10月17日 金銀妖瞳、蛍火を灯す
「んっ……んんっ」
ギルボア北区三番通りの噴水広場に設けられたベンチのひとつ。
夕食を済ませた蛍は、自身の定位置となりつつあるそこで、猫のように身体を伸ばす。
「(毎日毎日、無駄に天気いーよなぁ……陽に当たってるだけで一日過ぎちまう……)」
もうじき消灯が始まる三つの太陽を仰ぎ、またひとつ欠伸。
次いで、夜の訪れを憂鬱に思い、深々と溜息を吐く。
「(ソーシュの奴、なんでアタシにはメイド寄越さなかったんだよ)」
蛍は基本的に夜中以外、家に居ない。
独り身には広過ぎる間取りが落ち着かず、こうやって人通りの多い場所で過ごしている。
「(……まあ、そんなもん居たところで、どーせ……)」
苛立たしげな舌打ち。
ちょうど前を通りがかった恋人連れが、怪訝そうに離れて行った。
「──あなたは、まずそういう小動物の威嚇じみた攻撃的な態度を改めるところから始めるべきね。美人が眉間にシワを寄せるだけでも、大抵の人は引け腰になってしまうわ」
「ッ!?」
すぐ側からの、唐突な語りかけ。
弾かれたように隣を見、ギョッと目を見開く蛍。
「てめぇ、なんで、ここに」
「また後日。あれは、あなたにも言ったつもりだったのだけれど」
いつの間に居たのか。蛍には音も気配も、まるで感じられなかった。
気付けば同じベンチに座っていたルカが、ひどく眠そうに、あやとりをしていた。
「怯えないで。痛いことも、酷いことも、何もしないわ」
細い糸を使い、素早く正確な手捌きで模られる、完全な左右対称の蜘蛛の巣。
爪が黒く塗られた両手を重ね、再び開くと糸は綺麗に解け、膝へと垂れ落ちた。
「……だっ、誰がビビってるって!? てめぇみてーなチンチクリンのガキ、やろうと思えば秒殺でバーベキューだっつーの!!」
立ち上がってアックスピストルを掴み、銃口をルカのこめかみに突き付ける蛍。
が、当のルカは意にも介さず、緩やかな所作で視線を蛍に、より正確には蛍の胸元に向けた後、今度は己の胸元を見下ろし、ややあって小首を傾げさせた。
「ちんちくりん……?」
「おいてめぇ、いま何を見比べて不思議そうなツラになった。怒らねぇから言ってみろ」
「アンダーは、そっちがプラス五センチ。カップ数は、わたしの方が二つ上」
がちり、と撃鉄を起こす音が鳴り渡る。
「怒らないんじゃなかったの?」
「オトナは嘘つきなんだよ。ひとつ賢くなったなクソガ──」
言葉を紡ぐ途中、ほんの四半秒、ルカと視線が合わさる。
それだけで蛍の喉は引きつり、声も呼吸も凍りつく。
「嘘が必ずしも悪だとは言わないけど、無闇に偽りを重ねるほど、あなたの欲しいものからは遠ざかってしまうわ。勿論、正直過ぎても煙たがられる。大切なのは虚実の均衡」
ぎこちない動きで銃口が下りる。
元より本気で撃つつもりなど無かったものの、生意気な小娘を脅かしてやろうという稚気すら根こそぎ奪われ、一歩二歩と退く蛍。
「ッ……お、まえ……ホント、なんなんだよ……」
「ただの人間よ。目の色が風変わりなだけの、どこにでも居る人間。わたしが人以外に見えるのなら、それはわたしを見ている側の内面に問題があるということになるわね」
そう言ってルカは自分の隣、さっきまで蛍が座っていたベンチを指先で叩きながら、ポケットから懐中時計を引っ張り出した。
「三分間だけ話をさせて。出来る限り目を合わせないよう、努力するから」
ぐしぐしと、ルカが瞼を擦る。
「ここ数日、昼間に起きてばかりいたから、体内時計が狂いそう」
「むしろ正常に戻りつつあるだけだろーがよ。んな体たらくで一体どうやってガッコーとか通ってたんだ。中坊くらいだろ、てめぇ」
「わたしは一度も学校に行ったことは無いわ」
もっと言うなら、ルカには戸籍すら無い。
櫻ルカという名も、自ら定めた便宜上の符合に過ぎない。
「父母は新興宗教の教祖だったの。わたしを使って随分お金を稼いでたわね。物心ついた頃には山奥の屋敷で座敷牢に幽閉されていて、こうして
「……なんだ、そりゃ……んなもん、てめぇなら簡単に逃げ出せたんじゃねーのかよ」
「そうする必要を感じなかったもの。お金にしか関心が無かった父母は兎も角、屋敷を訪ねる信者達は皆一様に救いを求めていた。わたしの言葉で少しでも人生が上向くなら、手を差しのべてあげたいと思うのは、そんなにおかしいことかしら」
平然と語られる、壮絶な身の上。
絶句する蛍を他所、ルカは小さくかぶりを振った。
「わたしの来歴なんて大して面白い話でもないでしょう。こっちから三分と線引きしたのだし、早速本題に移らせて貰うわね」
心底どうでも良さそうに話題を切り替えるルカ。
事実、彼女にとって過去の辛苦など、取るにも足らないことなのだろう。
「実は昨日、眠気に耐えながら下院さんを訪ねたのだけれど、追い出されてしまったの」
「あぁ……?」
直前の内容があまりに重過ぎたため、頭の整理が全く追い付かないながらも、どうにかルカの言葉を噛み砕く蛍。
「蔵人の野郎に、か?」
「いいえ。下院さんは吐いてしまって会話を続けるどころじゃなかった。わたしを追い出したのは、彼と一緒に暮らしてるメイドよ」
しかし飲み込むほど、蛍の混乱は増す一方。
蔵人が不調を起こし、レティシアの不興を買う。
何がどうなれば、そのような事態となるのか。
「一昨日の続きを、改めて伝えたの」
すとん、と疑問が解け、納得が腑に落ちる。
併せて蛍は、剣呑な眼差しをルカの横顔に注いだ。
「誤解しないで欲しいのだけれど、意地悪のつもりは無かったわ。下院さんにとって必要だと思ったから、そうしたの」
「……どーだか」
肉付きの薄い頬の奥で、歯軋りが籠る。
それを気取ったルカが、ひとつ静かに息を吐いた。
「ええ。下院さんが心配で
その呟きを聞いた瞬間、またも蛍が目を見開く。
勢い良く腰を上げ、ルカに詰め寄り、歯を剥いた。
「はぁ!? ねーよ、あるワケねーだろ! アタシがあいつに何されたと思ってんだ!」
「でもあなたは、それを根に持っていない」
淡々と核心を突かれ、二の句を詰まらせる蛍。
「自慢の肌に付けられた傷は、目が覚めたら消えていた。全身に花を植え付けられた苦痛と恐怖も、それを受ける自分よりも辛そうな下院さんの顔を見て、かき消えてしまった」
正面の雑踏に向けた
「あなたが下院さんに抱いている感情は、少しだけ残った憤りと、とても大きな憐憫よ」
何もかも、文字通りのお見通し。
やがて観念したのか、蛍は盛大に肩を落とし、再三ベンチに座り直す。
「……リンボ、だったか。あそこで蔵人とカチ合った時、あいつの考えてることとかが、なんとなく伝わってきたんだ」
剥き出しの精神、その鋭利な切っ尖を突き立てられたことによる感応現象。
あの時、蛍に責め苦を与える蔵人の心を占めていたのは、嫌悪と悲鳴だった。
楽しもうと嘯いておきながら、当の本人は何ひとつ悪虐を楽しんでなどいなかった。
「あいつはアタシと同じだって思った。てめぇの抱えてるモンを認めたくなくて、でも捨てることも出来なくて、どうすりゃいいのか分からなくて、周りに当たり散らしてる」
蛍は、幼子のように愛を求める己の弱さを。
そして蔵人は、自身の善性を。
「笑っちまうよな。いっぺん殺された相手だってのに、あいつと自分を重ねて、勝手にシンパシー感じて……挙句こんな、菓子も満足に食えねー世界に居座っちまった」
蛍は、蔵人を放っておけなかったのだ。
「アタシみてーな、てめぇのことすら面倒みきれてねぇ女が何かしてやれるワケもねぇって、分かってるクセによ」
それでも、せめて。目の届くところに居たかったのだ。
「あいつはもう、いっぱいいっぱいなんだ。頭ん中ゴチャゴチャで、自分自身にすら嘘っぱち言い聞かせなきゃ、やってらんねーほどにな」
「でも、そのせいで下院さんの心は病んでいる」
何もかもどうでも良いと投げ遣りを装って生きるには、下院蔵人という男の性根は生真面目過ぎる上に神経質過ぎた。
良心の呵責と罪悪感に蓋をして抑え込み、それによって降り積もるストレスは日一日、刻一刻と他ならぬ蔵人自身を蝕み、苛んでいる。
「わたしも、下院さんを憐れに思ってるわ」
「だから棄権したってのかよ。三回戦の結果を見た時は流石に目を疑ったぜ」
「彼の病んだ心を癒すには、まずは溜め込んだ毒を吐き出させなければならない。そうする前に物理的に吐かせてしまって、追い出されたけど」
ルカが視た限り、もう蔵人に余力は残っていない。
今のまま四回戦、或いは五回戦を迎えれば、その結果が勝敗どちらに転ぼうとも──再び、自らの命を絶とうとするだろう。
「正直、困っているの。わたしを訪ねて来る信者達は大体が素直に話を聞いてくれてたから、ああいう人を説得する話術の心得が、わたしには無いのよ」
かぶりを振るルカ。
しゃらしゃらと、薄氷色の髪が鳴った。
「どうすれば下院さんは、わたしの言葉に耳を傾けてくれると思う?」
「……んなもんアタシに分かるワケねーだろ……それが分からねーから、アタシは……」
苦々しげに、絞り出すように呟く蛍。
その数秒後。時計の針が、約束の三分を刻んだ。
「時間ね。相談に乗ってくれてありがとう」
「あぁ? ケンセツテキな意見なんざ一個も出してねーぞ、イヤミかよ」
「まさか。十分に有益だったわ」
そう言ってルカは立ち上がり、等間隔の歩幅と歩調で歩き始める。
その背を目で追いながら、最後に蛍が口を開いた。
「取り敢えず、もっぺん様子見に行ってみりゃいーだろ。外野に居たままグダグダ考え込んだところで、話が都合良く転がるワケでもあるまいし」
聞こえているのかいないのか、振り返らず足も緩めず、雑踏の中へと消えるルカ。
残った蛍は小さく鼻を鳴らし、空を仰ぎ──盛大に、溜息を吐いた。
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