8
風香は稀に、僕の前で感情を曝け出すことがあった。
ある日、僕が隠れ家に行くと風香が泣いていた。声を出さずに、大粒の涙をぼろぼろと流していた。
僕は驚き傍に行くのを躊躇った。どうしたらいいかわからなかった。
呆然と立ち尽くしていると風香が僕に気がついた。それでも彼女は一切隠そうともせず揺れる瞳で僕を見つめた。僕は何も考えられないまま、とにかく風香の隣に座った。そしてひたすら、彼女の言葉を待った。
おばあちゃんが亡くなった。
どれだけの時間が経ったか、風香が不意に口にした。
僕は人の死に直面したことがなかったから、かけるべき言葉がわからなかった。黙って頷いているしかなかった。
風香は仕方のないことだと続けた。人はいつか死ぬのだからとも言った。
僕には風香が当たり前の世界のシステムを語ったのが意外で、信じられなかった。
仕方ないと、風香は自分に繰り返し言い聞かせていた。けれど涙はとまらず、僕の肩に顔をうずめ大きな声で泣き出した。僕はなおも何もできず、ただ彼女の頭を撫でていた。
その夜は眠ることができなかった。
両親や、やがてくる自分の死を想像すると、背筋が凍るようで眼を瞑っていられなかった。間接的に死に触れただけで、これだけの恐怖がある。実際に失うことになれば、僕はどうなってしまうのだろうかと、涙が出そうになった。
夜が更け、頭が働かなくなった頃には少し落ち着き、明日も学校があると、頑張って馬鹿なことなんかを考えて眠ろうと努めた。
この時、僕が僕を救うために行き着いた馬鹿な考え。
神秘とは人が馬鹿げていると吐き捨てたものが、現実となることを指しているのかもしれない。
※
気まぐれで朝テレビをつけると、ハロウィンのニュースが流れた。それ自体に思うことは何もなかったけれど、10月がもうそろそろ終わるのだという事実に、時の流れの速さを感じた。
学園祭は盛況に終わったらしく、もうだいぶ経つというのに、いまだに思い出話が聞こえてくることもあった。僕は彼らよりずっと早くに現実世界に帰ってきていたので、いつも通りに講義を受けていたのだけど、一つだけ欠けているものがあった。凜の姿だ。学園祭の後すぐに、彼女はまた体調を崩したのだった。
以前のテストの時のこともあって、僕の中にはすっかり体が丈夫ではないというイメージが根付いていたので、本人に本当に大丈夫かと確かめたけれど、絶対に問題ないと怪しげな答えが返ってきた。
同じく一人暮らしの大変さを知る友人として、何か見舞いでもしようかと思ったけれど、僕は彼女の家を知らない。教えてもらうのもどうかと迷ってしまい、結局聞けずにいた。
凛がいないことの影響としては、まず僕が退屈で仕方なかった。
それから白木さんが心配して、何度も僕に状況を聞いてくること。連絡してみたらどうかと僕が勧めると、体調が悪いのに返信をさせてもいいのだろうかと思うと、連絡できないらしかった。距離はまだあまり縮まっていないようだと余計なことを考えた。
ほかにも理恵子さんが心配のあまり、皿を何枚か割ったらしかった。僕は夏頃にもあったただの風邪だと説明したけれど、余計なことに一週間くらい学校にきていないことまで言ってしまったせいで、実は重症なんじゃないかと疑念を抱かせてしまった。
あと最後の一つ、これは全く関係ないんだけど、日向に顔色が悪いと指摘された。関係はない。と、思うけど。
とにもかくにもいろいろ大変だったので、生存確認はしておかなければと僕は彼女に適当なメッセージを送っていた。『あ』でも『い』でも何でも、凛からの返信があればそれでよかった。ただ不思議なことに、日ごろ一緒にいる時は話題に困ることはないけれど、携帯を通じると何を話せばいいのかわからなくなった。そういうわけで、本日の生存確認と銘打って、僕は本当に『あ』とだけ送って、乗っかった彼女が『い』と返してくるという一連の流れを作った。
そんなやりとりが続いている時に近況を聞いてきた理恵子さんに『あ』『い』のやり取りをしていますというと、面倒くさい反応を示されたので、冗談だというととても怒られた。そして、残念がられた。ただ、僕がふざけられるということが彼女の身が無事であることの証明になったようだった。
ようやく凛と再会することになったのは、姿を見なくなってからちょうど二週間経った日のこと。木枯らしの吹く夜だった。
僕は小腹がすいたので、近所にあるコンビニへと繰り出し、適当なものを買って店を出た。その帰り道、大学前の、既に閉じられた門扉の前を通りかかると人影があった。そのシルエットに見覚えがあったので、まさかと思い近づくと凜が立っていた。
「なに、してるの」
僕はいろいろな感情が混ざり合ったまま声をかけた。彼女はゆっくりと振り返った。とても久しぶりに目にした凛は、マフラーのせいで口元は見えなかったけれど、前よりもさらに痩せたように見えた。顔色も悪く、目からも生気が失われていた。命がすり減っていっている、と大袈裟な心配さえ抱いた。
「あ、お久しぶり」
少し掠れた声が、力なく僕の足元に転がった。
「久しぶりっていうか、もう、大丈夫なの? いや、とても大丈夫には見えないんだけどさ。本当に、ただの体調不良」
「ん、そうそう。ただちょっと食欲なくて、瘦せたかなあ」
「ならいいんだけど。で、なにしてるの。病み上がりに」
「散歩。樹のこと誘おうか迷ってた」
言って、彼女は空を見上げた。散歩は僕も好んでいるし、夜ともなれば風流で良いとは思うけれど、どちらも今の彼女がすべきことではない。
「帰りなさい。まだ地下鉄もいっぱいある」
「いやいや、付き合ってよ」
青白い肌、やつれた顔、どこへ行くつもりかと悪趣味な冗談を思いついてしまう。
「ほんとに悪化するって。ほら、帰りなさい」
学校の先生にでもなったみたいだった。
「えー、つまんない」
「そんな駄々こねて、どうしたのさ」
「べっつにー、気分なだけ」
「あのね」
説教をしようと息を吸うと、風が吹いた。そして僕の鼻は、今この場にあるはずのない、あってはいけない匂いをとらえた。
「・・・・・・凜、まさかとは思うけど、酒飲んだ?」
「あ、ばれた」
言いたいことがマグマのように奥底から湧き上がってくる。でも今は、質問も説教も後だ。とにかく何とかして彼女を家に帰さなくてはならない。
「帰れ」
「なーんだよ。ノリ悪いなあ。てかさ、実は、もう寒くて動けないんだよね」
へらへらとふざけた態度に、つい病気を患って弱っている人間だということを忘れて、怒りをぶつけそうになる。必死にこらえて、説得を試みる。
「とにかく家に」
「うん、家に。あ、じゃあさ、樹の家に入れてよ」
完全に意表を突かれた提案に、僕は青白い凛の顔を見つめたまま絶句する。驚きによって、体内を満たしていた怒りが霧散していく。
「終電まで体あっためさせてよ。そうしたら大人しく帰るからさ」
「・・・・・・さすがにそれは」
「お願い。私たち友達でしょ」
友達。今まで幾度となく使ってきた言葉。
時にはわがままを通すために。時には相手を思いやるために。時には戯れのために。
「そうだけど」
「決まりね」
「いや駄目だって。散らかってるし」
「いいって、気にしないから。それとも私をここで凍死させるの?」
こういう時の凜は強く、僕はすこぶる弱い。黙り込んだ僕に、勝利を確信した様子の凜。それから流されるまま、二人で家に向かった。
いざ部屋の前まで来てしまえば、僕もいよいよ諦める気になって、大きくため息をついて扉を開けた。
「おじゃましますよっと。なーんだ、全然散らかってないじゃん」
「僕の基準では散らかっているんだ」
「ああ、そういうのあるよね」
おそらく適当であろう返答。彼女は上着を脱ぎ、背負っていたリュックをおいてリビングのソファに座った。凛はきょろきょろとあたりを見回しているけれど、特に見るようなものはないはずだ。見られて困るものも一つを除いてないはずだ。
「寝室には入らないように」
釘を刺し、僕は自分と凛の上着をハンガーにかけて絨毯の上に座った。
「隣、座れば?」
「パーソナルスペース」
「広いね」
「君が狭いんだよ」
「まっさかー」
凛はいつもと変わらないようにけらけらと笑った。
「講義はまだしばらくこれなさそうだね」
「うん。でも、あと少し休んだらちゃんと樹に会いに行くよ」
「それは良かった。大量に渡す資料があるから覚悟しておいて」
「いらないんだけどなあ。樹に会いに行くんだよ?」
そう言いながらふらふらと凜は立ち上がり、壁際にあるスイッチを押して、すべての電気を消した。
「・・・・・・なぜ?」
「眩しすぎ」
「いや、これは暗すぎだろ」
「うん。ね、カーテン開けて」
言われるがまま、僕は立ち上がってカーテンを開いた。月の光が差し込む。明りとしては頼りなく、凛の顔もあまり見えなかった。
「まだ暗いな」
「こっちの方が落ち着くよ」
「ああそう。それでもう一度聞くけれど、本当に身体は大丈夫なの?」
「大丈夫だよー」
「ちゃんと食べてる? ちゃんと寝てる? 友達と話してる?」
「・・・・・・食べてない。寝てない。話してない」
真面目に答えられて、来ると思っていた返しが来なかったので、僕は拍子抜けした。
「大体酒を飲むなんて言語道断だよ。退廃的な生活にあこがれたとか? んで、それを目指してる時に身体を壊したとか?」
「退廃的ねえ。それを決めるのは周りの人だよ。私自身がそう思っていなかったら、私にとっては退廃的じゃあない」
「なに、語りたい気分? 酒飲んで語るなんてあるあるすぎて」
「あー、お腹すいたかも。なんかない?」
「話を飛ばすなよ。一人暮らしの男がそう都合よく飯なんて用意できないよ」
「それ、なに買ったの」
テーブルの上に置いたコンビニ袋を、凛は指さした。そういえば僕はコンビニで肉まんを買っていたんだった。僕は仕方がなく袋から肉まんを取り出し、月の光をあてながら二つに割った。大きい方を、彼女に差し出した。
「はい」
「お、くれるの?」
「うん」
「くるしゅうない」
彼女は笑って受け取った肉まんを、種を食べるハムスターのように、小さくかじった。こっそりとそれを確認してから、僕も一口食べた。
「うん、おいしい」
「この間、君と散歩した時に食べたでしょ?」
「うん」
「その時から、不覚にもはまっていてね」
「寒い時にコンビニで肉まんを買うのも、それを半分ずつ食べるのも、大きい方をくれるのも、あるある、だよね?」
「ま、そうだね」
またなんの話だと思いつつも僕は頷いた。
「夜に突然友人が押し掛けてくるのも、あるあるだよね?」
「それは・・・・・・実はそうなのかもしれないね。僕には経験がないけど」
二口で肉まんを食べ終えた僕とは対照的に、凜はとてもゆっくりと少しずつかじって食べている。ふざけているわけではなさそうだ。もしかすると、喉が痛いのかもしれない。
「今年ももう終わりだね」
凜が言った。
「まだ少し早いよ」
「いやーあっという間だったな・・・・・・」
僕の指摘はどこへやら、凛は続ける。声色はとても寂しそうに聞こえたけど、夜がもたらす雰囲気のせいかもしれない。
「まあ、それについては同感だけど。なんだか今年は、とても早い」
柄にもなくしみじみとしていると、ぷしゅっと、炭酸が弾ける音がした。僕が驚いて凛を見ると、いつの間に手にしていたのか、缶ビールを開けていた。
「ってちょっと、何飲んでんの!」
「あー、まずっ」
凛は味を逃がすように舌を出し、顔をしかめた。
「治す気あるのかよ」
「だーからー、もう治ってるんだってば。ほらほら、樹も」
リュックからもう一本缶ビールを取り出して、差し出す。
「・・・・・・一体どうしたのさ」
なにがなんだかわらかず、僕はもう呆れるしかなかった。
「快復祝いだよ。テンション挙げてこー」
「あがらないよ、まったく。それに君、ビール嫌いじゃなかったのかよ」
「嫌いだよ。でもね、今日はなんとなくビールな気分なの。ほら、がんばろー」
正直に、僕は凜のことがとても心配だった。けれど彼女にはまったくそれが伝わっていないようだった。お構いなしにビールを飲む彼女は、あの虚ろな目で月を見つめている。熱のこもっていない視線の裏側を読み取れないかと思ったけれど、何もわからなかった。
「もとは、ただお互い利があるからだったよね」
「何の話?」
「私と樹が出会った時の話。あれは、そう、桜が満開だった、あの日だよ」
「・・・・・・桜が満開? 嘘はだめだね」
「あれ、そうだっけ」
「出会いは満開の桜の下で。素敵なシチュエーションかもしれないけれど、僕達はそうじゃなかったでしょ」
「ああ、うん。君が、私にいきなり話しかけてきたんだよね」
正気だと思っていたのが、だんだんと疑わしくなってきた。冗談という可能性もあるので、僕は缶を開けてビールを飲む。もうこうなったら、とことん付き合ってやろう。
「それも違う。逆だよ」
「ちゃんと覚えてくれてるじゃん」
「酔っぱらいに試されるなんてね」
「出会いは喫茶店の前で、橘風香って言った時の樹の顔、忘れられないなあ」
心臓が鳴る。風香の名前を聞くと、そうならずにはいられない。
「酒、もっと飲んだら?」
凜はクスクス笑った。
桜は満開ではなかったけれど確かに僕達は出会った。
「五月か。なんだか、凄く前のことに思えるねえ」
「・・・・・・僕は昔から、五月の連休明けには何かが起こるんだ」
「へー?」
凜は小気味の良い音を立てながらビールを流し込んでいく。喉は痛くないのかもしれない。もしくは麻痺しているのか。
「今年も起こった。君との出会いはある意味必然だったのかも」
「どうして五月の連休明けなんだろうね」
「帳尻合わせかな。ゴールデンウィークっていう幸せとの」
「って、それじゃあ私との出会いが悪いことになるじゃん」
「ごめん冗談だよ。何事にもね、そういうこともあるさ。でも本当に悪いことが大半だったんだよ」
「うーん。それじゃあ、世の中のみんなも連休明けひどいめに遭ってるのかなあ」
多分そんなことはない。
僕は周りの人たちと違うから。
世界からずれているから。
何かが欠けているから。
「さあね。そんなことはないんじゃない」
「そっかあ。それで、次はなんだっけ。あ、そうそう、お酒を飲みに行ったね」
「あのさ、もしかして全部振り返るつもり?」
「そうだよ」
「君は忘年会がしたかったの?」
「忘年会?」
「そういうことなら仕方ない」
僕は立ち上がって足元に注意しながら移動して、冷蔵庫の中に残っていた缶ビールを取り出した。
「あれま大量、ビール嫌いなんじゃないの」
「迷惑な人たちが置いていったんだよ。とにかく忘年会ならまだ飲み足りないでしょ」
「ふーん? ま、よくわかんないけど、樹もようやく乗ってきたんだね」
「そういうこと。はい、乾杯」
僕達は缶をぶつけようとして一度うまくいかず、二人で笑った。今度はちゃんとぶつけ合って、ごくごくと音を立てて飲む。
「ああ、まずいね」
僕が言うと、凜は何度も頷いた。
「これをおいしく感じるなんて、どういうことだろうね」
凜が訝しげに言った。
「労働でも始めたら、多少おいしく感じるんじゃないかな」
「それなら私は一生感じられないね」
「さらっととんでもない宣言をしないでくれるかな」
「決定事項だから。今のところ」
「じゃあ決定してないんじゃない」
「・・・・・・あれ?」
「あれ、いや、いいのか?」
僕達は顔を見合わせて笑う。
「でもさ、変更する可能性があるってことは決定してないかな」
「いややめよう。僕達この手の話を始めると長いから」
「そうだね。えっとそれで、次は、散歩だね。樹のせいで予定が決まらなくてー」
「はい、ストップ。あれは君が酔っぱらって計画を立てるのを放棄したからだよ」
「そうだっけ? 本当に?」
「・・・・・・多分」
「自信ないんじゃん」
それからも、僕と凜は出会ってから今日に至るまでの様々な記憶を振り返った。
散歩をして、河川敷でジュースをこぼしたこと。
雨の日に迎えに行ったこと。
勉強を一緒にしたこと。
風邪をひいたこと。
何度も理恵子さんたちの喫茶店に行ったこと。
白木さんとのこと。
紅葉狩りを教えてあげたこと。
学園祭に一緒に行ったこと。
写真を一緒に撮ったこと。
思い出を振り返り終える頃には、アルコールのせいで体が熱く、ふわふわしていた。
「なんか僕達って結局、喫茶店に行くか散歩するかばかりだね」
「うん。大冒険をした気分だったけれどふたを開けたら全然だねえ」
凛は力が抜けたように笑った。
「まあでも、去年は家にこもってばかりだった僕としては、大冒険だった」
「あ、そうだね」
「君も?」
アルコールが僕の背を押した。
「あーうん。ほんとーにひきこもってたからね、わたし」
理由は聞くまでもないことだろう。この世界で僕だけが、凛を理解することができた。僕と彼女は似ている。僕は出会った頃からきっと薄々感じていて、今では確信している。考え方、趣味嗜好、行動。違うところも当然あるけれど、基本的に僕達は似たようなものを選び、似たような結果を求めているのだと。
「・・・・・・詳しくは聞かないでおくよ」
「そう?」
まるで話しても良さそうな反応を見せる凜に、僕は苦笑する。彼女はこういうところには疎いのだ。それも理解している。
「そうだ、白木さんと理恵子さんが凄く心配していたよ。次、学校にきたら一緒に会いに行こう。白木さんはまあ、向こうから会いに来るだろうけれど」
「心配?」
凛は驚いたように目を丸くした。
「うん」
「・・・・・・そっか。うん、わかった」
「なるべき早くきなよ。それじゃないとあの二人の具合が悪くなりそうだ」
「・・・・・・うん」
僕達は久しぶりの会話をたっぷりと楽しんだ。
凜は笑ったり、拗ねたり、怒ったり、彼女の言う通りそれなりに元気なようだった。僕はたった三週間程度合わなかっただけだというのに、やりとりに懐かしさを感じていた。それはとても心地の良いものだったけれど、でも、懐かしさを感じるたびに頭は騒ぎ出し、警鐘のように頭痛がして、僕を苦しめた。もしかすると、僕も風邪を引いたのかもしれないと思った。久しぶりにアルコールを口にしたものだから、そのせいもあるのかもしれない。
話しながら一方で頭痛に苛まれた僕は、一度トイレに行くことにした。おぼつかない足取りに自分で驚きつつ、トイレに入って座った。一息つくと、眠気がやってきた。頭も体も重い。本当に風邪を引いたのだろうかと、不安になった。数分休憩したところで、意味もなく水を流し、トイレを出た。
するとリビングに凜の姿がなく、寝室の扉が開いていた。僕はすぐ黒いノートのことが頭をよぎり、慌てて部屋に飛び込んだ。
「ちょっと、こっちは・・・・・・!」
凜は僕のベッドに仰向けに転がり、寝息を立てていた。その光景にもちろん驚いたけれど、僕はそれよりも黒いノートのことが気になった。机の中を見ると、黒いノートはそのまま置いてあった。凜が目にしたような形跡はなかった。僕は安心した後、改めて現状に呆然とする。
起こして家に帰そうと思い、何度か呼びかける。しかし凜は一向に目を覚まさず、ひたすら眠っていた。途方に暮れた僕は、いろいろ考えるのも面倒になってきたので、来客用の掛け布団をクローゼットから取り出し、ソファで眠ることした。ささやかな仕返しとして、アラームをセットした時計を、凜の顔のすぐ傍に置いてから僕はソファに寝転がった。昼寝程度なら問題ないけれど、一日の疲れをとるには少し狭い。起きたらどんな文句を言ってやろうかと思っているうち、僕の意識は消えた。
※
けたたましい音と共に、飛び起きたのは僕の方だった。あまりにうるさいので仕掛けたことに後悔しつつ、ベッドに向かいアラームを止めた。驚くべきことに凜は動かなかった。念のため耳を澄ませてみると呼吸音がした。
どうしようか考え、とにかく朝のルーティンとして頭や顔を洗い、歯を磨き、着替え、テレビをつけて適当なニュースを流した。病み上がりらしいので、仕方がなく、起きるまで待ってあげることにした。
僕の優しさにたっぷりと甘えた凜が目を覚ましたのは、正午前だった。山の様に動かなかった彼女が突然むくりと起き上がった。乱れた髪であたりを見回し、僕と目が合った。
「おはよう」
普段学校で会う時や、喫茶店で待ち合わせをするときなんかと同じ調子で言ってのける。僕も社会のルールにのっとり、挨拶を返す。
「ここは、どこ?」
「僕の家だよ。記憶なくすほど飲んでないでしょ」
「まあね」
「あと、寝室には入るなって言ったよね」
「いやあ、眠たくて」
「君のおかげでソファで眠ることになって酷く窮屈だったよ。体も痛い」
「え? なんでベッドで寝なかったの?」
「なんでって、そりゃ、そうでしょ。君が使ってたんだから」
「でも、私そんなに体大きくもないし、隣で眠ればよかったのに」
「そういう問題じゃあ・・・・・・」
「ふーん。まあ、とにかくありがとう。おかげで頭もすっきりしてるよ」
病み上がりにあれだけ酒を飲んだのに、確かに少し顔色がよくなっていた。
「それは良かった」
「お腹すいたね」
「僕もそうだと勝手に決めつけたね」
「うん。実際そうでしょ」
「まあ」
「よーし、どこいこうか」
「そんなの決まっているだろ」
久しぶりの対面になった理恵子さんは、凜の顔を見るなり思い切り抱きしめた。熱烈な歓迎ぶりだった。凜は呆気にとられ、本当に困ったような表情で腕の中で固まっていた。
その後、僕と凜は同じサンドウィッチを頼んだ。快気祝いだと、特大のパフェもついてきた。朝ご飯を食べていなかったことが幸いして、僕はなんとかサンドウィッチとパフェを食べ終えた。口元をふきながらちらりと凜を見ると、無表情で黙々とパフェを食べていた。僕の見立てだと彼女はもうお腹いっぱいのはずだ。普段なら、僕に食べろと言ってくるころだった。けれど今日は一心不乱にスプーンを動かしていた。僕はその光景に、祖父母や親せきのおじさんを思い浮かべた。
理恵子さんや真さんがキッチンで作業しているのを確認してから、小声で、食べる手伝いを申し出ると、凜は無言のまま首を横に振った。病み上がりを指摘すると、首を縦に振った。それでも食べるのをやめなかった。時間は非常にかかったけれど、凜は見事に全て食べきった。おいしかったかと聞く理恵子さんに、凜はへたくそな笑みで何度も頷いていた。
「見直したよ」
食後のコーヒーを一口飲み、僕は凜にそう言った。
「何が?」
「食べきったこと。お腹一杯だったでしょ」
「あー、はは。ばれてたか」
「だいぶ経つから。まあ別に残したって見損ないはしないけどね」
「本当?」
「うん」
「怪しいなあ」
「信用してよ。ずいぶん経つんだから」
僕たちが話していると、やがて我慢できなくなったのか、仕事を放り投げた理恵子さんが強引に凜の隣に座って、あれこれと会話をしだした。終始困惑する凜を、僕は笑いながら眺めていた。日常が戻ってくるのだと、安堵を覚えた。
店での時間を過ごした僕達は、仄かな陽光が店内に広がり始めた頃、帰宅することにした。理恵子さんは名残惜しそうに、僕たちに泊まっていくように勧め、真さんに怒られていた。また必ず来ますと、まるでどこか遠くに行くみたいな、大袈裟で恥ずかしい約束をして店を後にした。
「いい人たちだよねえ、ほんと」
駅まで見送ることにして歩いていると、凜がぽつりと言った。
「そうだね。雇ってもらおうかな」
「就職? いいね。そうしなよ」
「君が来るまで一年間みっちり修行して、先輩面してあげるよ」
「私も雇ってもらうの?」
「もちろん」
「樹が決めることじゃないでしょ」
凜は苦笑いを浮かべた。
「もしそうなったら、あの二人が嫌だって言うと思う?」
「・・・・・・わからないよー、それは」
「でも本当にああいうところで働けたらいいんだろうけれど」
「そうかもねー」
凛を内心気遣いながら歩き、駅に着いた。
「それじゃあ気を付けて。酒は今日は飲まずに早く眠るように。あと講義に来るなら忘れ物しないように。あともう二度と病み上がりで寒空の下を歩かないように、あと、無理して食べ物を食べないように」
「うんうん、ありがと」
凜はへたくそな笑顔で何度も頷いた。やはり待ち望んでいたツッコミが来ないことに僕は苦笑したけれど、言ったこと自体は本気で思っていることだったので、守ってさえくれればいいかと納得することにして、見送った。
ちゃんとした睡眠でなかったこともあって、僕は帰宅するなら疲労でベッドに倒れ込むと、携帯が鳴った。凛からだった。
「どうしたの」
「あー、うん。一個だけ、聞きたいことあってさ。ほんとはね、昨日寝ちゃう前に聞こうと思ってたんだけど」
「うん」
なぜだか、胸騒ぎがした。
「樹ってさ・・・・・・行った?」
「なにに?」
「風香の・・・・・・さ」
「・・・・・・え?」
「あー、ごめん。やっぱ、忘れて」
「ちょっ」
「ごめん!」
電話は切れた。僕はしばらく携帯を耳に当てたまま、凛が何を言おうとしていたのかと必死に考えた。
けれど、まったくわからなかった。
今度会ったら直接聞こうとも、思わなかった。
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