Trevor Holdsworth

練兵館

 春先とは言え、夜は冷える。


 練兵館のずっと続くような海鼠壁をたどっていくと、ぽつんと二八蕎麦の屋台が止まっているのが見える。


 そこで二人の男が湯気を立てる熱い蕎麦を手繰っていた。二人とも剣術で鍛えあげた立派な背筋をしており、並んでいるとそれこそ壁のようにぶ厚かった。


 神道無念流の総本山、関東一円に広がった門弟の数は有に三千を超えている。この道場で塾頭を務めるということは、実質的にその頂点と言っていい。


 一人は塾頭を務める桂小五郎という剣士で、長身で贅肉のない鍛え抜いた体格をしていた。隣の剣士は、さらにその上を行く逞しさがあった。身の丈は六尺余、目方などは桂より五貫は上だと思えるほどで手足も悉く太い、差料は四尺もあったが体格にはぴったりでさえあった。


 「渡邉くん、明日の用事というのは?」

 「ああ、ですよ」


 そう答えて、ずずずと三杯目の蕎麦を手繰るこの偉丈夫、名前を渡邊昇といい長崎は大村藩からやって来た剣士だ。もともとは一刀流を修めた猛者で、桂が最初立ち会った時はその桁違いの膂力が生み出す打ち込みに、防具などあって無きが如しと圧し負けしそうになったのを思い出す。


 そんな桂が彼を呼ぶときは、面白い癖がある。


 どうにも長州なまりが抜けずに「わたなべ」が「あたなべ」に聞こえるのだが、渡邊はこれが何となく好きだった。渡邊も一方でこの目元の涼しい二枚目の剣士を当初は「ふん」と思っていたものの、その体捌きの見事さからくる飛蝗の如き身軽さと技には圧倒されたものだった。


 男同士が竹刀を交えることは、時としてこのような友情を育むことにもなる。語りたいことは、竹刀に託せば良いのだ。


 「ああ、いつもの」

 「ええ、いつもの」


 渡邉ときたら「相手変われど主変わらず」という具合で、日中は道場でさんざんに門弟にも道場破りにも稽古をつけるのが常だ。それで、明日は出かけての稽古ときたものだ。そんな世話しない彼の日常が、こんな蕎麦三杯でやっているのだから、恐ろしい体力だ。


 故郷の大村藩では、渡邉家は古い家だと桂は聞いていた。


 「彼は生っ粋の武士だ。養子の自分とはだいぶ違う」


 桂の実家は長州の藩医で、大組士の養子となった過去がある。だが、渡邉へのそれは卑下や嫉妬ではなく冷静な分析であった。彼にとって木刀や竹刀を扱うのは、毎度の食事で箸を上げ下げするのと大して変わらない。むしろ、剣や稽古も同様ににしているような姿は日常の所作がすべて剣につながると言えるだろう。


 それに渡邉の出稽古というのは自分もやっていることなので、特段の不思議はなかった。


 練兵館で他流試合は厳禁とされているが、塾頭の桂や渡邉などは、その抜きん出た腕前に免じて「公然の秘密」となっている。その「腕前」は剣術だけではない、竹刀稽古同等以上に門人達の学問や議論を重要視している。学問の活用と発展のために、在野の才人と接触することや視野を広げる経験は必須であった。


 特に桂の生真面目な性分は、身分の貴賎を問わずに意見するので時折煙たがれるが、相手の言い分はそれ以上に聞き入るというところがある。これは、ただの学術的秀才には無い性質であった。議論で打ち負かすのではなく、自他を発展成長させることを第一としている性格だ。こういう点で、やはり桂が塾頭を務めるのは「もっともである」と渡邉は感心であった。自分などは、すこしばかり剣のほうに傾きすぎている上に大変に荒いところがある。


 「実は渡邉くん、その日は私も明日、があってな」

 「ああ、桂さん。それは大丈夫だ」

 

 桂と渡邉は安井息軒の私塾で知り合って以来の仲、思考や剣の腕までよく理解し合っていた。それに、桂はじきに国元の長州へ帰る。その日が来るまでに顔を見たい女性の一人や二人いるだろう。現に、なかなかの男前である。


 「その日の段取りは、ちゃんとやっておくよ」


 あくる日、渡邉は塾頭とその代理が不在となることを知られないように、午前中はいつも以上に激しい稽古で挑戦者を追い返す。あの体格からの一撃を耐えられるものはそうそういない。


 そして、したたかに面を打たれてふらふらしながら、あるいは腕のあちこちに青痣や生傷につけて挑戦者達は帰っていく。その痛々しい姿が増える度に、だんだんとその日の挑戦者は減っていく。こうして二人は、無事に穏やかな午後を迎えて出かけて行った。


 「ああいうのに惚れられる女は、幸せだろうな」


 渡邉が道中、少しばかり桂の行き先が気になったのは、彼もまだまだ若い男児である証拠だった。

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