壁
そして約束の日、試衛館に妙な奴がやって来た。その人物を見て土方は随分ななお節介だなと嘆息しながら渡邉に問い掛けた。
「なんだい渡邉さん、アレまで加勢に呼んだのかい?」
「いや、しかし… そんな、まさか」
渡邉が驚いたのはもっともだ。約束の刻限になってやってきたのは、土方から話に聞いた北辰一刀流の剣士ではなく桂小五郎ではないか。困惑する渡邉が尋ねる前に桂が口を開いた。
「私は桂小五郎ではありません」
その一言に、二人は耳を疑った。この男が桂小五郎でなければ誰だというのか、よもや木戸孝允と名乗るのは随分先ではないかと筆者は思う。
「先日、試衛館あてに
桂は渡邉に向かって、大まじめに一礼と挨拶をした。二人とも開いた口がふさがらなかった。何とこの男は、道場破りの代理人としてやってきたのだ。あの桂小五郎に頼む方も頼む方だが、受ける方も受ける方だ。土方は呆れる半分、苛立ち半分で、そんなことをする野郎はどんな面してるのか一度会ってみたいものだと思った。おまけにあの桂の表情、一点の迷いも曇りもない。どうやら本気だ。
「そこまでいうなら、やってもらおうじゃねえか」
そんな桂の態度に、土方は以前から抱えていた彼への鬱憤を込めてそう思った。そして、今日は近藤勇となった渡邉昇とともに道場へ案内した。
余りに奇妙すぎる光景だった。
道場破りも道場主も互いに代理人で本人不在。それに、どちらの顔も全員が知っているのだ。この時、土方は表向き涼しい顔をして眺めているが、込み上げる意地の悪い笑いを堪えるのが大変であった。隣の井上などは、昔から土方にはこういうところがあると苦笑していた。
そんな土方が他の連中に目をやると、桂や渡邉と同流を使う永倉は小さな体をぷるぷるさせながら、必死に笑いを堪えている。また、原田は時折咳払いなどをしながら笑いをごまかしていた。例の物分かりの良い山南と藤堂などは、何か見てはいけないものを見たような顔で固まって、視線を遠くにやって沈黙している。
だが試合の中身は、流石は錬兵館の双璧だ。笑うところなどは一つもなく、目を皿にして眺めたくなるような、思わず声を上げて唸ってしまう展開を見せた。
防具の上からでも「痺れる」と恐れられる渡邉の強烈な一打を、桂は持ち前の飛蝗の如き身軽な足捌きでかわしていく。噂に名高い両者の秘技、目の当たりにして剣士として武芸者として胸が高鳴る。そして、桂はすかさず反撃を繰り出す。その一打は正確無比、回避の見事を利用した加速でもって渡邊の死角を狙う。桂の場合は逃げているというより、相手を自分の間合いに誘っているようにさえ思える。
剣を志すものであれば余りに贅沢な授業である。練兵館の双璧が全身全霊で仕合をしているのだ。いつしか、全員が心から二人の試合を見守っている事に気づくと、土方は桂にしてやられたようで妙にいらいらした。こんな馬鹿げた話があるか。
桂の竹刀が渡邉の会心の一撃で弾かれ、勝負は決着した。一礼の後、面を外した凛々しい桂の顔を玉のような汗が伝う。渡邉も肩で息をしており、互いに本気であったことは疑い無かった。土方を初めとした外野は、圧巻の一言しかなかった。
「近藤先生、お見事でした。この才谷、敬服致しました」
最後の挨拶まで、桂は才谷某を貫いて道場を去って行った。
本物のほうが代役を頼んだ理由は判らないが、土方には一つはっきりしたことがある。なるほど、渡邉は勿論の事、この桂といういけ好かない男も近藤勇に惹かれた一人だ。桂などはこれに託けて会いに来たのだ。直接のりこんできては、普段から嫌っている自分が門前払いにしている。
それにしても、あれだけの勝負を見せられると、近藤が不在であって却ってよかったと思う。あの勝負を通して、土方は目に見えない高くて分厚い壁を二人の間に感じていたのだ。そんな壁から二人の手が差し出されて、自分の親友である近藤が連れ去られるような妙な気持ちになる。連れ去られてしまったら、近藤を取り戻す術が自分にはまだない。
あの練兵館の海鼠壁よりも高くて分厚い壁を超えて行けるだけの腕が、まだ自分にはない。いや、これから鍛錬を重ねたところで追いつけるかもわからない。
尊敬も嫉妬も追いつけない領域に居る二人に親友を奪われることが甚だ悔しい。二人が去って、それこそようやく一息ついていた道場の面々を余所に、一人表情を変えない土方を見て井上は懐かしい表情を見た。それは、彼の姉が祝言を上げた日の、あの悪童が見せた表情そのものだった。この男がそういう顔をするということは、色々と察するところがあった。
「歳三、この一件は近藤先生には…黙っておく」
「すまねえが、頼む」
昔から、土方にはこういうところがあると井上はよく知っている。
壁 Trevor Holdsworth @T_Holdswor2
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