G A L A D A
@SERUKA
第一章 第一話 「結晶の朝」
戦時記録――ガリアスク北区、廃工場跡。季節は既に「春」と呼べるほどの色を取り戻していたが、空気はまだ金属の味を含んでいた。
人々は息をするたびに小さな痛みを確かめるように呼吸した。そこでは通貨「セル」がないことが、すなわち死を意味した。
セルはただの通貨ではない。セルは目に見えるエネルギー「アークタリス」だった。青白い核を持つ結晶片が、唾液と熱で溶け、ミュータントの血管の中に小さな雷鳴を落とす。体に蓄えられたアークタリスは筋肉を張らせ、思考を鋭くし、傷を縫い合わせる。逆に失えば、身体は紙に描かれた影のように薄く、輪郭を失っていく。
「ジャン!」
誰かが叫び、鉄板の上で痩せた拳が震えた。ミュータントの若い男が、膝から崩れ落ちる。皮膚は蝋のように青白く、肺音は砂嵐のように細かく擦れていた。側に居合わせた女が、震える手で小さな結晶を差し出したが一向に良くならない。眼だけがまだ人間の火を残していた。
そのときだった。空気がひとつ歪んだ。金属と海水と古い機械油が混ざった匂いが、まるで素朴な聖香のように瞬間だけ濃くなる。人々は一斉に顔を上げた。遠くから来たのではない。彼はそこにいた。司令部の闇に沈む王が、廃工場の朝にも来た。
王は人前に出ることを好まなかった。それが常識だった。だが今日、結晶は彼を許した。彼の周囲に常時浮遊するアークタリスの結晶群が、薄い光の輪を作り、触手のように蠢きながら彼の体躯をなぞる。結晶はぴくりと反応し、まるで生きた言葉のように拍動した。
王は粗暴な口調で言った。言葉は短く、粗く、しかしどの音にも重みがあった。
「喰え。」
彼は片手を差し出した。掌の上で結晶が集まり、増殖する。光は冷たく、触れると唇の裏側を凍らせるような感覚があった。彼は一つずつ、ここに居る者の口に置いていく。躊躇う者には強引に。結晶が口腔に触れると、その表面が一瞬だけ曇り、次の瞬間には血に溶け込む。呼吸が戻り、指先が痙攣し、瞳がまた濃くなる。
ミュータントの男の胸は、まるで誰かが綱を緩めたかのように波打った。彼は荒い息を吐きながら、王の顔を見上げた。その視線は恐れと崇拝が混じったものだった。男は囁くように言った。
「王……俺は、まだ、『型』って呼ばれていた頃を覚えているんだ。──地獄を。」
王の短い笑い声が廃工場に落ちた。結晶の間から彼の目だけが見えた。目は結晶の光を映す水面のように冷たく、そこに確かな熱が潜んでいた。
「我々は既に変わった、強くなった。あんな記憶は捨てろ。また笑って暮らす為に。」
彼の声は簡潔で、残酷なほど実利的だった。けれども、その言葉の端に、何か古い約束が含まれていることを群衆は感じ取った。彼が与えたのは単なるエネルギーではない。与えられた瞬間に、与えられた者は王と世界を結ぶ微かな契約を交わす――生を与えられた代わりに、王の名が胸に刻まれるような、そんな感覚だった。
一人の年老いたミュータントが、冷たい床に這い蹲っていた。彼は王に目を向け、かすれた声で言った。
「王よ……どうか救いを……」
王は答えなかった。ただ、反射的に、一片の結晶をその老人の掌に滑り込ませた。すると老人の体がゆっくりと織り直されるように震え、唸り声のようなものを漏らした。彼の口から出た言葉は、祈りにも呪いにも聞こえた。
「救い……あれは救いか、支配か……」
群衆の中には、疑念の影を滲ませる者もいた。セルをばら撒く行為は慈悲に見えて、同時に選別だった。誰に与え、誰を見捨てるか――その取捨選択が、王という存在の政治そのものだった。王は与えることで支配の種を蒔き、与えないことで恐怖を養う。だがそのやり方は、無秩序の中に秩序を作るだけの圧倒的な力を示していた。人々は恐れと安心の混ざった新しい崇拝を覚えた。
王は立ち上がり、群衆を見渡した。彼の体の周囲で結晶が言葉を編むように振る舞い、過去の断片を映像のように揺らめかせた。彼の眼には、あの夜の断続的な幻が何度も浮かぶ――黒い研究室の光、冷たい手袋、そして不可解な信号。彼は「目覚め」を引き起こした張本人でありながら、なぜそれが起きたのかを探している者でもあった。
その時、誰かが駆けてきた。足は泥に焼き付くように速く、顔は血色を失っていた。伝令だ。息を切らし、彼は王の足元でひざまずく。
「陛下! 北方偵察隊より。シンテックの動き、熱源反応、機械起動の兆候を確認しました。無人偵察艇が捕捉しました。――やつらが、動いています。」
群衆のざわめきが一瞬にして鋭くなった。王の周りの結晶が、色を深める。彼の顔が変わった。慈悲を与える司祭の顔は消え、戦場の指揮官の顔が現れる。興奮と怒り、計算と古傷の痛み。それらが複雑に混じり合い、彼の輪郭を硬くした。
王は一言、命じた。
「連いてこい。司令部へ戻る。情報をまとめろ。やつらの歯車を砕くぞ。」
そして彼は、結晶の渦を引き連れて歩き始めた。群衆の前から去るその背中は、古い神話に出てくる「去っていく神」のようでもあり、戦記に書かれる「前線へ戻る司令官」のそれでもあった。人々は跪き、呟き、祈り、そしてまた恐れた。セルを与えられた者は、生きながらも新たな疑心を背負っている。
王が去ると、廃工場に残された空気は元の冷たさを取り戻した。口に残るセルの暖かさだけが、新たな心臓の鼓動を確かめさせる。結晶はゆっくりとその場に残り、地面の隙間に小さな光の絨毯を広げた。
そこには、救いと契約と死の匂いが混ざっていた。
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