第二十八章 さようなら

 文が出て行って、五週間ほどが経過した。頻繁に連絡を取り合っていたし、思ったよりは寂しくなかった。仕事も続けることができていて、将来性という単語に振り回せることは無かったが、どうしても、その単語を、自信を持って言うことはできなかった。病気もあり、それに伴う暗黒の心もあり、その点の変化はまだまだ時間が必要だった。だが、最近、良い夢を見る。漠然としているが、ソファでゆったりと文とカフェオレを飲む夢だ。それ以上のことはなく、特にメッセージ性もないのだが、一種の幸福感というものは、夢の中だけで覚えることはできていた。だから何だという話だが。

 しかし、急な変化が訪れることになる。それは余りにも無情で、希望を跡形もなく粉砕するようなことで、恐れていた事態でもあった。発端は深夜の十二時頃、僕は完全に眠っていた。その時に、電話が掛かってきた。文からだった。

「もしもし?起きてる?」

 第一声は文だった。起きているわけもない。こんな時間に、いつもより落ち着き払った口調だったので、一層不気味だった。

「今、起きた。どうしたって言うの?こんな時間に。」

 何か問題が起きたというのが、一番早くに出た予想だった。だが、緊急性も無さそうだったのだ。

「本当にごめんね、別れ話、したくて…。」

 その言葉を聞いた瞬間、心臓が止まりそうだった。いつかこんな日が来るかもしれないが、唐突過ぎる。思い当たる節もなかった。

「待ってよ…なんで?嫌いになっちゃった?」

 彼女が離れたいと言うのなら、食い下がりたくはなかったが、そう易々とは諦められないし、何より心配だ。

「その逆、心の底から愛してるの。でもね、幸せだって、思えない。」

 それは僕も同じだった。いや、むしろ僕の方が、幸福を身に染みて感じるべきだった。ただ

「理由になってないよ。」

 納得させてくれることではない。話の接点が見えてこない。ヒントは今までにあったのに。

「こんなに愛してるのに、幸福になれなかったの。死ぬほど辛くて、それを支えてくれるのに、何も…。あのね、包み隠さずに言うね。私、これから死のうと思うの。愛してるから、関係性保ったまま死にたくなくて。考弥が他の道を行けない鎖になっちゃうから。」

 死ぬ、死にたい。と文は言い続けてきた。その気はないのかも。なんて、僕は心のどこかで考えていただろうか。いや、そんなことはない。文の目の奥を僕は見てきたし、その人生に降りかかるものが全て灰になっているとも知った。だが、実際にそうすると聞いたとき、あらゆる感情が犇めき合った。文はこのために、僕をあの場所へと連れて行き、死ぬことを止めない理由を僕に植え付けたのか。

「お願い。止めてくれ。これからそっちに行く。文を失ったら僕は…。」

 同じことだ。同じこと。理由は違うが、僕がそうされたように、文を止めようとした。それが彼女の望むこと。知っていた。分かっていた。だとしても、そっか。なんか言えるものか。

「分かってる。分かってるの。私が必要だってこと。でも、もう限界。考弥は全く悪くないよ?何も出来なかったなんて言わないで?救われたんだよ、私は。ごめんね、私が何もできなくて。最高だったよ。さようなら。」

 文はそれだけ言うと、一方的に電話を切ってしまった。もっと多くの事を語りたかった。もっと、一緒に居たかった。短すぎるよ。だが、もう少ししたら、全てが良くなるとは言えなかった。文の絶望の色を知ってしまっていた。僕はそれでも、文を失いたくない。もっと他の幸せを見つけて欲しいという思いが止めどなく押し寄せ、この上ない苦悶に、強い吐き気を覚えた。

 行動を起こすころには終電は過ぎていた。これからあっちに行くと言ったが、二、三時間は掛かるし、やれることは無かった。電話を掛けたが応答はなかった。僕は足が震える程の焦燥感に蝕まれていた。移動手段はタクシーくらいしかなく、それを呼ぶことにした。始発まで待つなんて馬鹿な真似はできない。かなり遠くにあるが、緊急だと言う事で了承してくれた。

 それが一時半くらい。それからずっと車内で落ち着きを見せず、時折文に電話したが、出ることは決してなかった。そして、午前三時くらいに、山野から電話が掛かってきた。

「考弥君?文から、変なメッセージがあって…。心配だったから…それで、それで。文が!文が!」

 山野は相当狼狽しており、息ができないかのように言葉を続けた。言葉からの情報は少なかった。僕はその緊迫感を感じ取り、起きてはいけないことが起こったと悟った。

「山野?大丈夫?何があったの?」 

 電話越しに山野の喘息のような息遣いと、泣き声が消えてくる。

「大丈夫じゃないよ!文が、死んじゃった…。電車に飛び込んで。スマホのメッセージに気づいて、心配だったから、家飛び出したら、近所で問題が発生してて、それで…。」

 その現実を受け入れられるわけがなかった。こんな事をするために、文は僕の元を離れたのか。しかし、それでは矛盾点があった。山野にだって、温情はあるはずで、わざわざそこに行くとは考えられなかったからだ。

「そうは言うけど、それが文だって確証はあるの?」

 僕はそれもあり、他の可能性を考慮した。今もどこかですすり泣いているかもしれないじゃないか。

「おえ…。死体は判別できないような状態だったけど、文だよ。身に着けてた物も、カバンとかも、文の。」

 山野は嗚咽し、言葉を絞り出した。こんな結末があって良いものか。文は肉塊になって、この世を去った。その美しささえも、呪いで、残してはいけなかったものみたいに。何かの間違いであってほしかった。文のために生きてきたんだ。生きてこられたんだ。どうして、死のうとしたあの日よりも、深い絶望の中に行かなくちゃいけないんだ。文の言葉はそういう意味だったのか。どうして彼女と出会って、幸せになれるかもなんて欠片でも思ってしまったのだ。文と歩んでいき、改善していくなら、幸福だっただろう。しかし、文に決して消えない傷と過去があり、その幸福が彼女には無いから、どうなったって、僕らは幸福になれなかったのだ。理不尽が過ぎるではないか。だったら何か?僕が幸福になるためには、彼女と言う存在を手放して、忘れて、他の女性と煌びやかな道を歩んだら良かったのか?そんなわけがないだろう。果たして、彼女が救われる道と言うのは本当に無かったのか。その答えは文からも、天からも届くわけがなかった。

 僕が到着した時には、日も開けていないと言うのに、事故の近辺はごった返しになり、警察も動いていそうなので関与できない状態になっていた。野次馬共から逸れた道なりに、山野は居た。ずっと膝から崩れて泣いており、僕の接近にも気づく様子はなかった。

「山野、ホントに死んでしまったんだね。文は。」

 僕は傍まで行って、上から話しかけた。この様子を見たら、現実だという事を理解するしかなかった。山野は死体を見てしまったのだ。それでもこの世に居ないという実感が持ち切れない。

「あああ。文、文。文、文。」

 僕の存在に気づくと、山野は僕に縋りつき、枯れぬ涙を流し続け、壊れたように彼女の名前を何度も言った。撫でてやることも、一緒になって座り込み、泣いてやることもできなかった。僕はただ、何よりも恐れていた空虚に立ちつくし、山野を放っておくことしかできなかった。僕に何ができた?何もしなかった?考えることはそのくらい。何も、もう。何も残ってはいなかった。

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