第十一章 傷

 駄目だ。一度浸かってしまっては簡単には抜け出さない。自傷行為のことだ。文という存在が生きる希望になり、歯止めにもなると思っていたが思い過ごしだった。生きるエネルギーというのは確かに貰えている。だがしかし、心は圧縮されるが如く潰れそうになり、生きているということへの過剰なストレスが収まるはずなんてなかった。文さえ居れば、明るく生きていけるなんてものは幻想で、例えそんな理想が傍に居たとしても、己が恐怖とは関係がない。今では思う。苦痛の方が圧倒的に多いのに、なぜ生きる必要があるのだと。死への恐怖より、この先にある苦痛の方がよっぽど怖かった。死ぬしか方法が無いと言っていた文の言葉が身に染みてきたのだ。

 傷はぱっくりと裂け、冬季の痛々しい赤切れを、拡大したかのような赤々しい見た目となる。傷は浅く、一日経てば少し塞がる。それをまた引き裂き、隠し、日常に溶け込む。愛しい人が確かに自分を認めてくれ、安心できたとしても状況が一変するなんてことはなかったわけだ。そしてある日、そんな傷が知られてしまうことになる。

 その日はとある理由で、文が家に来た。ただただ漫然とした日々、もう特別言い留めることでもない日常だ。たまにはもっと遠出して、幾ばくかの美しい情景をこの目に入れたいものだが。

「入るよ?真っ暗。」

 七時を回り、日は沈み切っていたが、この日は体が異常に重く動けなかった。四時くらいに目は覚めたが、転げるように睡魔に従順になるしかなかった。休日だからだろうか、気が抜ける日は夕方にようやく体を起こせる日は珍しくなかったが、それを上回った。

「はっ。文!」

 僕は近づいてくる足音と今の時間帯に気づき、跳ね起きた。今日は夕方から待ち合わせをすることになっていた。ふと携帯の通知を見ると、五時くらいから電話が二本とメッセージが数件入っていた。勿論ずっと意識していた。だが、途方もない眠気の中ではその意識すら朦朧としていたのだ。

「やっぱり…」

 電気をつけ、既に身を起こした僕の隣に立って、文はそう言った。

「ごめん。怒ってる?」

 今回は大丈夫だと思うと僕は言っていた。その手前、このザマだと文も怒っているだろう。

「いや、怒ってはないけど…気づかなかった?」

 怒ってるようにも聞こえた。一時間以上も待たせたのだ。軽蔑されてもおかしくはない。だが、それでもあのしんどさには歯向かい難かった。

「なんか、すっごいしんどくて…ほんとにごめん。」

 僕は言い訳と謝罪しかできなかった。いくら意識しようと、ただ、体が動かない。それは言い訳でもなく、病気の一貫だった。

「謝んなくていい。私もそういう時期あったし。歩こ。ちょっとはましになるかも。」

 文は急に僕に寄り、手を引いた。今までスキンシップもなく、手を握られてドキッとしたが、良い展開ではなかった。僕の袖がめくれ、傷だらけの手首が露わになった。血は止まっているが、切れて赤く、傷は塞がり切っていなかった。

「あっ。」

 僕は手遅れながらも咄嗟に手を引き、その傷口を隠した。やはり、これだけは知られたくなかった。自殺現場を見られた時より、身を蝕むような嫌な感覚が心の中にあった。死のうとするだけじゃなく、自分を傷つけることでストレスを解消する。一般には、それは本当に理解しがたいこと映ると思えていた。

「悪い。配慮すべきだった。」

 文もパッと手を引き、膝を地に付けた。僕は目を合わせられなかった。文なら平気。そうは思えなかった。

「知ってほしくはなかったな…文…」

 黒い気持ちがこみ上げて来て、次の言葉が出てこなかった。また距離感が分からなくなる。いずれは知ってもらいたかった…でも今は自分を曝け出せるほど文を信頼できていなかった。

「ごめん。でもそんなに落ち込むことじゃない。引いたりはしてないよ?」

 文は膝で前進し、僕に近づいた。心も何もかも、預けてしまえば良かったのに、僕はそうしなかった。

「それでも、僕自身この傷について説明できないし、他人の理解が欲しいわけじゃなかった。」

 リストカットをする身としては、構って欲しいわけでもなく、目立ちたいわけでもなく、ただただ自分に向かう嫌悪の感情が押し殺せずに形になるのだ。でも、傍から見れば常軌を逸した行動自体に興味を示し、悦に浸っているものだと見えるだろう。

「こういう時の泣き落としみたいなの、良くないのは解ってる。でも…」

 文は膝を立て、僕の頭を抱いてくれた。理解を示してくれている。解っていた。だけど僕は素直になれなかった。

「やめて。そんな憐れみみたいなのが欲しいわけじゃない。どうすることもできなくて、もう…嫌なんだよ、全部。」

 この感情を言葉にしきれない。自分がどこに向かっているのかさえ、あやふやだった。いっそ、勇気が出てたあの日に死ぬことができていれば楽だったのに。こんな日々に閉じ込められて、何の希望がある?文は、それを救ってくれる存在ではなかったのか。これ程近く、美しく、優雅に存在してくれているのに、苦痛の方が凌いでいたのだ。

「そんなんじゃない。傷ついては欲しくないよ。それだけ。」

 文はゆっくりと、僕が抱える傷がある手に触れ、傷を表にした。そう、これだ。こうやって誰かに寄り添って、もう大丈夫だって言って欲しかった。なのに、心の隙間が埋まらない。感情が爆発して、泣き崩れることなどもできない。

「じゃあどうしたら?止めたくてもやめられないんだよ?文、そんな簡単な話じゃないんだ。そんな都合良くはいかない。」

 僕は少し棘のある言い方をし、ヒステリックになった。きっと理解なんてされない。そういう先入観もあり、一人で歩まなければいけない茨道に恐怖したのだ。

「知ってる!これ見て。これ!どれだけ痛いか、どれだけしんどいか知ってる。もう、傷跡は治ったりはしないよ!ねえ、辞めてなんて言ってるわけじゃない。方法なんて探せばいいよ。私だって!…ううん、そんなの無くたって、大丈夫。本当に全部が嫌になって、死んでしまうって選択肢も悪いわけじゃないし。」

 文は感情的になり、僕を押し倒して馬乗りになり、腕まくりした。その手首には僕と同様の傷があり、完全に傷は塞がり赤くはないものの、まるで焼けただれたかのように傷跡が歪み、痛々しい過去を物語っていた。本気で切っていたみたいで、その跡は普通の手首とは一目瞭然で、誰が見ても解るほどだった。僕もあんな風に跡が残るだろう。それを見て、今後の好奇の目というものが怖くなった。それから彼女はぐっと何かをこらえ、ため息をついた。思いもしなかった彼女の形相に、僕は気圧されたためか、それともその傷に強い衝撃を受けてしまったためか、重篤な感情が整理できなかった。

「だったら、文は、どうなったの?最近の傷じゃない。僕はやめられる?」

 恐ろしいことに、止めたいという気持ちは薄かった。行き場を失くした感情を沈める手立てが、他に無いことに呆れ返っていたのだ。もしもの事故で、手が使い物にならなくなる。とか、死んでしまうとか。そんなことはやはりどうでも良い。それよりも、この止めようのない苦しみに煽てられた感情の方が、重要だった。

「やめようなんて思えなかった。今も。周りはただその行為だけを否定するし、やめてもやめなくても救いはないし。まあ、痛いし心が傷つくから止めようなんて、ウザイから言われたくないけど。私はずっと同じよ。死にたいって気持ちが囃し立ててくるのは変わらない。」

 文の猛毒に似た言葉は、救いなどという軽々しいものが目の前にはないことを表していた。ずっと救いを求めてる。それは文も同じだったのだろう。だけど気づいてしまったんだ。そのような運命的な好機などは来ず、耐える苦しみが生きる喜びをとうに越してしまっていると。僕よりその道は険しく、死に手を伸ばすことも、見栄などという甘い境地ではないようだった。ずっと欲しいと思っていたのは、違ったのかもしれない。文は僕の傍に寄り添い、僕の心を愛撫してくれる存在ではなく、その苦しみを鷲掴みにした。そして聞こえの良い慰めを吐くようなこともしなかった。救いようがない。その絶望を絶望として捉え、僕が今いる立ち位置を理解してくれていた。それは愛なのか。それが愛なのか。真意は分からない。だけどそんな愛撫より近しく、痛みは冴えてしまうが、心の底から湧き上がってくる感情にも素直に居られる。

「さっきの、文の言葉、理解できた。救いはないって解ってる。どうしようもないって。それでも、愛してる人は傷ついて欲しくないって思うんだね。文に何があったのか、それすら僕は知らない。果てしない絶望を背負ってるんだよね?それでも、文が自暴自棄になったら傷つかないでって思っちゃうんだね…」

 文自身も、歯止めのない感情を理解しているのだ。止めて欲しい。って無暗に言われることへの苛立ちも。理解した上でさっきの言葉が出たのだ。だが、これでいいのか?お互いがお互い、救いはないって諦めて、ただ絶望し続けるだけで。そんなカップルが目指す先など、言うまでもない破滅だ。良いわけがなかった。なのにどうだ、この痛みや苦しみは本物で、舵を切ろうにも動かないではないか。苦しんでいる自分に惚れ込んでるわけでもないのに。

「ね。だから、その傷についてとやかく言う気はないよ。たださ、やめれるならいいじゃん。私は大したことできないけど、頼ってもいいよ?ま、ちょっとふらつこう。」

 文はグッと自身の服を掴み、僕から離れた。何か、文は抑えているものをなるべく出さないようにしている感じがした。彼女の文言は優しいが、僕に心を開き切っていないのは、伝わってしまっていた。僕らは距離があるから、これでも本心を思う様に晒せていなかったのだ。きっとそれができたなら、体中が傷だらけになるようなじゃれ合いができたはずなのだ。

「分かった。歩こう。今は…この傷を詳しく話すのはやめとく。」

 もっとこう、どういう心境だったのか、どんな不安があるのかということを知ってもらいたかったが、止めた。僕は軽く膝で頭を打った後、立ち上がった。

 それから僕らは目的もなくゆらりと街を歩いた。僕が待ち合わせをすっぽかしたせいでその後の予定も無くなったのだ。悪いという気持ちが強く、今度も同じことになるのではないかと、自信が更に無くなった。だが根っから文は怒っていないらしく、謝ってもいつもの調子でいいよ。と言うだけだった。傷については、今度きっと話し合った方がいいのだろう。個人の問題ではあるけれど、お互いに干渉しあわず、それをそのままにしておくのは大いに問題があるからだ。しかし、こんな調子だと信頼し合える日が来るのは遠い気がした。

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