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入嶋は仕事を少しずつ覚え、細田から教えることも少なくなってきた。
ただ、それでも二人の席は隣同士だったし、昼休みにオフィスで二人きりになる、ということも変わらなかった。
入嶋は決して愛想が良いというわけではないが、受け答えがはっきりしているためか、会社の人間から気に入られているようだった。その中でも、特に入嶋を気に入っているのが、萩原だった。
萩原は事あるごとに入嶋に声をかけた。昼休みに誘うことは、流石にないようだが、週に一回は萩原が
「これから飲みに行くけど、入嶋さんもどう?」
と声をかけているのを隣で聞いた。彼女が入社してから三カ月経ち、二度か三度は萩原が率いる数名と飲みに行ったようだったが、最近はそんな様子は見られない。
だが、ある日、萩原がしつこく入嶋を誘う日があった。
「行こうよ、みんなも入嶋さんと飲みたいって言っているしさ」
「はぁ…今日は難しいので、今度でお願いします」
「この前もそう言ってたじゃん。逆に、いつなら良いの?」
「確認しておきますね」
「今確認してよー。大丈夫な日、絶対に一日くらいあるでしょう」
「今月、忙しくて」
「じゃあ、来月でも良いよ。入嶋さんの予定にみんな合わせるからさ」
しつこく、強引な誘いに、流石の入嶋も顔を引きつらせ、対応に困っているようだった。細田は仕事が終わっていないにも関わらず、そのやり取りが勝手に耳に入って、苛立っていた。
萩原は良く言えば、この小さな会社のムードメーカーだが、悪く言えば、空気が読めなくて騒がしい男だった。仕事ができるか、と言えば誉められる点の方が少ないが、その性格から社長には好かれている。
細田はそんな萩原のことが前々から気に喰わなかった。そんな怒りが、この日は煩わしさのせいで爆発する。
「萩原さん」
と細田は言った。それは決して大きな声ではなかったが、滅多に言葉を発さない細田が、自分の名前を呼んだことに、萩原は驚いて反応したようだった。
「この前、萩原さんにチェックをお願いした、企画の件…いつ返信もらえますか?」
「ああ…」
「先週中にはもらえるって聞いてましたけど…」
「明日戻しても余裕あるよね?」
「余裕はありますけど、その分、こっちが切迫します。明日、早い時間に出せますか?」
「出せる出せる」
「前も似たようなことありましたよね?」
「分かったから。ちゃんと明日出すよ。それで、オッケーでしょう。それじゃあ、お疲れー」
そう言いながら、萩原はオフィスを後にしたが、廊下から
「あいつ、何のつもりだよ」
と仲間に向かって言ったのが微かに聞こえた。
その言葉は細田の腹の中に、どこか鉛のような重たさを感じさせたが、大したことではない、と言い聞かせる。萩原に嫌われたところで、何かが変わることもないし、不便に感じることもないはずだ。
それにしても、なぜ自分がこれだけ腹立たしかったのだろうか、と自問する。萩原が目障りだったのは、今に始まったことではない。それのに、どうして。
「細田さん」
不意に呼ばれ、思考の渦から細田は我に返る。隣に座っていた入嶋が、どこか怯えた様子の目を向けていた。普段から表情のない入嶋だが、このときの彼女は、目が潤んでいるようにも見えた。
「あの…ありがとうございました」
会釈程度の笑顔を見せて、頭を下げる入嶋を見て、なぜ礼を言われたのか、と考える。そうだ、彼女は萩原にしつこく付き纏われていたのだ。見方によっては、自分が追い払った、という風に見えたかもしれない。
「いや…僕は」
何も考えず、呟くように言った細田。入嶋はそれにかぶせるように「萩原さん、って」と言ったので、細田は言葉を飲み込んだ。
「萩原さん、って…たまに怖いですよね」
今まで、入嶋と萩原の間で、どんな会話が交わされたのかは、知らない。細田が知る限り、二人が会話をしたところは、殆ど見たことがないが、きっと自分の知らない間に、関わりがあったのだろう。
萩原は、言ってしまえば面倒くさい男だ。ただ、そう感じている人間は、面倒くさくなることが嫌で、取り敢えずは何も言わないだけなのである。だから、細田から彼女に言えることは、一つだけだった。
「ああ、うん。萩原さんって、あんな性格だから…関わっちゃうと大変だよね」
細田がそう言うと、入嶋は目を丸くして、驚いているようだった。
「あんな性格…?」
入嶋が目を丸くして聞き返してきたので、自分は何か変なことを言ったのだろうか、と細田は赤面した。嫌われただろうか。不快に思われただろうか。そんな予感に、細田はすぐにでも、この場から逃げ出したくなった。
だが、入嶋が次に見せた表情は、細田にとって意外なものだった。
彼女は、口元に手を置きながら、声を上げて笑ったのだ。細田は彼女が、何に対して笑っているのか理解できなかった。
ただ、こんな表情をする女だとは思っていなかったので、茫然とそれを眺めた。笑い終えた彼女は、こんなことを言った。
「細田さんって、面白い人ですね」
誰かから、肯定的と思われる評価を受けたのは、初めてだった。
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