10月21日 再起
「おはようございます、クロード様」
緩やかに開かれた蔵人の左目が最初に映したものは、金紗の髪と白磁の仮面。
ちょうど彼の首筋を拭っていたレティシアが、主人の起床に気付き、深く腰を折る。
「今朝のお加減は、いかがでしょうか」
「……だいぶ酷いな。最悪だ」
そのネガティブな台詞に反し、どこか憑き物が落ちたような、常に漂わせていた張り詰めた空気の薄れた語勢。
寝起きは概ね顔面蒼白な主の普段とは異なる様子に、しばし唖然と佇むレティシア。
ともあれ、蔵人は静かに身を起こす。
次いで我に返り、いつものように湯冷ましを差し出そうとするレティシアを手で制し、そのまま顔の包帯を剥ぎ取り始めた。
「傷が痛むのでしたら、
「違う」
枕元へと包帯が垂れるに連れ、露わとなる傷口。
かさぶたの欠片が、ぱらぱらとシーツに落ちて行く。
「逆だ」
程なく包帯を全て剥がし終え、朝露で湿った外気に晒された右顔。
額から頰にかけて走る、右目を巻き込んだ大きな傷。
ずっと乾くことのなかった、壊れた過去の象徴と呼ぶべき痕。
それを撫でるように触れ、掌を確かめる。
血は──滲んでいなかった。
「やっと、塞がった」
軽い掃除を済ませた後、朝食の温め直しに下階のキッチンへと向かうレティシア。
再びベッドに腰掛けた蔵人は湯冷ましを飲み干し、喉の渇きを癒す。
「下院さん」
そんな頃合。ふと室内に響いた、蔵人を呼ぶ声。
いつの間にか、ルカが窓辺に立っていた。
「……どうやって……まさか窓から入ったのか? ここは三階だぞ」
「玄関から訪ねても、きっと素直に上がらせて貰えないもの。あなたの侍従には、すっかり嫌われてしまったわ」
起き抜けで今ひとつ鈍い感覚。
四回戦を勝ち抜き、
「四、八、六、二、九、一、零……」
何かの数字を口ずさみながら、じっと蔵人を見つめる極彩の瞳。
けれど以前ほどの圧は感じず、真っ直ぐに見返す。
「隣、座っていいかしら」
「好きにしろ」
ぽふ、とマットレスを沈ませる二人分の体重。
自分の肩口に届くかどうかの頭頂部を横目、こんなに小柄な女だったのかと、なんとはなし思う蔵人。
特に話を切り出すでもなく、首に巻いていた紐の両端を結び、あやとりを始めるルカ。
しばらく挟まる無言の時間。
やがて、深々と溜息を吐き出した後、蔵人の方から口を開いた。
「随分と余計な真似をしてくれたじゃないか。お陰で自分を省みる羽目になった」
文言こそ責め立てるようなそれだが、口調は穏やかで柔らかい。
そんな第一声を皮切りに、半ば独り言として、蔵人は自らの胸中を並べて行く。
「正直者は馬鹿を見る。お人好しは損をする。まさしく俺の両親を指す言葉だな」
夫婦揃って十把一絡げの凡人。
にも拘らず善性だけは人一倍で、損得を考えるよりも先に身体が動いてしまう手合い。
「人にしてやったことは、いつか自分に返ってくる……父さんと母さんの口癖だったが、散々他人の世話を焼いた挙句の最期がアレじゃあな」
小狡い輩にいいように使われ、益にならない徒労を積み重ねるばかりの日々。
貧乏くじを引き続けただけで終わってしまった、無駄骨に等しい人生。
「……馬鹿なガキの一人くらい、気にせずハネ飛ばしちまえば良かったんだ」
よしんば時間が巻き戻ろうとも、下院夫妻がその選択肢を取ることはあり得ない。
そんな大前提は百も承知の上で、それでも生きていて欲しかったと吐露する蔵人。
「俺は両親が嫌いだった」
お世辞にも賢明とは評せなかった人柄。
内心で罵倒を浴びせたことも、一度や二度の話ではない。
「けど同じくらい、あの人達が好きだった」
愚かだが優しかった家族に対する、複雑な感情。
肚に溜め込んだ想いを、ひとつひとつ言葉として紡いで行く。
そうやって吐き出す度、蔵人は、少しずつ胸のつかえが軽くなるような気がした。
数分をかけ、ひとしきり蔵人が話し終えた頃合、今度はルカが口を開いた。
「下院さん。あなたは、これからどうするの? どうしたいの?」
「……俺は人間が嫌いだ。誰も彼も大嫌いだ。それは変わらない」
だが、と一拍、沈黙が挟まる。
「これ以上、あの人達に顔向け出来ないような生き方は、したくない」
きっと蔵人は、この先も事ある毎、両親の死を思い出しては苦しみ続けるのだろう。
顔の傷痕も、潰れた右目に焼き付いた残影も、決して消えないのだろう。
けれど。少なくとも、もう希死念慮に呑まれることは無いだろう。
自分がどういう人間になりたかったのかを、見失っていた芯を、思い出したのだから。
「今よりはマシな面で、父さんと母さんの墓参りに行けるようになりたい」
差し当たりの第一歩として脳裏に浮かんだのは、蛍と惺の顔。
「まずは、あの二人に頭を下げに行こうと思う。酷い八つ当たりをした」
「お前にも気を遣わせたな。ひとつ借りってことにしといてくれ。そのうち返す」
そう言ってルカに向き直ると、揺らめく双眸で見返される。
虹彩へと浮かぶ曼荼羅に似た模様の刻印が、くるくる回っていた。
「気にしなくていいわ。だいぶ余計なお世話だった自覚はあるから。それにわたしの行動は全て、わたし自身がそうしたいからやっているだけだもの」
「冗談。俺に両親の葬式にも顔を出さなかった恩知らず共と同じになれってのか?」
ギブアンドテイクこそ、対等な人間関係を築く上での大前提。
与えるばかりだった両親を反面教師とした、蔵人の根幹に据えられた価値観。
「こういう時の礼は素直に受け取るのがマナーだ。そもそも、お前みたいな歳下の女に気を遣われっぱなしじゃ、俺の立場が無い」
その言い分に、髪と同じ薄氷色の長い睫毛を伏せ、思案するルカ。
やがて顔を上げると、静かに首を傾げさせた。
「じゃあ……お言葉に甘えて、早速お願いを聞いて貰えるかしら」
「勿論」
瞼をしばたかせながら、ルカが目尻を擦る。
「とても眠いの。ベッドを貸して」
しかし、ここ数日は昼間に起きてばかりで、いささか寝不足気味。
「それくらいなら安い用だ。すぐレティシアに客間を──」
蔵人が腰を起こす間際、肩へと乗る小さな重み。
咄嗟に動きを止めて視線を振ると、瞼を閉じて自分に寄りかかるルカの姿。
「すぅ……すぅ……」
「……電池切れの仔猫かよ」
唐突な寝落ちに面食らう蔵人だが、ちょうどベッドの上に座っていたため、そのまま丁寧に横たわらせる。
そして暫し、寝顔を見下ろした。
「初めて会った時は、お前を得体の知れない化け物だと思ったが」
こうやって見れば、どうということもない。
「なんだ。普通の女の子、だったんだな」
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