第13話 十三
「番頭は市蔵を殺していないのか」
「こりゃあ殺しじゃないぞ」
「良かったじゃねぇか、おい」
お白洲には、歓喜の声が上がり、安堵のどよめきも加わった。群衆の騒ぎに、多くの役人が必死に騒ぎを収めようと走り回っている。
一瞬、宙を見つめたように放心した清二の表情が、次第に柔らかく、穏やかになっていった。
そこには、自分は、少なくとも人を殺していなかった、という救われたことへの喜びが滲み出ていた。
権兵衛も大きな安堵感に包まれていた。殺しの罪でなければ、重い刑罰は避けられる。娑婆に出られるのも早いだろう、と思えた。
ただ一人、お菊だけは複雑な思いを抱えたままだった。少し前であれば、すぐ隣に居る清二と手を取り合って喜んでいただろう。だが、今は心を冷めた感情が支配していた。
ザワザワとした話し声が収まらない緩んだ空気を、頼方の声が引き締めた。
「もう一つ、清二の話と食い違う事柄がある」
瞬時に場を緊張が支配する。
今度は何が起こるのかという、皆の食い入るような視線が、頼方に注がれた。
「小田原での、お菊の亭主政吉が死んだ時の状況だ」
低いどよめきが起こった。
お菊がハッとして頼方を見詰め、おもむろに視線を隣の清二に移した。清二は戸惑った表情でお菊を見た。
頼方がその様子を見ながら続けた。
「小田原で、箱根路を降ってくる旅人を脅して小銭をせしめるつもりで待っていたところ、足元もおぼつかないほど弱った旅人が近づいて来て、あっという間に亡くなってしまった。死体を草むらに埋めると、持っていた金品を仲間で分けた」
頼方が清二を見つめた。
「その死んだ旅人が政吉だった。確か、そうだったな」
「はい・・」
清二が頷いた。
「あっという間に亡くなったとはいえ、政吉が息を引き取るまで、色々とあったのではないか」
またどよめきが起こった。
頼方が視線を清二からお菊に移した。
「お菊を前にして、自分の口からはなかなか言い辛いだろう。結局は、政吉は死んで、金品を悪の仲間と奪った訳だからな。何を言っても、言い訳にしかならないという気持ちは、分かる」
頼方が頷きながら、また視線を清二に向けた。
「だが、これからは真っ当な生き方をすると決めたからには、何もかもあらいざらい知らしめた方が、良くはないか。どうだ」
清二は、不安げな戸惑った表情で頼方を見ている。
頼方が表情を和らげた。
「小田原の連中が語っていたのは、こうだ」
夕刻の箱根路である。
清二は仲間と一緒に旅人が来るのを待っていた。少し脅して小銭をせしめるためである。
やがて一人の旅人が路を降ってきた。それが政吉だった。
襲うかどうか、目を凝らして見ていたが、政吉はフラフラとした足取りで、何度か立ち止まり、また、歩き出し、を繰り返し、遂に倒れてしまった。
駆け寄って様子を見ると、ゼイゼイと苦しそうな息遣いで、額に脂汗を滲ませている。口を開けて何か言いたそうだが、言葉も出てこない。
「どうするよ、おい」
「金だけちょいと頂いて、放っておこうぜ」
「病人に関わるのも面倒だからな。どうせすぐ死ぬぜ、こいつ」
仲間の誰もが、小銭だけ奪ってそのままにしようと言う。
だが、これに清二が反対した。
「いや、これは放って置けない。近くの旅籠まで運ぼう」
皆が面倒くさそうに勝手にしろと遠巻きに眺める中を、清二は政吉に手を差し伸べた。
「しっかりしろ、旅籠まで運んでやるからな。そうしたら、医者も呼んでやる」
政吉は感謝するように頻りに頷くが、口を動かすも言葉は出ない。
清二は政吉の体を起こして背に担ぎ、道を急いだ。仲間もブツブツと文句を言いながらも、政吉の荷物を持って付いてきた。
病人の力の抜けたダラリとした体が清二の体に重くのしかかり、それに耐えきれずに時々立ち止まり、それでも必死の思いで歩を進めた。次第に息も上がり、汗も吹き出してきた。
周囲にはふくろうの鳴き声が響き、陽はすっかり落ちた。
やがて遠目に旅籠屋の灯りが見えて来た。
苦痛に耐えながら、もう一踏ん張りと、近付いてくる灯りに力をもらい、どうにか宿に到着した。
これで人を助けることが出来た、そう清二は安堵した。早くこの重い背中の病人を降ろしたかった。
客を出迎えるように、主人らしき男が中から出て来た。
だが、一行を見るなり、急に顔色を変えて、宿に入るのを拒否するように入り口に立ちふさがった。
「面倒を持ち込まれては困りますよ、あんた方」
「いや、俺たちじゃない。この病気の旅人を泊めて欲しいだけだ」
主人が顔をしかめながら清二が背負った政吉の顔を覗き込んだ。
「しかしねぇ、その様子じゃあ・・」
「金はあるはずだ」
「此処で死なれても困りますしねぇ」
主人は明らかに揉め事が起こると思い込んでいるらしく腰が引けている。
「だから、医者も呼んで欲しいのだ。いや、俺が呼びに言っても良い」
「医者に診せたきゃ、このまま連れて行ってくださいよ」
「この状態だ。とりあえず布団で休ませたい」
主人が首を振った。
「うちはお断りだね、他を当たっておくれ」
清二が主人の袖をつかんだ。
「せめて、水を一杯くれ」
主人はやれやれというようにため息をつき、渋々水を持ってきた。
「飲んだら、さっさと出て行ってくれ。でなきゃ、奉行所のお役人を呼ぶからね」
清二は政吉を地面に降ろし、主人が渡した湯飲みを持って、ゆっくりとその口に当てて、少しずつ水を流し込んだ。
政吉は一口目と二口目は喉を湿らす程度の量しか口に含まなかったが、三口目はかなりの量をゴクリと飲み込んだ。
やがて満足そうに微笑むと、口を動かした。言おうとしたのは感謝の言葉であることは明らかだった。
「おい、清二、俺らはどこまで付き合えば良いのだ」
「もう良い加減にしようぜ」
「何処か他の旅籠屋の前に置いておけば、何とかするだろう」
仲間は次々と不満を口にした。
「待ってくれ。医者までは連れて行きたい。そこまで付き合ってくれ、頼む」
清二は頭を下げた。この衰弱ぶりからすると、放って置くと確実に死ぬと思われた。どうしても医者に頼るべきだ。
仲間は顔を見合わせた。
「仕方がないなぁ、医者の前までは運ぶか」
「良いだろう。だが、そこまでするのなら、小銭では割が合わないぞ」
「そうだな、こいつは結構金を持っているからな」
「この荷も、売れば金になるしなぁ」
清二が頷いた。
「わかった。では、急ごう」
清二としては、とにかく医者に診せることが優先された。金の事で揉めている時間がもったいなかった。
また背に担ごうとして政吉に手を伸ばし、清二はハッとした。
息が無かった。政吉は死んでいた。
お白洲が静まり返っている。
「この後は、清二が語ったように、死んだ政吉を道端の草むらに埋め、持っていた荷物を売り払った上に金品を皆で分けた、という事だ。結果として、政吉を救えず、金品まで奪ったことは確かだ」
頼方がお菊を見た。
「だが、お前の亭主の命を、清二が何とか救おうとしたことは、素直に受け入れても良いのではないか」
お菊は目に涙を浮かべながら頭を下げて、おもむろに上体を起こすと、穏やかな表情で隣の清二に視線を移した。
その晴れやかな微笑みが、既に何の蟠りも消えた気持ちを現していた。
頼方が姿勢を正した。
「裁断を申し渡す」
場に緊張が走った。
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