

「嫁などいらん。それより刀みせとうせ」

「これという、刀はないきに」

 嘘だった。豪商だけあって名のある刀が蔵にたんとある。

 しかし、本家との約束で、龍馬には刀を渡さなかった。    

 ……鈍刀だけもって発つか

 龍馬が帰宅すると、兄の権平が「龍馬、才谷屋に何しにいったがぜよ?」といった。

「ほんの、遊びじゃ」

 こんなに警戒されては策も尽きたか……龍馬は部屋で寝転がり一刻ばかり眠った。

 手蝋燭をもってくる人物がいる。それを龍馬の部屋にいれ、行灯に火を移した。

「あぁ、なんだお栄姉さんか」龍馬はほっとした。

 坂本家には女が多い。

 一番上の姉が千鶴で、これは城下の郷士高松家に輿入れして二男一女の母である。三番目の姉が龍馬を育ててくれた乙女で、これも輿入れしている。

 二番目の姉がこのお栄であるが、このお栄は不幸なひとで郷士の柴田家に嫁いだが離縁されて坂本家に出戻ってきていた。

 ……坂本の出戻りさん。

 といえばこのお栄のことで、お栄は出戻りらしくせまい部屋で慎ましく生活していた。華奢な体で、乙女とくらべれば痩せていて、本当に姉妹なのか? と思いたくなる女性だ。「存じていますよ、龍馬。あなたの脱藩がどれだけ家族に迷惑をかけるかがわらないのですか?」

「そげんまでのんきじゃないき」

「脱藩したら二度とお国にもどってこれませんのよ」

「弱ったな」おとなしいお栄姉さんからこんな説教をうけるとは思ってなかった。

「じゃきに、わしは男じゃきに。野心をかなえるためには脱藩しかないんぜよ」

「野心って何?」

「回天ですき。日本をいま一度洗濯するんじゃき」

「……わかりました」

「ほな、姉さん勘弁してくださるのんか」

「勘弁します。それにあなたが欲しがっている陸奥守吉行もわたくしからの贈物としてさしあげます」

「え? なんきに姉さんが陸奥守吉行もっちゅう?」

 龍馬は半信半疑だった。……陸奥守吉行というのは名刀である。

「これはわたくしが離縁したとき、前の夫(柴田義芳)からもらったものです。坂本家のものでも才谷家のものでもありません。あたくしのものです」

 龍馬はお栄姉さんより名刀をもらった。

 これが、お栄の不幸となった。

 龍馬の脱藩後、藩丁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらったことが判明し、柴田義芳は激怒した。坂本家まできて、

「なぜそなたはわしの形身を龍馬にやったのじゃ?!」とお栄をせめた。

 お栄は、そのあと自殺している。

 天命としかいいようがない。天がひとりの姉を離縁とし刀を英雄に授け、そして自殺においこんだ。すべては日本の歴史を変えるために………

乙女姉やんは「龍馬、脱藩しても我らは家族じゃきにな。家族じゃぞ」と泣いた。

龍馬も「すまんちや、すまんちや乙女姉やん、すまんちや。」と熱い涙を流した。

そして龍馬は脱藩するのである。



 土佐藩参政吉田東洋が、武市の勤王党の手で暗殺された。

 文久二年四月八日、夜、十時過ぎであったという。

 この日は、夕方から雨がふっていた。東洋は学識もあり、剣のうでもすごかった。が、開国派でもあった。そのため夜、大勢に狙われたのだ。

 神影流の剣で立ち向かったが、多勢に武勢、やがて斬りころされてしまう。

「吉田殿、国のために御成仏!」

 東洋は殺された。

 このころ、龍馬は高知城下にはいなかった。

 龍馬の兄の権平は呑気なもので「龍馬はどこいったんぜよ?」などという。武市一派の東洋暗殺にさきだつ十五日前の文久二年三月二十四日、闇にまぎれて脱藩してしまっていた。「いよいよ、龍馬は脱藩したのかのう?」

 もはや公然の秘密である。

 龍馬は神社にお参りしたあと、連れの沢村惚之丞とともにふもとの農家にいった。

「龍馬あ、旅支度せい」

「いや、ひょうたんひとつで結構じゃ」

 ふところには金十両があり、ひょうたんには酒がはいっている。腰にはお栄からの陸奥守吉行がある。「よし! いくぜよ!」

 脱藩とは登山のことであるという。

 土佐の北には四国山脈がある。険しい山道、けもの道を駆けていかねば脱藩は成らぬ。山道には関所、人の目があり、みつかれば刑務所行きである。民家にもとまれない。役人に通報されるからである。寝ず、駆けどおしで、闇の中を駆けた。

 ………〝武士がかわらなければ日本はかわらんぜよ〟…

 ………〝国をかえるには自分がかわらんなきゃならぬ〟…

 龍馬は、寝ず、駆けどおしで、けもの道を、闇の中を、駆けた、駆けた。

 こうして、龍馬は脱藩したので、ある。



 いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、大久保一蔵(利道)にはそれは知らなかった。

 幕府要人の暗殺をしようとしている。

「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」

 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。

 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。

「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。

「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」

 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」

 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋へ向かった。

 のちにゆう『寺田屋事件』である。

「久光公からの命である! 御用あらためである!」

 寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。

 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。

 ほどなく、戦闘がはじまった。

 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。

 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。

 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。

「襲撃だ!」

 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。

「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……

 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。

 倒れる音で、志士たちがいきり立った。

「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。

 志士たちはわずか七名となった。

「手むかうと斬る!」

 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。

 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。

 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。

 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。

 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、

「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。

 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。

 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。

 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。  ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。

 吉之助(西郷隆盛)はそれを知り、

「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。

 龍馬は、京の町をあてもなく彷徨っていた。


 文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。

 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。

「さがれ! 無礼ものどもが!」

 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。

 これが『生麦事件』である。


         四 勝海舟






 観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。

 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。

 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。

 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。

 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。

 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。

 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。

 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。

 教育過程は次のとおりであったという。

 班長担当

    綱索取扱い           週三時間

    演習              週三時間

    規程              週三時間

    地文学             週二時間

 一等尉官担当

    艦砲術             週五時間

    造船              週五時間

    艦砲練習            週六時間

    (歩兵操練監督)

 二等尉官担当

    運転術             週五時間

    数学・代数           週五時間

    帆操縦(測定器・海図・観測)  週九時間

 主計士官担当

    算術              週九時間

 軍医担当

    物理              週三時間

    代学              週三時間

    分析学             週三時間

    包帯術             週三時間

 機関士官担当

    蒸気機関理論

                    週六時間

   飽ノ浦工場建設、蒸気機関監督含む。

 軍人以外の教育担当

    オランダ語・算術教授      週十一時間

    乗馬              週十時間

 海兵隊士官担当

    歩兵操練            週十五時間

    船上操練            週四時間

    一般操練            週三時間

 鼓手担当

    軍鼓練習            週十二時間

 船大工担当

    造船所の操練

 製帆手の担当

    マストの操練

 水兵担当

    水兵の勤務実習

 看護手担当

    医官の手伝い・印刷部の手伝い

 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚     

志を任命した。

 長崎にいくことになった勝麟太郎(勝海舟)も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。

 かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。

 しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。

 幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。

 海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。

 麟太郎は矢田堀とともに海路をとったという。

 昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。   

 長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。

 あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。 長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。

「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につっかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」麟太郎は言葉をきった。

「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」

「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。

「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。

 昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。

 長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。

 伝習所は長崎奉行所の別邸で、教師はオランダ人である。幕府が一番やっかいだったのは蒸気機関である。それまで蒸気機械などみたこともなかったから、算術に明るい者を幕府は送り込んできた。

 教育班長のペルス・ライケンは日本語を覚えようともせず、オランダ語で講義する。日本人の通訳が訳す訳だが、いきおいわからない術語があると辞書をひくことになる。

 ペルス・ライケンは生徒達に授業内容を筆記させようとはせず、暗記させようとした。そのため困る者が続出した。

 勝麟太郎と佐賀藩士の佐野常民、中牟田倉之助の三人はオランダ語を解するので、彼等が授業後にレポートを書き、伝習生らはそれを暗唱してようやく理解したという。

 麟太郎はいう。「俺はオランダ語ができるのでだいたいのことはわかるから聞いてくれ。ただし、算術だけは苦手だからきかねぇでほしいな」

 ペルス・ライケンは専門が算術だけに、微分、積分、力学など講義は難解を極めた。

 安政三年十月から十一月まで麟太郎は江戸に一時戻り、長崎の伝習事務を取り扱っていた。幕府は、麟太郎をただの伝習生として長崎にやった訳ではなかった。

 のちの勝海舟である勝麟太郎は、以前からオランダ語をきけたが、ペルス・ライケンの講義をきくうちに話せるようにもなっていた。それで、オランダ人たちが話し合っている内容をききとり、極秘の情報を得て老中阿部伊勢守正弘に通報するなどスパイ活動をさせたのだ。

 やがて奥田という幕府の男が麟太郎を呼んだ。

「なんでござろうか?」

「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」

 奥田のこの提案により、勝麟太郎は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」

 麟太郎は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、麟太郎は隊長役をつとめており明るかった。

 雪まじりの風が吹きまくるなか、麟太郎は江戸なまりで号令をかける。

 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。

 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から麟太郎のような者がでてくるのはうれしい限りだ。

 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。

 訓練を無事におえた麟太郎は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。

 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。

 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。

 勝麟太郎も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。

 彼が長崎に残留したのにはもうひとつ理由があった。麟太郎には長崎に愛人がいたのである。名は梶久といい未亡人である。年はまだ十四歳であったがすでに夫が病没していて未亡人であった。

 縁は雨の日のことである。

 ある雨の日、麟太郎が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。

「これはかたじけない。おかげで助かった」

 麟太郎は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかお久が伝習所に訪ねてきて金をかえした。それが縁で麟太郎とお久は愛しあうようになった。当然、肉体関係もあった。お久はまだ十四歳であったが夫が前にいたため「夜」はうまかったという。 伝習所に幕府の目付役の上司がくると、麟太郎はオランダ語でその男の悪口をいう。

 通訳がどう訳せばわからず迷っていると、麟太郎は、

「俺の片言が訳せないなら言ってやろうか?」とオランダ語で脅かす。

 ある時、その上司の木村図書が麟太郎にいった。

「航海稽古の時、あまり遠方にいかないようだがもっと遠くまでいったらいいのではないか?」

 麟太郎は承知した。図書を観光丸に乗せ、遠くまでいった。すると木村図書はびびりだして「ここはどこだ?! もう帰ってもよかろう」という。

 麟太郎は、臆病者め、と心の中で思った。

 木村図書は人情に薄く、訓練者たちが夜遊びするのを禁じて、門に鍵をかけてしまう。 当然、門をよじのぼって夜の街にくりだす者が続出する。図書は厳重に御灸をすえる。あるとき麟太郎は激昴して門の鍵を打ち壊し、

「生徒たちが学問を怠けたのなら叱ってもよいが、もう大の大人じゃねぇですか。若者の夜遊びくらい大目にみてくだせぇ!」と怒鳴った。

 図書は茫然として言葉も出ない。

 麟太郎がその場を去ると、木村図書は気絶せんばかりの眩暈を覚えた。「なにをこの若造め!」図書は心の中で麟太郎を罵倒した。

 麟太郎を中心とする兵学者たちは、高等砲術や工兵科学の教示をオランダ人たちに要請した。教師たちは、日本人に高度の兵学知識を教えるのを好まず、断った。

「君達はまだそのような高度の技術を習得する基礎学力が備わってない」

 麟太郎は反発する。

「なら私たちは書物を読んで覚えて、わからないことがあったらきくから書物だけでもくれはしまいか?」

 教師は渋々受け入れた。

 研究に没頭するうちに、麟太郎は製図法を会得し、野戦砲術、砲台建造についての知識を蓄えたという。

 安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を      

受け取ると咸臨丸と船名を変えた。

 カッテンデーキがオランダから到着して新しい学期が始まる頃、麟太郎は小船で五島まで航海練習しようと決めた。麟太郎と他十名である。

 カッテンデーキは「この二、三日は天気が荒れそうだ。しばらく延期したほうがよい」 と忠告した。日本海の秋の天候は変りやすい。が、麟太郎は「私は海軍に身をおいており、海中で死ぬのは覚悟しています。海難に遭遇して危ない目にあうのも修行のうちだと思います。どうか許可してください」と頭を下げた。

 カッテンデーキは「それほどの決意であれば…」と承知した。

 案の定、麟太郎たちの船は海上で暴風にあい、遭難寸前になった。

 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。勝海舟は助かった。なんとか長崎港までもどったのである。「それこそいい経験をしたのだよ」カッテンデーキは笑った。

 カッテンデーキは何ごとも謙虚で辛抱強い麟太郎に教えられっぱなしだった。

「米国のペリー堤督は善人であったが、非常に苛立たしさを表す、無作用な男であった」 彼は、日本人を教育するためには気長に粘り強く教えなければならないと悟った。

 しかし、日本人はいつもカッテンデーキに相談するので危ういことにはならなかったのだという。この当時の日本人は謙虚な者が多かったようで、現代日本人とは大違いである。 麟太郎は、さっそく咸臨丸で練習航海に出た。なにしろ百人は乗れるという船である。ここにきて図書は「炊事場はいらない。皆ひとりずつ七輪をもっている」といいだした。 麟太郎は呆れて言葉もでなかった。

「この木村図書という男は何もわかってねぇ」言葉にしてしまえばそれまでだ。しかし、勝麟太郎は何もいわなかった。

          

 薩摩藩(鹿児島県)によると、藩主の島津斉彬が咸臨丸に乗り込んだ。

「立派な船じゃのう」そういって遠くを見る目をした。

 麟太郎は「まだまだ日本国には軍艦が足りません。西洋列強と対等にならねば植民地にされかねません。先のアヘン戦争では清国が英国の植民地とされました」

「わが国も粉骨砕身しなければのう」斉彬は頷いた。

 そんな島津斉彬も、麟太郎が長崎に戻る頃に死んだ。

「おしい人物が次々と亡くなってしまう。残念なことでぃ」

 麟太郎はあいかわらず長崎にいた。


 コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。

 短期間で命を落とす乾性コレラであった。

 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。

 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。


 赤坂田町の留守のボロ屋敷をみてもらっていた旗本の岡田新五郎に、麟太郎はしばしば書信を送った。留守宅の家族のことが気掛かりであったためだ。

 それから幕閣の内情についても知らせてほしいと書いていた。こちらは出世の道を探していたためである。

 麟太郎は岡田に焦燥をうちあけた。

「長崎みたいなところで愚図愚図して時間を浪費するよりも、外国にいって留学したい。オランダがだめならせめてカルパ(ジャワ)にいってみたい」

 はっきりいって長崎伝習所で教えるオランダ人たちは学識がなかった。

 授業は長時間教えるが、内容は空疎である。ちゃんと航海、運用、機関のすべてに知識があるのはカッテンデーキと他五、六人くらいなものである。

「留学したい! 留学したい! 留学したい!」

 麟太郎は強く思うようになった。…外国にいって知識を得たい。

 彼にとって長崎伝習所での授業は苦痛だった。

 毎日、五つ半(午前九時)から七つ(午後四時)まで学課に専念し、船に乗り宿泊するのが週一日ある。しかも寒中でも火の気がなく手足が寒さで凍えた。

「俺は何やってんでい?」麟太郎には苦痛の連続だった。

 数学は航海術を覚えるには必要だったが、勝麟太郎は算数が苦手だった。西洋算術の割り算、掛け算が出来るまで、長い日数がかかったという。

 オランダ人たちは、授業が終わると足速に宿舎の出島に帰ろうとする。途中で呼び止めて質問すると拒絶される。原書を理解しようと借りたいというが、貸さない。

 結局彼らには学力がないのだ、と、麟太郎は知ることになる。

 麟太郎は大久保忠寛、岩瀬忠震ら自分を長崎伝習所に推してくれた人物にヨーロッパ留学を希望する書簡を送ったが、返答はなかった。

 麟太郎はいう。

「外国に留学したところで、一人前の船乗りになるには十年かかるね。俺は『三兵タクチーキ』という戦術書や『ストラテヒー』という戦略を記した原書をひと通り読んでみたさ。しかし孫子の説などとたいして変わらねぇ。オランダ教官に聞いてみたって、俺より知らねぇんだから仕様がないやね」

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。

 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。

 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。

 オランダ教官は、日本人伝習生の手腕がかなり熟練してきていることを認めた。

 安政五年、幕艦観光丸が艦長矢田堀景蔵指揮のもと混みあっている長崎港に入港した。船と船のあいだを擦り抜けるような芸当だった。そんな芸当ができるとはオランダ人たちは思っていなかったから、大変驚いたという。

 翌年の二月七日、幕府から日本人海軍伝習中止の命が届いて、麟太郎は朝陽丸で江戸に戻ることになった。

 麟太郎は、松岡磐吉、伴鉄太郎、岡田弁蔵とともに朝陽丸の甲板に立ち、長崎に別れを告げた。艦長は当然、勝麟太郎(のちの勝海舟)であった。船は激しい暴風にあい、麟太郎たちは死にかけた。マストを三本とも切り倒したが、暴風で転覆しかけた。

「こうなりゃ天に祈るしかねぇぜ」麟太郎は激しく揺れる船の上で思った。日が暮れてからマストに自分の体を縛っていた綱が切れ、麟太郎は危うく海中に転落するところだった。 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。なんとか船は伊豆下田へと辿り着いたのである。「船は俺ひとりで大丈夫だから、お前らは上陸して遊んでこい」

 麟太郎は船員たちにいった。奇抜なこともする。


 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

 江戸にもどった麟太郎は赤坂元氷川下に転居した。麟太郎は軍艦操練所頭取に就任し、両御番上席などに出世した。

 米国側は、咸臨丸が航行の途中で坐礁でもされたら条約が批准されない、と心配してポーハタン号艦を横浜に差し向けた。

 万延元年(一八六〇)正月二十二日、ポータハン号は横浜を出発した。咸臨丸が品川沖を出向したのは、正月十三日だったという。麟太郎は観光丸こそ米国にいく船だと思った。 が、ハリスの勧めで咸臨丸となり、麟太郎は怒った。

 だが、「つくってから十年で老朽化している」というハリスの判断は正しかった。観光丸は長崎に戻される途中にエンジン・トラブルを起こしたのだ。

 もし、観光丸で米国へ向かっていたらサンドイッチ(ハワイ諸島)くらいで坐礁していたであろう。

 勝麟太郎(のちの勝海舟)は咸臨丸に乗り込んでいた。

 途中、何度も暴風や時化にあい、麟太郎は船酔いで吐き続けた。が、同乗員の中で福沢諭吉だけが酔いもせず平然としていたという。

「くそっ! 俺は船酔いなどして……情ない」麟太郎は悔しがった。

「船の中では喧嘩までおっぱじまりやがる。どうなってんでぃ?」


 やがて米国サンフランシスコが見えてきた。

 日本人たちは歓声を上げた。上陸すると、見物人がいっぱいいた。日本からきたチョンマゲの侍たちを見にきたのだ。「皆肌の色が牛乳のように白く、髪は金で、鼻は天狗のように高い」麟太郎は唖然とした。

 しかし、米国の生活は勝麟太郎には快適だった。まず驚かされたのはアイス、シヤンパン、ダンスだった。しかも、日本のような士農工商のような身分制度もない。女も男と同等に扱われている。街もきれいで派手な看板が目立つ。

 紳士淑女たちがダンスホールで踊っている。麟太郎は「ウッジュー・ライク・トゥ・ダンス?」と淑女に誘われたがダンスなど出来もしない。

 諭吉はあるアメリカ人に尋ねてみた。

「有名なワシントンの子孫はどうしていますか?」

 相手は首をかしげてにやりとし「ワシントンには女の子がいたはずだ。今どこにいるのか知らないがね」と答えた。

 諭吉は、アメリカは共和制で、大統領は四年交替でかわることを知った。

 ワシントンといえば日本なら信長や秀吉、家康みたいなものだ。なのに、子孫はどこにいるのかも知られていない。それを知り彼は、カルチャーショックを受けた。

 カルチャーショックを受けたのは麟太郎も同じようなもの、であった。

 のちの龍馬の師もそれだけ苦労した、ということだ。


 龍馬は藩命で長州にいって久坂玄瑞や高杉晋作とあったことがある。そこで長州藩士の久坂玄瑞や高杉晋作とあっている。三千世界の烏を殺し…高杉の歌である。            

「土佐の吉田東洋、長州の長井雅楽、薩摩の久光は奸俗ぞ!」

 高杉はいった。「斬らねばなるまい!」

 その言葉通り、武市半兵太らは岡田以蔵らをつかって吉田東洋など開国派たちを次々と斬り殺していった。

 その頃、龍馬は勝海舟の館の門で見張りをしていた。

 勝の娘・孝子が「お父様、あの門で毎晩見張りしているお侍さんは誰です?」ときく。 勝海舟は笑って「あいつは龍さんよ。俺を守っている気なんだろう」

 龍馬はいまでも勝海舟に初対面したことを忘れない。

 千葉重太郎とともに勝の屋敷を訪ねて斬り殺す気でいた。

「相手は開国派……このわしが斬る!」千葉はいった。

「お前ら俺を斬りに来たんだろ? 松平春嶽公の書状じゃあ、坂本龍馬とかいうやつは凄い面白いやつだっていうじゃねえか。どういう風に面白いんだ? おいらに見せてみろ」

「わしは…面白いことはなんちゃあ出来ませんきに」

「千葉重太郎同じく」

「じゃあ、何のためにきたんだ? おいらの弟子になろうってまで思い詰めたんだ。何かあうだろう? お前さんの志ってもんをおいらに見せろっていってんだ」

「志…そうですろうのう。わしの志は四民平等の自由な日本。日本の洗濯ですきに」

「おまえさんらどうもあんぽんたんだなあ」

 勝は度肝を抜かせた。勝は地球儀をみせて「これなんだかわかるけい?」ときいた。

千葉重太郎と龍馬は目が点になった。

「ここが日本だ」ちっぽけな国だった。「世の中にはいろいろな国があるぜ。メリケン、プロシア、清国、インド、アフリカ、イギリス…イギリスなんざ超大国といわれているがみろ! こんなちっぽけな島国だ。しかし世界に冠たる大英帝国を築いている……なぜだと思う?」

 龍馬は興奮して「船……船ぜよ!」

「そうだ…軍艦だ! 日本は鎖国でも壤夷でもない。…第三の道…すなわちすみやかに開国して貿易によって儲けて軍艦を備えるこった。佐幕なんざ馬鹿らしいぜ! そのための開国だぜ」

「勝先生! わしば弟子にしてくれませんきにか?!」

 千葉重太郎は呆気にとられたままだったが、龍馬は真剣だった。

「龍さんとやら……あんた面白いやさだね?」                    

         五 壌夷




 ホノルルに着いて、麟太郎たちはカメハメハ国王に謁見した。

 ハワイの国王は三十五、六に見えた。国王の王宮は壮麗で、大砲が備え付けられ、兵士が護衛のため二列に並んでいた。

 ホノルルは熱帯植物が生い茂り、情熱的だ。麟太郎は舌をまいた。

 ハワイに来航する船の大半は捕鯨船である。来島するのはアメリカ、イギリス、その他の欧州諸国、支那人(中国人)もまた多く移住している。

 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。

 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。

「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」

 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。

 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。

 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。

 麟太郎は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。

「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」

 麟太郎は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、

「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。

 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。


 麟太郎は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終     

えたのち、将軍家茂に謁した。

 麟太郎は老中より質問を受けた。

「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」

 麟太郎は平然といった。

「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」

「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」

 麟太郎は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」

 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。

 麟太郎は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。

「この無礼者め!」

 老中の罵声が背後からきこえた。

 麟太郎が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、        

「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。

 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。

 この一件で、幕府家臣たちから麟太郎は白い目で見られることが多くなった。

 麟太郎は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば麟太郎は「裏切り者」にみえる。

 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。

 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。

 麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。

 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。

 彼は次々と出世をしていく。

 一方、勝麟太郎は反対に、〝窓際〟に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免       

職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。                                

 過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。


 左遷先には有名な学者もいたが、麟太郎にはそんな仕事は退屈きわまりない。朝に出勤すると仕事は部下にまかせ、日当たりのいいところで〝ごろ寝〟ばかりして過ごした。

 ……幕府は腐りきっている。

 いつしか、そんな感情を、勝麟太郎(勝海舟)はもつようになっていった。

 当時は、目付役が諸役所を見回り、役人の勤怠を監視していた。そして、麟太郎の行い         

を見咎め、若年寄に報告したという。                 

「勝はいつ出向いても、肩衣もとらず寝転んで、全く仕事をいたしておりませぬ」

 若年寄は、それを老中に上進し、勝海舟は役職を失いかけない立場にたった。

 彼を支援してくれていた開明派の官僚は、井伊大老の暗殺以降みんな失脚していた。

 麟太郎は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。

 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。

 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。

「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。

 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なっていたところへ、国際問題が起こった。

 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。

 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。

 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。

 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。

 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。

 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。

 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。

 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。

 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。

 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」

 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。


 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。麟太郎は残念に思った。

「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」

 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。 しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。

 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。

 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を麟太郎は思った。麟太郎は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士            

気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。

 麟太郎は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことにはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。

「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」

 麟太郎は斉昭の欠点を見抜いた。

「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」

 麟太郎は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。

「おしいことでい」勝麟太郎は悔しい顔で頭を振った。

 赤坂の麟太郎の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、麟太郎の傍らにつきっきりで世話をやく。麟太郎は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも麟太郎には妾がいた。麟太郎は絶倫である。

 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。


 井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。

 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の〝外遊〝に似ている。

 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。

 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。

「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」

 麟太郎は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と感心した。

 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、

「なにか申すことがあるであろう? 申せ」

 しかし、何の返答もない。

 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと麟太郎に声をかけた。

「勝麟太郎、どうじゃ?」

 一同の目が麟太郎に集まった。

 〝咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する〟 という噂が広まっていた。

 麟太郎が平伏すると、大久保越中守が告げた。

「麟太郎、それへ参れとのごじょうじゃ」

「ははっ!」

 麟太郎は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。

 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、麟太郎はそれを知りながら無視した。麟太郎はいう。

「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。

 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。

 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。

 海軍の策は、敵を征伐する勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」

 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と麟太郎は説く。

 この年、麟太郎門下の坂本龍馬が訪ねてきた。龍馬は前年の文久二年夏、土佐藩を脱藩し、千葉定吉道場で居候していたが、近藤長次郎に連れられ、麟太郎の屋敷を訪ねてきた。 最初は麟太郎を殺すつもりだったが、麟太郎の壮大な構想をきくうちに感化され、すぐに弟子入りをした。

「お前さん、俺の弟子になるっていううんだろう? お前の考えをいってみろ。」

「え? 考えですか?」

「お前さん、どうもあんぽんたんだねえ。日本は開国か攘夷か? どう思うね?」

「いや。その……いや、日本はもう開国しちゅうきに。開国して軍艦をいくつもつくり、西洋の最新技術や知識や教育をどんどん学んで、日本を開国して……いい国に! 四民平等の国にするがじゃ! 日本は共和制の国でええがじゃ。要人も入れ札で決めればいいき!」

「そうだ! お前さんいいね、気に入った! それがすなわち第三の道だ。開国してその後、日本を先進国にするのだ! いいね、龍さん!」

「ありがとうございます、勝先生」

「お前さんは今日から俺の弟子だ」

勝麟太郎は龍馬を幕府軍艦に乗せた。龍馬は「おおおっ! 黒船じゃあああっ!」と興奮した。その興奮の中、手紙を書いた。

 龍馬は姉・乙女に手紙を書く。〝天下一の英傑・勝麟太郎(勝海舟)先生の弟子になりました。えへんえへん〟……


 激しい西風を受け、順動丸は正月二十三日の夕方、浦賀港に入り、停泊した。麟太郎は風邪をこじらせていた。麟太郎が風邪で順動丸の中で寝込んでしまったため、兵庫の砲台の位置についての取決めは延期となった。

 この日の午後、坂本龍馬、新宮馬之助、黒木小太郎ら、麟太郎が大阪で開塾した海軍塾生らが順動丸を訪ねた。彼らは塾生仲間だった鳥取藩の岡田星之助が、壤夷派浪人と結託して、麟太郎の命を狙っているので、先手をうって斬るつもりであるという。そして、彼等は落ち着いて話す間もなく引き揚げていった。

 京は物騒で、治安が極端に悪化していた。

 京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。

 なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、                     

天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。

「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」麟太郎はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。

 そんな時、『生麦事件』が起こる。

 『生麦事件』とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。

「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」

 麟太郎は幕府の無能さを説く。

「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」

 五日には大阪の宿にもどった麟太郎は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。

 宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、麟太郎は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。

「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」

 龍馬はにやりと笑って、

「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」

 岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、

「喜んでいきますきに!」といった。

 麟太郎は幕府への不満を打ち明ける。

「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」

「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。

 勝麟太郎は「そうだ」と深く頷いた。

「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」

「その通りだ」

「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」

「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」

「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。

 京都に入ると、目付きの悪い浪人たちが群れをなして近付いてくるではないか。龍馬と以蔵はいつ斬りこまれてもいいように間合いを計った。

 浪人が声をかけてきた。

「貴公らはいずれのご家中じゃ?」

 以蔵はわめいた。「俺の顔を知らんがか。俺は岡田以蔵じゃ! 土佐の人斬り以蔵を、おんしら、知らんがか?!」

 以蔵は左手で太刀の鯉口を切り、右膝を立て、浪人を睨む。

「これはおみそれした」

 以蔵の名を聞いた浪人が、怯えた表情を隠さず、引き下がった。

 龍馬と勝麟太郎のほうを振り返り、以蔵はいう。

「今の奴がなんぞほざきよったら、両膝を横一文字にないじゃったがに、惜しいことをしたぜよ」以蔵の目が殺気だっているので麟太郎は苦笑した。

「以蔵はひとを斬るのがよほど好きなのだな。だが殺生は控えてくれよ」

 勝海舟(麟太郎)がいうと、以蔵が「じゃきに、先生。わしらが浪人を追っ払わなければ先生は殺されたがったぜよ」と笑った。

 龍馬が「勝先生は直心影流の剣の達人ぜよ。失礼は許さんぜよ」

「先生はいつも剣の鍔と鞘を紐で結んでいるがぜ。達人でも剣が抜けなければダメじゃきに」 勝海舟は苦笑いを浮かべて「てやんでい…はははは」と笑った。「その通りだ! しかし以蔵さんよひと斬りはいかんぞ。本物の武士がするこっちゃねぇ。これからは勝の弟子の岡田でいてくれ」

 京で、麟太郎は長州藩の連中と対談した。

「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」

 桂たちは、麟太郎の意見にことごとく同意した。

 麟太郎はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、麟太郎は出世を辞退している。「偉くなりたくて活動しているんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。

 そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。

 千葉さな子は短刀をもって龍馬の所へきた。「さな子を龍馬さまのお嫁さまにしてくだされ! でなければさな子はこれで死にまする!」龍馬は焦って、

「さな子殿! わしは誰とも結婚せん! わしはこの国を回天させるんじゃきに」

 というばかりだ。

 その頃、武市半平太の元にいた岡田以蔵は〝人斬り以蔵〝と呼ばれるほど京の都で人斬りを繰り返していた。武市のロボットのように天誅と称して尊皇攘夷に反対している浪人や侍旗本らを闇討ちしていた。武市半平太の天下のような土佐だったが、尊皇攘夷など無理難題、である。


 渋沢は三菱の創始者・岩崎弥太郎と対立している。岩崎はひとりでどんどん事業を展開すべきだといい、渋沢は合本組織がいいという。

 渋沢は岩崎を憎まなかったが、友人の益田孝、大倉喜八郎、渋沢喜作などが猛烈に岩崎を批判するものだから、岩崎は反対派の大将が渋沢栄一だと思ってひどく憎んだという。 こうしてのちに明治十三年、仲直りもせず岩崎は五十二歳で死んだ。                                

         六 和睦と新選組




 京都にしばらくいた勝麟太郎は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。

「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」

 麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。

 馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」

 麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。龍馬は助太刀にいかなかった。「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。

 棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。

 六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。

 見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎による決闘が行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二時間)ほど睨み合っていた。そして、それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。


 大阪より麟太郎の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。

 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。

 何事であろうか? と麟太郎は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。

「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」

 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。

「図書頭殿は、何の用できたのかい?」

「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」

 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。

「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」

「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」

「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持っているって話さ」

「何を考えているんだか」

 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。


 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。

 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。

 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。

 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。

 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。

 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。

 勝海舟は、龍馬が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。

「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃したとです。商船は逃げちゅうが、一万ドルの賠償金を請求してきたきに。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃しました。

 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきちゅうでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出たとです。

 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたとです」

 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。

「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたちゅうが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたちゅうことじゃきに」

「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」

「そうじゃきに。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げちゅうが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうです。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はなかとです。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だということじゃきに」

 将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。

 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。


 由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。

 麟太郎は矢田堀、新井らと話す。

「今夜中に出航してはどうか?」

「いいね。ななめに伊豆に向かおう」

 麟太郎は家茂に言上した。

「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。

 四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。

 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………

 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる〝報復〝だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。

 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。

 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。

 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。

 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。

 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。

 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。          

その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。

 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。

 ニールは応じなかったという。

「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」


 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。

「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」

 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛                 

門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。

 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。

 奈良原は答書を持参していた。

 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。

「あなた方はどのような用件でこられたのか?」

「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」

 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。

「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」

 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」

 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。

 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。

 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。

 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。

「いいでしょう。全員乗りなさい」

 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。

 薩摩藩士らは強くいった。

「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」

 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。

「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」

 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。

 それもどうにも噛み合わない。

 一、加害者は行方不明である。

 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。

 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。



 キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。

 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。

 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。

 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。

 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。

 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。

 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。

 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。

 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。

 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。

 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。

 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。

  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、麟太郎は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみていたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。

 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわっていねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」


 幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。

 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。

 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


 この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に〝英雄〝となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。

 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。

 その後、幕府の密偵を斬って遁走し暗殺されることになる。


 文久三(一八六三)年一月、近藤勇に、いや近藤たちにチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂の身辺警護をする浪人募集というものだった。その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。

 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。

 会合場所は、小石川伝通院内の処静院でおこなわれたという。

 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。

 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。

 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない〝浪人〝を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」

 土方は江戸訛りでいった。

「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。

 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。

 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。

「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」

 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。





         七 池田屋の変




  数日後、龍馬は旅支度をした。

 塾生たちは長州にいくのだと思った。

「いや。わしは江戸にいくきに」

「旦那はなぜ東に? 京にいてはまずいんですかい?」藤兵衛がいぶかしがるのもむりはない。京では一触即発の変事がいつおきてもおかしくない。特に、長州は何かやらかすつもりである。

「わしは勝先生に頼まれて軍艦を工面しにいくんじゃ」

 龍馬は笑った。軍艦を手にして、天下をとるかのごとしだ。

「わしはこの乱世を一手におさめるんぜよ」

 いうことだけはおおきい。

 長州は何かやらかすつもりである。無駄死にではあるまい。かれらの武装蜂起は、幕府や日本を動かすかも知れない。しかし、三百年続いた徳川の世がわずか数十人の浪士たちで壊せるはずもない。これはいよいよ薩摩と長州をふっつけて、大軍にして幕府を恫    

喝するしかない。

 龍馬は江戸に着いてすぐ、千葉道場に入った。

「兵法はすすんだか?」

 貞吉老人は即座にきいた。

「いや、別のことやっちゅうりますきに、いっこうにはかが参りませぬ」

「海軍に夢中になっているのであろう。さな子がまっておるぞ」

 貞吉はにやりと笑った。さな子は年頃の美貌の娘になっている。

 龍馬はさな子の部屋にいくと、「やあ!」と声をかけた。

「龍さん! あいたかったわ!」抱きついてくる。

「……乙女姉さんみたいな臭いがするきに」

「嫌いですか?」

「いや」龍馬は笑って「いい臭いじゃ。わしはこういう臭いが好きじゃ」

「では、さな子も好き?」

「じゃな」龍馬は頷いた。畳みにゆっくりと押し倒した。


 龍馬はうちわで争っているときじゃないと思っていた。このままでは勝先生のいうように日本は外国の植民地になってしまう。龍馬は薩摩と長州をなかよくさせようと走った。京、土佐、江戸、九州……

 出会った人物は、土佐藩北添、薩摩藩西郷吉之助(隆盛)、熊本藩横井小楠、小松帯刀、紀州藩伊達小次郎、福井藩三岡八郎(由利公正)、越中守大久保一翁……

 そして、師匠・勝海舟(麟太郎)。勝こそが維新のための頭脳であった。

 長州藩ら尊皇壤夷派が七卿を奉じて京都を去った今、家茂の上洛は必然のものとなった。役目は、朝廷を警護し、大阪城にとどまって摂海を防衛することである。

 麟太郎は、九月二日、順動丸で品川沖から大阪へ向かった。                

 老中坂井雅楽頭、大目付渡辺肥後守らが同船している。

 麟太郎は坂井に説く。

「ご上洛にうえは、ただ事変のご質問をなされるばかりにて、鎖港の儀につき、公卿衆に問われようとも、何事もお取りつくろうことなく、ご誠実にご返答なさるのが肝要と存じまする」

 老中がその場しのぎの馬鹿なことをいってもらっちゃ困るのだ。

 八日に紀州和歌山沖を通り、大阪天保山沖に到着したのは九日である。

 麟太郎は、順動丸に乗り込む塾生の坂本龍馬や沢村たちを褒めてやった。

「おぬしどもは、だいぶ船に慣れたようだな。あれだけ揺れても酔わねぇとはたいしたもんでい」

 麟太郎の船酔いはいつまでもなおらない。船が揺れるたびに鉢巻きをして、盥に吐き続ける……おえおえおえ。

 神戸海軍塾は、操練所より先に完成していた。龍馬たちは専称寺から毎日荷物を運んだ。 麟太郎は順動丸を神戸に移動させて、新井某に、航海でいたんだ箇所を修繕させ、十五日の朝、砲台建設箇所を見聞したあと、操練所と海軍塾を見た。

 海軍塾は麟太郎の私塾である。建設費用は、松平春巌から出資してもらった千両で充分まかなえたという。

 佐藤与之助にかわって坂本龍馬が海軍塾塾頭になり、その龍馬が建前入用金を記した帳簿を麟太郎に見せた。

「屋敷地八反余、ならびに樹木代六両とも五十二両。

 建物一ケ所、右引移り。地ならしとも三十両。

 塾三門(約五・四メートル)幅、長さ十間(十八・二メートル)、新規畳健具とも百七                   

十両。ほか台所、雪隠(トイレ)、馬屋、門番所、新規七十七両……」

 ほかにも塀や堀、芝などの代金がこまごまのっていたという。

 麟太郎は感心して「お前は何事も大雑把なやつだと思っていたが、以外とこまごまとした勘定をするのだな」と唸った。

 龍馬は師匠にほめられてぞくぞくと嬉しくなった。

「じゃきに、先生とわしは生い立ちが似ちょうとるきに。わしの祖父も商人だったっきに勘定もこまのこうなるますろう」龍馬は赤黒い顔に笑みを浮かべた。

 麟太郎がみると、塾はまだ未完成で、鉢巻きの人足が土のうをつみあげている最中であった。「龍馬、よくやった!」勝海舟は彼をほめた。

 翌日、ひそかに麟太郎は長州藩士桂小五郎に会った。

 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。

 桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。

 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と麟太郎に尋ねた。

 のちの海舟、勝麟太郎は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思っているのかい?」

 といった。

 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。

 麟太郎は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。

「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」

「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」

 数刻にわたり桂は麟太郎と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。


 十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひか          

れた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。

 麟太郎はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 

坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」

 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州藩奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。         

 浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。

 麟太郎が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。

 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。

 さっそく余を供にしていけ」といった。

 麟太郎は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。

「余の供はせぬのか?」

「そうですねぇ。そういうことになり申す」

「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」

 麟太郎は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。

「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」

「いいえ」麟太郎は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」

「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」

「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」

 麟太郎は答えた。

 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…


               

 若き将軍・徳川家茂の上洛は海路よりとられ、やがて上陸した。

 この夜、家茂は麟太郎を召し寄せ、昼間の労をねぎらい、自ら酒の酌をして菓子を与えるという破格の扱いをしたという。

 船は暴風にあい、あくる日、子浦にひきかえした。

 各艦長らは麟太郎を罵り、「上様に陸路での上洛をおすすめいたせ!」といきまいた。

 その争論をきいた家茂は「いまさら陸路はできぬ。また、海上のことは軍艦奉行がおるではないか。余もまたその意に任す。けして異議を申すではない」とキッパリ言った。

 この〝鶴の一声〟で争論は止み、静寂が辺りを包んだ。麟太郎は年若い家茂の決然とした言葉を聞き、男泣きに泣いたという。

 麟太郎は家茂の供をして大阪城に入った。

 勝海舟(勝麟太郎)は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。

 麟太郎は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。

「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。

 小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。

 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。

 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。

 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」


 麟太郎は相撲好きである。

 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。

 麟太郎は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。

 龍馬は麟太郎より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。

 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」

 麟太郎には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春巌からの指示だった。

 しかし、麟太郎は固辞して受け入れなかった。

  慶喜は、麟太郎が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。

 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、麟太郎はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ麟太郎が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と麟太郎に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。

 しかし、慶喜の真意がわかっていても、麟太郎は命令を拒むわけにはいかない。

 麟太郎は出発するまえ松平春嶽と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。

 麟太郎は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。

 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。

 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。

 麟太郎は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。                   

「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」

 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」

「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」

「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」

 麟太郎一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕篭にのる筈だが、麟太郎は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。

 麟太郎は、龍馬に内心をうちあけた。

「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。

 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけていたさ。幕臣は腐りきっているからな。

 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。

 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。

 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。

 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。

 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ。まずは藩だとかではなく日本人として考えろ! それが第一でい!」



「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。

「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とはのちの妻おりょう。

「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」

「すごい人殺しですわねぇ?」

「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」

「まぁ! あなたはすごいこと考えているんやねぇ」おりょうは感心した。

 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。

 その夜、おりょうと龍馬は愛しあった。龍馬は彼女との結婚を考えるようになる。

わしにはぴったりな女子ぜよ! おりょうは男好きする女である。この女となら……


 十二日の夕方、麟太郎の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)       

頃、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。

「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」

 勝麟太郎は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。

 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。

「なんてこった!」

 のちの勝海舟(麟太郎)は嘆いた。

「勝先生……どげんすっとじゃろう?」龍馬はその報をきいて、勝海舟がどんな動きをみせるか、興味を、もった。



 朝は開国、夜は壤夷といわれた土佐藩主・山内容堂の〝大獄〟がはじまった。

 岡田以蔵は勝海舟の元を離れ、土佐(高知県)にもどったところを土佐藩士たちに取押さえられた。

 以蔵は最初、刀を抜いて殺そうと思ったが、勝のいう言葉を思いだして刀を抜かなかった。この土佐の山内容堂の〝大獄〟は尊皇壤夷たちを土佐からすべて殺戮してしまおうと     

いうものだった。まるで幕府の井伊大老のやったのちにゆう〝安政の大獄〟のままだ。

 岡田以蔵は籠にいれられて拷問を受けた。

 土佐の開国派だった吉田東洋たちを殺したというのだ。

 それをやったのが岡田以蔵らであり、黒幕がいるというのである。

 黒幕の容疑で、武市半平太も牢獄にいれられた。

 しかし、武市半平太は『白札』だったために拷問は受けない。

 ただ、質問を受けた。後藤象二郎や乾(板垣)退助が沙汰を吟味する。

「吉田東洋さまや京で土佐藩士たちを殺戮指示したのはお主か?」

 武市半平太は答えない。

「もう一度きくぞ! 吉田東洋さまを殺すようにいったのは貴様か?!」

「………土佐藩士は口を割りますまい」

「なに?!」

 岡田以蔵はさらに拷問を受けた。石のぎざぎざ石床に座らされ、脚に石を積まれて木刀で殴られる。それでも以蔵は悲鳴をあげるだけで、口を割らない。

 ……以蔵耐えよ……

 武市半平太は遠くの悲鳴をききながら、考えた。

 ………以蔵がすべてのことをひとりでやったとあれば私は助かるかも知れない…

 虫のいい考えである。

 すべて岡田以蔵に罪をかぶせようというのだ。

 東洋たちの暗殺指示者は間違いなく武市半平太である。

 岡田以蔵はさらに拷問を受けた。

 他の土佐勤皇党の連中は次々と斬首される。

 岡田以蔵は口を割らないままに夜になった。

 龍馬は武市半平太や岡田以蔵たちの逮捕の報をお田鶴さまからきくと、駆け出した。

「龍馬さま~っ! いっても無駄です! 殺されますよ!」

 しかし、龍馬は土佐にむけて駆け出した。

 武市半平太は意を決した。

 ………以蔵がすべてのことをひとりでやったとあれば私は助かるかも知れない…

 武市は夜、自分の息のかかった武士を牢屋に呼んだ。

「……用意したか?」

「はっ。これが毒薬にござりまする。これをまぜたおにぎりを以蔵に食べさせまする」

 ひそひそいった。

 すべては岡田以蔵すべてに罪をかけようとした。

 岡田以蔵は薄暗い牢屋で横になっていた。拷問で、ぐったりと地面に横になっている。

彼は武市半平太を先生と呼んでおり、弟子だった。

 謀殺しようと、武士の男は横たわる以蔵の牢に入り、水とおにぎりをやった。

「武市先生からの差し入れだ。ろくなもの食ってないのだろう」

 岡田以蔵はおにぎりを貪るように食べた。そして、吐いた。

「先生が………わしを殺そうとしおった……先生が…」

 武士は動揺して、バレた、という顔をした。

 以蔵は藩の役人にすべてを話した。

 吉田東洋などの暗殺指示者が武市半平太であることや土佐勤皇党の関与……

「わしは土佐藩のものではない。勝海舟先生の弟子の岡田以蔵じゃ!」

 岡田以蔵は斬首された。享年二十八歳。また、武市半平太は武士として切腹して果てた。享年三十七だった。武市半平太には愛する妻・富子がいた。

 龍馬が駆けつけたときはすでに手遅れ、富子は号泣して龍馬を困らせた。

 姉の乙女はそんな龍馬を叱った。

 龍馬は雪のふりしきる中、以蔵たちの墓にいき、号泣した。

「……以蔵さん。武市さん……おんしらの命うばったのは…身分じゃ。わしは……身分も何もない国にこの日本国を…そう日本をつくるきに…」

 龍馬は墓にすがって、男泣きに泣いた。

 すべては幕府が悪い藩が悪い……この国は回天させねばならん!

 それが龍馬の信念になっていく。

「まずは薩摩と長州をくっつけて新しい政府ばつくるぜよ! それしかないきに!」





         八 薩長同盟






 麟太郎(勝海舟)は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。

 麟太郎は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。

「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。

 国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」

 幕府の重役をになう象山と協力して、麟太郎は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。

 そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して龍馬たちにいった。

「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」


                

 長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。

 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期にはあの高杉晋作がいた。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。

 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。龍馬と晋作は馬が合った。晋作はやがて龍馬より先に労咳(結核)で死ぬ。が、彼の奇兵隊や開国の志は、龍馬の未来絵図を描かせるに十分であった。

 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?

 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。

 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。

 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……

 松陰は思う。

 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……

 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。

 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。

 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。

 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。

 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。  

 …吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。

 かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。

「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」

 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

 文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。

 しかし、彼は〝尊皇壤夷〝で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。

 京での炎を、麟太郎も龍馬も目撃したという。

 久坂玄瑞は奮起した。

 文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長      

州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。

 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。

「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」

 『二心公』といわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。

 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。

 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。

  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。

 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。

 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。

 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。

 久坂玄瑞は沈黙した。

 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。

 七月十九日未明、『追放撤回』をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる『禁門の変』である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。

「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。

 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、

「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。

 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。

 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。

 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。

 麟太郎の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、麟太郎は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。

 龍馬と麟太郎は有志たちの死を悼んだ。



 そんな中、事件がおこる。

 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。

「このままではわが国は外国の植民地になる!」

 麟太郎は危機感をもった。

「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。

「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。


 慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。

 それに対応したのが、高杉晋作だった。

「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」

 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。

「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。

 幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。

「このまま保守派や幕府をのさばらせていては日本は危ない」

 その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。              

 ……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……

 「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。

「これより、長州男児の意地をみせん!」

 こうして「奇兵隊」が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州藩の保守派を駆逐、幕府軍十万を、「奇兵隊」三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。

(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)

 その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。


 幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。

 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。

「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」

 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。

 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。

 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。

 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」

幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。

 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。

「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」

 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。

 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。

 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。

 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」

一同は沈黙した。一同は考えた。そして、歴史は動いた。

夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。『薩長同盟成立!』 

龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」

「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。

「なんでもええきに。それ次は頬づりじゃ。抱き合え」

「……頬づり?」桂こと木戸は困惑した。

 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。

 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて『官軍』とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。

 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。

 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。

 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。

 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。



         九 龍馬暗殺


 




旧・幕府軍は東北、会津、蝦夷までいったが瓦解……こうして薩摩長州土佐などによる明治新政府ができた。

 しかし、民主主義も経済発展も産業新興もおうおうにして進まない。

 すべては金融システムのなさであるが誰も考えつかない。

 しかし、それをわかっている人間がいた。

 他ならぬ渋沢栄一である。

『戊辰戦争(いわゆる明治維新による官軍(薩摩長州軍)対徳川幕府軍による戦争)』後、桂小五郎改木戸孝允(木戸貫治)や大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、岩倉具視らが明治新政府の屋台骨になった。渋沢栄一も元・幕臣仲間の勝海舟(麟太郎)とともに役人となった。だが、枢軸は「維新三傑」といわれた西郷吉之助(隆盛)、木戸孝允(桂小五郎改)、大久保利通(一蔵)である。三傑は日本国家の参謀であり、参与・大臣という存在である。

 そんな中、渋沢の気に食わないのは大久保利通である。渋沢にとって大久保利通は「嫌いな人物」で、大久保のほうも渋沢は「嫌いな人物」で、あった。

 大久保は白亜の豪邸に住み、相当の贅沢な暮らしをしていた。どうも政党助成金や税金を着服・搾取していたようだが、生真面目な渋沢栄一にとっては「とんでもない事」と映る。

「貴公は贅沢が過ぎる! あの白亜の豪邸に毎日洋食フルコースを食っているそうだな?」

 渋沢が苦い顔をしても、大久保は、

「おいどんは此の国の参与で働いて偉いのでごわす。少しばかり贅沢せてもバチは当たらんでごわすぞ」

「それは違う」渋沢栄一は言った。「人間はみな「誰よりも自分が偉い」と思っている。だが「誰よりも偉い」人間などいない」

「綺麗事じゃっとなあ」

「貴公は「ノブレス・オブリージュ」という言葉を知っているのか?」

「知りもさん」

「「ノブレス・オブリージュ」とは金持ちや社会的地位の高い者には「社会に貢献する責任」があるということじゃ。貴公は論語すら馬鹿にしてよまない。いずれバチがあたるぞ」

「ふん、なんとでもいえ渋沢どん。おいはおいの生き方があるでな」

「官僚などとしょうして宦官みたいな試験馬鹿の役人をつくる人生か?」

「なんとでもいわばよかじゃっどん。此の国はおいと官僚の頭脳でいきている」

「あんさんは呆れたひとじゃ」渋沢は呆れた。

 まだ自分が偉い気になってやがる。救いようもない天狗だ。

 しかし、大久保と渋沢は「水と油」のような関係である。交わることはない。それは「価値観の違い」でもある。「論語と算盤」の渋沢栄一と「権威と独裁」の大久保利通では土台合う筈はない。話を戻す。




龍馬は京都で噂になった〝ひと斬り以蔵〝こと岡田以蔵のことが心配であった。

土佐藩は『土佐勤王党』の武市半平太らを捕縛して、戦犯として裁こうと何人もの捕り者をつかって土佐藩で処分しようと動いていた。以蔵は行方不明、いや、捕縛され拷問され殺されるのが恐怖で、京の町を逃げ回っていた。銭など持ってはいないから残飯をあさったり、風呂にも入れないから薄汚く、髭ぼうぼうで、今でいうホームレスのように新選組らから逃げ回っていた。お尋ね者、である。

龍馬は武市のことも気がかりだったが、以蔵がどうなったか、不安だった。

「陸奥くん、京で以蔵さんのことを一番よく知っちょるのは誰かのう?」

「え? 以蔵って京で評判の〝ひと斬り以蔵〝か?」

「そうじゃ」

「……そりゃあ、京でそういうことを知ってるのは京都の御庭番・新撰組だろうけど…」

「そうか! よし、新選組の屯所に行こう! 以蔵さんがどこへいるか知りたいがじゃ」

「まて、やめろ! 新選組は京都守護職・会津藩お抱えの〝人殺し集団〝だぜ!」

だが、陸奥はうかつだった。竜馬の後を追い、屯所まできてしまった。

龍馬は門番ににこにこ笑顔をつくり、知り合いの沖田総司の名を告げた。朝ごはんの時刻だった。陸奥は……しまった! うっかり屯所の中までついてきちまった。まさか! まさか! 龍馬は新選組に…俺まで斬られちまうよ、十九歳で、死にたくない!

だが、坂本は襖を開けた。

ちょうど新選組の一同が朝ご飯を食べているところだった。

陸奥は……ウソだろ!本当に新選組に以蔵とかいう奴のことを尋ねる気か?!とびびった。

「皆さん、朝御飯の中、すまんちぃや。沖田君、ひとつ聞きたいことがあるがじゃ」

沖田総司は……ありゃあ、坂本さんいくらなんでもやばいですよ、近藤さんや土方さんがいる屯所に直接来るなんて……もう唖然とした。

だが、龍馬は少しもビビらない。

「沖田くん、以蔵さんを知らんがか? ひと斬り以蔵じゃ」

「坂本さん。それは…」

「まさかもう新選組が以蔵さんを斬ったんじゃなかがですろうのう? 斬っとらんがか?」

「斬ってはいません」沖田は頷いた。

土方歳三や近藤勇が席を立ち、「おい、坂本とやら表に出ろ!」

「以蔵さんがいそうな場所を教えてくれたら表に出るがじゃ」

「じゃあ」土方は続けた。「教えてやるから表に出ろ!」

「ほうかえ? ならええ」

「ん? こいつは?」

「そいつは連れの陸奥くんじゃ」

「おい! お前も表に出ろ!」

陸奥はびびった。……畜生!ついてくるんじゃなかったぜ、まだ十九歳で、斬られて死ぬのか? この馬鹿坂本! 斬る気だぜ、新選組は…

表に出ると、陸奥と竜馬は周りを大勢で囲まれた。

「刀を抜け! 坂本!」土方が濃口を斬ろうとすると、龍馬が土方の刀の鞘渡りと手首を握り抜刀できないようにして「以蔵さんのことを教えてくれ! 頼むきに!」

「離せ! 離せ! …離せ!」

「教えてくれたら離すきに。おしえてくれ! 知っちゅうことを教えてくれ!」

土方にぴたりとついて、離れない坂本龍馬。「今、以蔵さんの情報は、新選組が一番くわしいはずじゃ! な!教えてくれ!」

「…離せ!…土佐勤王党の吉村寅太郎、那須信吾らは、大和の代官所を襲い、天誅組などと名乗ってわずか数十人で倒幕の兵を挙げた。幕府はやつらを討ちに行く。新撰組も命令が下ればいつでも出動する。また土佐勤王党には、土佐藩や幕府から捕縛命令がだされている! 捕縛して土佐に唐丸籠で送り返す。ひと斬り以蔵も、船着き場を新選組が見張っているから土佐には逃さねえ。大和へ逃げるしかねえだろう」

「…そうか」……わずか数十人で倒幕のため挙兵か…追い詰められての……決起なんだ…

「わかっていることは教えたぞ、離れろ!」

「おう、そうじゃったのう」

 竜馬は離れた。と、同時に土方の抜いた剣先をひらりとかわした。土方は驚いた。

「教えてくれてありがとう。ほいじゃのう、陸奥くん行こう」

 新撰組としては唖然とするしかない。

陸奥は逃げるように屯所を後にしようとしたが、あまりの恐怖からか腰を抜かしてしまった。……こ、こ、腰が抜けた…くそう

「どうした?陸奥くん?」

「い、いや、足をくじいちまった」あ! 陸奥は新選組屯所の門前で腰を抜かし、なおかつ失禁していた。…くそう、俺様がこわくて腰を抜かし、そのうえ失禁するとは…情けねえ。

「じゃあ、わしがおぶるきに。早く」

……おぶさったら失禁がばれる。ああ、くそう。竜馬は陸奥をおぶった。

…ああ~たのむぜ、バレねえでくれよ~~。

のちの陸奥宗光こと陸奥陽之助は、海軍塾ではその龍馬の宮本武蔵ばりの武勇を(自分も活躍したように)塾生たちにオーバーアクションで語ったという。

武市半平太も岡田以蔵も獄につながれ、やがて土佐藩の手によって殺されるのだが、龍馬は何もできない。

龍馬は自分の無力さを悔しがり、さすがに落ち込んだ様子であったという。

参考文献・漫画『おーい!竜馬』作・武田鉄矢・漫画・小山ゆう(小学館文庫)第八巻




坂本竜馬はのちの陸奥宗光(陽之助・小次郎)が海軍塾などで『嘘つき小次郎』『大ぼら吹きの小次郎』などと呼ばわれて嫌われているのを知った。

龍馬は勝麟太郎(海舟)の供をして大阪から京都へ向かう三十石船のなかで、他の塾生たちに聞こえないよう小次郎の耳元でささやいた。

「おまんは近頃、塾中で嘘つきの小次郎と呼ばれちゅうようながが、気にせんときや。おまんは頭がえいと、先生も認めちゅう。惚之丞(沢村)も、おまんが頭脳のすぐれた秀才じゃといいよるきに、阿呆どものいうががは気にせんときや」

「すんません。勝先生と龍馬さんのおかげで、命をつないでおります」

参考文献・漫画『おーい!竜馬』作・武田鉄矢・漫画・小山ゆう(小学館文庫)第八巻

+参考文献『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)参照

                



幕府の海軍塾『神戸海軍操練所』が幕命により、廃止されると坂本龍馬たちはまたも〝捨て犬〝のような立場になった。龍馬にしても沢村惚之丞らにしてもすでに脱藩しているので帰る故郷すらない。ご都合主義の現実主義者・陸奥陽之助(のちの宗光)は海軍塾が駄目になるとわかると真っ先に姿をくらました。だが、陸奥は大富豪でもやんごとなき身分でもない。たちまち乞食みたいになって、長崎にいた。英語の知識をいかしたい、という野望のためだった。竜馬たちが西郷隆盛のはからいで薩摩藩預かりの〝亀山社中(日本初の株式会社・のちの海援隊)〝として長崎に行くことなど陸奥は知らなかった。

だが、坂本龍馬たちは長崎で羽振りがいいように、見えた。

陸奥は乞食(ホームレス)みたいなものに落ちぶれていたから仕方ない。

だが、プライドの高い陽之助は乞食姿のままで「ひもじい。助けてくれ!」という訳にもいかない。洗濯物の外国人の船員の背広を盗んで体や顔を河で洗って、髭を反り、優雅なビジネスマンとして颯爽と龍馬たちの前に現れた。「お! これは坂本さん。おしさしぶりです」

「陸奥くんじゃなかが? 今まで何処におったがかえ?」

「僕は外国人相手にビジネスをやってまして。ははは。」

「ほう?」龍馬は感心した。「すごいのう、陸奥くんは。英語もペラペラなんか?」

「オフコース! 当然…」そういっていると陸奥は驚いた。竜馬たちの背後から服を盗んだマッチョな外国人船員たちが〝あいつだ!〝〝船長の服を盗んだ、黄色い猿だ!(英語)〝 

と遠くからやってくるじゃないか。

「お、お、俺はちょっと急いでいるんだ。外国人は時間にうるさいんだよ」

陸奥は…俺も坂本龍馬の亀山社中とやらに入れてもらえば、地獄のような乞食生活から抜け出せる! と逃げながら考えた。当然ながら陸奥陽之助は捕まり、外国人たちに殴られまくった。

リンチをうけながら、必ず社会的に成功することを誓った。自分に。復讐を。自分を馬鹿にした連中全員に。翌日、殴られて痣だらけになった顔で、龍馬に「亀山社中とやらに参加しないでもない」といきがっていうと、龍馬が、

「無理することはなかがぞ、陸奥! お前の苦労はわかっとるきに!」

陸奥は初めて人前で泣いた。救われた。そう思った。

参考文献・漫画『おーい!竜馬』作・武田鉄矢・漫画・小山ゆう(小学館文庫)第十巻

+参考文献『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)参照




陸奥宗光といえば『名外交官』『名外務大臣』『交渉のプロ』として、または『国際人』として知られるが、例えば坂本龍馬が〝船中八策〝や〝明治新政府名簿〝を、西郷隆盛や木戸孝允や大久保らに見せて、坂本竜馬の名前が名簿にないので「坂本どん、おんしの名がないでごわすぞ?」

と目を白黒させながら西郷たちが驚いていると、龍馬が縁側に座り、遠くを見るような目で、「わしは役人になりとうて走り回った訳じゃなかが。外国とビジネスでもして世界の海援隊でもやりますかいのう」と微笑んだ、という光景を何度も語って「かっこいい。あの西郷や木戸よりも龍馬のほうが大物に見えた」と語ったことで知られる。

めったに他人を褒める事のなかったあまのじゃくの陸奥陽之助(のちの宗光)だが、龍馬だけは死ぬ寸前まで褒めちぎっていたという。よほど坂本龍馬に看過されたらしい。

この明治政府の〝名外相〝〝国際人〝の陸奥宗光の恩人・坂本龍馬、いかに大人物かがわかるようなエピソードだ。

参考文献・漫画『おーい!竜馬』作・武田鉄矢・漫画・小山ゆう(小学館文庫)第十二巻十三巻


 龍馬は宵になると、後藤象二郎や板垣退助と話した。

 場所はきまって、なじみのお慶の清風亭である。

 本当なら後藤象二郎と板垣退助は土佐藩の上士で、後藤象二郎は土佐藩の吉田東洋の甥っ子だから、龍馬とまるで友達のように話す訳はない。大河ドラマ『龍馬伝』では『清風亭会談』として描かれた。

事実はあちらのほうが正しい。後藤は芸子のお元と竜馬と、清風亭であった。

襖の奥で刀を構えている土佐上士らと、龍馬の海援隊(亀山社中)の連中が刀を抜いて激突しようとの一触即発で奇跡のシュエイクハンドをする。

「やめや! 刀をしまいなや!」

「後藤さん板垣さん、土佐藩士も海援隊もシュエイクハンドをしませんか?」

「シュエイクハンド?」

「握手ですき! …外国では商談がまとまるとシュエイクハンドするぜよ」

「……く」

龍馬は手を前に出した。

後藤象二郎は握手した。「…これでええんか? 龍馬!」板垣も続く。「こうか」

「そうですろうのう。後藤さま板垣さま、後は土佐藩主容堂公に〝大政奉還〟の建白書を書いてもらいますかのう。」

「…調子に乗るな! 建白書とは受け入れられなければ藩主が切腹せねばならんもんじゃぞ! 誰がそれを幕府に差し出す? 山内容堂公を説得できるきにか」

「それは後藤さま、容堂公の覚悟次第じゃ! もう侍の世はおわりじゃきに!」

「大政奉還など無理じゃきに。国に政権を還し奉る………大ぼら吹きめ!」

「無理ではないきに! すべては後藤さま板垣さまや容堂公の覚悟次第! 今、行動せねば日本国がおわってしまうがじゃ! そうなれば土佐藩もおわりぜよ」

「……貴様!…」こうして容堂公は幕府に〝大政奉還〟の建白書を書き、その書状を幕府の将軍徳川慶喜に上奏した。無論、龍馬は浪人なので上奏できない。それをしたのは烏帽子直垂の集団の中の平伏する城の後藤象二郎である。

そして奇跡の〝大政奉還〟は成るのである。

「象二郎よ、坂本龍馬とはどんな男じゃ?」

「……板垣。……龍馬は……奇跡の男ぜよ。わしはあの男が妬ましい」

「日本の夜明けぜよ!」龍馬は涙を流して朝日を拝み、奇跡の歴史が動いたのを感じた。

これが歴史的事実だ。


「坂本さん。日本のことを頼みましたよ。ぼくはあの世で見ているから」

「…高杉さん。わかった」

龍馬と高杉は海辺で握手をした。

それが最期となった。


 時代は刻々とかわっていく。

 その岐路は孝明天皇の死だった。十二月十二日に風邪をひいて、寝込んでいたが、汗を沢山かき、やがて天然痘の症状がでた。染るのではないか……公家たちは恐れた。

 孝明天皇は最大の佐幕派であった。

 その孝明天皇の崩御は、幕末最大の衝撃だった。龍馬は残念がった。

 しかし「これで維新の夜が明けるぜよ!」とも思った。

 土佐藩は書状で、土佐藩に戻るように、と請求してきた。

「今更なにをいってやがる!」

 龍馬は土佐屋の奥座敷でそれを読み、まるめてポイと捨てた。藩というものの尊大さ、傲慢さに腹が立ったのである。

「海援隊」はついに成った。

 海援隊の規律、船中八策には、

     第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出すべき候

     第二策 上下議員政局を設け、議員を置いて万策を参議で、決定する候

            ……… 他

 と、ある。

 福岡藤次は、「船はどげんする?」ときいた。

 この件も五分でかたずいたという。薩摩藩を保証人として大浦お慶から一万二千両を借りて手にいれた大極丸の借金を、土佐藩が肩代わりすることになった。

 土佐藩との交渉もおわり、亀山社中が「海援隊」と改名された。

 紀州人陸奥陽之助が、「妙な気持ちだ」と龍馬にいうと、龍馬は、

「そのこころは安心やら馬鹿らしいやら」とおどけた。

 陸奥は大笑いした。



 ……〝世の生物たるものみな衆生なればいづれを上下とも定めがたし、今生の生物にしてはただ我をもって最上とすべし。皆が平等な個人。デモクラシー。新しい国づくりはライフワークへ。万物の時を得る喜び〟……

 ……〝戦争回避、血を流してなんとするのか〟……

 ……〝世のひとは我を何ともゆえばゆえ。我なすことはわれのみぞ知る〟……


「おれはこれでひっこむきに」

 龍馬は新政府にくわわらなかった。

 陸奥は「冗談ではない」と驚いた。龍馬は薩長連合を成し遂げ、大政奉還を演じ、新官制案をつくった。当然、新政府の主軸に座るべき人間である。なのにひくという。西郷隆盛や大久保利道や岩倉具視や木戸考允(桂小五郎)にすべて譲ってしまうという。

「すべて西郷らにゆずってしまう」

 龍馬は続ける。「わしは日本を生まれかわらせたかったんじゃきに。生まれかわった日本で栄達するつもりはない。こういう心境でなきゃ大事業ちゅうもんはできんき。わしがそういう心境でいたからこそ、一介の浪人にすぎなかったわしのいうことを皆がきいてくれたんぜよ。大事を成し遂げたのも、そのおかげじゃ。

 仕事ちゅうもんは全部やっちゅうのはいかんきに。八分まででいい。あとの二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまうといいきに」

 龍馬は二本松邸の西郷吉之助(隆盛)の元へいった。

「坂本くんでごわさんか」

 西郷は笑顔になった。「西郷先生、新政府頼みまするぞ」

「じゃっどん、なにごぜ新政府の名簿におんしの名がないのでごわす?」

「わしは役人になりたくないのですき。わしは『海援隊』で世界にでるぜよ」

「そげなこついうて……世界とばいうとがか?」

「そう世界じゃきに」

「坂本さんは面白いひとでごわすな?」西郷は笑った。

「西郷先生、旧幕臣たちが会津や蝦夷(北海道)にまでいっちゅうから早めに平和利にかたづけて……新政府で日本をいい国にしてもうせ」

 龍馬はしんみりいった。

 西郷は「なにごて。まるで別れをいっているようでごわすな。本当に世界にいくのでごわすか?」と妙な顔になりいった。

 龍馬は答えなかった。

龍馬は近江屋の二階の一室で死んだ仲間の為に献杯をした。

「高杉さん。武市さん。久坂さん…おんしらの名前もこの新政府名簿にいれたかったのう。あの世で見ていてくれ。必ず日本を回天させるきにな」

 龍馬が考えた新政府のメンバーは以下である。


関白   三条実美

 参議   西郷隆盛(薩摩)板垣退助(土佐)大隈重信(佐賀)

 大蔵卿  大久保利道(薩摩)  

 文部卿  大木喬任(佐賀)    

 大蔵大輔 井上馨(長州)

 文部大輔 後藤象二郎(土佐)

 司法大輔 佐々木高行(土佐)       

 宮内大輔 万里小路博房(公家)

 外務大輔 寺島宗則(薩摩)

      木戸考允(長州)

            他




竜馬が考えた<船中八策>が以下の策である。日本に初めてデモクラシー(民主主義)を高らかにうたいあげたものであり、大政奉還建白書に大きく反映され明治政府の五か条の御誓文へと繋がり、さらにその精神は現代まで脈々と生きていくのである。



   <船中八策>

 一策   天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事

 二策   上下議政局を設け 議員を置きて万機を参賛せしめ、万機よろしく公儀に決すべき事

 三策   有材の公卿・諸侯・および天下の人材を顧問に備え官爵を賜い、よろしく従来有名無実の官を除くべき事

 四策   外国の交際・広く公儀を採り、新に至等の規約を立つべき事

 五策   古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を選定すべき事

 六策   海軍よろしく拡張すべき事

 七策   御親兵を置き、帝都を守護せしむべき事

 八策   金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべき事






近江屋に来訪者あり。「龍馬さんはいるか」それは陸奥陽之助だった。

「わしと同郷の親友の山東直砥(さんとうなおと)はなあ、龍馬さん。ミニエー銃数千挺を売って一千八百両儲けたよ」

「おお! 陽之助。やったのう。おまんらは本物の大金持ちになったがじゃのう」

「これはあんたにもうけてもらったカネだ。こんなもんいらん! いいか龍馬さん。

この国の人間は口では〝新しい国〝などとゆうたって、実際に扉が開けば、狼狽するもの立ち尽くす者…いろいろおるだろう。全員が龍馬さん、おまえさんのように新らしい世界を望んっちょるち思うたら大間違いだ! そのうちその恨みや怒りはおまえさんに向くだろう。おまえさんは殺されるほど憎まれてるんじゃ!」

「世の人は我為すことを何と言え我為す事は我のみぞ知る。わしは知らぬうちにいろんな人間に恨まれているかもしれん。だが、大政奉還と維新でこの国が新しい国に生まれ変わるんじゃ!西洋の最新技術と日本の和の心………新生日本の夜明けぜよ。その為ならわしは殺されても文句はないがじゃ。それが日本国の為ならばのう」

「……馬鹿げている。死んだら維新も回天も洗濯もない。」陽之助は無言で去った。





「風邪の熱で頭がくらくらするき」

そういいながらも龍馬は中岡の話をきいていた。夜になったので部屋の行灯に灯を入れた。部屋が少しだけ鬼灯色になった。

「ちいと見てくれ、中岡。新政府の名簿を考えたがじゃ」

龍馬は紙に書いた新政府のメンバーの名前を見せた。

「西郷隆盛、大久保一蔵、三岡八郎…三岡八郎は罪人ぜよ。松平春嶽公は徳川ご家門ぜよ。それにおんしの名前がない。」

「わしは役人になる気なんぞ、なんちゃあないきに。わしは海援隊で世界に出るんじゃ」

「…世界?」

「そうじゃ。いいか? 中岡」

龍馬は地球儀を回した。

「これからこの日本に世界中の技術と知恵とすべての四民平等の思想とすべてが集まるがじゃぞ! そうなれば日本は希望にあふれた国になるがじゃ! 高杉さんや武市さんが夢見た希望あふれる国ぜよ」

「…希望? 夢?」

「そうじゃ。希望。夢じゃ。夢のあふれる日本になるがじゃ! はははは。世の中は面白いのう! もうすぐ日本国が飛躍するがじゃぞ! 中岡」

「…飛躍?」

 やがて、刺客が何人か密かにやってきた。

「今、幕府だ薩長じゃいうとるときじゃなかきに」龍馬はいった。

「大政奉還と共和国政治で四民平等の新生日本が生まれるんじゃ。新生日本の夜明けじゃ! 高杉さんや武市さんや勝先生や大勢の死んでいった志士たちの夢の実現じゃきに」

 番頭の藤吉は叫び、刺客は叫ばせまいと、六太刀斬りし、絶命させた。この瞬間は数秒であった。二階奥の薄暗い部屋では、龍馬と中岡がむかいあって話している。一階でなにやら物音がきこえたが、誰かが喧嘩でもしとるんじゃろ、と思った。

「ほたえなっ!」

 龍馬は叫んだ。土佐弁で「騒ぐな」という意味である。

 この声で、刺客たちは敵の居場所をみつけた。

 刺客たちは電光のように駆け出した。

「…龍馬、まずい!」

「坂本龍馬、覚悟!」「な!」

 奥の間に入るなり、ひとりは中岡の後頭部を、ひとりが龍馬の前額部を斬りつけた。これが龍馬の致命傷になった。斬られてから、龍馬は血だらけになりながらも刀をとろうとした。そして陸奥守吉行に手をかけた。脳奬まで流れてきた。

 龍馬はすばやく背後へ身をひねった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。左肩さきから左背中にかけて斬られた。しかし、龍馬は刀をかまえて跳ねるように立ちあがった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。「…なんちぃや! おまんら…なんちぃや!…」

 ようやく龍馬は崩れた。……「誠くん、刀はないがか?」と叫んだ。

 誠くんとは中岡の変名石川誠之助のことで、その場で倒れていた男に気遣ったのである。 龍馬は致命傷を受けてなおも気配りまで忘れない。刺客たちは逃げ去った。

「慎ノ字(シンタ)……手は利くか?」

「……利く」

「なら医者をよんで…こい」

「…龍馬…」

「わしは世の中を変えたがじゃろうかのう、中岡?」

「…まだまだ」 

「…そうか。まだまだ…かえ。そうか」

中岡は気を失った。

 龍馬は、冷静に自分の頭をおさえ、こぼれる血や脳奬を掌につけてながめた。

 龍馬は中岡をみて笑った。澄んだ、壮快な気持ちであった。

「わしは脳をやられている。もう、いかぬ」

 それが最期の言葉となった。いいおわると、龍馬は倒れ、そのまま何の未練もなく、その霊は天に召された。

坂本龍馬暗殺………享年三十三歳

 天命としかいいようがない。日本の歴史にこれほどの男がいただろうか? 天が歴史をかえるためにこの若者を地上におくりこみ、役目がおわると惜しげもなく天に召したとしか思えない。坂本龍馬は混沌とする幕末の扉を押し開けた。

 幕末にこの龍馬や板垣退助がいなければ、日本の歴史はいまよりもっと混沌としたものになっていたかも知れない。龍馬よ、板垣よ、永遠なれ!





龍馬暗殺後、陸奥陽之助は紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志一五人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。

「龍馬さんを殺(暗殺)したのはいろは丸事件で恨んでいる紀州藩士たちだ。許せん!」

 海援隊社舎で陸奥陽之助(のちの宗光)はそう騒いだという。

「落ち着け! 陽之助」山東直砥は諫めた。

「山東。これが落ち着けるか? 坂本さんはわしの大恩人じゃぞ。英雄じゃぞ」

「陸奥。………まだまだ世情は冷たい。坂本龍馬は時代に殺されたんだ」

「何を言う」

「それだけ恨まれての暗殺じゃった……ということじゃ。坂本さんに報いるには時代を動かすことじゃ。坂本龍馬と同じようにのう」

「……おう。わかった、山東。……じゃな」

陸奥にとって坂本龍馬は恩人であり、先輩であり、英雄だった。

海援隊の中でゴキブリの如く嫌われていた陽之助は、龍馬の死後、すぐに海援隊をやめて、役人になった。猛勉強もしたが、すべては「自分のため」である。

陸奥宗光として、歴史に名を残すためにどうしても必要な努力であった。

その男はやがて明治政府で〝名外相〝〝カミソリ〝として日本外交史にその名を燦然と輝かせる。その名は陸奥宗光(陽之助)……竜馬の死後、彼はその強烈な存在で英雄となる。

「外交はアートなり。ただ一つ、外交の秘訣は真心と情報と親切心である。そこに謀略があっても、その真には誠実さがなければ外交はうまくいかない。そういうものだよ。」

陸奥宗光の、その言葉で、物語のおわりとしたい。

                         第一部 おわり










  第二部  ~蒼天繚乱を超えて~陸奥宗光の生涯



 



       陸奥宗光




 ――――――陸奥宗光は、『近代日本を創った男』と呼ばれた。

 当時から、その優れた頭脳と記憶力から、〝カミソリ〟外相、〝切れ者〟と恐れられた陸奥宗光であった。が、意外にも紀州(和歌山県)出身で、長州藩出身でも薩摩藩出身でもない。というより、薩長の藩閥政治は嫌いである。

 その卓越した外交手腕から、『日本外交の父』とも呼ばれて、現在の外務省の霞が関の省舎の前に、彼の銅像まで建っている。

 だが、しかし、陸奥宗光の人生がどんなものであったのか? 坂本龍馬との関係や、あの明治の元勲・伊藤博文公との関連、日清戦争までの道程―――それらは知られていない。

 陸奥が、坂本龍馬の海援隊に参加し、龍馬とは盟友であったこと。

 伊藤の腹心となり、不平等条約の改正に尽力したこと。

 軍部の参謀・川上操六と組んで、日清戦争に勝利したこと。

その彼の成し遂げた仕事の大きさに、今の我々は、只々、感嘆するのみである。

「攻めるべき敵は攻め、助けるべき者は助け、わが身の忠勇と志をつらぬけ」

 全国の日本人の為に行われたのが明治維新の革命で、それによりもたらされた権利義務の成果を藩閥が独占すべきではない、という陸奥の意見は、蛇蝎のような薩長の藩閥政府に一撃を正面から加えたようなものであった。

 外務大臣として日本を牽引した風雲児・陸奥宗光――――

「天地の間に一定の法則があることを信じれば、勝利はついに浪人が獲得する」

 政府からの弾圧を乗り越えて、近代日本を牽引した風雲児であり、名外相の陸奥宗光は、伊藤博文と相携え、日本を西洋列強の植民地に転落もさせず、産業革命と議会政治や軍国・帝国主義を見据えて、国家発展の継続の基礎を築いた。

 長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、同藩の伊藤俊輔、土佐藩の乾(板垣)退助らと、陸奥は知り合いになった。

「このような人物たちが、全員、儒学を基礎として維新前に勉学していた。まっこと無駄な時間であったのう」

 陸奥と伊藤は気が合う。

 伊藤博文は現実を見てそれに合わせて行動できるリアリスト(現実主義者)で、帝国主義の恐ろしさも資本主義の大事さもわかっている。

 すべては「地獄の沙汰も金次第」という具合で、陸奥も同じような現実的な男である。

 ともに、英語が得意というのもあったろう。

 伊藤の親友といえば同郷の井上馨だが、陸奥宗光も親友である。

「これからは、天子さま(天皇)以外は平等な一君万民の日本国である。もう、藩も殿様も、公家もいらんがじゃ」

 紀州の片田舎から出てきた陸奥のユートピア(理想郷)こそ、坂本龍馬の海援隊であった。その前には、幕府の海軍操練所(海軍兵学校)で学んでいた。

「塾生は薩摩出身者が多く、学問に専念するより胆力を鍛える大切さに重きを置かれてきたので、勉強ばかりして小利口な陸奥は嫌われていた」(「氷川清話」より)

 これが勝海舟の陸奥宗光の人物評である。

 だが、陸奥は、勉強して出世するしか道はなかった。幼い頃に父親を亡くし、貧困生活の陸奥は、『他人から与えられた地位は危うい』と身をもって知っていた。

 そんな陸奥の希望が、坂本龍馬、であった。

 龍馬も、陸奥を高評価していた。

「隊を離れても、独立しその志を行い得るのは自分と陸奥だけである」(龍馬談)

 だが、そんな龍馬も暗殺されてしまった。

 慶応三年(一八六七)十一月十五日の京都近江屋で、である。

 当初『坂本竜馬暗殺』は新選組の関与が強く疑われた。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、一二月六日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応四年(一八六八年)四月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、後に撤回している。

明治三年(一八七〇年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下六人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。

墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、高知県護国神社と靖国神社にも祀られている。

安政五年(一八五八年)、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。

文久三年(一八六三年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応三年(一八六七年)には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。

龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志一五人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。

「龍馬さんを殺(暗殺)したのはいろは丸事件で恨んでいる紀州藩士たちだ。許せん!」

明治維新後は岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係(明治元年・一八六八年)という官職に陸奥は就いた。同僚は、長州の伊藤俊輔(博文)や薩摩の寺島宗則らである。

戊辰戦争に際し、局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功した。旧幕府が注文して製造させた艦船であった。

その幕府の発注の艦船を、新政府で受け取ったのだ。だが、その際、未払金十万両があったが、財政基盤の脆弱だった新政府には払えない。

さて困った。そこで、陸奥は交渉の巧みさを披露する。彼は、財閥の三井や鴻池らに、明治新政府への〝投資〟として持ち掛けた。

大阪の商人達と交渉し、一晩で大金を借り受けることに成功する。

兵庫県知事(一八六九年)、神奈川県令(一八七一年)、地租改正局長(一八七二年)などを歴任する.

「薩長は和歌山を恐れちょる。その証拠は、政府の兵制規律にわいらが二度も文句をつけてもさっぱり怒らないことだ」

「その通りだ。陸奥」

 道龍は答えた。

北畠道龍、和歌山県の教育者である。

江戸で貧窮のうちに十五歳から十九歳まで陸奥は漢学修行をしており、世間の表裏を知っていたので、部下の仕事の裏面まで見抜いた。

陸奥は、部下の仕事の怠けを𠮟りつけ、よくやっている部下には牛鍋を買いつけて与えたともいう。信賞必罰。だが、率先垂範でしかない。

あるとき、川の堤防の杭が短いように思い、確認すると部下は「寸法通りです」と確言する。だから、確認の印を書類に押した。

だが、寒い季節であったが、気になって、杭を測ってみると、やはり、設計書より長さが足りない。どういうことか? と尋ねるが、「きちんと測って杭を打ったのであり、間違いがない」とその部下は責任転嫁や言い訳をする。

陸奥は、流石に激怒して部下をどやしつけ、その部下をクビにした。

まあ、今でもある役人の手抜き仕事、である。






    明治六年の政変 



なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第五章 明治六年の政変」』からの文献を参考にしています。

盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。

*この頃、「明治六年の政変」が政治に感心がある人物の注目することだった。

明治政府首脳が、明治六年(一八七三)十月、真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。

通説では事件は「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と久しく言われていきた。

背景にあるのは、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府を司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。

しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。

そもそも「征韓論」の西郷は、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。

西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかける。そうしながら一方で、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探った。

土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法をつねに採っている。

勝海舟との談判による江戸城無血開城がその最たるものである。

だが、もし勝海舟の相手が西郷隆盛や薩摩藩士ではなく、現実主義者の長州藩士だったらこうも江戸無血開城はうまくいかなかったであろうと歴史家たちは口をそろえる。

朝鮮に対しても西郷は江戸と同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。

西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。

これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして自分が殺されることはないと西郷は確信していたようだ。

「朝鮮を近代化せねば」という目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣もそれで納得した。

一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者のデコレーションだと歴史家は分析する。

そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。

だが、外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢百人以上の大使節団となったのだ。

使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。

しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。

だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤らがたったふたりで東京に引き返した。

大久保・伊藤が戻ってくるまで大使節団は四か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、十か月半で帰国するはずが、二十か月もかかり計画は頓挫、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまった。

一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、成果を着実に挙げていた。

政治生命の危機を感じた大久保は、帰国後、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、

これが「明治六年の政変」となった。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であった。巻き添えを食らった形で西郷も下野することになるのだった。

西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。朝鮮問題など、もはや、どうでもよくなってしまっていた。

ただ国内の権力闘争だけだ。一種のクーデターにより、これで政権は薩長閥に握られた。

しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは二十か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。政治どころではもはやない。国益や政治・経済の自由どころではない。

明治政府は西郷や板垣を失い誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。

この頃、つまり「明治六年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治六年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、

「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。

西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら五人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。

この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。

長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。

だが、江藤新平が政変で下野したために、長州派閥の汚職は追及されず彼らは命拾いしたのである。

江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか四年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。

もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。

そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。

故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。

江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に三日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられた後、死刑だった。

新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためであるともいう。それも斬首の上、さらし首という(武士としては)あり得ない屈辱的な刑で 

……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)

全部が大久保の指示による「私刑」だった。

明治七年(一八七四)二月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、本営をこことした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかった。

が、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。

こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。

休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治六年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。

そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。

「明治六年の政変」で板垣退助は下野し、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。

さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。

自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から一年近くが経過した明治八年(一八七五)二月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。

板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。

最も早く勤王党の出現を見たのが幕末の福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。

黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。

これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑六名を含む三十余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。すでに脱藩していた平野國臣もその中にいた。女流歌人・野村望(ぼう)東尼(とうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(うぐいす)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。

この頃、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがたせんぞう)(時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐(えび)茂記(しげき)、建部武彦らだった。

坂本龍馬よりも早い見識であったという。

また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤(かとう)司書(ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。

これを「乙(いっちゅう)丑の獄」という。

加藤、衣斐、建部ら七名が切腹、月形洗蔵ら十四名が斬首。野村望東尼ら四十一名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に十五歳の箱田六輔がいた。

佐幕派が多かった福岡藩が、戊辰の役では、薩長官軍に急遽ついた。

それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老三名が切腹、藩士二十三名が遠島などの処分となった。追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。

当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。

西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと努力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職五名が斬首、知藩事が罷免となった。

これで福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていく。明治八年九月、まさに同じ年、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江(こう)華(か)島(とう)(カンファンド)事件」だ。

これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。

「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか? そのような行為は華(か)夷(い)秩序(ちつじょ)を乱す行為である」

李氏の朝鮮政府はそう考えていた。

華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからと、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。力ずくで国柄を変えられるのはどの国も抵抗があるのだ。

日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲! 雲揚は兵の救援として報復砲撃! さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。

明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。砲艦外交をペリーの威嚇外交を真似て、軍艦三隻と汽船三隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだ。

この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。

「一蔵(大久保)どーん! これは筋が違ごうじゃろうがー!」

「明治六年の政変」において大久保等は、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしていた。そうしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。

「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。

特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。

西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきな行為といわにゃならんど! 政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす」

西郷は、測量は朝鮮の許可が必要である。そして、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮だ、と考えた。

「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす。日本人は古式に則った烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす。軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ」

政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績が西郷にはある。だが、大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、まさに武断的な征韓を自らは行っている。

東洋王道の道義外交を行うべきと西郷はあくまでも考えていた。

西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。

大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようというのが西郷の考えだった。

だから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れる、「醜悪な国・日本」なのである。

 *

明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であった。

が、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。

彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。

明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。

前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。

性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところも一誠にはあった。が、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。

戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として一誠は軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。

いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。

「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず。これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」

一誠の少年時代に家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。

「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである! それが松陰先生の教えだ! この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか」

一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。

さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は九十万両に上り、そのうち四十万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。

だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、

「前原一誠は何を考えている! 越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない。中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ」

とその思いに理解を示すことは出来なかった。

この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。

一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な百六十万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。

一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。

一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。

「私は参議などになりたくはなかったのだ! 私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ」

木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。

「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか? 私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ。民政こそ第一なのだ。こんな腐った明治政府にはいたくない。徳川幕府とかわらん。すぐに萩に帰らせてくれ」

大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。

三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。

明治三年(一八七○)十月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。

ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけの一誠だった。

が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは

「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。

そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。

しかも信濃川の分水工事は

「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。

江藤新平が失脚させられた。「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが精一杯の一誠の行動だった。

長州が佐賀の二の舞になるのを防いだ。前原一誠は、

「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる! そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ。井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない。ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴。

あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない。

松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!

天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ。孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。

これが松陰先生の考えである。松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない。必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ。王政復古の大号令は何処に消えたのだ!? このままではこの国は道を誤る!」

一誠は激昂、その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。

  *


  *

「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と岩倉具視が評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。

敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として十五代将軍・慶喜として登場した徳川慶喜。徳川三百年の幕引き役を務めるのが慶喜という運命の皮肉。

徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。

「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。

閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。

『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照





        明治新政府と自由民権運動



「板垣死すとも自由は死せず」これは板垣退助の岐阜遭難事件での言葉である。

板垣退助は、下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治七年(一八七四年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。

また、高知に立志社を設立した。明治八年(一八七五年)に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。

明治一四年(一八八一年)、一〇年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。

以後、全国を遊説して廻り、党勢拡大に努めていた明治一五年(一八八二年)四月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。

その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。

この事件の際に板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている。

一一月、後藤象二郎と洋行し、翌年の六月に帰国した。明治一七年(一八八四年)一〇月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。

自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、明治二〇年(一八八七年)五月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、やむなく伯爵位を授爵した。

その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主には衆院選の被選挙権がない)、また、貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織して第一回衆議院議員総選挙に対応した。

明治二三年(一八九〇年)の帝国議会開設後には河野広中や大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。

明治二九年(一八九六年)、議会内で孤立していた自由党は第二次伊藤内閣と協力の道を歩く

板垣は内務大臣として入閣。続く第二次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。明治三〇年(一八九七年)三月、自由党総理を辞任している。

明治三一年(一八九八年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣する。

そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、四ヶ月で総辞職せざるを得なくなる。明治三三年(一九〇〇年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

政界引退後は、明治三七年(一九〇四年)に機関誌『友愛』を創刊したり、同四〇年(一九〇七年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行なった。大正二年(一九一三年)二月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。大正三年(一九一四年)には二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。

大正八年(一九一九年)七月一六日、死去。享年八三(満八二歳没)。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は家督相続をせず、孫の守正が爵位を返上してその高潔な遺志を貫いた。

板垣は自由民権運動の活動で資金を散財しており、晩年は貧困とともにあった。

すべては日本の民主主義のための人生であった。

「板垣死すとも自由は死せず」

板垣退助は彗星のように現在も光り輝いている。


話を戻す。


 板垣は民衆の力をサポートして全国行脚。

この頃、明治政府の参与や議員は不正な汚職事件を起す。その一例が黒田清隆の汚職事件である。「政府の独断専行を許さじ」板垣は悠然と演説をうつ。

板垣退助は大拍手と大歓声に包まれる。

新聞は板垣フィーバーをこう書く。〝雷雨(らいう)来たる!〟……

「国家事業の払い下げ問題はもちろん重要でアル。三千万余の国民で、これに憤らない者はいないであろう。しかし、このような非理不法が行われる根本の原因は政府の組織が専制であって、国民がそれを矯正する道を持たないからである」

ここで明治政府からも〝国会開設を!〟、と。

政府の中心は伊藤博文である。

明治政府は明治一四(一八八一)年一〇月一二日に、政府は九年後に国会を開設すると約束。

しかし、それは民衆の望む議院内閣制国会ではなく、〝時間かせぎ〟だった。

板垣退助は反発する。〝前途なお遠く、喜ぶなかれ〟(東京から仲間への電報)


乾退助ことのちの板垣退助は自由民権運動のさきがけとして、民主主義を日本に普及しようと活動した。ある場所(岐阜)で暴漢に刺されて深手を負ったとき、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を発したのは誰でも知るエピソードである。

自由党を結成して初代総理(党首)となった。(明治一四(一八八一)年一〇月一八日、東京発の全国党組織)以後、全国を遊説して廻り、党勢拡大に努めていた。腐りきった明治政府の大臣の椅子を蹴って辞任して数十年後の頃である。

「…自由民権運動! 民主主義を日本に根付かせましょう」

「よっ! いいぞ」大歓声である。

壇上からおりて支援者と握手をしていた、そして一足先に出口に向かい帰ろうとしたとき、暴漢が短刀で板垣に襲いかかった。

暴漢は〝板垣は民衆を扇動し、国家転覆を謀っている〟と思っていたという。

「板垣―! 天誅―つ! 〝将来の賊〟―!」

「ぐああ!」

 死ななかったが左胸を刺された。咄嗟に、板垣はひじてつを暴漢に食らわせた。すぐに警備員たちに暴漢の男は取り押さえられる。

明治一五年(一八八二年)四月午後六時頃、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜遭難事件)。

「だいじょうぶですか、板垣先生」

「……だいじょうぶ…じゃ。心配無用…」

「くそっ! くそつ!」

「黙れ! 不届き者め」

その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら

「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、

これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。

だが、実際には刺された時に「あっ」とだけ言ったのであり、倒れて、介抱されている時に、それらしいことをうめいただけであったという。新聞記事が「自由は死せず」と、提灯記事を書いただけなのだ。

この事件の際に板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は

「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は

「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている。

 仙台出身の医師・後藤新平は、のちに関東大震災の際に、首都帝都・東京の復興に尽力したことで知られる。また、台湾の統治にもその才覚を発揮した。

また、この板垣の暗殺未遂から四年後に、のちに日本国首相として、サンフランシスコ講和条約に臨むことになる吉田茂も、誕生している。

元々は、吉田家ではなかったが、養子に出されて、横浜の貿易商・吉田健三の養子となり、帝国大学を卒業して、外務省に入省、官僚を経て、戦後の名宰相にまでなる。だが、まだ、この時代は生まれたての赤子、でしか、ない。


〝板垣死すとも自由は死せず〟の言葉は全国に献言され、自由民権運動をおおいに盛り上げた。この暗殺未遂事件(岐阜遭難事件)は錦絵ともなり、歌舞伎などの芝居にもなり、人気演目となった。一命を取り留めた板垣退助は〝大有名人〟となり未来が開けた。

そして、明治二三(一八九〇)年一一月二九日、国会が開設。第一回帝国議会開幕。

国会議員定員三百のうち、板垣の自由党は一三二議席を得た。大事件から十六年後である。

また、少年時代の板垣退助は、ホームレスの女性に食料を提供して、親にあとで褒められている。慈愛にあふれた人物であったようだ。

有名な『征韓論者』であったが、実際は「朝鮮を攻めるのではない。わしが朝鮮にいって和睦の使者となるのだ」といい、偉い人物に聴かれ、

「なら征韓論ではなく親韓論ですな?」

「いかにも!」と答えている。

板垣退助が朝鮮を攻めるように要求した事実はない。

また板垣退助は坂本龍馬と会ったことはないが、龍馬の才能を愛していたという。

家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していたと伝えられている。明治四四年(一九一一年)頃、人を介して秘かに杉山茂丸に刀を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前長船(大宮派)の初代「盛重」(南北朝時代の作)という名刀であり、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と、刀を持ち込んだ人に問うと、最初は躊躇ったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。

驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある。

この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからった。

板垣家の宗旨は曹洞宗であり、葬儀は遺志により仏式で行われたが、自身はプロテスタントでもあり、同郷の片岡健吉・坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えた。

後藤象二郎と共に日本人として初めて(一八九六年以前の)ルイ・ヴィトンのトランクを所持していた(立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した一八八二年から一八八三年の間に購入したとされる)。

退助の曾孫の家に保管されていた、明治二年(一八六九年)頃撮影と見られる板垣退助と二人の武士が写った幕末古写真が、平成二四年(二〇一二年)七月一三日に記者公開され、同年八月一日から八月三一日まで高知市立自由民権記念館で一般公開された。



明治新政府の参議となった板垣退助は、江藤新平という人物を知ることになる。

佐賀藩(佐賀県)の鍋島公の元・家臣だが、恐ろしく頭の切れる輩で、驚いた。

「日本国にはまだまだ足りないものが多い。まずは、国会。議院内閣制度。それに憲法に、法律に、治安維持の警察部隊。国民の投票で決める国会議員。参議。また、失業した士族……元・武士たちは警察機関に吸収させたり、蝦夷・北海道を開拓させましょう。また、役人・官僚も絶対に、必要ですね。そして、国民の自由民権――それらがなければ国家は成り立たない。急務な必要ごとであります」

「江藤さんは、随分と、頭の切れる人物だね。まるで、天下の知恵者のようじゃきい」

「天下の知恵者? 石田治部のような?」

「いやあ。三成では片落ちじゃきい。孔明にしとこ」

「諸葛亮孔明―――臥竜?」

「そう、臥竜じゃきに」

「冗談ではなく、本気でおっしゃるなら。僕は板垣さんの期待に応えるしかないですね」

「……ぼ、僕?」

「はい。僕がです」キツネ目の〝切れ者〟は、口元をほころばせた。

 なるほどな。天下にはまだまだ優秀な人物が揃っているのう。これは頼もしいきぃ。

板垣と江藤は、お互いにわかるような疼きのような表情を交わした。

その後、この国の仕組みを変えるような大改革・版籍奉還――つまり、藩をなくして都道府県を新たに設ける、廃藩置県が強行された。

それに伴い、士族の大名たちは、華族になり、宮家も増設、皇族も増えた。

廃藩置県

四民平等

全国戸籍調査

学制発布

裁判所整備

鉄道開通

太陽暦採用

国立銀行条例制定

徴兵令

これらは、大久保利通や木戸孝允、岩倉具視などの『岩倉使節団』には加わらず、留守政府を担っていた西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らの功績だった。

そもそも岩倉使節団は、天子さまの委任状なしで米国との交渉に臨み、不平等条約の改正(明治二十二年(1889)の「条約改正」。幕末の「砲艦外交」(欧米の帝国主義との初遭遇)によって結ばれた「不平等条約」は、関税自主権もなく、治外法権で外国人の犯罪を裁くこともできない。半植民地的な条約下にあった。明治維新以降、「不平等条約」の改正は全国民の悲願であった。政府は改正を急いだ。ところが、その内容は逆に日本にとって屈辱になるものだった。世論は猛烈に反対を叫ぶが、当時は国会も開催されてもおらず、国民はどうしようもない。そんな中で、来島恒喜が爆弾テロ。で、大隈を殺害未遂の大怪我を負わせた。庶民は喝采し、右翼結社の『玄洋社』と代表の頭山満は大人気になった)に失敗した。外遊組はさらに欧州に渡って、結局、二年近い歳月を費やし、百万円(現在の価値で約五十五億円)も使って帰国した。

こんな莫大な経費を内政に使っていれば、留守内閣での数々の改革を進めた西郷さんは、もっと楽であったろう。

大久保は、帰国して、西郷の国民的人気に嫉妬して、西郷らを追放したのだ。

板垣は、土佐、いや、高知県となった地元に、帰郷する。士族は失業した。だが、参議となった板垣には、やらねばならない要職があった。しかし、彼は西郷隆盛に賛同し、『征韓論』で、明治新政府の参議を辞めて、下野。只の平民へと身分をかえた。

だが、その後、西郷らと初代・愛国社を設立するが、藩閥政府に騙されて、板垣は参議に復職、だがそれも数か月で、失望して辞めた。彼は、故郷の土佐で雌伏の時をもった。

その不平不満を晴らすかのように、次々と、不平士族の乱が勃発する。

だが、すべては不平士族の、時代についていけなかった旧人類だけが乱を起こしたのではなかった。佐賀の乱では、江藤新平。萩の乱では、前原一誠。西南の役では、西郷隆盛。

と、政府の元高官が首謀であり、日本国の急激な西洋化・近代化や、悪辣で横暴な藩閥政府に不満を持つ者たちの〝二度目の維新〟こそがその実態であった。

佐賀の乱――――神風連の乱――――秋月の乱――萩の乱――

 参戦を乞うて江藤は、土佐の板垣の自宅へと来たという。だが、板垣は呼応せず、江藤新平は明治新政府に捕らえられ、死刑になった。

 そののち、士族の神輿に乗せられた大西郷が、西南戦争を引き起こす。それに呼応する、福岡の乱。旧・薩摩軍を率いたが、決局は、敗北。西郷隆盛(吉之助)は自決して果てた。

 その後、藩閥政治の象徴のような大久保利通も、登庁の馬車を襲撃されて、暗殺された。

暗殺された大久保利通が、死の際に、後悔の言葉を述べるようなシーンがある。が、実際には、大久保は即死だった。

 恨みの極限に達した刺客の白刃を受けた大久保の遺体は、惨憺たるものであった。

 骨は砕け、肉は飛び、首を貫いた刀は地面まで刺さっていた。

 現場に駆けつけた前島密(ひそか)は、頭蓋を割られた大久保の脳がまだ微動しているのを目撃したという。

「これからは言葉の戦争だ」

とばかりに、板垣退助たちは「自由民権運動」に尽力する。

「西郷どんが、成年戦争で敗れたが、板垣さんは挙兵するかね? 板垣さんは戊辰戦争での官軍の勝利に貢献した〝凱旋将軍〟のようなもの。板垣さんが立ち上がれば、挙兵すれば、薩長藩閥政府を今度こそ倒せるのではないですか?」

「いや。倒せぬ」

「は?」

「あの、大西郷でさえ、負けたではないか。どんな兵法や戦略があれば、藩閥政府や軍部に勝てる策があるのか?」

「――いや。それは……」

「もはや、武力の時代ではない。これからは言葉……言論での戦争だよ」

「だが、大西郷の敗北におじけづいただけでは?」

「心配なさるな。百の戦艦、雲霞の兵に勝る立派な武器がある」

「その武器とは?」

「聖上陛下より賜った御誓文じゃ!」

「御誓文?」

「五か条の御誓文の第一条に、「万機公論(ばんき・こうろん)に決すべし」とある御詔勅に基づいて、自由民権の世論を喚起し、頑迷なる政府を倒す」

「多くの士族が血を流して戦っても倒れなかったのに、言論で倒せますか?」

「今の藩閥政府は「私」政府になっておる。だが、武力ではもう政府は倒せない。言論で倒す。もうこれしかない。日本国民を言論で奮い立たせ、言論による「本当の維新」を成し遂げるしかもう道はない! 自由民権運動こそ、最上の策謀。〝戦わずして勝つ〟だよ」

「―――しかし」

「日本国の人民は、一君万民の国家。なれど、今のようなことを政府がやっておれば、陛下・天子さまは全く、民の怨府(えんぷ・怨みの集まる所)となる。そして、独夫(どくふ・悪政を行い民に見放された君主のこと)の紂(ちゅう・虐政で民意が離れて滅ぼされた殷王朝の紂王のこと)みたいなことになる」

板垣は、現実を見据えていた。〝リアリスト〟なのである。

国会の創設や、帝国議員の選挙などの建白書を、明治新政府に提出したのは、明治七年一月十七日のことだという。署名者は、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣(そえじま・たねおみ、元・佐賀藩士・号蒼海。国学者・枝吉南濠(えだよし・なんごう)の息子)、由利公正(ゆり・きみまさ、元・越前藩士。前名・三岡八郎。龍馬らが認めた財政のプロ)、古沢滋(ふるさわ・うろう、土佐藩士の次男・元・神童)、小室信夫(こむろ・しのぶ、丹後の国・元・チリメン問屋の息子)、岡本健三郎(元・土佐藩士)ら、である。

『足利三代木像梟首事件』というのもあった。が、詳しくは語らないでおこう。

「議会をつくれ!」

という自由民権運動の参加者の仲間には、その当時の青年くらいの年代の、植木枝盛(うえき・えもり)もいた。珍しいおかしな名前であるが、ペンネームでもなく本名である。

この植木も土佐藩の元・家臣の子供で、明治維新の時は十代前半―――

だからか、世間がもてはやす大西郷・西郷南洲が大嫌いで、わざと、

「あの肥満体の頑(がん)鈍漢(どんかん)が死んでくれたおかげで、自由民権運動がやりやすい」

 と嘯く。

「この、べくのかあ(馬鹿野郎)!」

 板垣は怒るが、内心は、そうだなあ。みたいに思っている。

 植木は、学歴こそなかったが、天才肌で、独学で何千冊もの学術書籍で近代思想を学び、外国語も話せないのに、外国語辞書を引きながらも西洋の思想を学んだ。

とくに、ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』『政治経済論』『社会契約論』に共鳴。日本の自由民権運動の壮士となり、土佐の板垣の「立志社」の職員となる。

とにかく新聞の投書などや著作本で名をはせて、文章も演説もうまかったという。

まるで、どこかの誰かさんのようだが(笑)

性格は〝嫌な奴〟だったそうで、人付き合いも苦手だが、容姿端麗のイケメンで、女性にも人気があった。彼の書いた本、『民権自由論』はベストセラーとなった。

晩年は、政治家になり、高知二区で当選して帝国議員となるが、人望もなく、わずか三十五歳で、胃病で病死する。暗殺された、ともいわれるが、多分、そうではないだろう。


 板垣退助の地方全国行脚が始まる。

市民を前に「この国では一部の参議が権力を独占している。このままでは国が危ない!一刻も早く国会を開設し、民撰議院による自由民権運動を! 税を納める庶民こそがこの国の真の主役であります!」

この頃、土佐の民衆の間で大流行した歌。

それが、「民権かぞえ歌」(1878年)である。作者は天才・植木枝盛である。

この「民権かぞえ歌」は、川上音二郎の「オッぺケぺー節」(1889年)や「ダイナマイト節」(1883年)とともに、のちの「演歌」の起源とされている。

♪一つとや、人の上には人ぞなき、権利のかわりがないからは、この人じゃもの。

♫三つとさ、民権自由の世の中に、まだ目の覚めない人がある。


明治十(一八七七)年二月十日、西郷隆盛を頭として薩摩・鹿児島の士族達が武装蜂起する。日本最後の内戦『西南戦争』である。

土佐の板垣たちは参戦しようか迷う。悩む。

部下たちが、「ここで、われわれ立志社も西郷先生に与力して戦うべきです!」

「西郷先生は維新の英雄! 負ける訳がないき」

「じゃきに……」

「西郷先生を見捨てるっとですがか」

「そうじゃあないき! もう〝武力〟の時代じゃない。〝言論〟しか我々にはないきに」

「……じゃきに、板垣先生」

「まず私が立志や民権を一町より一区に及ぼし、一区より一県に及ぼし、各県全国に及ぼし、衆力一致の上、大政府にむかって為す所あるにしかず。今は耐えるときぞ」

 部下達はやりきれない気持ちで泣き崩れて、机や壁をどんどん叩いて号泣するしかない。…西郷さあ、すまんちぃ! 悪いきになあ、西郷さあ、わしらは与力ば出来んきに……。

 板垣退助も目からボロボロと涙を流して、只、茫然自失、しかない。わしは無力じゃきぃ」そして、一ヶ月後、西郷吉之助(隆盛)は鹿児島の城山で自刃し、西南戦争は終結した。「戦ではかわらんきに!」板垣は泣いた。




板垣は全国の草の根運動。全国に立志社のような政治結社が数百社できる。

国会開設! 民撰議院! 選挙!

この頃から板垣退助の演説聴衆の民衆の中に「政府の密偵」が入り込む。

政府の〝言論弾圧〝が厳しくなった。

 明治一一(一八七八)年九月、全国の政治結社が大坂で集会。

全国組織「愛国社」が再興(自由民権運動結社)。

明治政府は明治一二(一八七九)年四月、地方議会を認める。

だが、議員は嘲笑する。「地方議会を開けば地方のことは地方で、と考えて、中央政府への恨みや辛みや不満はなくなるであろう。恨みや不満をなくすにはちょうどいい」

つまり、〝的外し〟ということであった。

明治一三(一八八〇)年四月五日「集会条例」公布(新たな言論弾圧)される。

条例によって、政府に関するあらゆる集会が、政府に届け出しなければならなくなった。

また、その集会が政府にとって不利なものならば、政治集会の中止や、政治結社の解散も可能だった。「愛国社」の集会は禁止され、結社の解散に追い込まれた。

また、板垣には絶えず密偵がつき、板垣は高知県内に活動を制限せざるを得なくなる(三年間)。それは言論弾圧の明治政府との戦いで、あった。

 板垣退助の「自由民権運動」は、次第に、情熱を一心に注ぐ活動になっていく。

 すべては、日本国、のために。また、最近では、右翼の源流として少しは知られる存在になった、『玄洋社』の頭山満とも(ちなみに、左翼の源流といわれるのが当時のジャーナリスト・中江兆民)、板垣は親交を結んだ。全国で演説をしてまわる。日本初の政党の自由党をも結党し、板垣は初代党首・総裁になる。

 自由党に対抗する政党として、下野して平民となった大隈重信が結党した政党が、改進党である。自由党は「壮士の党」、改進党は「紳士の党」等とも呼ばれた。

 この当時、商業の都市大阪では、大阪発展繁盛の父・五代友厚のことでもひと悶着あった。薩摩の志士であった五代は、大阪の為に活動していた。

 だが、このひとは間もなく、若死に、してしまう。

 財界は、〝株式会社の神様〟渋沢栄一VS.『三菱財閥』の岩崎弥太郎との戦いになっていた。そこに、三井財閥や住友財閥……などが繚乱する。

 岩崎弥太郎は、元・土佐藩士であり、板垣・後藤の元・部下、である。

だが、岩崎は大出世をして、大金持ちになった。

まさに、出藍の誉れ、である。

政治家・軍人では、南洲の舎弟・西郷従道が大活躍を遂げる。間もなく、日清戦争・日露戦争が勃発するが、それはまたの機会に語ろう。

「――――自由は死せず」

板垣は、自由民権運動で存在感を示した。

明治天皇は、国家元首へ。自由党の板垣退助は、登り龍の如く、政界に影響力を持つのである。

 


話を戻す。

 明治七(一八七四)年一月、板垣退助は政治結社『愛国公党』を再結成。

在野からの民権運動、国会開設・議会議員制度を目指した。明治政府に『民撰議院設立建白書』を提出する。

「一部の人物が国政を独占する明治新政府は駄目。国家瓦解の道である。民撰議院を!」

だが、板垣の建白書は拒絶される。

それぞれの国に帰り、〝草の根運動〝をすることになった。

明治七(一八七四)年三月、板垣は土佐に戻り、〝立志社〝を立ち上げる。

新聞は政府側の〝開花未全の人民(日本国民の民意が低く、民衆の代表の議員など選べない)〝という主張を五月蠅いほど書き立てる。

板垣は言う。

「我々は人民の権利の獲得を願っている。それにはまず、国会を立ち上げなければならないが、人民の行動がなければ国会が出来てもその効果は期待できない。よって、自主自立の人民となるように、自らを修行勉強することが、人民の努めである」

この方針に従って、板垣たちは高知で学校を設立する。それが『立志社』である。

学校では「自由」や「権利」を教え始める。

〝士族〝のための学校だったが、農民や商人の子供も勉学に励み、退助は驚く。

〝真の自由は、他人の幸福を奪わず、自分自身の幸福を追求することである〟

                          J・S・ミル「自由論」


立志社では、機関誌も発行した。『海南新誌』……〝自由ハ土佐ノ山間ヨリ〟



ここで板垣退助の生涯を早足で振り返ってみよう。

文久元年(一八六一)、板垣退助二四歳。江戸での仕事を任される。そこで板垣が、腹が立ったのは江戸幕府の動揺。(一八五三年の)黒船来航と徳川幕府による不平等条約とその交渉である。  

外国との不平等な交渉を批判。幕府を批判する人たちを弾圧していく幕府。それからのちに倒幕につながる。そして、尊皇攘夷や不貞浪人やテロリスト。板垣退助は、討幕の意思で土佐に帰国する。しかし殿様の山内容堂は幕府寄りの佐幕派だった。

「このままではいかんちぃ」と夜会合を。板垣たちは意見を二つに別れさせていた。

土佐藩士・谷千(たにたて)城(き)は「意見を同じくする諸藩と連合して挙兵し、幕府を倒すしかないきに」に

土佐藩士・片岡健吉は「まあまあ、おまんら。幕府を倒すにしても仲間の数が足りないではないか。もっと同志を増やすしかないきぃ! 関与藩内の勢力と連携するぜよ」

接触を計ったのは南州(西郷隆盛)(乾たち西郷たちと会談)。西郷は「土佐藩は幕府寄りの勢力じゃ。信用できもはん」

乾退助は「もし約束をたがえるようならこの乾退助、自決しておわびいたしまする」

〝模し齟齬あれば死して(もし約束をたがえれば死して償う)『板垣退助君伝』〟

「こん男なら大丈夫じゃ。これより薩摩と土佐はこん日より同志じゃ」

「西郷さん!」

板垣退助と西郷隆盛は握手をした。(倒幕の密約)

板垣退助の熱血漢と軍略家。西郷はそれを愛した。

慶応三年(一八六七)六月、板垣退助三一歳。土佐藩の軍事訓練を任される。土佐藩は薩長と同盟をする。板垣退助は土佐藩の迅衝隊の軍兵を近代化し軍隊と変えた。

ライバルが出現する。坂本龍馬である。龍馬は、薩長同盟と幕府の大政奉還並びに、天皇元帥の平和的なやり方で自在にシステムチェンジを画策する。

龍馬は後藤象二郎らを利用して、土佐藩藩主・山内容堂を動かし、 一五代将軍徳川慶喜を説得させて大政奉還を成功に導かせる。

慶応三年(一八六七)一〇月一四日、大政奉還。大政奉還により倒す相手がいなくなった板垣退助らは、苦しい立場に追いやられる。

「板垣を切腹させるべき」板垣退助はバッシングをうけた。

慶応三年 一一月一五日、坂本龍馬暗殺、享年三〇歳。西郷隆盛VS.徳川慶喜の戊辰戦争が始まった。

板垣退助、挙兵(薩摩との密約を守って)。高知県の桂浜の碑には、西郷隆盛と板垣退助の記で〝坂本龍馬の残した数多くの偉業はどれも朽ちることはない〟となっている。

(坂本龍馬への手紙 慶応三年九月二〇日木戸孝允宛て)

(もし大政奉還が失敗した場合、倒幕について板垣と話すつもりだ)(実は龍馬も板垣の実力を認めていたというが記録にはない)

慶応四年(一八六八)一月三日戊辰戦争開戦。戦争は一年五ヶ月にも及んだ。

幕府脱走艦隊の海軍副総裁の榎本釜次郎(武揚)は、まずは会津入りし、その後に、仙台に流転。最後は、蝦夷、いわゆる現在の北海道へと転戦することになる。

その間に、会津藩が降参し、榎本武揚と土方歳三らの「蝦夷共和国」も、数か月の不羈独立を経て、官軍の総攻撃で敗北。――――遂に、戊辰戦争は官軍・明治新政府軍の勝利で、終わりをつげた。

明治元年(一八六八)江戸―板垣退助らは戊辰戦争に勝利し写真を撮った。例の写真である。

板垣退助は新政府に入った。薩長と土佐肥前、薩長土肥の連合軍が新政府として、旧幕府軍をやぶり新政府をつくった。西南戦争の終結もあった。

 


「もはや武力では何も変えられない。なら言論によって変えよう」

板垣退助らは新政府軍の参議から下野し、自由民権運動を広めた

西郷隆盛の西南戦争でも、板垣退助は、黙殺。戦には加わらず、ひたすら国会開設、民主主義、自由民権運動、にまい進した。そして岐阜遭難事件である。

板垣死すとも自由は死せず――この言葉が彼の代名詞となった。

のちの帝国議会の第一回の総選挙になった時のことだ。

板垣の自由党は、定数約三百人に対して、百数十人もの当選者を出した。自由民権運動の成果が、板垣の活動が、認められた結果であった。

大隈重信の改進党も議席を伸ばした。

老人・板垣退助となるも、人気は凄まじいものがあった。

だが、あまりにも、「板垣死すとも自由は死せず」が有名になり過ぎた。錦絵でも、芝居でも、落語などでも有名なシーンとなっていて。だから、本人に会うと、目の前で、「ここで、『板垣死すとも自由は死せず』をやって(再現芝居)くれまいか?」、と。冗談ではなく、本人にリクエストする不貞な輩も多くいたらしい。

もちろん、板垣は苦笑して、断るだけだが。

第二回の帝国議会の総選挙は、あからさまな〝不正選挙〟になった。

大金をばらまいての票の買収や賄賂、権力をかさに着ての投票命令、警察官などをつかっての脅しや投票の勧誘――――これでは自由民権運動や選挙どころではない。

板垣はこれに激怒する。当時の、民度はその程度のものであった。

だが、それこそ薩長の藩閥政治家たちの陰謀であった。議会の政党の、板垣の自由党と、大隈の改進党を対立させて、政党政治を打破し、瓦解させ、藩閥政治家たちの利権を守ろうとしたのだ。政党政治の打破後、板垣や後藤は、周りの反対を押し切って外国に外遊に出かけた。(後藤はすでに藩閥政府に取り込まれていた)それで、船で数か月後に戻る。

と、すでに自由党も、改進党も、分裂し、党の体を成していないほど破壊されていた。

藩閥政治家(薩長藩閥政府)たちの破壊工作・陰謀である。

これにより、板垣たちの理想の政治体制は頓挫し、藩閥政治家たちの陰謀が勝った。

「板垣生きて、自由(党)は死せり」

新聞は面白おかしく書きなぐる。藩閥政治家たちの差し金であった。

こうして、藩閥政治家たちの陰謀によって、「自由民権運動」は破壊された。

また、「国会期成同盟」の板垣や大隈よりも、伊藤博文が率いる藩閥政府のほうが一枚上手だった。

政府は明治十四年、「国会開設の詔」によって、九年後の明治二十三年に、国会を開設すると確約したのである。

これによって、「国会開設」一つに的をしぼっていた民権派は一挙に目標を失ってしまった。まして、伊藤博文が天皇の勅命によって立憲制度の制定にあたるというのだから、在野の民権派にはもはや政府を攻撃する手段はなかった。

藩閥政治のトップは、初期は、大久保利通や公家の岩倉具視らであった。

大久保暗殺後は、伊藤博文や山縣有朋、井上馨、黒田清隆、森有礼、西郷従道、黒田清隆、松方正義、大山巌、山田顕義らである。

一方の自由民権運動家は、板垣退助、大隈重信、頭山満、河野広中、後藤象二郎、箱田六輔、大井健太郎、星亨、苅宿仲衛、田代栄助らである。

内閣が替われど、伊藤博文が元老として院政を敷き、影響力を持ち続けた。

この時代、華族・宮家・皇族、身分制度がまだ色濃く残る。

よく、明治の世から学歴主義が始まり、学歴次第で、どんどん出世できた、という考証がある。が、それは時代考証間違いである。

頭が良ければ出世できたのは江戸時代で、明治時代になると、華族・士族・平民・新平民の身分制度が設けられてしまい、それに、藩閥政治と、身分がうるさい時代になっただけである。本当に、学歴主義になったのは、戦後、太平洋戦争敗戦後、でしかない。

明治三一(一八九八)年、板垣は大隈重信とともに日本初の政党内閣を組織する。

 だが、その大きな希望と理想は、派閥政治と利権屋・政治屋どもの陰謀の前に、またも敗れた。こうして、「自由民権運動」は本当に、瓦解した。いや、された、のだった。

 板垣退助は揺れなかったが、藩閥政府を批判して、敵視していた、大隈重信と後藤象二郎は、藩閥政府に取り込まれることになる。大隈は、黒田清隆内閣の外相に、後藤は逓信大臣(郵政大臣)に任命され、恥ずかしげもなく、その要職に収まる。

 皆が呆れたが、大隈は、幕末からの外国との不平等条約の改定に、と、尽力した。

 藩閥政治の陰謀に、このふたりは取り込まれた。

 こうして、自由民権運動は、藩閥政治家たちの陰謀の前に、敗北した。

だが、右翼結社である福岡『玄洋社』の来島恒喜という三十歳の右翼青年に、乗っていた馬車に爆弾を投擲されて、大隈重信は右足切断の大怪我を負う。

 来島は、投擲後、短刀で自らの首を斬りつけ、自決した。

このテロ事件によって、大隈の条約改正は頓挫し、黒田内閣は総辞職。大隈も退院後、外相を辞職した。この不平等条約の改正は、結局は、陸奥宗光がその後、行うことになる。

 大隈は、それの爆撃で改心し、その後、志を持った大政治家への道を歩むことになる。


 


大政奉還の後、同じ土佐出身の坂本龍馬と中岡慎太郎が京都の近江屋で暗殺されている。

板垣退助は坂本龍馬はあまり知らなかったが、中岡慎太郎とは仲が良かったので衝撃を受けたという。その後は、板垣は自由選挙や国会開設・自由民権運動に精力を傾けた。

 明治初期、自由民権運動を率いた板垣退助の仲間に弁の立つ豪快な女性がいた。演説を止めようとする警官を罵倒し、外国帰りのライバル弁士に「英語で話すのか」と冷やかす。

『民権ばあさん』の異名をとった楠瀬(くすのせ)喜多(きた)である。

 多くの仲間たちが、すでに鬼籍に入っていた。

そして、大正八(一九一九)年七月一六日、板垣退助、死去(享年八三歳)、心臓衰弱による死であった。

高知県の公園に、板垣退助の銅像がある。

「ひとは死んだら終りだという。しかし、私はそうは思わない。

 たとえ私の墓が草に埋もれていても、志ある人々が私の墓を前にして、

 世の矛盾に怒り、それを糾(ただ)さんと

 世のために働いてくれるなら、私の死は終りではない。

 憂(ゆう)楽(らく)を共にしてきた日本三千五百万もの民衆のすべてが、

 自由と幸福を、手に入れる道のりは、

 まだ終わってはいないのだから」





 

       廃藩置県と新政府



        

薩摩隼人、川口雪篷は西郷家を守っていた。

西郷吉之助(隆盛)に留守役をまかされたのだ。只でさえ、西郷は薩摩の代表として忙しい。幕府はつぶしたが、残党が奥州(東北)、蝦夷(北海道)までいって暴れる始末の悪さ。彰義隊にも手をやいた。

西郷は、勝海舟との間で『江戸無血開城』をなしとげたあとも激務におわれた。      

それは大久保も同じだった。大久保はこの頃より、一蔵、から利通と名乗り出す。



勝海舟は旧幕臣たちの説得につとめていた。

幕臣たちは何をおもってか、奥州や蝦夷にいきたがる。会津(福島県)でもひともんちゃくあったという。「俺が新政府と戦っても無駄だっていってもきかねぇんだ。馬鹿なやつらだよ。薩長は天子さまを掲げてんだ。武器や兵力、軍艦にしても勝てねえってことぐらい馬鹿でもわかりそうなのに………まったく救いようがねぇ連中だ」

山岡鉄太郎は「勝先生がすすんで”裏切り者”役をかってでていただいたおかげで、江戸は火の海にならないですんだんです。先生がいなければこの国はどうなっていたか…」「てやんでい。俺に感謝せず、このかたに感謝しろ」

 いままで黙ってきいていた西郷吉之助が巨眼を見開いた。                       

「じゃっどん。幕府にしても慶喜公の隠居にしても……勝先生がいたからでごわそ?」

 勝麟太郎(海舟)は笑って、

「西郷先生、あとはあんたらの出番だ。幕府は腐りきって滅んだが、新政府はそういう風にならねぇことを願うねぇ。あとはあんたらがこの日本の舵取りをしていくんだ」

「……舵取り?」

「そうさな。政もそうだが、まず経済だな。どんな国でも経済がいい国は豊かな国だぜ。それと諸藩から広く人材を集めるこった。それでなきゃならねぇと俺は思うんだ。

 西郷先生はどうでい?」

「おいどんも賛成でごわす。国というのは経済が潤ってこそ政もうまくいくのでごわす。国の基礎は経済でごわそ」

 勝はにやりとして「そういうことでい! 西郷先生、あんたわかってるじゃないか!」 ふたりはがっちりと握手をかわした。

 維新二大英雄の握手である。

「日本国を頼むぜ、西郷先生!」

 勝海舟は強くいった。

「わかりもうした」吉之助も笑顔をつくった。……これからはおいたちの出番でもそ。

「わかりもうした! わかりもうした!」   

 吉之助は念仏のように何度もいい、頷いた。



 幕府は崩れ、新選組の局長・近藤勇は官軍にとらえられ処刑された。幕臣・榎本武揚は、新選組副長・土方歳三とともに蝦夷にいき、臨時政府をつくるも敗退。土方は戦死し、榎本は捕らえられた。       

 そして、明治元年九月二十日、会津鶴ケ城が落城し、ここに戊辰戦争は終結した。

  

 西郷隆盛は「維新後」、二千石の賞典禄を与えられた。

 大久保利通(一蔵)と、木戸孝允(桂小五郎)は千八百石。後藤象二郎、小松帯刀、岩倉具視が千石で、西郷隆盛は正三位に叙されたという。

 薩摩の殿様島津が従三位……家臣が殿より偉くなった訳である。

 西郷は終戦となるや薩摩兵をひきいて鹿児島へもどった。維新後の勢力は当然ながら薩摩と長州藩主体だった、が、土佐、肥後といった藩も新政府に参加していた。

 しかし、諸藩の反発もすごくて「薩長だけで維新がなったと思ってるのか?!」という不満も渦巻いていた。

 吉之助(隆盛)は鹿児島湾から海を眺め、

「おいの役目はおわりもうした。あとは百姓にでもなりもんそ」と呟いた。

 新政権ではドタバタ劇が繰り広げられ、吉之助の弟子の横井楠山が、自決するまでにいたった。西郷吉之助は、

「みな、おのれのことばかり考えちょる。こげんでは新しい世とはなりもうさん。駄目じゃ。いかんど」

 と、頭を抱えてしまった。

 吉之助はいう。

「万人の上に位する者は己をつつしみ、品性を正しくし、おごりをいましめ、節倹をつとめ、職務に勤労して人民の標準となり、下民、その勤労を気の毒に思うようならでは、政令はおこなわれがたし」

 西郷隆盛は『召還』に夢中になるようになる。

 つまり、特使として朝鮮にいかせてくれ、ということである。

 吉之助は弟の西郷従道(慎吾)と話しをした。従道は立派なすらりとした男に成長して陸軍に勤務していた。

 従道は吉之助に「なにごて兄さんは朝鮮にこだわっとでごわすか?」と問うた。

「なにごてて?」            

「兄さんは朝鮮攻っとですか?」

 吉之助は珍しく顔をしかめ「そげんこつでなか!」と強くいった。

「じゃっどんなにごて朝鮮にこだわるでごわす?」

「朝鮮を攻めるなんぞとおいはひとこともいっとらん。誤解じゃ誤解! 朝鮮とこの国をよくするためにいきたいだけじゃっどん。それが誤解されちょる。まるでおいが朝鮮攻めよというとるみたいじゃなかど。そげんこつひとこともいうとらんに…」

「…そうでごわすか」西郷従道は制服の襟をなおして頷いた。

 山県有朋はプロシア(ロシア)、西郷従道は英国に留学していた。従道はイギリスで、『スコットランドヤード(英国の警察組織)』を拝見していた。

 一方で、日本には職を失った浪人士族があふれている。

 かれらの就職先が当面の課題だった。

「兄さん。近代的な軍と警察が必要でごわそ?」

 吉之助は頷いた。

「おいもそう思っとうた。日本には職を失った浪人士族があふれてもうそ。そいたちを雇えば雇用は確保できるばい」

         

 大久保はその夜、薩摩の邸宅で妻・清子にすべてを話した。

 すると清子は「やっぱり西郷さんは朝鮮を攻めるといってるのではないのですね?」

 と笑顔になった。訛りはない。

「そうでごわそ。やっぱり西郷どんは立派じゃ」

 大久保は笑顔でシャンパンを開けた。


 一足先に東京の国会議事堂にいた西郷隆盛(吉之助)を追うように、アメリカNY号という船に乗り木戸や大久保、板垣退助らが東京にやってきた。

 明治四年一月三日のことである。

 西郷ら参議が命がけでとりくんだ最初の難題は『廃藩置県』であった。

 大久保も木戸もはやく日本国を共和制の国にしなければとあせった。

 そこで、まず薩摩、長州、土佐、肥後の藩を「藩籍奉還」として朝廷に献上し、領土を新政府にかえすという方法をとった。

 藩主をその県の主として残すということは、結局減らないではないか……ということにもなるかも知れない。が、まず都道府県に別けて、そののち旧藩のすべてを解体して、かわりに県をおく。県を治めるのは新政府が思いのままに動かせる知事を任命する。

 これが『廃藩置県』の大改革である。


 東京では軍事パレードが行われた。

 明治四年二月十八日、新政府は近代的な軍隊をつくったのである。

『廃藩置県』で殿でも藩主でもなくなった島津久光は、深夜、鹿児島湾に屋形船を浮かべ、何発もの花火を打ち上げさせ、ヤケ酒を呑んだという。

「わしをなめよってからに……西郷め! 大久保め! せからしか!」

 西郷隆盛が新政府へ迎えられると、新政府は組閣をした。


関白   三条実美

 参議   西郷隆盛(薩摩)板垣退助(土佐)大隈重信(佐賀)

 大蔵卿  大久保利通(薩摩)    

 文部卿  大木喬任(佐賀)  

 大蔵大輔 井上馨(長州)

 文部大輔 後藤象二郎(土佐)

 司法大輔 佐々木高行(土佐)       

 宮内大輔 万里小路博房(公家)

 外務大輔 寺島宗則(薩摩)

            他


 この組閣に、長州は怒った。

「長州から取り上げられたのは井上馨だけではないか!」というのだ。

 薩摩兵をひきいて東京にいた西郷隆盛は東京の邸宅を購入した。ときに明治四年春だった。

 この年年末、大久保利道らは『欧米視察』をすることになった。

 西郷はいかない。

「一蔵どん。無事にもどってくるんでごわすぞ!」

 西郷隆盛はいった。

「西郷どん。おいの留守中はこの国を頼みもんそ!」

「わかりもうした」

 親友でもあるふたりは堅い握手を交わした。……なんにしてもこれからが勝負だ。

大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らは十二月一日『欧米視察』のため艦船で海原へと旅だった。西郷は見送ったあと、一時鹿児島にもどった。

 久光へ『詫び状』を届けるためだ。

 薩摩藩城では島津久光が顔を真っ赤にして、激昴して上座にすわっていた。

 吉之助は下座で座り、平伏した。

「吉之助! おのれが!」

 島津久光は開口一発怒鳴った。「お前たちが藩をつぶしたのだ! 薩摩藩は八百年もの歴史ある藩ぞ! そんれを『廃藩置県』なごてもうして……潰しおった!」

「久光公……もうこの国に殿様はいりもうさん」

「なにごて?!」

 吉之助は頭を上げた。「この国は東京を首都とした近代国家となりもんそ。もう殿様はいらなかです」

「せからしか! 吉之助! 首をはねてくれるわ!」

 島津久光は怒鳴りっぱなしだった。刀を鞘から抜いた。

「日本国は民のもの。どうぞ! おいの首をはねとうせ!」

「いいおったな! 吉之助!」

 久光は刀をふりあげた。そして、はねる真似をして、それからぜいぜいと荒い息をしてコンクリートのように固まった。吉之助はいささかも動じるところがない。

 久光は頭の中が真っ白になった。

「さ……さがれ! この外道!」

 吉之助は去った。

 すると久光は眩暈を覚えて、放心状態になり畳みに崩れた。

 ……せからしか! せからしか! ……もう声もでない。


 明治三年十二月十七日、朝廷令が発せられた。

 六月五日、西郷隆盛(吉之助)は日本で初めての陸軍大将に任命された。中将はない。   次は少将で、それには薩摩の桐野利秋が任ぜられている。桐野は前名は中村半次郎で、維新の動乱のとき「人斬り半次郎」といわれた剣豪で、維新後まで生き残った最後の剣豪である。


 大久保たちが視察にいく前に会議が開かれ、やがて『征韓論』が浮上してきた。

「朝鮮を征伐してこの国の領土としよう」

 西郷は反対し、「おいどんは反対でごわす。まずおいを朝鮮に特使としてつかわせてくれもんそ」と頼んだ。

「しかし、西郷先生にもしものことがあったら大変じゃ。それは出来ん」

「正常な外交なら軍隊はいらんでもそ?」

 一同は沈黙する。


 西郷は野に下った勝海舟と話をした。

「なに? 西郷先生は朝鮮を攻めるのかい? そんなんでなんになるってゆうんだい?」 勝は深刻な顔の西郷隆盛にいった。

「おいは…」西郷は続けた。「おいは朝鮮を攻める気はなか。只、門戸を開こうとしとるだけでこわす」

「西郷先生、そりゃああんたのいうことはいちいちごもっともだ。しかし……抵抗勢力に邪魔されてんだろ?」

「そいでごわす」西郷は素直に答えた。

「西郷先生! これからが大事だ。この国が栄えるも滅ぶも危機感をもって望む決意が重要だぜ。俺はもうあんたらにとっては必要ない者だ。あとは自分らで決めてくれ」


 大久保は朝鮮との交渉に反対した。     

 大隈は「参議以外は発言を控えよ」と慇懃にいった。

「だまれ!」江藤新平は怒鳴った。

 大久保は議論に激昴して退場した。

『征韓論』は失敗した。

 西郷はいった。「おまさんら、維新で大勢の血が流れたことを忘れおったか? わずか五年前のことじゃっどん」

 一同はまた沈黙してしまった。

 二月四日閣議が開かれる。

 朝鮮との交渉に賛成したのは、西郷・板垣・後藤・副島、反対は岩倉・大久保・大隈・木戸であった。

 木戸孝允(桂小五郎)は「朝鮮より樺太と台湾が先である」と息巻いた。

 議論は空転し、やがて大久保と大隈と木戸は辞表を提出し、参議から去った。

 閣議は続く。西郷は公家の三条に迫り、「天子(天皇)さまにご決断をば!」といった。 三条実美も辞任した。

 西郷は、公家の岩倉具視に迫った。「天子(天皇)さまにご決断をば!」

 岩倉具視は押し黙ったままだ。

 西郷はさらに「朝鮮にばいき国交を開きまそ」と提案した。

 岩倉は「戦になるかも…」と恐れた。

「樺太も同じでごわそ。朝鮮は”かませ犬”じゃなか! 朝鮮に使者を派遣せねばならぬごて。そいがわからんでごわすか?」

「士族のため?」

「そうではごわさん」西郷は首をふった。「このまんまでは国家百年の計あやまりおこるでごわす」

 吉之助は岩倉の袖をひっぱった。「はなせ!」

「岩倉どん! わからんでごわすか?!」

 そんなひともんちゃくがあったあと、西郷隆盛は馬車で帰宅した。

 弟の従道とその妻清子がきた。

 西郷吉之助は大きな溜め息をもらし、「鹿児島にもどりもうそ」と独り言のように呟いた。彼は疲れていた。吉之助には一晩の熟睡と熱い風呂が必要だった。

 ……つかれたばい。つかれたばい…

「岩倉は天子さまに反対のこというじゃっとろう。西郷は朝鮮に戦しかけると思われるじゃなかど」

   

「……兄さん」

「月照どんと海に落ちておいだけが助かった……それもなにかの縁じゃ。鹿児島にもどり百姓にでもなりもんそ」

 吉之助はずいぶんと疲れていた。なによりも彼を迷わせたのは思い通りに政ができないことだった。西郷隆盛には大久保利道のような政治の才がない。       

「兄さん! おいも鹿児島にもどりもうそ!」

 弟の従道は強くいった。吉之助はそれを断った。

「そげんこつは駄目じゃ! あんさんがいのうなったら誰が国守るど?」

 二十三日、再び閣議が開かれた。吉之助は参議を辞任した。四参議も辞任し、結局、参議は誰もいなくなった。

 東京は雨が降っていた。

 陸軍少将・桐野利秋(中村半次郎)、近衛陸軍少佐・別府晋介は激怒した。

「西郷どんのような維新の功労者を辞めさせるごて、そげな政府ならいらんでごわす!」           

「薩摩の者はみなやめて鹿児島(かごんま)に帰りもうそ!」

 陸軍少将近衛局長官・篠原国幹は「まて! はやまるな!」と彼らをとめた。

 しかし、無駄であった。篠原国幹ものちに辞めて、鹿児島へと向かっている。

 大久保利道は残念がった。

「……西郷どんには政治にはむいとらん」

  鹿児島で、西郷隆盛は犬を連れて散歩した。彼のまわりには薩兵十万の軍隊が集まった。「先生! 西郷先生!」

 桐野や別府、篠原は西郷隆盛(吉之助)を慕ってついてきていた。

「……国のことは大久保どんにまかせるばい」

 西郷隆盛は自分にいいきかせるように、いった。

「なんてこった!」

 のちの勝海舟は嘆いた。


「……じゃっどん。吉之助どんは維新の英雄じゃなかが」

 従道は「維新の英雄でも、今は朝敵になっておる。このまえ勝海舟先生におおたら、西郷さんは情に弱すぎるから御輿にまんまと乗せられたんでい……とばいうちょった。兄さんのはひとつの病気みたいなものじゃ。負けねばわからんのよ」

「従道どん。それではあまりにも吉之助どんが馬鹿みてぇなことになるじゃっどん?」

 従道は首を横にふって、                    

「おいは兄さんを馬鹿扱いなどしとらんど」と否定した。

「…ならなして吉之助どんを批判する?」

「挙兵が無謀だっただけじゃというとる。おいも兄さんに生きて帰ってきてほしか。榎本武揚は捕まっても殺されなんだ。兄さんも白旗あげて投降すれば命だけは助けられるかも知れん」

 大山巌も「そいがよか。投降してくれればありがたか」と同意した。


 西郷はついに全軍を解散して、八月十九日朝……わずか五百人の兵をひきいていた。 紐につないでいた秋田犬・シロとクロをの縄を解いてやり、逃がした。

「どこんぞでも好きな場所で暮らせ。銃弾にあたってはつまらんぞ」

 西郷は駆ける犬たちに笑顔で手をふった。

 桐野は「まるで主人のいうことをよくきいているように駆けていくじゃっど」

 と感心した。

「西郷先生の犬は賢こか」        

 別府がいうと、一同は笑った。もう皆肝がすわっている。

 ………もう戦に勝つことはできない。元武士らしく潔く自決しよう…… 

「鹿児島?」          

 山県有朋は部下にききかえした。

「西郷とその側近らは、九月十九日、鹿児島へもどったそうです!」                      

 部下の言葉に、有朋は「鹿児島? いよいよ西郷先生も意を決したでごわすな」

 と神妙な面持ちになった。                     

「旦那さんが鹿児島に戻ってきたそうな!」川口はイトにつげた。

「……旦那はんが?! 勝つたのでごわすか?」

 川口は深い溜め息をつき、肩を落とし「いやぁ、負け戦じゃっど。先生はわずか五百余りの兵に守られて岩城に立て籠もっとるそうじゃ」

「旦那…はん……やはりもうあんさんにはあえんとでごわすなぁ」

 イトは涙を浮かべた。

 西郷たちは私学校校舎に向かい、破壊された校舎を茫然と眺めた。

 鹿児島中パニックの中、涙の西郷残党軍は、武器を城山へと移した。

 城山は、旧島津家の居城……鶴丸城の背後にある標高一、五キロメートルのちいさな山であるが、天然の森林と多数の亜熱帯植物がおいしげり、冬でも鬱蒼な緑に覆われている。 西郷隆盛は、政府軍の砲撃をさけるため、城山の祠にわずかな残党兵たちをひきいて山頂に陣取っていた。籠城である。堂々たる薩軍を率いて……?

 いや、もう戦には負けたのだ。

 薩摩の女たちも「西郷先生がお気の毒じゃ」と岩城に食事や酒を運んだりしたという。 官軍(政府軍)はそれを見て見ぬふりをした。

「そのまんまにしてとうせ」

 官軍もなかなか理解がある。

 政府軍の中にも「西郷ファン」が多い。………西郷先生が死ぬことなく降伏してくればおいも嬉しか……


「西郷先生!」桐野は軍服のままで「何考えちょっとごわす?」ときいた。

「なんも……ただ、死あるのみ」

 桐野利秋は泣いた。「すみません先生! おいらがふがいないせでこげんなこつに…」「いや、利秋どんのせいではなか」

 河野圭一郎は「おいが先生を命がけで助けもうす! 官軍に降伏すれば先生の命だけは助かりもうそ」といった。

 西郷は首をゆっくりと横にふり、「おいだけ生き残ったら……死んだ同志たちに顔向けできもうさん」といった。

「じゃっどん……」

「もうよか。もうよか」吉之助は覚悟をきめていた。

 政府軍は完全に岩城を包囲してじらし作戦をしていた。

 薩摩軍から投降した中津によって、西郷隆盛が生きて城山にいることがわかった。

「城山への総攻撃は九月二十八日である」山県有朋は籠城する西郷軍残党に告げた。

 九月二十七日、西郷吉之助の下僕・熊吉爺が、イトに着物を渡された。麻染の新しい着物だった。イトは「旦那はんの軍服も汚れちょうだろうからこの服を城山に籠城している旦那はんに……届けておくれ」と頼んだ。

「わかりもうした!」

 熊吉爺は了解した。

 そして、熊吉爺は官軍に狙撃されながらも、銃弾の中を城山へ到着、吉之助の妻・イトの差し入れでもある「新しい服」を吉之助に手渡した。

「熊吉爺! よくきてくれた!」

 西郷は風呂敷をあけて、中の新しい服をみた。「イト……」涙がこぼれそうになった。 その夜、焚き火をして円陣を組んでいると、誰かがハーモニカを吹きはじめた。

 ♪タタタッタッタッタッタータタ、タタタタッタータタター

 西郷は興味をもち、「そいは何の曲ぞ?」と尋ねた。

「革命の曲でごわす。フランス革命でごわす」

「そいはいい」

 一同は円陣を組み、腕をからませて「革命」の曲にもりあがった。

 西郷は少年兵たちを逃がし、いよいよ西郷隆盛の近辺にはわずか百にもみたない兵だけになった。西郷隆盛は「こいでよか……」と、悟りの境地でもあった。


 明治十年九月二十四日、午前三時五十五分。

 号砲が鳴り渡るとともに、政府軍は城山の岩崎谷を目指して総攻撃を開始した。

 砲弾や銃弾が乱れ飛ぶ。

 空が紫色になり、朝がやってきた。

 政府軍は、城山から徒歩で降りてきた西郷たちに大砲や銃弾を浴びせかける。

 西郷隆盛は、浅黄縞の単衣に紺の脚絆、わらじばきの姿で、腰に短刀をさし、杖をついて整列した桐野、村田、別府、池上らとともに、

「そろそろいきもうそ」

 いった。ときに五十一歳である。

 この朝の猛攻撃は二時間もかかったという。

 政府軍の銃声や大砲はやまらない。

「おいが防ぐ。そのあいだに西郷先生を守りとうせ!」

 桐野が別府にいった。

 そして、桐野は刀を抜いて駆け出した。

 進軍のラッパがきこえる。

「………行きもうそか」

 誰にいうでもなく、西郷隆盛は歩きだす。

 岩崎谷では砲弾、流弾がとびかい、死ぬ者も続出する。西郷はのろのろと歩き続けた。 このとき、西郷に付き添うのは別府晋介と辺見十郎太のふたりのみとなっていたという。 村田も池上も、その他の幹部たちも銃弾にたおれ、バタバタと死んでいった。

 岩崎谷を出た。

 急に展望がひらける。

 桜島の噴煙がみえた。

 別府晋介が駆け寄り、

「西郷先生。この辺で、ゆわでごわそ?」ときいた。

 この辺で自決しましょう、ということだ。

 政府軍の喚声と銃弾が飛び交う。銃弾しきりだった。

 西郷隆盛の巨体がくずれたのはこのときだったという。

 西郷は弾丸に腹と脚をやられた。血がしたたり落ちる。

「西郷先生!」

「別府どん。弾にやられもうしたばい」

 と、西郷隆盛はいう。

「先生! ここで、ゆわごわんすか?!」

「別府どん……おいの首はねもうせ…」

「はっ!」

 別府は刀を抜き、地面に崩れてうなだれた西郷隆盛の首に狙いを定めた。

「ごめん!」

 打ちおろした別府の一刀で、西郷隆盛の首は落ちた。

「……先生の首を渡すな!」

 午前九時頃、城山に、まったく銃声は消こえなくなった。

 西郷の首は、熊吉によって埋められたが、のちに発見された。これより先、首のない西郷の遺体が政府軍により発見されたが、年少のころに右腕に受けた刀痕と病気によって肥大した巨大な皋丸によって、西郷の死が確認されたそうである。

 イトたち西郷家の女たちは城山を遠くでみていた。

「……銃声がなりやんだど」イトは遠くの岩山に思いをはせた。

 やがて、馬にのって大山巌がやってきた。

「大山どん! 戦は?! 旦那はんは?!」

 大山はやりきれない思いで、「戦はおわりもうした。皆、死にもうした…」といった。「……これで、西郷家の女たちはみな後家になりもうした…」

 イトは放心状態で呟いた。

「大山どん、ありがとうごぜえました。わざわざ伝えて頂いて……」

「いやあ」大山巌は首をふった。「西郷先生は軍服ではなく羽織着ちょったそうでごわす」「……羽織り? あたしが届けさせたもんじゃろうか?」

「姉さん。わしは用があるので……これで失礼する」

 大山巌は馬にのって去った。

 イトの全身の血管の中を、悲しみが駆けめぐった。それは冷たいなんともいいようもない悲しみ、絶望で、身がちぎれるほどの痛みが胸にきた。

 ……旦那はんが戦死しよったばい……

 イトの瞼を涙が刺激した。小刻みに震えた。そして、号泣した。

 旦那はん! 旦那はん!

 これが、イトと西郷隆盛との別れである。


 イトは、奄美大島の愛加那に、西郷隆盛の死をしらせる文をおくった。その愛加那は明治三十五年に六十五歳で亡くなる。その子、菊次郎と菊草も長生きして、六十歳の天寿をまっとうする。西南戦争では薩摩軍兵士六千七百人が戦死した。

 のちに供養塔がたてられたのも当然のことである。

 大久保利通は、その後も政治にたずさわり、励んで一歩一歩日本を近代国家に近づけるために邁進した。が、明治十一年五月十四日の朝、馬車に乗り赤坂・紀尾井坂を通過したところ襲撃され、石川県士族・島田一郎らに刀で何度も斬りつけられた。

 馬車の乗員は逃げ、大久保は早朝、血だらけのまま馬車からころげ落ち、のたうった。「……木戸どん……おんしの…い…う通りに…なりもうしたばい…所詮おいどんら…は…歴史の波に流され…ただけじゃっどん…」

 大久保利通暗殺……

 享年四十七歳。

 こうして、西郷、大久保、木戸という真に維新に貢献した維新三傑の英雄たちは新政府発足後わずか十年でこの世を去ったのである。

 そののち、西郷隆盛の名誉回復につとめた勝海舟も世を去った。

 維新はこれで、本当におわった。


 維新三傑の死後、政権の中枢にあったのは伊藤博文と井上聞多、大隈重信だった。長肥政権である。長州は伊藤博文と井上聞多(馨)、山県有朋、薩摩からは西郷隆盛の親族の西郷従道、肥前からは大木喬任。ちなみに伊藤博文が初代内閣総理大臣になった第一次伊藤内閣のメンバーは、


   太政大臣    三条実美  

   右大臣     岩倉具視

   左大臣     空席

   内務(内閣総理大臣)伊藤博文(長)

   大蔵      大隈重信(肥)

   外務      井上馨(長)

   司法      大木喬任(肥)

   文部      寺島宗則(薩)

   工部      山田顕義(長)

   陸軍      西郷従道(薩)

   海軍      川村純義(薩)

   北海道開拓長官 黒田清隆(薩)

   参謀本部長   山県有朋(長)


 である。オールスター・キャストであった。そののち、伊藤博文は欧米視察後、「脱亜入欧論」を発表、「明治憲法」を制定した。そのときのドジは明治天皇を「国家元帥」とし、またしても「錦の御旗」を掲げたことだ。このときに伊藤博文は「天皇制」など「無力だ」とわかっていた筈である。所詮は「帽子飾りに過ぎない」と。

 しかし官軍よろしく、「錦の御旗」として明治天皇を「元帥」とした。

 天下の愚策であり、このことが「日本の軍事大国化」「侵略論」へとつながっていったのは言うまでもない。明治の世はこうしてスタートした。





   鹿鳴館外交と乱痴気騒ぎ


自由民権運動や帝国議会の国会開設の気運、藩閥政府による弾圧、それのあおりを受けて、朝鮮独立派の挫折――――――ちょうどそれと同時期……東京府麹町区に建設された洋館では、豪華な、それでいて奇妙な夜会が頻繁に催されていた。

その洋館の名前は鹿鳴館――――イギリス人建築技師ジョサイア・コンドルが設計、明治新政府がその威信をかけ、約三年の歳月を費やし、明治十六年(一八八三)七月に完成させた迎賓館である。

総工費は十四万一六五二円。他に装飾品四万三○○○円余、備品に約一万五○○〇円が注ぎ込まれた。同時期に建てられた外務省本省庁舎の建設費が四万円であり、迎賓館一つにこの巨額費用は破格中の破格だった。

二階建てのレンガ造りで、一階に大食堂、談話室、書籍室……二階が舞踏室になっており、三室開け放つと百坪もの広間になった。外国人向けにバーやビリヤードも併設されていた。

鹿鳴館時代は明治十六年から二十年までの四年間しかない。この時代に、日本人は、シワだらけの服装をしたり、コルセットを締め過ぎたり、フィンガーボールの水を飲むような誤りを犯しつつ、西洋のマネをしていたのである。

鹿鳴館のプロデューサーは外務卿・井上馨だった。

井上は伊藤博文と共に、大久保利通亡き後の明治政府を十年余に亘って牽引した。

井上も伊藤も長州の志士あがりだが、二人とも幕末にイギリスに密航して欧州を見てきた経験から、維新前から「攘夷」を完全に捨て去り、日本を守るには国を西洋化するしかないと考えていた。

――――徳川幕府が不平等条約を吞まされたのも国が遅れていたから。西洋化して日本を脱亜入欧すれば条約改正が出来る!

――――超豪華な洋館を建てて、そこに欧米人を誘い西洋の舞踏会を開催すれば、条約改正の要因となる!

井上馨と伊藤博文は、本気でそう考えていたのである。

夜会は夜九時から深夜二時ころまでになることもあった。帰りには特別列車が運行された。フォアグラ、キャビア、トリュフなど世界一流の食材、そしてロマネ・コンティなどの最上級の高級ワインを取り寄せて用意された超豪華な宴席。

西洋料理や音楽が日本に入ってきて、二十年も経たない当時の日本人が手掛けたとは思えないほどレベルが高い。日本人の技術習得性の優秀さである。

そしてまた、二十年前まで、白刃の下をかいくぐってきた元・志士たちが、無様な燕尾服を着て、条約改正を信じて稚拙なダンスを踊り続ける。なんとも奇妙で絢爛豪華な舞踏会が繰り広げられたのである。

広間の床は板張りで、大勢が踊ると床がきしみ揺れたという。

舞踏会に参加したフランス海軍士官で小説家のピエール・ロティは、「落っこちそうな気がして内心びくびくもの」だった、と記している。

また、日本政府が必死に建設した鹿鳴館を見て、彼は、「われわれの国のどこかの温泉街のカジノに似ている」とまで言って困惑している。

「広間は広くはあるものの月並みで、第二級のカジノの装飾と認めざるを得ない。料理はどれも美味しく、高級品ばかりで、まるでパリの舞踏会のように絢爛豪華でありそこはしっかりとしている。だが、所詮はマネ、模倣である。日本人の顕官紳士たちは大分、きらびやか過ぎて、あくどく勲章をいくつもジャラジャラさせている。燕尾服というものはわが国でも醜悪な服装になりつつあるが、どうも彼らは奇妙な格好に着ている。もちろん、彼らはこの手の服に適した背中をしていない。どうしてそうなのかはいえないけれど、わたしには彼らがみな、猿に似ているようにしか見えないのである。

白・薄い紅・水色などのドレスを日本人女性は着ているが、顔はどれも同じである。しとやかに伏せた睫毛の下で左右に動かすアーモンドのように吊り上がった眼をした、大そう丸くて平べったい仔猫のようなおどけたちっぽけな顔。

彼女たちはダンスを正確に踊るが、それは教え込まれたものにすぎず、自動で踊る人形のようだ。―――」

条約改正を信じて、シャンデリアの下で西洋人と踊る日本人は、滑稽だが、悲壮ですらある。日本人はそれで何か外交上のプラスになると信じて、踊った。

『鹿鳴館外交』のクライマックスは、明治二十年(一八八七)四月に首相官邸で行われた仮装舞踏会であった。ベニスの貴族に扮した伊藤博文、三河万歳の井上馨、奇兵隊の山縣有朋、勧進帳の弁慶に扮したのは実業界の巨人・渋沢栄一……百鬼夜行である。

夜半過ぎ、着ぐるみの大クマが突然現れて、貴婦人や令嬢に襲い掛かる。

これを「鹿鳴館の名花」といわれた戸田伯爵夫人が取り押さえ、やんやの喝采……といった乱痴気騒ぎが明け方四時まで繰り広げられた。

これにはさすがに国民から批難囂々となり、憧れの鹿鳴館は「国辱」へとかわった。

その後に、本当かどうかは知らないが、戸田伯爵夫人と伊藤博文が道ならぬ恋におちたという噂が立ち、スキャンダル記事が踊り、国民から不満と憤慨の大合唱になった。

かつては憧れの『鹿鳴館外交』も、ただの「ゴシップ」の庶民の下世話な話題の舞台となってしまう。これではどうしようもない。こうして、鹿鳴館外交は終わりを告げた。







伊藤博文は、兵庫県知事時代の明治2年(1869年)1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、

1. 君主政体

2. 兵馬の大権を朝廷に返上

3. 世界万国との通交

4. 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与

5.「世界万国の学術」の普及

6. 国際協調・攘夷の戒め

を主張した。

明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。後にこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。

また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。

明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う。明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し宰相ビスマルクと会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。


大阪会議開催の地

(大阪府大阪市中央区北浜)

大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ

(大阪府大阪市中央区北浜)

当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。

また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保と共に帰国したが、取得に5ヶ月もかかったことは木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。

だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とも後に和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。

この後木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の馨と共に木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。

明治10年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争で西郷隆盛が敗死、翌11年(1878年)に大久保も暗殺された後は内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう。


明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる。

明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると政界追放を決め工作に取り掛かり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制が出来上がった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案した時は退けたが、これは毅が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。


明治15年(1882年)3月3日、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。


明治18年(1885年)2月、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している。





      要人暗殺・国家転覆未遂で逮捕



「岩倉使節団」で大久保や木戸、岩倉などが海外へ外遊している間に、留守政府の大隈重信や大西郷、板垣退助らが大きな仕事をした。だが、「征韓論」で敗れて、西郷らは下野した。この頃、陸奥は軽い病気になった。

「大久保嫌い」ということでは、陸奥宗光と西郷吉之助(隆盛)や板垣とは意見が一致していた。彼らは、明治政府を批判していく。

陸奥は、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、和歌山に帰った。

明治五年(一八七二年)に蓮子夫人が亡くなり、翌明治六年(一八七三年)に亮子と結婚している。大阪会議(一八七五年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。

陸奥は、この頃に、木戸宛の檄文を書いている。が、それは掲載しないでおく。

陸奥の著作の『蹇蹇録』に掲載されているので時間があれば参照されたい。

時代は、陸奥VS.板垣の様相を呈していく。そうして、明治政府は、台湾占領の準備も始めた。陸奥の叛骨は、無骨なまでに発揮された。

「士族の乱」「江藤新平死刑」「西南戦争」―――――――

明治一〇年(一八七七年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀った。

陸奥宗光は、西南戦争の最中に要人暗殺・政府転覆計画の計画に参加するようになる。

明治一〇(一八七七)年二月一〇日、西郷隆盛を頭として薩摩・鹿児島の士族達が武装蜂起する。日本最後の内戦『西南戦争』である。

陸奥たちは参戦しようか迷う。悩む。

部下たちが、「ここで、われわれ元・海援隊も西郷先生に与力して戦うべきです!」

「西郷先生は維新の英雄! 負ける訳がないき」

「元・海援隊のものたちも明治新政府に次々に逮捕され、牢屋送りになり、殺されています! 西郷先生たちと呼応して共に」

「明治新政府を叩き潰しましょう」

「いや、待て!」陸奥は片手の掌で、部下たちを制した。「われわれは〝〝武力〟ではなく、〝言論〟で戦う!」

「じゃきに……」

「西郷先生を見捨てるっとですがか」

「そうじゃあない! もう〝武力〟の時代じゃない。〝言論〟しか我々にはないのだ」

「……じゃきに、陸奥さん」

「まず私が立志や民権を一町より一区に及ぼし、一区より一県に及ぼし、各県全国に及ぼし、衆力一致の上、大政府にむかって為す所あるにしかず。今は耐えるときぞ。だが、政府に隙があれば、その時こそ明治新政府を転覆させればよい。要人の大久保を殺そう。爆弾投擲じゃあ。だが、それは最後の策……まずは臥薪嘗胆じゃ」

 部下達はやりきれない気持ちで泣き崩れて、机や壁をどんどん叩いて号泣するしかない。

……西郷さん、すまんちぃ。悪いなあ、西郷さん、わしらは与力ば出来んぞね……。

 陸奥も目からボロボロと涙を流して、只、茫然自失、しかない。わしは無力じゃ。

 そして、一ヶ月後、西郷吉之助(隆盛)は鹿児島の城山で自刃し、西南戦争は終結した。

「戦ではかわらんぞな。西郷先生!」陸奥は泣いた。

「もしかすると、西郷が勝つかもしれないから、そのときにはそれなりの準備をしておこうと思った」(西園寺公望「自伝」より)

が、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮五年の刑を受け、投獄された。

宗光が山形監獄に入って、その後、間もなく、詩をしるす。

「  山形繋獄(けいごく)

 弁は懸河(けんが)の如く 胆は天の如し

 ただ杯酒を愛して 銭を愛さず

 踏破す 五大州の山海

 よみつくす 人間(じんかん)の書万篇

 常に笑う 管仲(かんちゅう)の器のなんぞ小なるを

 またあざける 孟軻(もうか)の学の未だ全(まった)からざるを」

陸奥宗光は、白の囚人服に、自分に言い聞かせるかのように筆で、書き記す。

〝人生の行路は幾重にも連なる山のように険しい。旅の宿で過ごす一夜恨めしい気持ちには限りがない〟

山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。

四十歳で勉学に目覚めた陸奥陽之助は、さまざまな知識を吸収する。

出獄の後の明治一六年(一八八三年)にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、明治一一年(一八七八年)に 伊藤博文が手を尽くして当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。

陸奥宗光は、この頃、伊藤博文、山東直砥、原敬、西園寺公望、星亨らと親交を強くした。まさに、陸奥にとって、彼らは『同志』であり、『刎頸の友』で、あった。

明治一六年(一八八三年)一月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。明治一七年(一八八四年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートが今も七冊残されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されているのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収したあとがみられる。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ。

陸奥は、単身、メキシコに蒸気船で行き、相手国外相らと交渉をはじめた。

「―――はじめまして。外相。―――貴国・メキシコ合衆国を訪問して、外務大臣閣下とこうしてお会いできるのを楽しみにしておりました。日本の外務大臣の陸奥宗光です。どうぞよろしくお願い致します」

「―――こちらこそ陸奥外相。どうぞよろしくお願いいたします。」

相手国の外相と、がっちりと握手を交わした。

陸奥宗光の外交交渉で、「これはすごいなあ」と思うエピソードとして、メキシコとの通商条約交渉における「陸奥の策」が挙げられる。

当時、メキシコはフランス軍の侵攻を受けていたため、日本との通商条約交渉に応じることを渋っていた。陸奥は、メキシコの財政難に付け込み、通商条約の締結と引き換えに、日本がメキシコに50万ドルの借款をするという条件を提示した。メキシコ政府は、この条件を受け入れざるを得ず、通商条約が締結された。

この交渉は、陸奥の巧みな交渉術と、メキシコの財政難という状況をうまく利用したことで、日本にとって有利な条件で通商条約を締結することに成功したという点において、非常に見事なものと言える。

また、日英同盟締結においても、陸奥の外交交渉は見事なものでした。当時、日本はロシアの南下政策に脅威を感じており、欧米列強との同盟を模索していた。陸奥は、イギリスとの同盟を実現するために、イギリスのインドへの進出を支援するなど、イギリスの利益に沿った外交を展開した。その結果、陸奥の死後、1902年に日英同盟が締結され、日本は欧米列強の仲間入りを果たすことになった。

この交渉は、陸奥の外交交渉における最大の成果であり、日本にとって大きな外交的成果となった。

これらのエピソードからは、陸奥宗光が卓越した外交交渉術を持ち、日本のために大きな成果を残した人物であったことがうかがわれるのである。

話を戻すが、明治一九年(一八八六年)二月に帰国し、一〇月には外務省に出仕した。明治二一年(一八八八年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功するのである。

帰国後、第一次山縣内閣の農商務大臣に就任。明治二三年(一八九〇年)、大臣在任中に第一回衆議院議員総選挙に和歌山県第一区から出馬し初当選を果たし、一期を務めた。閣僚中、唯一の衆議院議員であった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第一回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際に初代衆議院議長の中島信行は海援隊以来の親友であり、またかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。




   陸奥宗光の死



明治二四年(一八九一年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年五月成立した第一次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。一一月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、自らも列する松方内閣を批判、明治二五年(一八九二年)三月、辞職して枢密顧問官となる。

その後、第二次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。

明治二七年(一八九四年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた一五ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。同年八月、子爵を叙爵する。

朝鮮の独立派・民主化の官僚の風雲児・金玉均を、日本は受け入れた。政治亡命で、ある。だが、結局は、金は朝鮮王朝の実権を握る閔妃の手の者によって暗殺された。

その閔妃を暗殺したのが日本人の三浦悟楼で、朝鮮半島をのちに帝国日本の植民地にしたのは、やはり伊藤博文である。

 有識者の的野や平岡浩太郎、さらに、玄洋社の内田甲(きのえ)らが、暗殺された朝鮮独立派の官僚亡命者の金玉均について、〝仇討ち〟を求めて、陸奥宗光の外務省に押しかけた。だが、陸奥は、

「一亡命者の暗殺事件だけで、清との戦争開戦を求めるのは〝書生論〟である」

 と一蹴した。だが、同時に、「しかし、悪い筋の話ではない。それについては川上操六と話すがよい。紹介状を書いてやろう」と陸奥は折れた。

 彼らは、陸軍参謀次長の川上操六のオフィスで話した。

「――〝仇討ち〟ね。まあ、きっかけは何でもいいのだが……。要は誰が〝付け火〟をするかだよ。炎が上がってしまえば、消すのは軍の仕事だから」

「―――〝付け火〟……」

 平野は息を呑む。その瞬間、喉ぼとけが上下した。

 結局、平野浩一郎は議員となり、的野は参謀となったため、行動できず、若い内田甲と、梁山泊の主・大野正吾、某新聞新報主筆・鈴木天眼、仙台出身の志士・日下寅吉、陸軍休職中尉・関沢右一、玄洋社・大原義剛は、釜山の同志八名と共に義軍「天佑侠」を結成した。その組織により、一騎当千の男たちが朝鮮半島や清国で暴れまくった。

 その男たちに励まされたかのように、陸奥宗光や川上操六は勇気を出した。

 開戦を迫るために、ふたりは伊藤の下を訪れた。

「もはや、清国(のちの中国)との戦争は避けられない」

伊藤の下に馳せ参じた陸奥と川上は、伊藤に訴える。

「今こそ、清国を打ち滅ぼすときであります」

「しかし……」

 伊藤は躊躇する。彼は清国の大国ぶりや強靭さもわかっている。

「清国との〝戦さ〟だけは駄目じゃ。ぼくはいつも長州が四国連合軍と戦ったときの夢を見る。夢の中では、ぼくは若造で、高杉さんがぼくを叱るんじゃよ。〝戦さだけは避けんといかん〟いうて。」

「―――伊藤さん」

「清国は、古からの大国じゃぞ。清国の大将軍・李鴻章や、提督の丁汝昌の率いる清国艦隊に、どげんして日本国が勝てるというんか? 陸奥。川上」

「それについては、この陸奥と、川上に任せてくれんか、伊藤さん」

「日本国の武力と清国の武力の差は、下手な作戦では埋まらんぞ」

「――伊藤さん。今こそ千載一遇の好機。日本と清国は戦争する運命ですよ」

「そうです。伊藤さん。伊藤さんの〝恐露病〟〝恐清病〟はわかるが、この機を逃せば、清国の背後にいる帝政ロシアとの衝突は避けられない。日清戦争は今こそ、の戦争ですよ」

「まずは、朝鮮に日本の兵隊を派遣しましてな」

「どれくらいじゃ?」

「せいぜい二~六千兵ぐらいですよ」

「たったの? そんな数では朝鮮の背後の清国どころか、朝鮮軍にさえ勝てない」

「そんなの――――やってみなけりゃわからんでしょう?」

「陸奥。川上。おんしらは馬鹿じゃ。清国はそげに弱くはないぞな」

「――伊藤さん」

 伊藤は言うが、陸奥と川上には自信があった。

 その当時の清国は、確かに、強靭なる大型戦艦を数隻も保有していたが、兵隊の士気は驚くほど低いものであった。イギリスとの阿片戦争から数年後であるが、清の兵隊は〝軟弱にして愚鈍〟……

 少なくとも、日本人たちはそう見ていたのである。

 そうして、その分析は実に見事に、当たった。

一方、同年五月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。七月二三日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、二五日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。

戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治二八年(一八九五年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。



 帝政ロシアとの関係が悪化した状況下で、陸奥宗光は病をおして、美貌の妻・亮子に支えられて杖代わりにして、伊藤の下にやってきた。妻を帰すと、

「伊藤さん。――――もうロシアと日本との戦争は避けられない」

「陸奥。病気をおして、何を言うと思えば……。帝政ロシアは清国との日清戦争のようにはいかんぞ。清が弱すぎたから勝てただけ。帝政ロシアの軍事力は、西洋列強の中でも群を抜いておる。甘く見ていたら、大火傷をするぞな」

「ごほ。ごほ。……伊藤さんの『恐露病』はわかるが……もはや決断の時ですよ」

「すでにロシアは南下し、満州や三国干渉で我が国から奪われた遼東半島の旅順に、大基地と極東艦隊を有しておる。ましてや、バルチック艦隊や最強のコサック師団を……どげんして打ち負かせられる? 日本人の半分が死んでも勝てない」

「ごほ。ごほ。だから―――何度も言うようにやってみないと分からない」

「帝政ロシアは最強じゃぞよ」

「ですが――日本だってここ数年で臥薪嘗胆して軍事費を工面し、艦隊を揃えた。ごほ。ごほ。……今ならまだ勝てるかもしれない。まさに、やってみなけりゃわからん」

「無茶苦茶である。そんな楽観論では戦争には勝てない。〝彼を知り己を知らば百戦危うからず〟―――戦争は孫子の兵法じゃぞ。〝戦わずして勝つ〟じゃぞよ」

「……ごほ。ごほ。この後に及んで、孫子ですか? 感覚が古い」

「陸奥。〝西洋は技術〟〝東洋は道徳と兵法〟だよ」

「孫子の兵法も、西洋のストラテヒーもたいしてかわりませんよ。伊藤さん。日露戦争開戦への、決断の時ですよ」

「―――陸奥」

 伊藤は言葉を呑んだ。かぶりを振る。

 だが、そんな決断を進言する陸奥も、病死することになる。

「恐露病」の伊藤は、訪露し、ウィッテ外相やニコライ二世と会談することになる。帝政ロシアの態度は、伊藤博文を安堵させた。なんと、ロシアは伊藤を歓待したのである。しかし、交渉は失敗した。ロシアの要求は、朝鮮半島の三十八度線以北をロシアの版図(領土)にするという日本には「飲めない」要求であったのだ。

この当時、ロシアの都市・サンクトペテルブルクで、「革命を指導せよ」の密命の下、日本人工作員の明石元二郎が、のちに『共産主義革命』を起こすことになる革命家・レーニンやトロツキー、スターリンといった者たちを扇動していた。けして、明石やそのほかの欧州の陰謀家たちの名前は歴史には出てこない。だが、この工作で、革命はロシアに輸入され、共産主義・社会主義という魔物が、そののち暴れまくることになる。

伊藤内閣の瓦解後、桂太郎が首相になり、桂太郎内閣ができた。だが、彼は幇間(ほうかん)「幇間持(たいこも)ち」とも呼ばれていて、何の実力もない。

実権は伊藤博文が握っているようなものだ。

伊藤は、御前会議で明治天皇に上奏したが、日露戦争は避けられない。

まったくもっての反戦の態度の伊藤であった。だが、結句、日露開戦となった。

連合艦隊司令長官は東郷平八郎、陸軍大将は乃木希典で旅順・二○三高地攻撃作戦、作戦参謀は秋山真之。騎馬隊を弾いてコサック師団を撃破する任務は秋山好古、である。

伊藤は天を見上げるしかない。慚愧の想いで、舌打ちするしかない。

(「坂の上の雲」第八話『日露開戦』より)




陸奥宗光は、人知れず自宅の書斎で咳き込んだ。

そののち、口元を抑えたハンカチに血を吐いて、本人も驚いただろう。

しばらく、鋭い氷の刃に、胸を突き刺されたかのように愕然となった。

「どうかしましたの、あなた?」

 美貌の妻・亮子がやってきて尋ねるが、陸奥は、

「なんでもない」と答えた。

 なんでもない訳もなかった。当時、労咳、つまり肺結核は不治の病である。

これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治二九年(一八九六年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。

陸奥宗光の有名な国会演説は、1895年(明治28年)9月15日に行われた「日清戦争の講和条約批准案の演説」である。この演説は、日清戦争の勝利によって締結された講和条約の批准をめぐって行われたもので、陸奥は、この演説の中で、講和条約の意義と、日本の今後の外交方針を次のように述べている。


講和条約は、日本の国力や国際的な地位を高めるものである。また、日本の近代化をさらに進めるための契機となるものである。


陸奥は、講和条約の締結は、日本の国力や国際的な地位を高めるものであると述べた。また、講和条約の締結は、日本の近代化をさらに進めるための契機になると述べた。

さらに、陸奥は、日本の今後の外交方針について、次のように述べている。


日本の外交は、アジアの平和と繁栄に貢献することを目指すべきである。また、欧米列強との関係を良好に保つことも重要である。


陸奥は、日本の外交は、アジアの平和と繁栄に貢献することを目標とすべきであると述べた。また、欧米列強との関係を良好に保つことも重要であるとも述べた。

この演説は、陸奥の外交思想や、日本の近代化への考え方などを示す重要なものだ。陸奥は、日清戦争の勝利を契機に、日本の国際的な地位の向上を目指すとともに、アジアの平和と繁栄にも貢献することを目標とした外交方針を打ち立てた。この演説は、現代の日本でも、なお多くの人々に影響を与え続けている。

以下に、この演説の全文を掲載する。


演説の全文

  諸君、日清戦争の講和条約は、今日、帝国議会に上程されました。この条約は、我が国が七年余にわたって戦い抜いた、日清戦争の勝利の成果を、国際法上の形で確定するものであります。

  我が国は、この戦争において、多大な犠牲を払いましたが、その結果、台湾、澎湖列島、遼東半島の割譲、賠償金の支払いなど、大きな成果を収めました。これらの成果は、我が国の国力や国際的な地位を高めるものであり、また、我が国の近代化をさらに進めるための契機となるものと考えられます。

  我が国は、この戦争を契機として、アジアの平和と繁栄に貢献する国として、国際社会において一層の役割を果たしていきたいと考えております。また、欧米列強との関係を良好に保つことも、我が国の繁栄にとって不可欠と考えております。

 諸君、この講和条約は、我が国にとって、極めて重要な意義を持つものと考えられます。この条約が、我が国の将来にとって、幸いなこととなることを、心から願ってやみません。

以下、今回の講和条約の批准につき、御意見を申し上げました





兵庫の邸宅で、陸奥宗光は病のなかにあった。

長時間、深夜遅くまでの看病に疲れ、露で濡れた花を、しゃがんで庭先で、亮子は見ていた。だが、走り寄って、陸奥にすがった。

何度も喀血し、陸奥は数か月も臥していた。汗だくであり、荒い息で、激痛に顔をゆがませる。あの英傑の陸奥宗光、いや、陸奥陽之介も、もうすぐあの世の人、であろう。

陸奥はベッドで横になり、激しく咳き込んだ。腹心の原敬がみまっていた。

「…原くん……もう僕は駄目かも…知れないよ」

 陸奥は弱音を吐いた。

「陸奥さん?」

「僕の役目はおわったってことだよ」

「何を弱気なことを……天下の陸奥宗光が。天下の陸奥宗光が」

「…ぼ…僕らはね歴史に選ばれたのだよ。だから維新の動乱…を…生き抜けた」

「…陸奥さん!」

「でもね」

陸奥宗光は咳こみながら「でもね。維新がおわって必要となくなったら……神仏は僕らを天に召されるのではないかい? 必要なくなれば僕らは歴史の波に流されてしまうのだよ」といった。

原は「弱気はいかんですよ。陸奥先生」

「……国づくりは新しいひとに…まかせ…よう。原くん」

陸奥は激しく咳こんだ。

………何を弱気なことを……天下の陸奥宗光が。天下の陸奥宗光が…

「陸奥さん。維新を、明治の改革を……無駄にしてはならんですがな。伊藤公と、また手を携えて、日本をリードしてくだされ!」

原敬は陸奥にいった。

もう病床で、おわりが見えたという。

そして数日、陸奥は死を迎える。

「……あなた! お気を確かに」

「……いかん。……いかんど。亮子……目の前が真っ暗じゃあ。何も見えない……もう駄目かのう……」

「そんなこと……しばらく休めば……よくなりますわ」

「いやあ……もうおわりだなあ。

西郷さん……伊藤さん……龍馬さん……

すまぬ。亮子………」

「はい」

「……すまん。

先に……いく……」

かすかな声でいうと、陸奥宗光は昇天する。亮子の両目からは涙が流れ落ちた。

英雄・陸奥宗光は病死し、あの〝坂本龍馬〝海援隊ともわたりあった陸奥宗光はあの世のひととなった。享年五十四歳……

 病院で、陸奥宗光の妻・陸奥亮子は遺骸に縋って号泣した。

「あなたはすごいことを成しました。

……あの坂本龍馬とともに戦い、勝利した。あなたこそ真の維新の英雄…ですわ」

陸奥宗光は登りつめたひとであった。維新の嵐の中を生き抜き、命を狙われながらも生き抜いた。

坂本龍馬とともに海援隊を率いて勝ち、明治政府、日本の近代化を押し進めた。

そして、その業がおわると惜し気もなく天に召された。妻はその数年後に亡くなる。

陸奥の死の後、日本は日露戦争で、奇跡の勝利を手にした。まさに陸奥の執念であった。

天に意思があったとしか思えない。

神がこの男を維新のために天から送り、明治日本を牽引し、その業が終わると惜し気もなく天へと旅出させた。そして、陸奥宗光は維新の明治日本のスタートの扉をおし開いて死んだ。

まさにかれは維新の英雄で、あった。

明治三〇年(一八九七年)八月二四日、陸奥は、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去。享年五四(満五三歳没)。

墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和二八年(一九五三年)に鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺に改葬された。

明治四〇年(一九〇七年)、条約改正や日清戦争の難局打開に関する陸奥の功績を讃えて、外務省に彼の像が建立された。戦時中に金属回収により供出されたが、昭和四一年(一九六六年)に再建された。



若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることに長けていたといわれている。

後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」「ワシントン社交界の華」と呼ばれた美貌の女性である。

陸奥宗光が、藩閥打倒、議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。

「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」と自著『蹇々録(けんけんろく)』の中で語っている。

坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。しかしこれは西郷と龍馬のやりとりも含めた後世の創作ともいわれる。

海援隊時代の経験を買われ、横浜の生糸貿易の総元締となっている。

陸奥宗光と坂本龍馬は混沌とする幕末の扉を押し開けた。

 幕末にこの龍馬と陸奥がいなければ、日本の歴史はいまよりもっと混沌としたものになっていたかも知れない。龍馬よ、陸奥宗光よ、永遠なれ!

 この言葉をもって、この小説のおわりとしたい。          おわり





       あとがき


陸奥宗光*栄典

一八九三年(明治二六年)一〇月三〇日 - 勲一等瑞宝章

一八九四年(明治二七年)八月二九日 - 子爵

一八九五年(明治二八年)八月二〇日 - 伯爵

一八九五年(明治二八年)八月二〇日 - 旭日大綬章

一八九七年(明治三〇年)八月二一日 - 正二位

外国勲章等

一八九四年(明治二七年)八月八日 - シャム王国白象第一等勲章

一八九四年(明治二七年)三月三〇日 - フランス共和国グランヲフィシェードラレジオンドンノール勲章

一八九五年(明治二八年)二月二〇日 - バイエルン王国グロースクロイツデスケーニヒリヘンフェルヂーンストヲルデンスフオムハイリゲンミハエル勲章

一八九五年(明治二八年)一〇月三日 - セルビア王国タコヴァ十字第一等勲章

一八九六年(明治二九年)三月一七日 - ロシア帝国白鷲大綬章

一八九六年(明治二九年)一〇月二六日 - スペイン王国シャルルトロワー第一等勲章


家族

陸奥蓮子(一八四六年-一八七二年。大阪新町もしくは難波新地か堀江の元芸妓。芸者時代はお米と言い、届け出上は三井家の大番頭・吹田四郎兵衛の娘として嫁ぐ)。陸奥が大阪判事時代に落籍し、二人の息子をもうけたが、病死。

陸奥亮子(一八五六年-一九〇〇年。一八七二年結婚。東京新橋の元芸妓小鈴。届け出上は士族の娘)。

息子

陸奥広吉(長男、外交官。一八六九年-一九四二年。鎌倉女学院校長。妻・エセル(日本名:イソ)はイギリス人)

古河潤吉(次男、古河市兵衛の養子。一八七〇年-一九〇五年。養父とともに足尾銅山の経営に当たる)

陸奥清子(長女、一八七一年-一八九三年)

陸奥冬子(次女、一八七三年-一九〇四年。祇園の芸者との子。宗光の死後、陸奥家に引き取られ、広吉の養女となる)

陸奥イアン陽之助(広吉とエセルの長男。一九〇七年-二〇〇二年。インタナシヨナル映画社長。妻に元NHKアナウンサーの本田寿賀、九二歳で結婚した祥子など)

宗光の四人の子のうち、広吉を除く三人は未婚のまま没したため、広吉の子の陽之助が宗光の唯一の孫である。鎌倉の寿福寺に陸奥家の墓所がある。

著作・書翰

明治二五年(一八九二年)から執筆を開始した『蹇々録(けんけんろく)』は、日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、昭和四年(一九二九年)に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。

昭和二七年(一九五二年)、陸奥家は国立国会図書館に書翰と書類を寄贈している。陸奥宛書簡は伊藤博文、三条実美、山縣有朋等の主要政治家六〇人以上にのぼり、書類は外交関係がほとんどを占める。


                おわり


<参考文献>

なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、津本陽著作『叛骨 陸奥宗光の生涯』(上下巻・潮出版社)、小林よしのり著作『大東亜論(全四巻)』(小学館)、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、『南の海自由旗揚』牧岡安次郎編、摂海社、『板垣退助君功名伝』上田仙吉編、『自由党総理板垣退助君遭難記実 第一報』細野省吾編、『板垣退助君演舌』前野茂久次編、『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』斉藤和助編、共立支社、『板垣君遭難実記』矢野龍渓著、『板垣退助君伝 第一巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、『板垣退助―孤雲去りて(上下巻)』三好徹著、人物文庫、学陽書房、『板垣退助君伝記 全四巻』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、『迅衝隊出陣展』中岡慎太郎館編、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 一九 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 一八 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 二〇 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『板垣政法論』、板垣退助述、植木枝盛記、五古周二編、自由楼、『通俗無上政法論』、板垣退助立案、植木枝盛記、和田稲積編、絵入自由出版社、『板垣伯意見書』、板垣退助述、憲政党党報局、『板垣南海翁之意見』、板垣退助述、郷敏儒、『愛国論』板垣伯立案、出射吾三郎編、吉田書房、『自由党史』(上下巻)、板垣退助監修、宇田友猪、和田三郎共編、五車楼、岩波文庫 上中下巻、『一代華族論』、伯爵 板垣退助著、社会政策社、『選挙法改正意見』、板垣退助著、『板垣退助先生武士道観』、板垣退助著、高知 板垣會、『憲政と土佐』、板垣會編、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。『蹇蹇録』陸奥宗光著作。

『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、『自由は死せず』門井慶喜著・双葉社、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。



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蒼天繚乱ー荒波の如く。幕末の騒乱ー坂本龍馬と陸奥宗光 長尾龍虎 @garyou999

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