第7話 小説(娯楽作品全般)は感情操作で成り立っている

先日「なろう系勇者の憂鬱 ~TS転生メタ勇者の冒険?譚~(https://kakuyomu.jp/works/16818093075735744834)」を完結させ、このテーマについて考えがまとまったので、述べてみる。


 小説に限らず、多くの娯楽作品はそれを傍受する者の感情を操作している。

 実際に映画がプロパガンダに使われた事を知っている者であれば、これに異を唱ええられぬだろう。

 ここではあくまで小説サイトへの投稿という形式をとるので、一般的なライトノベルを例に挙げよう。

 例えば、読者にカタルシスを与える事を主目的にするライトノベル、その手順は……


①読者に怒りや憎しみ、悲しみの感情を与える。


②前述の負の感情を解消させる事でカタルシスを与える。


 ……この単純な2つの手順だ。

 バトル物の作品などは、特にこれが分かりやすいだろう。あまりにも多く使われ過ぎた手法なので、最近では①に耐性が付いてしまった読者も多く、より過激な表現で感情を揺さぶろうとする作品も目立ってきた。

 しかも読者を常に惹きつけ、飽きさせぬため、カタルシスを与えるテンポを最近の作品では限界近くまで上げている。それに付き合う読者は、知らず知らずのうちに作者によって頻繁に何度も何度も感情を煽られ続けているという訳だ。

 しかしながら、よくよく考えてみれば、感情というのは人間にとって非常にデリケートな部分である。それをより過激に、より頻繁に、揺さぶるという行為が果たして良いものか? あまりにもパターン化された、しかも雑な小手先の技で読者の感情をただただ刺激してやろうというのは、いくらなんでも読者への配慮が足らないのではないだろうか? まして、劇中のキャラクターの感情すらろくに深掘りしないというのでは、感情を扱う媒体として手抜きに過ぎるというものだ。

 また、最初に述べたとおり娯楽作品がプロパガンダに繋がると考えた場合、その作品によって読者が悪影響を受ける可能性にも配慮しなければならない。

 例えば先に述べたバトル物の娯楽作品が読者に訴えているプロパガンダというものが、あると仮定するならば、それは”より強い力による解決が正しい”というメッセージにしかなっていない。いや、そうなっている作品が多いと言うべきか。バトル以上に強いメッセージ性を持つ作品もあるのだから。

 しかし、その一部の例外を除いた多くの作品群が読者に与えるプロパガンダの影響は、やはり考えてみれば深刻である。現実にも己の正義、己の訴えを通すために力に頼ろう、もしくは力をつけてそうしたいと願う者が溢れているからだ。

 そして、その思想の行きつく先は、核兵器というパワーインフレした究極の力を持って己の正義を皆に押し付けようという、今現在の世界の現実である。

 結局、力による解決以外の方法を模索せねば、多くの人は己の正義を貫くため力で殴り合う、あるいはマウントを取り合う修羅道の内に留まらねばならないのだ。

 また、力を持った者が幸せになれたがどうか、全てを思い通りにできたかどうか、歴史を紐解いてみれば英雄たちの虚しい現実が知れるだろう。

 嫌な相手を力でねじ伏せたらなんと気持ちよい事か、と想像する人は多いが、その気持ちよさは一時的なもので長続きはしないのである。対戦ゲームを通して、それを経験した人だって多いだろう。

 もう、修羅・畜生のように”力”に頼る作品からは卒業してみませんか? 何十年も同じ手法の娯楽作品にまみれていたんですから、いい加減に精神性を少しでも上げる事を考えましょうよ。

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