第二十七章 これまで
問題が解決したからか、腐りきっていなかったのか、僕は再び前進の道を選んでおり、惰性ながらも、就活を続けていた。活力が湧かず、鬱も依然としてあると言うのは問題だが、きっと、何もしないことで、それが別れる理由になるのが嫌だったのだろう。文に関しては、比較的落ち着いていて、飯島の行方が分からなくなったことで、家に帰ることもできるようになっていた。それからは僕の家を行き来し、恥ずかしながら面倒も見てくれていた。どこかでバイトを始めたらしく、家に居る時間がそう長かったわけでもない。バイトに接客業は避けたらしく、彼女も自分の容姿が原因でトラブルが生み出されることは把握していたためである。
夏も終わり、九月の末頃、僕に好機が訪れた。
「え?採用ですか。ええ、では来週から宜しくお願いします。」
あまり誇れるようなことではないが、街の製紙工場で正規雇用されることとなった。粗末な履歴書の内容がありながらも請け負ってくれて、入ることができたのだ。最も、面接などは当然あったものの、こんなにパッと希望が通ったので、倍率に関してはお察しだ。どこか一歩、また踏み出せた気がして嬉しかった。だが、心の奥底の濁りは残ったままなので、一件落着。と言うような気分でもなかった。
「おめでと。良かったじゃん。そっか、来週から。じゃあさ、来週末、デートしない?記念って言うと変だけど。」
文に報告したら、素直に褒めてくれた。デートと言うデートも、遊園地以来は行っていなかったため、嬉しい提案だった。文は僕と違って心境変化があったのかな。傾向を考慮するなら、ないと考えた方が良いかもしれない。
「いいね。場所は?」
これからは忙しくなるし、暫くは遠出とかもできないだろう。その時は、日本の自然遺産なんかを拝見しに行きたいものだ。
「私が決めて良い?場所は…」
それからは、デートの待ち合わせ場所と時間を決めて、後は文に委ねることにした。彼女にも考えがあるらしかった。長いデートにしようとだけ言われた。
週末までは忙しかった。仕事が始まり、かなり単調な作業が業務なので、楽と言えば楽だったが、覚えることも多く、それなりに専門知識も必要とするため、それによる疲労感が大きかったのだ。病気の問題に関しても、ある程度は理解がある所で、その点は恵まれていたと言える。その週を通っていた感じだが、続けられそうであった。続けられれば、と言う不安はあったが。
週末が来た。僕は言われた通りの時刻、丁度昼時に待ち合わせ場所へと向かった。その道を歩いていると、なんとあの時と同じ服で、あのベンチに座っていた。
「これってわざと…だよね?ここを選ぶなんて粋だよ。」
言わなくても分かるが、文が選んだのは僕らが出会った場所だった。僕がそう言い、文の前まで来ると、文は立ち上がり
「少し歩かない?」
と冗談交じりに言った。これをするためだけにここを選んだのか。
「君が良いなら。」
僕もそれをあの時と同じ言葉で返した。あの頃と何も変わっていない。いや、まだそんなことを言う時期でもないか。僕は文に連れられて歩いた。
「今日はさ、今まで行ったとこに行きたくて。中華。まずはあれが良かったから、ここにした。勿論、ここも。」
節目だからそうしたのか、やはり心情変化があったかなのかは分からない。でも、その思い出に浸る行為は悪いことでは無いと思うし、悪い流れとも考え難かった。
そういうわけで、僕らは街角まで行き、例の中華料理店に入った。問題なくやっており、一年で変わるような所もなかった。バイトの店員くらいか。
「レバニラを頼むの?」
メニューを開いたが、僕はレバニラが食べたかったのでその必要はなかった。今の文もそのつもりだろうが一応聞いた。
「完全再現をしたいわけじゃないよ?でもレバニラにしようと思ってる。」
奇しくも、という言葉が適切かは分からないが、僕らはあの日と同じくレバニラを頼んだ。
「連絡先聞いたの、ここだったね。あの後、文から連絡してきて、結構気に入ってるって言ってたけど、多分、本音じゃないよね?」
料理も届き、軽い雑談も通だったが、僕は思い切ったことを聞いた。どうでも良かったって言われたんだ。その時の心境を知りたかった。
「えー。覚えてるんだ。緊張のあまり忘れてるものかと。まあ、ぶっちゃけ本音じゃないよ。どんな反応するか確認した。半分やけくそ。」
ああ、だからか。文はそれで僕を誘惑し、自分を陥れようとしたのだ。思い出せば、自分が酷い奴だったと思うと鳥肌が立つ。文はそんな危ない橋を、これ以上苦しみたくはないと心で思っていながら渡ったのだ。常人の神経ではなく、胸糞の悪い感覚が頭の中を走るのが分かった。
「ちょっと戻るんだけど、あの死線って何なの?」
僕はその感覚を無かったことにし、別の質問をした。これも、ずっと片隅にあるもので、印象深かった。
「死線は死線。私、人が死ぬところ数回見てるから、何か雰囲気で分かったの。必ず的中するわけじゃないけどね。」
文はサラっと流すように答えた。その経験については深く言及すべきではないな。僕はそっか。と短く返し、日常会話へ移っていった。
その後、街をぶらぶらと歩いていった。クリスマスに歩いた商店街や、山野と会ったファミレスなどだ。その全てに入ったり、顔を出したりわけでもなく、行った所も限られているが、街中を歩きまわることは出来た。事情故に僕の家に呼ぶことも多かったな。だから、遊園地に行こうなんて言ったんだけど。
歩き疲れ、一周回ってきて、僕の家で夜まで待機しようと言うことになった。ここまで来れば、言わずもがな、文はバーに行く気なのだ。家の中ではデートらしいデートではなく、いつも通り各々が好きな事をする時間が多かった。その中で、ゲームもしたし、お茶もしたし、カードゲームなんかもした。男の趣味に文は意外にも付き合いは良く、それなりに楽しんでくれていた。
「そろそろ、行こうか。」
夕食を済ませ、時刻も八時前になったため、文が切り出した。電車に乗り、あの高い建物へと向かって行った。この辺りは僕が住んでいる場所よりもギラギラとしており、いつ見ても、文が似つかわしいとなぜか思ってしまう。
「オシャレな名前だよね。」
そう、ここだ。星のカクテル。こんな小粋な名前を付けるとき、恥ずかしくは無かったのだろうか。そう見ると、店の名前は面白いものがある。
「ね。私も最初、名前に惹かれたの。」
僕らはその上階へと、エレベーターで登って行った。今は階表示をじっと見続けず、文と自然に会話ができていた。
「やっぱり、バイオレットフィズ?」
僕には、これを飲みに来たと言っても過言ではない。一度、ネット通販でこれのリキュールを買ってみたが、全く味も違い、見る影もなく落胆したことがあった。
「最後はね。今日も二、三、飲むし、適当なやつから。」
文は最初から決めていたのかと思う速さで、直感的にメニューを指さして注文した。僕も適当に、取り繕うことなく好みに当たるものをマスターに聞いて頼んだ。
そういえば、僕はあの時、文が好きになった理由を正直に思った。息を飲むほど美しくて、その外見に惚れたからだと。一年で、文の内面を数多く見てきた。魅力的だな、と思う部分も勿論あった。しかし、あの頃に置いてきた、文が綺麗でなかった時の仮定を再び問われれば、きっと僕は同じ答えを出してしまうだろう。内面だけでは捌ききれない、渇望させるものがあったから。そうだな、今も距離感を感じている部分はあるし。
「あの時、手、握って見つめ合ったけど、酔ってたの?」
考えに少し耽り、グラスを呷っていると、文から質問が来た。たまにからかっているのかと思ってもおかしくない聞き方をする。
「自分でも不思議だった。でも、酔っては無かったと思う。変にロマンチックになっちゃったなあ。とは思ったけどね。」
鮮明に、という程でもないが覚えていた。積極的な自分が居るというのは、文だからなのか、そういう自分が実はいたからなのか、その真偽は定まってはいない。
「一周回ってあんなことする人、あんまり居なかったからさ、内心びっくりしてた。」
文は大きなガラス窓から見える、人工的な星々を眺めるため、僕から目を逸らしながら言った。僕もそれに釣られて、見目麗しい女性を着飾る、その風景を目に入れた。
最後には思い出の味を口にし、僕らはここを出た。また、文の居ない時もここに来たい。その時はまた、同じものを頼もう。バーでは思い出話だけではなく、談笑もしていたため、出た時には十時頃で、僕らの街に着いた頃には半を回っていた。
「最後ね、今日、一番行きたかったとこ。着いてきて。」
文は駅を出ると、振り返って言い出した。まさかとは思うけど。僕は思ったが、何も言わずに付いていった。
本来、立ち入ってはいけない場所。そのマンションの階段を文の後ろにくっついていった。そのまさかだ。僕が死のうとした場所。流石に今までの場所とは重さも違い、優れた気分ではなかった。これまでの場所を巡って来たのは優雅だと思えたが、ちょっと非常識だ。と、不服な自分も居た。だが、僕は文がここに一番来たかった理由を知らず、えも言われぬ感情になることになる。
「ごめんね、でも来たくて。ここじゃなきゃ言えないこともあると思う。」
フェンスの前で止まり、また振り返った。ごめんね。と言われ、僕は少し和んだ。文も考えなしに来たわけではないと知ったからだ。
「それで?文がここに来たかった理由は?」
僕は小さく息を吐き、ひとまず負の感情を飛ばした。話し合うというなら、僕らのこれまでを辿ったら、最適な場所にも思えてきた。
「変な話、私が死のうとしてるところ止めたこと、怒ってる?」
文はフェンスに凭れて座り、横を手で叩いた。僕は隣に行き、そのまま座ってから答えた。
「…変だな。そんなわけないって言いたいけど、言い切れない。」
そんなわけが。と直感では思ったが、よくよく考えてみると、難解だと気づいた。僕は本当に死にたいと思っていたわけだし、死ねなかったことを後悔した日々もあった。こうして文と一緒に居られて、心を保ってくれているけど、それでも、抑えがたい感情に今でもなるのだ。死を望んでいるという自分は未だに否定できない。文はその機会を奪ったとも取れる。偏屈な考え方だと人々は言うだろう。ただ、一度実際に命を絶つことに臨んだ者にとって、その勇気と覚悟を得るには幾ばくかの何かしら、こればかりは言葉にできないが、それが必要で、今、生きていけてるから良いではないかと言うような、屈託のない捉え方はできないのだ。
「私、悪いことしたって、ずっと考えてるの。それを謝りたくて。普通、命を助けたんだから、感謝すべきだってなるでしょ?でも、あの気持ちが嫌程分かるから、そうすべきじゃなかったのかもと思う。命を粗末にするような発言はしたくない。だけど、希望も無くて、死ぬことを本気で望む人に、死んでもいいよって教えてあげるのって、悪いことじゃないと思うの。私おかしいのかな…。だから、だからね、私と言う存在が考弥を支えてるのは分かってるよ?だとしても、考弥の生きる希望を引っ掻きまわしたことだけは、申し訳ないと思うの。」
そう、僕は生きる意味を見出してしまった。それは本来、喜ばしいことで、何を悲劇の中に居る自分に酔ってるんだなんて言葉が似合うことだけど、心の奥底から、その生きる意味と言うのにウンザリしていたのだ。文と言う存在を呪いはしないが、心を引っ搔きまわしたのは、事実だと思った。
「逆に、なんで止めようと思ったの?それも、一緒に死ねるから?それとも、あの言葉の通り、分かり合えると思ってたから?」
聞きたいことは多かった。あんな偶然起こりえるのか、とか、文も死のうとしていたのか、とか。でもそんな質問は置いておくことにした。
「それもあったよ、確かに。私、今日、人が死ぬところ見てきたって言ったでしょ?でも、自殺する人を見るのは初めてだった。なんか、自分を見てるようで、怖くなったの。こんな風に見えるんだって。怖かったのは、落ちて、いっぱいぶちまけることがじゃない。何か、本当にやり残したこととかないのかなって、思ったの。自分ももしかしたら死ぬ瞬間に有象無象を後悔するかもって。だけど、怖かっただけ。錯覚だった。だったから、ごめんなさいって思い続けたの。」
僕はこれを聞いて、表現が難しい心情になったのだ。今も尚、将来に対して輝かしい希望を背負っていたわけじゃないから、真理を突かれているような気分になった。僕の事が好きだったなんて、そんなわけでもないのに、自分のエゴのために引き止めたから、こう思っているのだろう。救いたい、まだチャンスがあるから、という事を伝えたいといった希望的観測ではなかったのだ。落胆はしなかった。既に知っていることだし。しかし、文の自殺衝動は、芯から曲がっていないことに、多大なる懸念が生まれた。この先が明るいなどとは思いもしないが、文には死んでほしくはないのだ。こんな風に考えると、これは僕のエゴだと分かり、文の言葉が裏を取り始めてきた。彼女が死ぬことを望むなら、それを許すべきなのだろうか。それは自分の都合だけでなく、やはり倫理的に問題があるように思えた。僕は、自分でも納得できる話をされてしまったために、反論の言葉が口から出ることはなかった。
「分かった。でも、後悔はしないで。僕は、文が大好きなんだ。君じゃなきゃ、恨んでたね。」
僕の心底、それは今も同じだ。文が魅力的だと思えなかったら、僕は飛び降りていたかもしれないし、そうしなくてもより苦しいことになっていただろう。人間とは不平等だ。僕がずっと前に考えた、文は美しいから愛されるというのは事実でもあった。文自身は愛を注がれてこなかったけど、容姿が優れているだけで得をするということはしばしば起こる事なのだ。生まれ持ったもので、どうしようもないのに、それと一生付き合わなくてはならない。ただ、それが過酷な人生にしかねないという事を知ったのは、成長とも言えた。その上で、人間には不平等で、可視化できない選別と言う残虐性があると考える。
「了解、後悔しないようにする。後、言う事がまだあるの。」
文は手を組み、改まった。今までのが、それを言う布石なのかは、僕には分からなかった。
「何?」
なんだか今までの帰趨で、良い話では無いと解った。突発的にとんでも無いことを聞かされるかもしれない。内では覚悟していた。
「私、ここを出るの。仕事の関係で。ちょうどすみれの住んでる街なんだ。でも、考弥が心配でさ、大丈夫かなって、思ってて。」
ちょっと嫌だったけど、そこまでショックは大きくなかった。疎遠になるのは辛いけど、山野の傍に行くと思えば安心できた。
「そっか。行ってらっしゃい。でも、そこそこの頻度では会ってほしいな。」
やはり、文が居ない生活というのはとても辛かった。でも、これこそ引き止めるような話でもなかったし、会えるというのなら何時間かけても会いたいと思ったのだ。
「数週間は無理かも。電話でも良かったら。」
文も忙しいのだろう。そんな動きを見せてはくれなかったし、いつになっても夜に何をやっていたかは教えてくれない。世間には公言できないようなこともやってるとだけは言っていた。ただ、身の安全だけは第一に考えているらしく、悲惨な事故に繋がることはしていないそうだ。だからそれも問いただせない。
「長電話になるよ。帰っては来ないの?」
僕はそれだけ言うと、文の肩に頭を乗せ、手を握った。暖かい。良い匂い。今はこの存在を、しっかりと確かめておきたかった。
「付き合うよ。来週には引っ越し。帰りは、今のところわかんない。月に二回くらいはここに来ようと思ってるけど、ここに再び住むのは、どうかな。でも、いつかは帰って来るかもね。」
文は、少したどたどしく返事をした。未確定の情報も多いということだろう。不安は大きいが、今一度踏み出せたことが、それを和らげてくれた。僕らはそれから、誰も寄り付かない、とても不吉な場所で、暫く肩を寄せ合っていた。
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