大猩々!(GRRR!)
Trevor Holdsworth
前編
「この、大たわけ!」
八郎が、父からそう言われるのは、これで一体何度目か。いちいち覚えているほど暇ではない。それならば、今まで朝餉に出たメザシの数のほうがはっきりと覚えている。時は慶応元年の秋、所は関東の外れに位置する
親子喧嘩の火種は、それだ。この、八郎こと「
しかし、どうもこの八郎は父と性質を大きく異にしていた。
父は
藩の旧弊の諸々は、彼の新しい価値観の前では非常にナンセンスなものであった。人材登用の停滞による藩政の陳腐化、税制度の欠陥。特に藩兵の装備についてはまるでこの藩の時代遅れを象徴している。
蔵に並ぶ刀槍甲冑は、いずれも名物には違いない。だが、島原の乱の折に新調したという具合であり、今日では
そしてこっけいなことに、半年ほど前にやっとのことで手に入れた洋式銃砲と軍服を
「八郎、またお前は殿に余計なことを奏上しおったな。何が兵制改革か」
そう、八郎はその「攘夷以前の」問題を解決することに、ここ最近は熱中している。かといって、それは自信の能力を誇示したいとか、藩政を掌握したいというような私心に根差したものではなく、父の言うように
「父上、列強を相手に撃ち合った薩摩と長州の結末を見れば、兵制改革は必須です」
八郎は滔々と、薩摩と長州が西洋列強と軍事衝突した顛末と、今に幕府へ賠償金の肩代わりどころか
「それに我らが松千代公… あの
八郎は、やや嘲るように言った。
しかし、実際にこの藩主は
八郎は舶来の
「貴様、また申したか! 藩主を異国の獣扱いするとはなんたる不敬!」
父の額に、青筋の浮かぶのがはっきり見えた。ここから、八郎と父の藩主に対する問答が始まる。これを八郎は
およそ三百年前、藩が成立した頃に一体何があったのか一切記録がない。おそらく、当時気づいた人間も八郎が父にその
「第一、私は政務において殿自らのお言葉を聞いたことがありません」
「平素無口である。家臣を信頼し、自ら口を出されることは稀、それを支えるのが我らが職務!」
父の言い分では、代々の藩主がそうであったという。故に我々家老職は、藩主の意思を汲み最後に判をいただくのみにしなければならないという。この馬鹿、
ひょっとしたら、他の家老たちは気づいて知らないふりをしているのではないかと考えたこともあったが、その線はない。他の家老の面々は、例えば年末年始の挨拶も
万事先例が大事、疑問を持つという風習はとうに絶えたらしい。
「父上、殿は時折、四つ足にてお歩きになることがあるがアレはどうご説明なされる?」
「幼少のみぎりから、ひどい腰痛持ちであり、左様な歩き方もする」
「幾ら殿とは言え、些か無作法。獣じみておられるように見えるが?」
「傷病の苦しみは主の貴賎を問わぬ! 藩主が苦しむご様子を
城北の森などを散策するときは、樹木の間を泳ぐように渡り、藪の中も平然と駆ける様子を見て誰が幼少からの腰痛持ちだと思う運動能力ではない。野駆けについていく従者などは、必死に地べたを賭けて回って追いかける。この圧倒的な運動神経の差、自然への順応具合、紛れも無い
「それに獣肉は、小魚のごく少しを除いては全く口になされぬ」
「あれは御仏を深く信仰しておられるから故じゃ。第一、左様なモノを好んで食するのは藩内でお前だけじゃ」
八郎は海外の肉食文化も知っており豚肉などを好んで食する。これは確かに、新しい文化でなじみがないと納得ができる。しかし、父の弁では馬にも乗らないのは、生命を慈しむ性格であるからという。馬鹿を言え、あの巨体は馬に乗れる目方ではない。まして、柔術の稽古においてほんの一瞬で師範を絞め殺しそうになったほどの腕力で手綱などを引けば、馬の首などは容易くへし折るだろう。それに、その腕力を「海内無双の剛腕」と拍手したのは他ならない八郎の父だった。
「もうよい! もうよい! お前のその
元亀天正の覇者、織田右府は第六天魔王を自称したというが、それに倣えば八郎は大猩々大魔王とでも名乗ればいいのだろうか、甚だ馬鹿馬鹿しい。
「八郎、洋学に傾倒するのはまだ許そう。しかし、家督を継いだ後も左様な妄言を続けるならば、お前もろとも私は自害して藩主に詫びる。よいな!?」
この
この日以来、
およそ二年後の慶応三年、八郎の発案による兵制改革は成功した。
遂に足軽やら侍大将といった役割は歩兵、士官という具合に改められ、今日の我々が想像するような戦国の気風は消滅し、洋式歩兵に完全置換された。
驚くべきは、保守の権化たる父が遂に八郎が正しかったと認め「予備役で歩兵隊を結成すべし」と言うほどだった。
無理もなかった。十万の大軍である幕府軍が長州征伐で大失敗、その根幹には平成改革の成果があったと伝え聞いている。その上、八郎と長きにわたって
ともかく、平成改革に関しては八郎の予想と行動は全く正しかったのである。
藩主の松千代が
その年の暮れ、幕府は朝廷に政権を返上。時代のうねりはますます強くなっていくが、それをよそに八郎の疑問もまたますます深くなっていくのである。松千代が愛媛は松山藩より贈られたされた蜜柑を、皮ごとかじる様を見ながら八郎はまた考えていた。
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