第10話
今度も新藤が先に動いた。
新藤はタックルと見せかけて、低い状態から拳を放り投げるように振るった。タックルをフェイントとした、オーバーハンドパンチだ。
それは乱条の顎を捉え、彼女は何歩か後退させる。確かな手応え。新藤はここがチャンスだと追撃に出る。新藤の拳を放つ動きに、乱条は頭を守るようにガードを固めた。
だが、新藤は右ストレートを放つ動きを見せつつ、本命である右のミドルキックを放つ。乱条はガードが上がっていたため、それは確かに彼女の横腹に食い込んだ。さらに、新藤は右の拳で乱条に止めを刺そうとした。
新藤が拳を放つ瞬間、乱条の表情が目に入る。それは、少しも怯んだ様子はなく、何かを狙っている目だった。
カウンターが来る。
新藤と乱条の拳が交差する。乱条の拳は新藤の顎を的確に狙っていたが、何とか左腕でガードに成功した。
直前に乱条の表情に気付くことなく、ただ拳を放っていたら、直撃を免れなかっただろう。それでも、ダメージは大きく、新藤は二歩か三歩、力なく後ろに退いた。
ただ、乱条のダメージも相当である。彼女も新藤と同じように後ろに下がった。
「なるほど、やるじゃねぇか。お前を過小評価していたみたいだ。謝るよ」
「別に良いですよ。それより、この辺で痛み分け、ってことにしませんか?」
「駄目だ。あたしは死ぬほど負けず嫌いなんだ。特に喧嘩となったら、相手が膝を付いて降参するか、失神するまで終れねぇんだなぁ」
「終わる方法、それだけじゃありませんよ?」
「なんだって?」
「乱条さんが膝を付いて降参するか、失神してしまえば、終わりです」
平和的な解決を提示したような顔の新藤だったが、それは明らかな挑発であり、明らかな悪意、そして明らかに闘争に対して高揚を覚えているようだった。
「そんな洒落を言えるような男だとは…思ってなかったぜ」
「洒落じゃありませんよ」
「分かった分かった。お互い口でどうこう言っても、納得しねぇ大馬鹿ってことだ。どっちが地面に平伏すのか、目で見ないと納得しない、そういう人種なんだよな」
「そこまでは…言ってませんけど」
「それじゃあ、次の一発で終わらせてやるよ。あたしに向かって大口叩いたこと、地面にぶっ倒れてから、後悔するんだな」
「乱条さんこそ、よくそんな洒落が言えますねぇ」
穏やかに喋っているような乱条だったが、新藤の一言で、再び殺気に塗れる。それを受けた新藤の体も酷く緊張を感じた。乱条がゆっくりと間合いを詰め、新藤もそれに合わせて動いた。距離が詰まると、凄まじいスピードのミドルキックが飛んできた。新藤はガードを下げて、それを防ぐ。飛んでもない威力に、新藤の体が軋み、足がもつれそうになる。新藤が反撃すると、乱条は距離を取って、それに付き合おうとしなかった。
乱条はまたもゆっくりと距離を詰め、ミドルキックを放ってきた。同じように新藤は防ぎ、乱条が追撃の動きを見せたので、それに対応しようとしたが、やはり彼女は距離を取る。
慎重な動きだ、と新藤は思った。
何が目的なのか。
新藤の考えがまとまるよりも先に距離が詰まる。
再び放たれる乱条のミドルキック……と思われたが、新藤は恐ろしい一撃を見た。
それは、確かにミドルキックの軌道だった。新藤はガードを下げて、ボディを守ろうとしたが、乱条の蹴りの軌道が、途中で変化する。
それに気付いたときは、既に乱条の爪先が、新藤の側頭部を捉えていた。強烈な一撃は、新藤の視界を歪める。新藤はパニックになる気持ちを抑え、とにかく距離を取ろうとした。だが、乱条はそれを許さない。
パンチが飛んでくる。それはただの勘でしかなかったが、新藤は身を低くしつつ、不確かな意識の中、タックルで乱条を倒そうとしたが、許されなかった。乱条はしっかりとタックルを受け止め、倒されまいと腰を落とした。それでも、何とか腰に組み付くが、乱条に力尽くでそれを引き剥がされてしまう。新藤はもう一度、距離を取ろうとした。鼻先で風を切るような感覚。乱条のパンチが、寸前のところで振るわれたらしい。
新藤の意識が少しずつ戻ってくる。歪んだ視界も、何とか乱条の表情が分かるくらいに、はっきりとしてきた。乱条は、笑っていた。今の無意識の攻防、運が良かったから、捌き切れたが、少しでも何かが違っていたら、地面に倒れていただろう。そう思うと、新藤の体中から嫌な汗が吹き出した。そんな彼の気持ちを知ってか、乱条は言った。
「どうだ、あたしの必殺変則キックは。効いただろう?」
「……恐ろしい人ですね。でも、次は通用しませんよ」
強がってみせるが、新藤のダメージは抜けきっていない。乱条との攻防は二手三手先を読むような研ぎ澄まされた集中力と、正確な動作がなければ、瞬時に気を失うような一撃を受けることになる。次にどんな攻撃が来るかは分からないが、新藤はそれを捌き切る自信はなかった。
「良いねぇ。そういう風に言ってもらえると、打ちのめしてやったときの爽快感が増すんだよなぁ」
返す言葉が出てくるほど、新藤の意識はしっかりしていなかった。このままでは勝てない。だが、乱条を必ず引き止める、と如月に約束した。退くことはできなかった。しかし、そんな新藤に幸運がもたらされた。
「何をやっているんだ!」
と乱条の背後で声があった。
その声は新藤のものでなければ、乱条のものでもない。どうやら、警察らしい。喧嘩をしている、と誰かが通報したのか、それともたまたま巡回で通りかかったのか。
「ちっ、誰だよ…良いところだったのに」
乱条が振り返り、警察の方を確認している間に、新藤は踵を返し、全力疾走でその場を離れた。
「あ、てめぇ、逃げるのか!」
という乱条の声を背中に受けたが、新藤は振り返ることはない。とにかく、この場を離れ、まずは如月と合流することを優先したのだ。
それにしても、と新藤は思った。乱条はどう考えても、新藤が出会った中で最強の人間だった。単純なパワーだけなら、他にも強い人間はいたが、乱条のスピードと戦闘技術、直感のようなものは、圧倒的だ。新藤の異能をフルに使ったところで、勝てるとは限らないだろう。
それでも…次にやり合ったら、必ず勝たなければならない。乱条は如月にとっての脅威だ。そのような人間は、必ず自分の手で排除する。そのために、自分は存在しているのだから。
新藤は揺れる意識を保ちながら、とにかく走ることに集中した。
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