第12話 想いの影で

2014年 1月9日 金山県 朱雀川市


「さて、交渉といきましょう」

 高層ビルの最上階、薄暗い社長室で、船広ふなひろはかりは片足をもう片方の膝の上に乗せて脚を組み、さらに両手を組むと、穏やかな笑顔と声でそう言った。

 「『交渉』相手」は、気の弱そうな中年の男だった。震えながら船広の様子をじっと見つめる。船広と「『交渉』相手」の間の机のすぐ隣には、「『交渉』相手」の若い女性秘書が布を噛まされた上に椅子に縛り付けられていた。

「我々は現在非常に苦しい状況に置かれています。簡単に言えば経営難ですね。あなたも耳が痛いでしょう」

 船広はそう言ってにこやかに笑いかける。だがその場にいる人間は誰一人として笑っていなかった。

「単刀直入に申し上げますと、我々に、吾妻さんからのご融資をいただきたいのです」

 「『交渉』相手」の中年男、吾妻は船広をじっと見る。震える唇を無理に動かし、船広に言葉を返す。

「そ、その金を何に使う気だ、私たちになんのメリットがある」

「お金の使い道は至ってシンプルです。私も言ってみれば100人の従業員を抱える経営者、彼らを養わねばなりません。そちらのメリットとしては、あなたの、吾妻商事の知名度の向上に大きく貢献いたしましょう。普通ならできないようなことも、我々ならばやってのけましょう。いかがでしょうか?」

 船広はやはりにこやかに言う。何かを返答しているように見えて、船広は具体的なことは何ひとつ言っていない。吾妻にもそれはわかっていた。

「は、犯罪者の手助けはせん!」

 吾妻は勇気を出して言い切った。

「そもそも、君たちは一体なんなんだ!いきなり来て、従業員たちに銃を突きつけ!こんなことをしてタダで済むと…!」

 吾妻が勢いに任せて言葉を並べると、船広の足下に座っていた銀色にも似た毛の狼が四つの脚で立ち上がり、吠えた。凄まじい殺意と、剥き出しにした鋭い牙は吾妻ただひとりにはっきりと向けられていた。

 船広は狼の背を撫でる。そのまま頭も優しく撫でると、船広は吾妻の方へ視線を向けた。

「申し訳ありません。なにぶん元気の良い子なので」

 船広は笑って言う。吾妻はまた小さくなっていた。

「それで、お返事がよく聞こえなかったのですが、もう一度お聞かせ願えますか?」

 船広はにこやかな表情を崩さないまま吾妻に尋ねた。

 吾妻は机のそばに置かれた椅子に縛り付けられている自分の愛人兼秘書を見る。その秘書の後ろでは、さっきから何も言わずにただ立っているレスラーのような体格の男が吾妻と秘書を交互に見比べていた。

 吾妻は震えていた。だが、自分の信念にもとることはしない。

「断る!貴様らみたいな人間に金を渡せば、また湘堂の二の舞だ!私は金には汚いが、それでも殺しは許さない!大学卒業と同時にこの20年、死んだ気になってこの会社を大きくしてきた!それは人殺しを支援するためじゃない!」

 船広は心外そうに眉を上げた。


 秘書の後ろに立っていた男がゆっくりと吾妻の方へ近づく。吾妻は思わず逃げようとしたが、自分が椅子に座っている以上逃げられなかった。

 大男が吾妻の首を締め上げ、高く浮かせる。

「吾妻さん、どうでしょう、感情に流されず、リスクリターンを重視した交渉をなさいませんか?」

 吾妻が苦しそうなうめき声を上げるが、船広が相変わらず穏やかな声で尋ねる。吾妻が死にそうと見るや、大男は手を離し吾妻を床に落とした。咳き込む吾妻を見ても、船広は穏やかな笑みを浮かべたままだった。

「私も暴力は嫌いです。平和にことを進めたいのです。どうか感情論ではなく、ロジカルにいきましょう」

「ならばお前の部下達を帰らせろ…!話はそれからだ…!」

「そうはいきません。何事にも備えは必要ですから」

 船広は最初から一歩も譲る気はない。吾妻にもはっきりわかった。だがそれでも吾妻には譲れなかった。

「ならば融資などしない!」

 船広の眉が下がった。同時に、さっきの大男が吾妻に近づくと、吾妻の首を片手の肘で締め上げ、5秒とかからず吾妻の首の骨をへし折った。

 ものを言わなくなった吾妻を見て船広は露骨にため息を吐いた。

泰山たいざん、誰が殺せと言った」

「はっ、申し訳ありません」

 言葉の割に、どちらも本音ではなさそうだった。大男の泰山の方は反省している様子を見せないし、船広はそもそも怒っていない様子だった。

「仕方ない。他の連中に好きにさせてやれ」

 船広が言うと、泰山はキッチリと頭を下げてから腰の通信機を抜いた。

「泰山だ。略奪を許可する」

 通信機の向こうから野蛮な歓声が聞こえた。間をおかずに銃声と男たちの悲鳴も聞こえ始める。すぐに女の悲鳴も聞こえてきた。男たちのような断末魔ではなく、一方的に蹂躙されるような悲鳴。

「さて、こちらの方は…」

 船広は部屋に残された吾妻の秘書の女を見る。口に噛ませてあった布を外すと、女は早口で話し始めた。

「わ、私ならこの会社の全財産を好きにできますよ!社長から色々聞いてたんでぇ!いくらでも協力します、させていただきます!だから殺さないでぇ!」

「物わかりのいい女性は好きです。さっそく口座から全ての現金を引き下ろしてきてください」

「はい、ただちに!」

 船広の部下の1人が女をほどき、女を連れて銀行へ走り出した。


 船広は泰山と狼の3人きりになると、社長室の高級な椅子に背中を預けた。

「これでしばらくは全員遊んでいられるな。そして俺たちの居場所もできた」

「長かったですな」

「あぁ。烏海からすみさんがあの日殺されて、俺たち残った部隊はなんとか食い繋いできた。今のマスコミは自分たちが爆破されたことばかり報道して俺たちには全く注目してない。おかげでのびのびと生きていられる」

 船広はそう言うと、胸ポケットのタバコとライターを取り出し、一服する。

「俺たちは生き延びなきゃならない。俺たちには力も知恵もある。だから今日まで神様は生かしてくれたんだ。そんなのが簡単に全滅するわけにはいかない」

 船広は紫煙を天井に撒く。船広の足下の狼は片目をジロリと動かしたが、すぐに両目を閉じてその場で足を折って眠っていた。


 社長室の扉が開く。3匹の犬を連れた痩せ型の男が部屋に入るなり嫌そうな顔をして船広に説教を始めた。

「船広さん、タバコはやめろと言ってるではありませんか。別にあんたや私が早死にするのは構いませんがね、うちのワンコたちのセンシチブなお鼻がそんなくっせぇタバコで汚されるのはとっても癪なんですよ」

「これは失礼、犬神くん」

 船広はすぐに机にタバコの先を押しつけて消す。犬神はそれを見るとご満悦そうに笑顔を見せ、先ほどまで船広の足下にいた狼を撫で回していた。狼も嬉しそうに犬神の頬を舐めている。

「それで、調査はどうだった」

 船広は静かに尋ねる。犬神は急に姿勢を正して報告を始めた。

「はい。世間では烏海さんの存在は全くもって隠滅されているようです。湘堂市の事件は、支鮮華しせんかのスパイが主導したものとして、現在そのスパイが真犯人としてメディアに取り上げられております」

「毎朝新聞爆破事件の方は?」

「はい。これも在日支鮮華人のスパイが犯人として取り上げられております。ですが、実際には毎朝新聞の偏向報道によって名誉を毀損された湘堂の生き残りが犯人のようです」

「真犯人はどうなった」

「全員死亡。ほとんどの証拠は隠滅されてましたが、うちの子達の鼻は誤魔化せません」

「死亡?」

「ええ。少なくとも2人は銃殺されています」

「殺したのは?」

武田たけだ徳道ありみち

 船広は我が意を得たりと大笑いを始めた。

「ちゃんと証拠もあるな?」

「防犯カメラに調査中の武田とJIOの工作員が映っておりました。削除されてましたがなんとか復元しましたとも」

「そうか。ふふふ」

 船広は面白くてたまらなかった。

「あの狐ジジイなら確かにやるな」

「一体何者で?」

 1人で盛り上がって笑い転げる船広に、状況が掴めない泰山が尋ねる。

「俺の元上司さ」

「GSSTの」

「ですが何がそんなに面白いのですか?」

 犬神は船広に尋ねる。船広は堂々と言い切る。

「武田の狙いがはっきり見えたからさ。決めた。犬神、武田の調査を続けてくれ。これは金の鉱脈だぞ」

「了解しました」

 船広が言うと犬神はすぐにその場を後にした。

「さて、面白いことになってきたぞ、泰山。悪党同士、武田とお楽しみと行こうじゃないか」

「望むところです」

「見てろよ武田…貴様の化けの皮を剥いだ後、烏海さんのところに送ってやる」

 船広は口角を大きく上げていた。勝算はいくらでもある。武田からむしれるものはむしるだけむしって殺す。そんな妄想を繰り広げ、船広は奪ったビルを視察するために社長室を出た。




1月25日 夕方

「それまで!全員集合!」

 幸長の声が訓練場に響く。それに呼応して子供たちは駆け寄ってくると、余計な声も発さずに集合して整列する。

「今日の訓練はここまで。解散!」

「ありがとうございました!」

 子供たちの声がしたと同時に、一礼する。そしてすぐに子供たちは散らばって楽しげに談笑を始めた。

 魅神暁広も例外ではなかった。彼のもとにも早速数人が集まり、談笑を始める。

「よ、トッシー、今日もお疲れ」

「お、圭輝!お疲れ」

 暁広は声をかけてきた圭輝に笑って返事を返す。すぐに圭輝が暁広の右側に立つと、浩助がその逆側に立った。

「浩助もお疲れ」

「お疲れ…いやぁ今日もバテたね」

 浩助が眼鏡を掛け直しながら呟く。暁広は少し笑って返した。

「あれだけ動いてたらそうなるさ。いい動きだったよ」

「どうも」

「みんなどんどん動きが良くなっていくな。俺も負けずに頑張らないと」

 暁広は他の2人を連れながら感心したように言葉を漏らす。そんな暁広の態度に感心したように圭輝も言葉を返した。

「トッシーはよく周り見てるなぁ。GSST全体を率いるのにふさわしいね」

「幸長さんにも期待されてるんだろ?すげーよなぁ」

 圭輝が暁広を褒めると浩助も便乗する。暁広は照れ隠しに謙遜していた。

「よせよ、まだまだだって」

 

 3人はそんな雑談を交わしているうちに訓練場を出ていた。

「今後もお前ら2人には特に期待してるからさ、無茶を言うかもしれないけど、ついてきてくれよな」

 暁広がそう言うと、浩助と圭輝はおうと頷いた。

 同時に、浩助が何かに気づいた。

「あ、そーいや俺と圭輝は用事あるんだったー、お先失礼」

「は?なんのこと?」

「じゃあな、トッシー」

 戸惑う圭輝と暁広をよそに、浩助は圭輝を無理矢理引っ張ってその場を立ち去った。

「なんだあいつ?」

 暁広は1人取り残されてよくわからない状況になっていた。そんな時だった。

「ヤッホー、トッシー」

 暁広の視界の外からそんな声がした。聞き覚えのある女子の声。

 そちらの方にスッと目をやると、茜が優しい笑顔で暁広に小さく手を振っていた。

「ヤッホー、茜」

「途中まで一緒に帰らない?」

「いいよ」

 茜は暁広の優しい声に照れ臭そうに笑うと、暁広の隣に立ってゆっくりと歩き始めた。

「他の女子と一緒にいなくていいの?」

「あー、今日はトッシーと話したくて」

「俺と?何か用事が?」

「いや、そういうのじゃなくて!ただ、普通に、おしゃべりしたい時、あるじゃん?それ」

 茜の言葉に暁広も、あぁ、と頷いた。

「奇遇だね。俺もなんか茜と話したいなぁって思ってた」

「ホント?」

「ホントだよ」

「ふーん」

 茜は暁広から見えないように顔を背けてニンマリと笑った。だが暁広は下を向いて何か考えていたようだった。

「きっと、寂しかったんだろうな」

「え?何が?」

「茜と話したいって思った理由」

 暁広はしみじみとした様子で言葉を紡ぐ。茜は静かにそれを聞いていた。

「あの日、父さんも母さんも、兄貴たちも、みんな目の前で殺された。みんないなくなった。それからさ、なんか、空っぽなんだよね」

 暁広の言葉に、茜も思うところがあった。彼女も父、母、妹を殺されながら今日まで生きている。暁広の言わんとするところはわかる気がしていた。

「もちろん、今はみんながいる。だから、寂しくないはずなんだけどさ。それでも、やっぱり…いつかみんなもいなくなるって思っちゃうと、不思議と暗くなるんだよね」

 暁広が自嘲的にため息を漏らしながら言う。小さく笑顔すらも作っていたが、強がりなのは茜にも簡単にわかった。

「ごめん、暗い話は嫌だよね」

 暁広は空気を変えようと茜に笑いかける。茜は強い意志を持った表情で暁広を見つめ返した。

「トッシー」

「?」

「私はいなくならないよ。ずっとトッシーの隣にいるから」

 少し早くついていた常夜燈の光が、暁広と茜の頬を染めた。

「…シャワーしてくる!!」

 茜は目線を逸らして叫ぶと、足早にそこを去っていく。暁広は声も出せずにその背中を見送った。


 暁広は立ち尽くしていた。理由はない。ただなんとなく、ぼんやりとして茜が去っていった方向を眺めるだけだった。

「ずっと、隣にいる、か」

 暁広は今日この日までを振り返る。

 言ってしまえば今日まで楽な日は1日もなかった。事件が起き、戦場に立たされ、訓練を行い、また事件が起きては戦場に立つ。それの繰り返しだった。

 そんな時、振り返ればいつでも、茜の優しい笑顔と明るい声が暁広のそばにいてくれた。心が折れそうになるたび、茜の笑顔が暁広に力をくれた。茜には他の誰にもない特別な力さえ感じられた。

「そうか…きっと…俺は…いや…ずっと…」

 暁広はその時初めて自分の気持ちに気づいた。目を閉じればいつだって茜がいた。それは決して思い過ごしなどではなかった。



 夕食の時間になった。暁広も例外ではなく食堂にいた。

 シャワーを浴びた後の温かい感触がまだ暁広の体を包んでいた。そのせいかどこかふわふわしたような感覚で暁広は夕食を口にしていた。

 周囲は楽しげに談笑している。少し離れたテーブルからは数馬などの笑い声が聞こえるし、近くにいる圭輝などの談笑も聞こえる。だが暁広は興味が湧かなかった。

 シチューをすすりながら、ちらちらと右側を見る。茜が静かに、私物のピンクのパジャマに身を包んで眠たそうにシチューを皿ごと飲んでいた。

 のどを小さく鳴らした茜は、皿から口を離すと、少し笑っていた。

「どうしたの?トッシー?」

 茜は暁広と目が合ったかと思うと、不思議そうに暁広に尋ねる。暁広は慌てて目を逸らした。

「い、いや、なんでもないよ!」

 そのまま暁広は茜と同じようにシチューを飲み干す。まだできたばかりのシチューは熱かった。

「あっち!」

「大丈夫!?」

「…うん、大丈夫」

「もう、しっかりしてよ〜、ははは」

 茜は暁広のドジを見ながら笑う。暁広は恥ずかしそうに目を伏せながら、その笑顔を目に焼き付けていた。



 夕食を終えた彼らはすぐに解散し、暁広は1人で自室にいた。ベッドに横になり、天井をぼんやりと眺めて眠ろうにも眠れなかった。

 目を瞑るたびにあの笑顔が浮かんでくる。その度に心臓が高鳴って暁広は眠ろうにも眠れなかった。

「茜…」

 家族を皆殺しにされた暁広にとって、ずっと自分の隣にいると言い切ってくれた茜の存在は特別だった。そして、暁広の中でその「特別」は大きな芽を開かせていた。

「好きだ」



翌日 1月26日


「今日の訓練はここまで!解散!」

 子供たちを指導する幸長が声を張る。子供たちは整列し、挨拶すると、各々友人たちと集まりながら訓練場から離れていった。

 原田茜も例外ではなかった。

「いやぁお疲れ」

「お疲れ」

 茜は心音と玲子のいるところにやってくると、軽いノリで2人に挨拶する。心音は多少なり疲労している様子だったが、玲子は平常そうな様子だった。

「何、疲れてないわよ。まだまだやれって言われたらやれるだけの体力は残ってる」

「まーた強がり言って」

 玲子の言葉に茜が少し呆れたように言う。玲子はそれを静かに鼻で笑い飛ばした。

 心音はそんな2人の様子を見てまとめてからかえるいい方法を見つけたと思うと、すぐに口走った。

「そういえばトッシーが褒めてたよ」

 茜と玲子、両方とも一瞬ピクンとして背筋を正した。しかしすぐに2人とも平静を装うと、冷静に心音に質問して会話を続ける。

「どっちを?」

 茜と玲子の声が思わず揃った。一瞬お互いに目を見合わせるとすぐにそれを誤魔化すようにして心音に視線をぶつける。心音は思わずニヤニヤしながら宙を眺めた。

「どーっちだったかなぁー」

「ハッキリしなさいよほら」

「あ、明美だ。2人ともじゃあね」

「ちょっとぉ!」

 心音は2人の声を置き去りにして足早にその場から立ち去っていった。

 取り残された茜と玲子はお互いに目を合わせた。

「トッシーのことが好きなの?」

 お互いの声がまた揃った。茜も玲子も錯乱して混沌とした会話を始めた。

「いやっ、違う!」

「なんも言ってないじゃん!何が違うの?」

「あーいやこれはえーとそのー」

 茜に詰められた玲子は混乱して周囲を見回す。すぐにマリを見つけた。

「マリー!マリー!」

 玲子は何事もなかったような笑顔を貼り付けてマリの名を呼びながら茜から逃げるようにしてその場を立ち去った。


 茜は1人になると、色々と考え事をしながら訓練場を出て自室へ歩いていた。

(やっぱ玲子もトッシーが好きなんだ…)

 前々から薄々勘づいてはいた。美咲などがからかっているのも耳に入ってくることはあった。つまりそれは暁広の耳にも入っている可能性が高いということであり、下手をすれば玲子に先を越される可能性もある。

(どうしよう…)

 暁広は茜にとって特別な存在だった。落ち込んだ時でも決して自分を見放さずに、励ましてくれる。精神的に何度も救ってくれた人だった。いくつかの事件を経て、いつしか茜にとって暁広は愛情の対象になっていた。

(どうしようもないよ…)

 茜はガックリと肩を落としながら歩く。

(今のままでもトッシーとは仲良くできる…けど…私は…)


 シャワーで汗を流し、少し火照った体のままで茜は食堂に夕食を食べにきた。

 いつも通り食堂の少し左側のテーブルの席に座る。そして自分の席を示すようにタオルを置いておくと自分の夕食を取るためにバイキングの列に並ぶ。茜の前に並んでいた広志たちは楽しそうに談笑していた。

「あ、茜」

 ぼーっとしていた茜の横から聞こえた優しい声。茜が振り向くと、暁広がいつも通りの表情でそこにいた。

「あ、ヤッホー、トッシー」

「ヤッホー。後ろ空いてる?」

「空いてるよ。どうぞどうぞ」

「飯取ったらまた茜の隣で食っていい?」

「OK」

 当たり障りのない、いつも通りの会話をしながら暁広は茜の後ろに並ぶ。料理を取るためのお盆を手に持つと、暁広は静かに列の前方が動くのを待った。

 茜と暁広の間に沈黙が流れる。実際には一瞬だったが、茜からすると永遠のような気がしてならなかった。

(気まずい…!)

 暁広とは目を合わせないように暁広と反対側の位置にある料理を眺める。だが背中からなんとなく伝わる暁広の気配を、茜は無視しきれなかった。

「あのさ、茜」

 不意に暁広が茜に声をかける。しかも声色が何かいつもと違った。茜は恐る恐るいつものように笑顔を作って振り向いた。

「な、なに?トッシー?」

 わずかに声が震える茜だったが暁広は気づいていないようだった。

「明日の午前中って暇だったりするかな?」

 意外な話題だった。茜は戸惑いながら考えを巡らせる。明日は午後の訓練以外は何もない。

「あーうん、空いてるよ!」

「そ、そうか。じゃあ、ちょっと一緒に出かけない?」

「い、いいけどぉ?」

 予想外の連続だった。茜は高鳴る心臓の音が暁広に聞こえてしまいそうで怖かった。それを誤魔化すように会話をつなぐ。

「どこ行くの?」

「美味しそうなパンケーキ屋さん見つけたからさ、一緒に行こう」

「うん、わかった」

 茜は笑って頷く。暁広もどこか安心したような笑顔を浮かべていた。

 2人はバイキング形式で並ぶ料理を皿によそうと、それを自分のお盆に載せる。


 そんな様子を少し離れたところから美咲が見ていた。

「明美」

 美咲はカップスープをひと口飲むと、正面に座る明美の名前を呼んだ。明美は肉を頬張りながら答えた。

「何?」

「明日の午前中、トッシーを尾行してみて」

「なぜ?」

「多分スクープ取れるから」

 美咲は短くそれだけ言ってカップスープを飲み干す。明美も口の中で噛み締めていた肉を飲み込むと、気合の入った表情で一言答えた。

「よっしゃ」

 明美はそう答えると食べ終わったお盆を片付けるために席を立つ。気合の入った様子の明美を見て、美咲は満足そうにニヤリと笑った。




翌朝 1月27日 9時


 朝食を済ませた茜と暁広は1階のロビーで待ち合わせをすると、誰にも見つからないうちに静かにロビーを出た。

 今日は冬晴れで、コートを着ていないと寒いくらいだったが、日差しは眩しかった。

「トッシー、今日はどこ行くの?」

「こっから10分で行けるところだよ。駅の少しはずれ」

 2人は並んで歩く。

 そんな2人を20メートル後方から尾行している影があった。

「なるほど、美咲も鋭い…確かにスクープの匂いがする」

 そう言って物陰から隠れて様子を窺っていたのは明美だった。だが彼女1人でもなかった。

「ねぇ明美、なんで私呼ばれたの?」

 そう明美の隣で愚痴をこぼしたのは玲子だった。黒いコートの襟を立て不満そうに明美の背中を睨んでいた。

「しかもマリまで巻き込んで…」

「いや、それは玲子でしょ?」

 明美が誘った、というより強引に巻き込んだのは玲子だけで、玲子のそばに立っているマリは玲子に誘われてやってきたのだった。

「大丈夫だよ、私は玲子ちゃんに誘ってもらえて嬉しかったから。明美ちゃんも、一緒にスクープ取ろうね」

「なんでこんなノリノリなんだか…」

 マリが笑顔を見せると、思わず玲子は呆れて呟いた。

「あ、動いた、行くよ」

 明美が短く言って走り出す。マリもそれに置いていかれないように駆け出す。玲子は帰ろうかと思ったが、仕方がないのでついていく。

 そんな明美たちの存在には気づかないまま暁広と茜は2人きりだと思って歩き、当たり障りのない話を続けていた。

「うちの班にトッシーがいてくれて本当によかったなぁって思ってるんだ。駿も心音も頼れるけど、やっぱトッシーの指示が一番動きやすくてさ」

「ホント?ありがとう。あ、着いたよ、このお店」

 街の通りの角にポツンと存在する1階建ての洋風のパンケーキ屋。店の屋外にも座席が置かれており、おそらく注文すればそこでも食べられるのだろう。

「おしゃれだね」

「でしょ?ちょっと外の席で食べてみたいなって思ってさ」

「いいね〜。いこいこ」

 茜もこの店が気に入ったのか積極的になる。早速2人は店の中に入っていった。

 午前中のこの時間にはなかなか客はいない。ましてや彼らくらいの子供となるともっといない。店内には老人が何人かぽつりぽつりといるだけだった。

 暁広と茜はカウンターの向こうに立つ水色のエプロンの若い女性に声をかけた。

「すみません」

「いらっしゃいませ。メニューはこちらです。ご注文をどうぞ」

 店員はにこやかに暁広たちに応対する。暁広が受け取って開いたメニューを茜が覗き込む。店員はニコニコしながらその様子を静かに眺めていた。

「私はこれかな」

「じゃあ俺もこれにする」

 2人は注文を決めると、店員にメニューを見せながらこれをくださいと注文する。店員がにこやかに頷いたのを確認してから、

「外の席いいですか?」

 暁広は尋ねる。店員はやはりにこやかにどうぞと返したのを見て、暁広と茜は店の外に出てすぐの席に向かい合わせになって座った。

 街の通りの中にあるとはいえ、街の最も栄えた中心部からだいぶ距離があることもあって人は全くいない。2人はぼんやりと店の道路を挟んで向こうに広がる枯れ木の並木を眺めていた。

 しばらくの沈黙が流れる。2人は少し気まずくなりながらあちらを眺めたりこちらを眺めたりしていた。

 そんな空気を変えようと、暁広は話題を絞り出す努力をする。

「あのさ、茜」

「ん、なに?」

 暁広は少し息を吐くと、一瞬考える。そして、事件が起きてから今日までずっと考えていたことを茜に吐露した。

「この間の、新聞社の事件。あの時、俺たちは火野を殺したよね」

「…うん」

「あの時さ、火野は『もっと力があれば』って言ってたの、覚えてる?」

「うん」

「火野だけじゃない。伊東校長も、そう言ってた。『力のないものが悪なんだって』」

「うん」

「悔しいけど、俺はその通りだって思っちゃった。火野だって、家族を守れるだけの力があれば、あんな悪さはしなかったはずだし、ヤタガラスだって、あの時政治家を黙らせれる力を持っていれば、こんなことにはなってなかったと思う」

「うん」

 暁広の考えを、茜は静かに聞く。暁広は息を吸うと、そのまま自分の意見をまっすぐ伝えた。

「俺は、こんなことは2度と起きてほしくない。だから、みんなが平等に強くなれば、『力』を持てば、こんなことは起きないと思うんだ」

 暁広の瞳は純粋で、真っ直ぐだった。茜は、それをまっすぐ受け止めていた。

「俺は、みんなが正しいと思える世界を作りたい。みんなが正しい行いをする世界を。そのためには全員が『力』を持つ世界を作りたいんだ。俺は、それを茜と一緒に作りたい」

「私と?」

 茜の心臓の音が高鳴った。心臓の鼓動が、暁広の次の言葉を急き立てるように鳴り響く。

「茜と」

「なんで私?」

 暁広は一瞬下を向く。震えながら大きく息を吸うと、暁広は前を向いて茜の瞳を見据えた。



「俺は茜が好きだから」



 時が止まった。

 2人とも何も言えなかった。ただ黙って目を逸らし、何をしようかと考えたが、何も思い浮かばなかった。

「あ…あ…」

「…」

 茜は気がついたら椅子から飛び上がって走り出していた。ただその場にいるのが恥ずかしくて、全速力で自分でもわからないどこかへ走り出す。

「茜!」

 暁広も立ち上がって茜の背中を追う。しかし、茜はとんでもない速さで、出遅れた暁広にはとても追いつけそうにはなかった。

「茜ー!」

 暁広は走りながら茜の名を呼ぶ。だが茜は振り返らない。腕を大きく振って、息を切らしながら、それでも全く立ち止まらない。暁広も引き離されそうになりながら、そうならないように走る。

 お互いに全力で走っているのは僅かな時間だっただろう。しかし、2人には永遠のようにも感じられた。

 

 茜は歩道の縁石まで来ると、立ち止まって両膝の上に自分の手をついて息を整える。自分でも信じられないような速さを出した茜の体は、想像以上に疲労していた。

 追っていた暁広も同じだった。茜が立ち止まったのを見ると、茜から少し離れたところから声をかける。

「茜!」

 暁広の声がする。高鳴る心臓の音は走ったからか。茜はそんなことを考えながらゆっくりと振り向いた。

「茜の答えが聞きたい!」

 暁広は真っ直ぐ茜を見つめて声を張った。

 茜はその時、自分の心臓の音が走っただけでこうなった訳でないことに気付かされた。暁広の真っ直ぐな瞳。茜を掴んで離さないその瞳。

「トッシー…」

 茜は目を閉じて両手を自分の胸に当てる。そして聞こえる自分の鼓動、自分の心の声。

「私は」





「茜!後ろ!」

 暁広が急に血相を変えて叫んだ。その時にはすでに遅かった。

「え?いやぁっ!!」

 茜の悲鳴は、消されるように封じられた。

 得体の知れない強引な力が茜を後ろへ引きずりこむ。

「茜!!!」

 そう叫んで手を伸ばす暁広の声と姿が茜の耳と目に入る。

 だが、それと同時に、暁広はどこからか現れた屈強な大男に叩き伏せられていた。

「トッシー!!!」

 叫ぼうとする茜の喉を何かが締め上げる。そのまま茜は何かを顔に被せられ、声も出せないままその場に引きずり倒されていた。

 何も見えない視界の中、暁広が殴られている音だけが聞こえる。

 腕も足も押さえつけられて身動きも取れない。

 茜を閉じ込める車の扉が閉まるような音がした。

 そのまま車が動き出す。茜の体に変な方向に引っ張られるような力が走った。

「いや…トッシー…」

 茜は被された黒い袋の中、誰にも見せないように涙を流す。だが、それはこの状況の前にはあまりにも無力だった。

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