第12話
ハルカとの暮らしは、ミャン太にとって快適そのものだった。
腹が減れば、一鳴きするだけで餌が出てくるし、安全な寝床も毎日確保できた。
寒いときはハルカの傍で寝れば良いし、暑いときは一鳴きすれば、ハルカがどんな技を使ったか、涼しい風を呼ぶ。
その風が冷たければ、またハルカの傍で寝れば良いし、また彼女が不思議な技を使って冷たい風を止めてくれるのだ。
そうして、一緒に暮らしているうちに、ミャン太はハルカの言葉を何となく理解するようになった。
ハルカが喜んでいる。
ハルカが怒っている。
ハルカが悲しんでいる。
そういうことも、分かってきたので、彼女が喜べば、彼は得意になったし、怒ったのならベッドの下に隠れ、悲しんでいたら傍で寝てやった。そして、彼もハルカからの愛情を十分に受けていた。
そんな生活が五年続いたが、ハルカが明らかに疲れた顔を見せる日が続いた。
疲れだけでなく、苛立ちを見せる日もあり、ミャン太は元気のない彼女を慰めるつもりで、寄り添って眠ったが、大きな効果はなかった。彼女はミャン太を撫でながら、静かに泣いたり、大きな溜め息を吐いたり、どこか気持ちが不安定な日が続いたのだ。
それでも、ハルカは優しかったし、ミャン太にとって生活に不都合はない。人間には人間の悩みがある。自分にはどうすることもできない。一緒に寝てやることはできるが、自身で乗り切ってもらうしかないだろう、とミャン太は彼女を見守ることにした。
だが、ハルカとミャン太の生活に忍び寄る影は、突然巨大なものとなり、襲い掛かってきた。少なくとも、ミャン太にはそう感じられたのだ。
夜になり、ミャン太は空腹の具合から、そろそろハルカが帰ってくるだろう、と目を覚ました。やることもないので、いつのものように、玄関の前に座り、ハルカの帰りを待つ。いつもなら、この時間にハルカが帰り
「ミャン太、帰ったよー」
と言って、餌を拵えてくれる。
その日も、ハルカはドアを開き、ミャン太の顔を見るなり、笑顔を浮かべた…が、ハルカの穏やかな表情が歪んだかと思うと、悲鳴を上げた。そして、ハルカが倒れそうになりながら、部屋の中に入ってきた。それだけで、ミャン太は驚き、玄関から逃げ出した。物影に隠れハルカの様子を窺う。
知らない人間が、一人いた。
どうやら、ハルカが玄関を開けて、部屋に入ろうと瞬間、後ろから知らない人間が彼女を押し込み、そいつも部屋の中へ入ってきたようだ。ハルカは悲鳴を上げ、その人間を追い出そうとしたが、駄目だったらしい。
刃物を突き付けられ、抵抗しないように、と脅されたのである。
ハルカは椅子から離れられないよう、拘束されてしまった。流石のミャン太も、ハルカが危険な状態であると判断し、どうにかしなければならない、と考えた。まずは、ハルカに向かって鳴いてみた。だが、ハルカは震えながら涙を流すだけで、この異常事態を解決できないらしかった。
次は、侵入者である見知らぬ人間に向かって鳴いてみた。反応はない。ただ、ハルカの体に自由な部分がないか、念入りに確かめているようだ。何度も鳴いて、その人間に出て行くよう主張したが、無駄だった。仕方がないので、窓辺まで移動して、外に向かって鳴いた。
誰でも良いから、この状況を何とかしてくれ。そう主張したが、やはり無駄だった。ハルカの悲鳴が聞こえ、ミャン太は彼女と知らない人間がいる部屋まで戻った。何が起こっているのかは分からない。ハルカは知らない人間に、何かをされているらしく、苦悶の表情を浮かべながらも耐えていた。
ミャン太はハルカに害をもたらす人間が許せなかった。鳴いた。とにかく鳴いた。しかし、状況は何も変わらない。ハルカが酷い目に合い続ける。
「うるさい猫だ」
終いには、知らない人間にミャン太は拘束され、玄関から放り出されてしまう。五年ぶりの外だった。ミャン太は野良として生きていた頃を殆ど覚えていないが、とにかくこの五年に比べれば過酷だったことは覚えている。今更、外で生活などできるわけがなかった。ミャン太はドアの前で何度も鳴く。
ハルカに会わせろ。ハルカを出せ。ハルカに餌をもらわなければならない。ハルカと一緒に寝てやらねばならない。明日の朝にはハルカを見送るし、夜にはハルカを迎えなければならないのだ。何度も主張したが、やはりドアは開くことはなかった。
「やだ、野良猫かしら。しっ! しっ!」
また別の知らない人間が出てきて、ミャン太を追い払う。たぶん、ハルカが言っていた「隣のおばはん」という人間だ。おばはんに長い棒で突かれそうになったので、ミャン太はそこから逃げ出さなければならなかった。夜の道を歩く。車の音、風で揺れる叢、地面を這う虫。何もかも恐ろしかった。しかし、手を怪我したときのように、震えながら恐ろしい時間が過ぎるのを待つわけにはいかない。ハルカが危ないのである。
ミャン太は走った。ハルカを救うために。しかし、彼にはハルカを助ける方法など、何一つなかった。やがて、疲れ果て、走ることも、ままならなくなり、アスファルトに座り込む。すると、彼の視界いっぱいに強い光が広がった。車である。
次の瞬間、ミャン太は、悔しいという感情そのものになっていた。自分の体が大きければ、ハルカと同じ人間であれば、こんなことにはならなかった。ハルカと過ごした穏やかな時間を奪われることなく、彼女のもとから引き離されることもなかったのだ。
「可哀想に」
また人間の声が聞こえた。
「助けてあげましょう」
その人間が近付き、触れられたような気がする。薄れる意識の中、その人間を見ようとしたが、青い光が二つ見えただけだった。
それが誰だったのかは分からない。だが、少し離れたところから、ハルカと似た匂いを感じた。ミャン太は、走るということもできなかったが、そっちに行きたい、と願えば、そちらに引っ張られるようだった。そして、そのハルカと似た匂いを持つ人物…宮崎静流の中に入り込んだのであった。
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