第18話「追跡」

 僕「あれ?涼介、ゴンさんは?」

 涼介「え?中にいなかった?」

 二人「・・・。ええええー!!」


 金曜日17:00。終業のチャイムが鳴る中、逃走に備えて設計事務所の出入口を見張っていた涼介と、裏口から事務所内を通ってきた僕は顔を見合わせた。

 設計事務所からゾロゾロと社員が出てくるが、そこにゴンさんの姿はない。

 列が途切れ、誰も出てこなくなった解放扉を慌てて戻る。

 ゴンさんのデスクはもぬけの空だ。

 ヒヤッとした感覚が首筋に走る。

「まさか、逃げたか?!」

 

 階段の踊場に待機していた正雄が、遥か遠くに見える通用門をヂッと見通すと、豆粒大の人混みの中にゴンさんに似た人影を捉えた。

 「やられた!逃げたぞ!!」

 叫ぶと同時に走り出した正雄の背中が、ものすごい勢いで遠退いていく。

「脱兎・・・。」

 無意識に呟くほど、跳ぶように滑っていく。人間があんなに速く走るのを、僕は初めて見た。

 

 ここでゴンさんに逃げられたら彼の自宅は誰も知らない。何としても捕まえなければ、ここまでの苦労が徒労と化す。

 僕と涼介も慌てて後を追う。通用門を出て見回したが正雄の姿は何処にもない。

 

「ゴンさんの駐車場は、たぶん、あっちだ!!」

 住宅街を指さして涼介が走る。僕らは何度か車に轢かれそうになりながら、見えない正雄の背中を追いかけた。

 

 正雄に追いついたのは、通用門から出て、大通りを渡った住宅地の中にある月極駐車場の前だった。そこはマイカー通勤している社員が借りている私営駐車場で、ゴンさんが車に乗り込む直前に追いついていた。

 涼介と僕が息を切らせて追いつくと、ゴンさんはイタズラがバレた子供のように正雄につまみ上げられていた。



 「どすん!!」

 地響きとともにブロック塀がゆらゆら揺れた。駐車場の塀に太もものような腕を突き立て、燃えるような眼差しで今にも襲いかからんとする正雄をなだめながら、僕はゴンさんになぜ逃げたのか尋ねた。


 案の定、逃げてなどいないし、何のことか分からないと、その場を逃れようとする彼は、ふだんの面倒見の良い先輩社員からは想像がつかない、狡猾で残忍な本性を瞳の奥に覗かせていた。

 僕らはなっちゃんの名前は伏せて事の経緯を簡潔に話した。被害者に頼まれて犯人を探していてゴンさんに行き着いたことを告げた。

 そしてこれは、たとえ電子メールであっても、セクハラやストーカー行為と同じで許されるものではないが、被害者の希望で犯人が誠意をもって謝罪してくれれば警察沙汰とはせず、穏便に事を済ます意思があることを伝えた。

 しかしゴンさんは、僕らが被害者の代わりに「善意」で犯人を探している代理人である事、犯人も「職場の仲間」なんだからと、あくまで事を穏便に済まそうとする「甘さ」を見てとるやいなや、舐めたような上から目線の態度になった。

 そして、知らぬ存ぜぬ、証拠を出せ、訴えるぞと息巻いてきた。

 賢く機転の利く頼れる職場のリーダーは、ヤクザのそれに変貌していた。

 

「その使い回しのフロッピーとやらは、うちの部署なら誰でも持っているものだろう?何で俺を疑うわけ?」

 正雄「それは、・・・・。(勘なんだけど。)」

 

「5月2日の出勤がなんだよ。仕事しちゃ悪いのかよ。働いておまえらに文句言われる筋合いないわ。」

 僕「そういう事を言ってるわけじゃなくて、、」

 

「通用門の台帳?知らんわ。守衛のミスを俺に言うな!」

 正雄「おまえが隠したんじゃな!ぐっ・・・。」

 

「週末のパーティー?秘密のサークル?

 はあ?何イカれた妄想してんだよ。

 俺等はただ、本館の奴らと仕事を円滑に進めるためにコミュニケーションでやってるだけだろ。

 それで助かってるおまえらに、何でケチつけられなきゃならないんだよ。」

 涼介「いや、でも、女子社員は嫌がってるし、毎週やるのは不自然というか・・・・。」


「グレーの封筒だかなんだか知らないけどよぉ、メールなんかとって何がうれしいんだ?

 プライバシー?会社のPCなんだから私用メールする方が悪いんだろ。

 情報システム部の奴らが見せしめに送ってきたんじゃないのか?」

 僕「・・・。」

 

「だいたい、個人情報だか、セクハラだか知らんが、そんなのは一人前に仕事ができる人間の言う事だ。

 おまえらなぁ、正義の味方のつもりか何か知らないが、俺が犯人じゃなかったら、名誉毀損で訴えるからな。覚悟あるんだろうな。」

 三人「・・・。」

 

 仕事のリーダーとして、尊敬していた先輩社員の頭のキレは想像以上に鋭く、僕らの用意した証拠はことごとく覆されてしまった。

 それは僕らの犯人に「仲間」としての良心をあてにした、きっと出来心なんだろうという淡い期待を抱いた、甘さを見事に暴いたものだった。

 僕らの推理は、犯人に抱いた最後の希望は、完膚なきまでに打ち砕かれた。

 正雄の壁ドンの力が緩み、涼介の滑舌も止まり、ゴンさんの大人の正論に飲まれて僕らは黙り込んだ。

 

 しばらく沈黙が続いたあと、ゴンさんは「チッ」と短く舌打ちをして言った。

「まあ、おまえらは大変だったみたいだが、俺は関係ないから。

 探偵さん達の用がすんだなら俺は帰るからな。

 今回は多目に見てやる。

 その被害者とやらに被害妄想も大概にしろと、よく言っておけ。」

 

 そう言うとゴンさんは、口元に薄い笑いを浮かべながら、駐車場の壁際に並んだ僕らの肩を叩いた。

 意気消沈した僕らは、まるで先生に叱られて凹む子供のようだった。

 

 ゴンさんが言った「個人情報だか、セクハラだか知らんが、そんなのは一人前に仕事ができる人間の言う事だ。」

 たぶん、これが彼の本音なのだろう。

 そして、「大人の本音」なんだろう。

 政府や社会が、ハラスメントやコンプライアンスを叫んでも、そう簡単には世の中が変わらないのは、「できる大人」ほど社会の中心にいて、彼らが育った過去の常識や成功体験を規範にして世の中を動かしているからだ。

「俺たちはそれでもやってきた」という実績とプライドが、新しい価値観や正しくても少数の意見を退け、押し潰してしまうからだ。

  

「理屈は一人前になってから言え」

 彼の言っていることは、ある意味で正しい。時代を生き抜いてきた経験豊かな大人の意見だ。

 自分の事もできない奴が何を言ってもただの戯言だ。集団行動では何もできない奴はお荷物だ。そう、駆け足で進むこの世界の中で、みんなと同じことも出来ない奴は足手まといなのだ。

 それは現実だし、「彼」の育った社会はそうだった。同じ価値観、同じ振舞いを求められる単色の「僕ら」が育ったこの社会では。

 暗く小さくなる心の灯火を感じながら、僕の中である少女との記憶が蘇っていた。

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