理屈と疑義の狭間 その6
「ふふふ……。まぁ……、楽しくやってるようで、アタシは嬉しいわ」
空気が張りつめようとした、その寸前の事だった。
ユミルの柔らかい声と視線によって、緊張が打ち破られている。
オミカゲ様はミレイユへと向けていた顔を、対面に座るユミルに戻し、それからキョトンとした顔で見つめた。
「なんじゃ、どうした?」
「別に……、他愛ないコトよ。永く生きた貴女だから、ただ無感動、ただ無為に時間を過ごして欲しくないの」
「まぁ、少し前までは、そうでなかったとは言えぬやも……」
「でも、今は違う……でしょ? そして、これからも違ったら、アタシも嬉しい。そういうハナシ」
「うむ……」
真正面から見つめられ、慈愛が込められた台詞を受けたオミカゲ様は、思わず口籠った。
そこへ更に柔らかく視線を細め、ユミルが重ねて問う。
「今は楽しい?」
「そうさな、楽しい」
そう、と嬉しそうに頷くと、指南書を見ながら、機嫌よく詰碁を並び始める。
それを見守っていたミレイユは、何度目かになる嘆息と共に呟いた。
「羨ましいな。私も早く、そうなりたい」
「神として在り、広く認められ、信仰を受けるのは容易ではない。苦労もあろうが……」
「いや、そういうんじゃない。信仰は元より、既に私は神として、遍く民には受け入れられている。そっち方面での苦労は殆どしてない」
「ふむ……? ならば何が?」
オミカゲ様が首を傾げる横で、ルチアが詰碁を解いていた。
まだろくにルールも覚えていないはずだが、流石の理解力と思考力を発揮している。
それを横目で見ていたオミカゲ様はルチアの頭を撫で、いい加減子供ではない彼女は困ったよう笑みを浮かべた。
ミレイユが同じことをしようものなら、彼女は振り解くに違いない。
しかし、オミカゲ様が相手だと、誰もが甘くなってしまうらしい。
「何か面倒事があるとは言っておったな。いずれ詳しく話すとも。……しかし、俄には信じられぬの」
「苦楽も悲喜も、酸いも甘いも知り尽くした、お前とは思えぬ台詞だな」
「人の心や世の流れは、我の手から離れているものよ。そこに苦労があるのは当然ではある。しかし、そなたの場合、単なる敵であろう? 今更、単に強いだけの敵など、苦労するとは思えぬ故な」
碁盤に目を向けながら、オミカゲ様は気のない風に言葉を落とし、そして自分で言った台詞に、今更ながら思い立った様だ。
顔を上げてミレイユを見、そして隣に座るアヴェリンを見る。
慚愧に堪えない表情をさせた彼女を見て、オミカゲ様は得心したように頷いた。
「つまり、強くはないが、倒せぬ者が相手なわけか。数が多すぎるせいか、はたまた、悪ではないからか……。民衆を扇動するなど、搦め手が主体であるからか……。それならば、苦戦も免れぬやもしれぬな……」
「正解ばかりじゃないが、近いところは突いてるな。数が多い……これに関しては、上手くやれているつもりだった。実際、追い詰めてもいたんだが、裏切り者が出た」
「それが追放された主な原因か。懐に入れた相手には、そなたは途端に甘くなるからの。しかし、数が多いとは……。敵と定める主体はそちらか?」
「あぁ、我々は淵魔と呼んでる」
その単語を最後に言葉が途切れる。
誰も次を発さず、不意に空白が生まれた。
ただ沈黙が下りる中、碁石が碁盤に打たれる乾いた音だけが響いた。
しかし、その沈黙も長くは続かない。
ミレイユとオミカゲ様は互いに視線を合わせたまま、どちらが先に話すか譲っているようでもあった。
それで周囲の空気を汲み取ったオミカゲ様が、軽い調子で口を開く。
「淵魔とは、また……。何とも恐ろしく聞こえる名前よな」
「最初は取るに足らない存在だと思った。厄介ではあるが、敵ではないと。それまでは見たこともない相手、新たに創造された世界だからこそ、生まれた歪みかとも思った」
特に、ミレイユが大神として世界の頂点に立ち、管理する存在だとしても、本当の意味での神ではなかった。
創造神が別にいて、それを打ち倒し代わりに立ったのが、かつてミレイユと呼ばれた神だ。
「どこかで歪みが生まれても、それは仕方ないとも思った。『虫食い』が生まれているのは、まさにその歪みがあるからだ。神力を注ぎ、マナの循環を正してやらねば、世界は崩壊へと傾く」
「そなたの決意は知っておる。そして、信仰という土台あらば、対処も可能という目算であったろう。そして、信仰という願力を利用することで、解決する問題でもあったはずだ。その目算が外れたのか?」
「それ自体は間違いなかった。見誤っていたのは別の――淵魔の方だ」
ミレイユは
「最初の勘違いがあったから、初動が遅れた。あれは生命じゃない。魔獣の様にマナを取り込んだ動物でもなく、多くを取り込み力を得る代わりに姿を歪めた魔物でもない。明らかに
「数が多いと申したな。そなたであっても、増えるより早く減らすのは無理なのか?」
「非常に難しい。たった一体でも残っている限り、どこかで隠れて増殖を繰り返す。龍脈に乗って移動できる上、龍脈自体が無数に拡がる。拡散した淵魔を一つ残らず倒し切るのは、不可能に近かった」
「だが聞いてる程に、声はそれほど悲観的ではないな。そなたの事だ、しかと対策を練り、そして追い詰めたのであろう」
オミカゲ様の推測は間違いではない。
そして実際、神殿の建立と信仰を土台にし、討滅士を各地へ配した事で淵魔を追い詰めていった。
そして、この討滅はひとにばかり任せるだけでもなかった。
ミレイユの神使のみならず、他の神々からも協力を得て、地上の淵魔討滅を遂行していた。
「だが、それも裏切りにより、討滅目前で失敗となった」
「まだ失敗したとは限らないでしょ」
ユミルが碁石から手を離し、挑むような目付きでミレイユを見た。
強い眼差しは虚勢ではなく、心底の思いを告げている。
ミレイユはそれに薄く笑って応えると、オミカゲ様へ視線を移した。
「失敗というのは言い過ぎた。挽回する機会は、未だ残されている。今は自力で帰る手段がないだけで、最初からお前の力を頼りにするつもりだったしな」
「我に出来るのは、あくまで孔があればこそ。作成すら出来ぬ状況で、手助け出来る何かがあるとは思えぬが……」
「まぁ、それは何とかする」
「ふむ……? そもそも『孔』の作成は、そなたの力で行えるものではあるまい。最初から八方塞がりの様に思えるが……」
オミカゲ様の指摘は当然のものだった。
無い袖が振れないのは、神であろうと同じことだ。
しかし、ミレイユの中には一つ決然とした思いがある。
必ず反撃し、行ったことへの報いを与える、という強い思いだ。
それは、神でありながら人とその世を裏切ったアルケスに対するものであり、そして世界に対し裏切りを働いた淵魔に対するものでもある。
「ないなら作るか、見つけるだけだ。そこは余り問題にしていない。それよりも、何より淵魔についてだ。その氾濫を許すわけにはいかない。地下にて溜め込んでいた力を開放するチャンスだ。盛大な反撃が予想される」
「反撃か……。これまで逃げ続けてきた相手なのであろう? そして、弱い存在でもあると、そなたの口から言われたようなものだ。無論、数は脅威に違いないが……」
「これまでは弱い存在だった。逃げ続けていたのも、つまりその全てを蜥蜴の尻尾切りと割り切っていたからだ。淵魔とは単一の存在から生まれたが、その淵魔全て、子となる存在じゃない。敢えて言うなら、全てが等価値だ」
「最後の一体まで倒す必要とは、つまりそういう理由からか。全であり一、一であり全。……それは、厄介な」
全てを倒し切れない理由が、そこにこそあった。
常にミレイユ側が有利で戦局を勧めていても、脆弱で見つかり辛い一体を潜伏させておくだけで、仕切り直しができる。
その仕切り直しには、当然数百年の時を要するだろう。
だが、最後の瞬間に勝てば良い、何千年と時間を使っても良い、と考えているならば有効な手段だった。
「淵魔こそが、
「なに……? それはおかしい。まるで淵魔が恨みを持っているかのようではないか。そなたに……そして、世界とそこに根ざすものに」
「間違いではないんだろう。そして、それこそが理由だろうな」
ミレイユは苦々しい顔付きで、明らかに不機嫌そうな息を吐く。
怒りの発露を抑えようとしているが、あまり成功しているようには見えなかった。
「お前には記憶に新しいだろう。泥のような身体から異形を生み出し、そして目の前の者を喰らおうと牙を剥く。その力を取り込みたいから、己が力としたかったから……だから喰らおうとするんだ。そういう存在に心当たりがあるだろう? ――尤も、私達はそうする前に、全てを封殺してやった訳だが」
「まさか……」
そこまで言われて、何も思い付かない程、オミカゲ様も無能ではない。
しかし、それは既に完膚なきまで叩き潰し、消滅したのを確認したはずだった。
オミカゲ様はアヴェリンへと目を移す。
そこでは変わらず慚愧に堪えない表情で、ただ黙って固く口を結んでいた。
「その淵魔とやらの正体は、
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