満員電車のホラー:私はきわどく回避した!(『満員電車の危機一髪』より改題)

文鳥亮

私はきわどく回避した!

 遠い昔、私がまだ満員電車というものに乗っていた頃の恐ろしい出来事である。


   * * *


 その日の山手やまのて線も猛烈に混んでいた。立錐の余地もないどころか、人間のかたまりがそのまま車内に詰まった状態だ。もちろん身動きすらほとんど取れなかった。


――多分電車が加速するときのことである。


 人のかたまりがグーっと後方に傾いた。

 私の体も後方に傾いたが、右足のつま先を踏まれていた。「あっ」と思う間もなく、私の右足はスポンと(音をたてたかは分からないが)靴から抜け出した。

 要するに私は、満員電車の中で片方が裸足はだしになってしまったのだ。

 その右足は空中に浮いていた。


 これは大変なことになったと私は真っ青になった。


 しかし私もみんなも後方に傾いたままだ。この大混雑の中では、脱げた靴がどこかに蹴り飛ばされたら回収は極めて困難である。いや、そもそも人の足の下で靴を探すなど不可能だ。

 なんとなれば、満員電車は一種の戦いであり、乗り降りするだけでも必死なのだ。


 かくて、私の顔に愕然の二文字が貼りついた。蒸し暑い車内で寒気すら感じた。


 私の選択肢は限られた。ここは大声を出して周りの人に窮状を訴えるしかない。私は、体が傾いたまま覚悟を決めて息を吸い込んだ。


 ところが神の御業みわざだろうか。その瞬間に加速が止まり、今度は人のかたまりがドーっと前に傾いた。

(しめた!)

 脱げた右足で私は素早く靴のありかを探った。


 おおお! 踏まれたまま元の位置にあるではないか!


 体勢を巧みに利用し、私は右足を元の靴の中にスポンと収めることができた。さらには、踏まれたつま先を引き抜くことまで成功した。

 なんたる幸運! 

 大変な災難を無傷で回避できたのだ。そのときの安堵感といったら想像もできないだろう。


 私はひそかに神に感謝した。


 と、クスクスかすかな笑い声が聞える。

 なんとしたことか! 一部始終を斜め横にいたJKに目撃されていたのだ。私の表情の変化まで含めた全てを。


 目が合って私は照れ笑いをしてみせた。しかしそこまでだった。

 そんなときに、その子と仲良くなれる才覚があったらなあと、今にして思うのだが‥‥‥

 まあ、それはどうでもよい。惨劇を回避できたことが何よりも重要なのだ。おかげで裸足のまま歩かずに済んだのだから。



 満員電車のホラー。

 これは明日にでもあなたに起こることかもしれない。



   — 了 —

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