「細田さん、聞いてもらっても良いですか?」


ある日の昼休み、いつもであれば無言の時間が流れるだけなのに、珍しく入嶋が喋った。


「何だい?」


驚きと動揺はあったが、できるだけ平然とした様子で返事をした。彼女が仕事以外のことで、こうして話しかけてきたのは、実に二週間ぶりだった。


「ちょっと悩みがあるんですけど」


彼女がそう言い掛けたとき、オフィスのドアが開かれた。そして、騒がしく入ってきたのは、萩原の一行である。


「あの、何でもないです」


そう言って、入嶋は何も言わずに食事を済ませた。その後も、彼女は淡々と仕事を進めるだけで、細田は彼女が何を言いたかったのか、想像を巡らせるばかりだった。


だが、夕方にもなると、入嶋が


「すみません、これをお願いします」


と言って、手の平に収まる程度の付箋を渡してきた。そこには、こう書かれていた。


「突然、すみません。今日、仕事終わったら、私はすぐに会社を出るので、細田さんが出たタイミングでお電話いただけないでしょうか。私の番号はこれです」


そこには、十一桁の数字と、可愛らしい猫のイラストが書かれていた。細田は何が起こっているのか理解できず、入嶋の方を見たが、彼女は何事もないようにパソコンの画面を睨みながら、忙しなくキーボードを叩いているだけだ。


細田は仕事に集中できず、地に足がつかない時間を、ただ過ごした。


付箋に書かれた通り、彼女は殆ど定時にオフィスから出て行った。きっと、自分は少し時間を置いた方が良いのだろう、と細田なりに考え、それでも五分しか間を置けずに、慌てて会社を後にした。震える手で、入嶋に渡された番号を入力し、電話をかける。女性に電話をかけることが、これほど緊張するものか、と細田は思い知ったが、すぐに応答があった。


「はい、入嶋です」


「あ、あの…細田です」


「細田さんですか? 良かったー! 電話もらえなかったら、どうしようって思ってました」


入嶋からは、聞いたことのないような明るい声だった。


「細田さん、この後って予定ありますか?」


「いや、ないけど…」


「本当ですか? あの、申し訳ないのですけれど…ちょっと付き合ってもらえませんか?」


付き合う、という言葉が、交際という意味とイコールではないことは知っているが、女性の口から、そんな言葉が自分に向けられることが初めてだったので、妙に動揺してしまう。


「えっと…」


言葉に詰まる細田に、入嶋は言う。


「駄目ですか?」


「そんなことは…ないよ」


「じゃあ、駅の裏で待ってます。他の人に見られたら面倒なので、裏の方で飲みましょう」


「飲むって…入嶋さん、賑やかな場所、苦手なんじゃなかった?」


「大勢で飲むのは嫌ですけど、二人だけなら…あ、もしかして、私と二人で飲むの、嫌ですか?」


「あ、いや…違うよ。うん、行くよ、大丈夫」


「すみません…忙しいのに。じゃあ、待ってますね」


こうして、二人は駅の裏で落ち合い、大衆的な居酒屋に入った。入嶋は急な誘いについて、もう一度謝罪を口にしたが、それからは、とにかく喋った。


自分たちの上司に関する愚痴や、誰それは変な性癖を持っているという妄想、家の近くに最近住み着いた猫が可愛い、などなど。


細田はただ相槌を打ち、たまにコメントするだけだったが、入嶋はそれを喜んでいるのか、良く笑った。細田は初めて酒の席に楽しみを感じた。


だが、最終的には萩原の話になる。


「どうして、あの人…あんなに面倒くさいですか?」


「うーん、それは会社の人、半分以上は思っていることだね」


「でも、残りの半分近くの人たちは、特にあの人がおかしいって、思っていないんですよね? むしろ、何人かの人は、仲良さそうに、必ず一緒にランチへ出て行きますし」


「あー、それは僕も不思議に思っていた。どうして、あの人たちは、貴重な休憩時間を、萩原さんと過ごそうと思うのかって」


「あ、やっぱりそうですよね? 私、絶対に嫌です、あんな人とご飯食べるなんて」


細田は彼女の笑顔を見て、心の中だけで首を傾げる。この人は、少しも笑顔を見せない人という印象だったが、そうでもないらしい。


でも、自分の前だけでは、本当の笑顔を見せてくれる。どうしてだろうか。なぜ、自分だけには心を許してくれるのだろう。


そんなことを意識をして、彼女の笑顔を見ると、落ち着かない気持ちになった。彼女の前に座って、ただ話していられないのだ。そんなわけがない。細田は頭の中でその言葉を繰り返した。


帰り際、入嶋はさらにこんなことを言った。


「私、この会社に入って、仕事を教えてくれた人が、細田さんで…本当に良かったです」


「ぼ、僕なんかで…良かったのかな。もっと、上手に教えてくれる人もいるし、面白く話してくれる人だって、いたと思うよ」


「いいえ、私は細田さんが一番良かった、と思っています。それは、絶対ですよ」


細田には返す言葉がなかった。二人は居酒屋を出て、同じ電車に乗って帰った。入嶋は途中で電車を乗り換えると言ったので、二人はそこで別れた。


細田は一人だけになっても、頭の中では、入嶋の笑顔だけが浮かんでは消えた。あの笑顔は…自分だけのものだ。他の人間は、決して見ることができない、美しい笑顔。ずっと、そうだったら良いのに。


その日、彼はなかなか眠りに付けなかった。

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