月が出たでた

 実家に住んでいた頃は、季節の行事はだいたいやった。

 この季節になると、母とよくお団子を作ったものだ。近所の河原でススキを採ってきて、里芋も食べていた記憶がある。楽しいかどうかというと微妙だけれど、お団子を食べられるのは悪くなかった。

 それが今や、高くなった気がするハンバーガーくらいでしか味わえていない。

「月見って言われてもなぁ」

 天体観測なんて高尚な趣味は持ち合わせていない。スーパームーンだとかでニュースが騒いでいるのをたまに見るくらい。

 シフトで生活のリズムはがたがた。特に不満もないけれど、かといってとてもいいかと言われると迷ってしまう。

 仕事が終わると、月なんてどこへやら。うっすら明るくなってきた空の下に出ると、眠気と空腹がどっと来る。同僚と挨拶を交わして、朝の慌ただしさが漂う駅前を逆方向に抜けた。


 田舎が嫌で飛び出て、紆余曲折あって、なんとか警備員に落ち着いている。家庭もないからと、手当に惹かれて夜間警備もしながら早数年。

 大学の頃からだらだらと劇団にいたり、自主制作の映画を撮っていたのもすっかり辞めてしまった。SNSでなんとなく当時の仲間を見ていると、眩しくて画面を閉じてしまう。

 それにしても腹が減った。

 眠り続ける体力もなく、一日をぐったり過ごしてまた夜勤。何か食べてから行くか、といつもより早めに家を出る。

 いつの間にか日が落ちるのも早くなった。少し前まで、夜勤の前はまだ明るかったのに。

 寝起きなのもあって、がっつりしたラーメンの気分じゃない。かといって駅の立ち食いそばは毎度のことだし、小洒落たものは気恥ずかしい。

 ぐるぐる考えながら商店街を進んでいると、普段は入らない横道がぼんやり明るく見えた。

 時間に余裕もあるし、少しくらい。

 疲れるほど歩くわけでもないし。なんとなく気になって、その道へ足を進めた。


 月見丼、と書かれた手書きのメニュー。

 本日は月見丼しかない日だそうだ。席に案内されている時に確認された。丼ならさっと食べられそうだと思ってはいるものの、どうにも落ち着かない。

 高級感のある小料理屋のような佇まいに、ぴかぴかのカウンター。席は少ないが、自分以外は満席だ。

 しかも、隣には謎のもふもふした生き物が丸まってぼんやりしている。田舎で何度か見たけれど、たぬきに似ている。でも、こんなところにいるのは不自然な気がする。

 ツッコミどころもあるし、場違いな空気が漂っているが、値段はお手頃。酒が飲めない人間にも優しい仕組みらしい。

 月見丼だけ、とあるが、その中にも種類がある。味噌汁とお新香、選べる小鉢がついてくる。小鉢の中身はカウンター台に乗った大皿の中のどれか。

 ねばとろ月見丼。納豆ととろろとオクラ、海鮮も入っている様子。

 牛ごぼ月見丼。多分牛丼にごぼうが入っている感じだろう。

 ねぎ塩月見丼。なんだこれ。想像がつかない。これにするか。

「本日の味噌汁は里芋です。苦手でしたらあおさにも出来ますよ」

「里芋、好きです」

「かしこまりました、しばらくお待ちください」

 小鉢はちょっと悩んだけれど、自分では作らないからナスの煮浸しにした。かぼちゃのあんかけも見た目が旨そう。きんぴらごぼうも捨てがたかった。

 出されたおしぼりで手を拭きつつ、冷たいお茶を一口。さっぱりして飲みやすいし、丼とも相性が良さそう。

 隣のたぬきは枡に入った水を舐めて、ぐるりと客席を見回す。なんだか妙な貫禄があって、観察するのが面白くなってきた。

 一人でカウンターと厨房を行ったり来たりしているところを見ると、シェフ姿の人がワンオペで回しているんだろう。女手一つで凄いなとか、同年代くらいなのに店を持っているのかとか、感心と共に嫉妬みたいな気持ちも少し。

 仕事前なのを忘れてしまいそうなまったり感。他のお客さんも喋ったりスマホを見たりというよりは、のんびり食事を楽しんでいる。

「かぼちゃバター、食べる?」

 カウンターの中から伸びた手が、小皿をたぬきの前に置く。一口サイズに切ったかぼちゃに、バターが一欠。とろりと溶けたところを見ると、かぼちゃは熱々のようだ。

 気怠げにしていたたぬきの目がきらりと光る。表情が明るくなった気がする。尻尾もふりふり、あからさまに上機嫌。

 ピックが刺さったかぼちゃをどうするのかと思ったら、カウンターの中から今度はこちらに声がかかった。

「お待たせしました、ねぎ塩月見丼とナスの煮浸しです」

 清潔感のあるシェフからお盆を受け取って、そっと自分の前へ。湯気の立つ丼たちが輝いて見える。

 丼に心を奪われて、いつの間にか隣の小皿は空っぽ。はふはふ悶えるたぬきが、嬉しそうに目を細めていた。

 まさか、ピックを掴んだのだろうか。器用なたぬきだ。


 塩味の鶏そぼろが一面に。その上にゴマのかかった白髪ねぎ、炒めたチンゲン菜。そして重要な月見の部分は半熟の味玉。ぱかっと二つに割られて、濃い色の黄身がとろけているのが分かる。

「月が二つになってるんですけど、ノリで月見ってことで」

 渡された時に、シェフはけらけら笑いながら説明してくれた。たしかに月見系の食べ物と言うにはちょっと無理矢理感はあるかも。

 ねぎによるこの後の口の臭いはなんとかするしかない。塩そぼろは黒コショウとショウガの効いた味付け。白髪ねぎにも、チンゲン菜にも、もちろん米にもばっちり合う。

 しっかり味の染み込んだ卵の白身でも米が進む。箸が滑るのに苦戦しながら、ほくほくでとろっとした里芋の味噌汁も。甘めの味噌と出汁が優しく口の中に広がる。

 しゃきしゃきの白髪ねぎにもほんのり味がついているから、卵黄のまろやかさにも負けていない。ゴマの食感も楽しくて、味わうどころかどんどん食べ進めてしまう。と言うより箸が止まらない。

 一つ一つはそこまで味が濃くないのに、重ねるとちょうどいい。組み合わせで味が変わっていくから、次々試して楽しめる。

 ナスの煮浸し、じゅわっと溢れる出汁がたまらない。箸休めのお新香でさっぱりしたら、ペースはさらに加速。

 けれど残りは二口程度。とっておきに残しておいた半熟の卵黄を潰して混ぜる。行儀がいいとは言えないけれど。黄金色でつやつやの米とそぼろを豪快に頬張った。

 がっつりはちょっと、なんて思っていたのは今更ながら取り消しだ。

「うまっ……」

 つい出てしまった独り言。誰にも聞かれていないよな。

 隣を見ると、とろんとしたまぶたのたぬきがにんまり笑っていた。


 もったいないけれど、制服に着替える時にしっかり歯磨きをしよう。歯ブラシはロッカーに入っている。それまでしばらくは、この余韻に浸っていたい。

 ちょうどいい時間に店を出たら、空にぽっかり丸い月が浮かんでいた。

 たぬきも見たし、なんだか機嫌もいい。なんとなく開いたSNSから流れてきた昔の仲間の姿に、思わずいいねをしてしまうくらい。それどころか、たまには連絡を取ろうか、なんて。

 月を眺めながら鼻歌が出るほどには、ご機嫌な夜だ。




 季節感のあるメニューにはしているけれど、いもくりかぼちゃはずっとメインにするのが難しい。きのこも徐々にレパートリーが減ってきた。

 そこで思い立ったのは月見。そこらじゅうのチェーン店のブームにあやかって、一番しっくりきた丼にした。

「ハンバーガーってわけにゃいかねぇからな」

「自分はあれこれ食べ比べしたくせに」

「だってうめぇんだもの」

 鼻歌まじりでおちょこを傾けるたぬちゃんは、かぼちゃバターにハマってご機嫌。多めに漬けた味玉はシメのおにぎりにしろとのリクエスト。

 小さくてお店には出さなかった里芋は、きぬかつぎとして私たちのおつまみに。つるんと皮を剥いてお醤油をつけるのが、子どもの頃から楽しくてこの季節の密かな楽しみにしている。

 ねっとりした舌触りとほくほくの食感がたまらないんだよなぁ。

「たぬきっていうより、アライグマみたい」

「なんだとぉ! 流行りモンと一緒にすんなぃ!」

 ぷんすこしながら里芋を剥く姿は、やっぱりちょっとアライグマに似ている。こんな手先の器用なたぬき、存在しないし。ハンバーガーを掴んで頬張ってたのも、アライグマっぽかったな。

 思い出し笑いをしたら、またぷりぷりしだすたぬちゃん。

「でも、月といったらたぬきでしょ」

「そらそうよ、歌にもなってるくれぇだぜ」

「じゃあ、踊る?」

「おっ、たまにゃあいいな」

 ほろ酔いの状態でスマホをたぷたぷ。月夜に似合うしっとりした曲がいいかな。でも、BPM高めでテンションを上げるのもいい。

 小さな椅子から降りた彼は、もふもふの毛をぶるぶるさせて準備万端。腹太鼓はないけれど、尻尾がビートを刻んでいる。

 私の相棒はぽんぽこぽんのぽん。うきうき足踏みしながら陽気なリズムに鼻歌も。

「味玉おにぎり、食べられそう?」

「ううっ……き、気持ち悪い……」

「はしゃぎすぎたね……」

 踊って日付を越えたころ、どちらからともなく動きが止まった。

 まだ暑くて秋の実感はないのに、まん丸の月を見ながらあたる夜風はひんやりして気持ちいい。

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召しませ茶釜食堂 三河すて @sut_mkw

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