水底に落つ 02
「私は降りると言ったんだ。落ちるなんて言ってない」
「何が違うんだ?」
「何もかもが違う」
湖の水面の上に立つ少女の姿は、まるで人を水底へと誘う水妖のようにすら見える。重くなった上着を鬱陶しそうに脱ぎ捨てる彼女に、それを気にする様子はない。
ひとつに括られた漆黒の髪も、装飾らしい装飾のないワンピースも、ずぶ濡れになってぽたぽたと湖水を滴らせている。しかし、水に叩きつけられたはずのその白い肌には、怪我どころか痣一つなかった。
「人間は難しい生き物だ……」
「なるほどよく分かった。お前は腹の立つ生き物だ」
皮肉げにぼやきつつ、少女は顔に張り付く髪を掻き上げる。前髪から覗く目が陽光で輝く木々の新緑に染まった。彼女は溜息をつきつつ周囲を見回す。
今の時代、魔術士はお尋ね者だ。ほとんどの魔術士たちは素性を隠して生きている。自分たち以外に人の気配がないことを確認して、ユーアも肩の力を抜いた。
山脈のこちら側は、半日前までいた国とは別の国だ。騒ぎを起こした『黒竜の魔女』への追っ手が来るにしても、まだ時間がかかるだろう。
ユーアが振り向けば、件の『黒竜』は水に浸かったままじっと湖底を見つめている。彼女とよく似た色合いをした黒髪の青年は、少し前に旅の同行者になったワズだ。その正体は人外だが、そんなことよりもその世間知らずさの方がユーアにとっては重要であり深刻な問題だ。
「ユーア、人間は水の中にも住んでるのか?」
「……ああ、これは遺跡だ。昔の人間が作ったものだな。何らかの原因で水に沈んだんだろう」
湖底に目をやって答える。青く染め上げられた石造りの遺跡が、彼女の立つ水面の遥か下で静かに眠っていた。頭の中の知識と軽く照らし合わせ、かなり古い時代のものと判断してふと顔を上げた。
「この辺り、隠蔽の魔術が固定されてる」
「隠蔽?」
「魔術的に隠されているということだ。空から来たから影響を受けなかったんだろう」
だが、とユーアは口元に手を当てる。建てられて二百年は経っている遺跡に対して、隠蔽が施されたのはここ数年といったところだろう。誰が何の目的で置いたものなのか。水底を見つめて思案を巡らせていた彼女の顔に影がかかる。伏せていた視線を上げれば、昏い水底に似た色の双眸があった。
「これからどうする、ユーア?」
人ならざる生き物は、顔立ちに似合わない稚い仕草で首を傾げた。
***
「随分とのどかな村だ……」
点在する家と広がる畑を眺めて男はぽつりと呟いた。
舗装のない道を歩く彼の名前はケインという。歳は成人して数年といったところだろう。旅の剣士といった服装の男は、あまり身だしなみを気にしないのか僅かに無精髭が生えており、その服は所々が泥で汚れていた。
「ん? にいちゃん見ねぇ顔だな」
ケインがきょろきょろと声の主を探せば、簡素な柵で区切られた畑の奥に老人が屈みこんでいた。柵の手前までやってきたケインは軽く頭を下げる。
「勝手に村に入ってしまってすまない。僕は旅をしている者なんだが、ここに宿はあるかい?」
「おおあるぜ。案内してやっから待ってろ」
あーよっこらせ、と老人は腰に手を当てて立ち上がる。
「おーい、ワズ。このにいちゃんを宿まで案内してやんな」
老人が声を張れば、ややあって畑の奥の家から青年が出てきた。何度も何度も染め直したような、真っ暗な髪色はこの辺りでは珍しい。似てはいないが、歳を考えるに孫だろうか。
畝を跳び越えつつやってくる青年は、なぜか真っ二つに割れた皿を持っている。その手から取り上げるように皿を受け取り、老人は近くの荷車を指さした。
「あとそこの野菜も宿に届けてくれ。一袋だぞ。一袋でいいからな」
「わかった。行くぞ」
「よろしく頼むよ」
危なげなく袋を抱え上げた青年に促され、ケインは再び歩き出した。
***
「あらワズ、また村の人たちに可愛がられてきたの?」
「かわい……?」
宿に行くまでで荷物が三倍になった青年は、怪訝そうに首を傾げる。女主人は笑いつつ奥から出てくる。髪は幾分か白くなっているが、太陽のように明るく快活な印象を受ける女性だ。ワズの持ってきた野菜を確認していたところで、彼女は後ろにいるケインに気づいて目を丸くする。
「この髭の兄さんはあんたの知り合い?」
「そうだ」
「い、いやさっき会ったばかりだろう?」
当然のように即答した青年の言葉を訂正すれば、不思議そうな顔を向けられた。
「さっき会ったんだから知り合いじゃないのか?」
「彼女が聞いているのはそういうことじゃ……そういうことなのか?」
もしやこの村特有の文脈なのだろうか、と女主人を見る。子供の遊びでも見るかのようにほのぼのと傍観していた彼女は、青年に荷物を置いてくるように言ってからケインに向き直った。
「悪いね。ちょっとばかり不思議な子なんだ。それであんた、泊まりのお客さんだね?」
「ああ、一泊で」
「はいよ。それにしても、最近はお客さんが多いね」
渡された宿帳にサインを書いて、彼は顔を上げた。
「他にも客が来てるのか?」
「ワズはここに泊まってるよ」
「……あまりにも馴染んでいたからここの村人だと思った」
宿帳を受け取りながら、女主人はけらけらと笑う。
「あの子は連れの用事が終わるまで、ここで手伝いをしてるのさ。何でもよく食べるし力仕事もできるから、孫みたいに可愛がられててね。ほら、この村は老人ばかりだから」
「ああ……それで」
ここに来るまでの騒ぎを思い出して、苦笑いが洩れる。
「彼の連れはどこに?」
「森の湖に遺跡を調べに行った」
いつの間にか戻ってきていた青年が口を挟んだ。息を呑んで固まったケインを不思議そうに観察しながら、ワズは片付けが終わったことを報告した。唯一ここの村人である女主人が、腕を組んで首を傾げる。
「あたしは遺跡なんてないと思うけどねぇ……元々、あの森は村の人でもほんの浅いところまでしか入らないのさ。何せ、危ないからね」
肩を竦めて彼女は窓の外を見た。いつの間にか既に日はとっぷりと暮れている。少し離れたところの家から灯りが洩れていた。
「さて、と。そろそろ夕飯の準備をしなきゃ。髭の兄さんの部屋は階段を上って左奥ね。ワズ、荷物を部屋に運ぶのを手伝ってあげな」
必要なことだけを言って女主人が奥に引っ込むと、静寂が訪れる。
「……君に頼みがある」
「なんだ?」
「――その湖まで、僕を案内してくれないだろうか」
***
彼女の存在を最初に知ったのは、王城に入って日の浅いころの話だった。中庭を歩いていた彼は、ふと視線を感じて上を見上げ、露台に立つ人物を見つける。
その顔は逆光になり見えない。だが、きっと身分の高い人間に違いない。別に彼を見ているわけではなく、単に外を眺めているだけなのだろう。そう納得して、彼は仕事に戻る。
後に、そこがこの国の『魔女』の住まう所であることを同僚に聞き、彼はよく見なかったことを少しばかり後悔した。
無関心と、多少の好奇心。彼が『魔女』に向ける思いなどその程度だった。その感情が全く別のものに変わるなど、その頃の彼に知る由もなかった。
***
ワズを借りたいと言えば、女主人は呆れ顔をしつつ了承してくれた。
「――すまない、少し休憩を入れてもいいかい?」
「疲れたなら抱えていくか?」
「……厚意だけ受け取っておくよ」
手近な石の上に腰掛け、ケインは大きく息を吐く。
早朝から森を歩き続け、既に日は高く昇っている。人間離れした速さで進もうとしたワズに、こちらのペースに合わせてもらって何とか進んでいる状態だった。この青年は森の先住民族か何かなのだろうか。人が足を踏み入れることのない深い深い森の中は障害物だらけで、あくまで常人の彼にとっては辛い道程だ。
「君の連れ……ユーアといったか。どんな子なんだい?」
「夜は寝るぞ」
「それは大抵の人に当てはまるよ」
「あとおれよりも小さいぞ」
「それも大抵の人に当てはまるよ。僕も君よりは背が低いし」
「あと毛色が黒くて長い」
「……人間だよね?」
「人間だぞ」
なるほど、と頷いてケインは頭の中の想像を捨て去った。宿でも思ったことだが、この青年はかなりの変人のようだ。話せば話すほどに、人間として決定的なところが抜けている気がする。一体どんな環境で育ったらこうなるのだろうか。
「よし、そろそろ行こう。のんびりしていて日が暮れても困るよ」
「ケインは何で湖に行きたい?」
「ああ……言ってなかったね。案内を頼んだ以上、ちゃんと言っておくべきだった」
立ち上がって服の汚れを払い、彼は答えた。
「――実は、僕は『魔女』を探してるんだ」
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