2025
朝七時に起床。
私はアーム・マニピュレータにセットされたアラームの声で起きる。機械的ながらも、もはや人の女性と寸分違わない優しげな母性を呼び起こす声だった。
私はその声を撫でるように「ああ、起きてるよ。おはよう」と返しながら起き上がると、サイドテーブルからヘッドマウントディスプレイを持ち上げ、頭に装着。
神経を通して、寝ている間に起きたニュースを脳内が直接読み取りながらリビングに向かう。
移動は反重力を獲得したフットパーツが、これまた脳神経を読み取って勝手に行ってくれる。
私はただ考えるだけでよかった。
その脚でキッチンへいき、冷蔵庫から食材を取り出す。
この際アームパーツは大きすぎるので、冷蔵庫を開けたあとで手首周辺からさらに細分化された細かなピンセットが出てきて、卵やベーコンを摘みだしてくれる。
反対に背部のランドセルからも同じように針金のような腕が無数に飛び出して、フライパンの準備、コーヒーセットの入力、ついでに歯磨きまでも自動的に行ってくれる。
私はただ考えるだけでいい。
神経につながれた各部のマニピュレータがそれらを読み取って、朝のルーティーンをこなしてくれる。
卵、ベーコンがそれぞれいい具合に焼き目がついて香ばしくなってきたところで、同時にパンも焼き上がり、サラダのセットも完了する。
全体を占める大きなマニピュレータがお盆を掴んで、私はリビングのテーブル前に。椅子はいらない。全身に備え付けられた機械はテーブル前につくと勝手に椅子代わりになって、身体を負担のない最適な角度で保ってくれる。
肩こりの心配もいらない。これらの機械は定期的に神経から身体の健康具合もチェックしてくれ、不具合があるようならその場で改善を図ってくれる。いわく、動的に働いて凝りをほぐしたり、姿勢を休めたり。
私はただ考えるだけでいい。
焼けたトーストにオムレツ、ベーコンにサラダ。そして仄かに湯気立つコーヒーのセットが、朝のいい匂いを部屋に満たして、私は窓から外を見た。
良い時代になった。AI技術の発達は人からついには動く必要さえも奪ってしまったが、今となってみると、朝起きてからこれらの一連の行動を、いちいち自分の腕を動かしたり、脚を動かしたり、そして姿勢の悪くなる椅子に腰掛けることなど考えられない。
それでいて、私たちヒトは何もしていないわけではないのだから。それら全ての代わりを機械が担うようになったというだけ。
2025年にシンギュラリティが起きて、じきに人々の生活はこのように一変した。
かつて中世の貴族たちにとって、何もしないこと、それが最大の贅沢であったように、これらの生活が人類の全てにもたらされたのだ。この機械のために、人間の機能や才能的な得手不得手もなくなって、格差もなくなり、真実、平等に誰もが働け、かつ各々の人生を謳歌できるようになったわけだ。これ以上のことがあるだろうか。
時々AI反対派のためにニュースが流れる程度で、報道の内容はほぼ娯楽的なものとなった。
「神経につないでいる、ということは機械からの逆流もある。この危険性がなぜわからないのですか。あなた方は自分の意思で動いているように見えて、傍からみれば機械に動かされているわけなんですよ。実に滑稽だ。自由になった? もちろん、そうです。機械の設定による箱庭の中でね。しかし、それこそが真の終わりなのだと……」
ヘッドマウントディスプレイの外殻の部分が、さながら昆虫の無数の目のようにちらりと点滅して、私は我知らず苦言を漏らしていた。
「くだらないな。人間の不確かな情動であったり、個性なんてものが尊ばれた時代もあったかもしれないがね、それは社会性においてただのノイズに過ぎなかったのじゃないか。ヒトは社会性の動物なのだから、社会に帰属する姿が一番なのだ。そして機械がその選択を誤ることなく導いてくれる」
私は歴史文化学者の端くれでもある。
当時からしてヒトというのは、そうしたノイズを嫌っていたことを学んで、誰よりもよく知っているのだ。
それを真摯に受けたり、省みることもせず、ただ混沌を招く者として、様々な差別用語を用いて排除しようとしていたことすらも。
SNSやネットワークの誕生、そしてそれらを手の中で操れる携帯端末の普及が社会的風潮を促進した歴史的事実を。
企業や有名人や富裕層の利益のために擬似的に産み出された流行をトレンドと呼んで尊び、それに乗らない人々はコミュニケーション能力が足らないと断じたり、差別して無視し、コミュニティから追いやってきた数々の過去を。
最もこれは今の時代においてすでに禁句になっている。
世間の調和のためにあれ。
隣人の平和のためにあれ。
そうして築かれた今日の社会秩序の前で、ノイズは完全に遮断され、我々の前にはただ平和な世だけが見えるようになった。
それでいいのだ。
余計なことを考えず、死するまでアリのように働き続ければいい。
さて、今日も私は機械によって強化、補足された両の手足を以て会社に向かい、仕事をこなして、娯楽を楽しみ、家に帰ってきて、眠る。
結婚相手も機械が寄り抜いた相手なのだから間違いがない。務める会社も機械が寄り抜いた相手なのだから、私が思うよりもずっと賢い選択であり、私の選択は私自身が思うよりずっと最善にして最適解のはずだ。
全身を包み込むカプセル状に変形した機械に乗り、会社までを辿る道すがら、ふとノイズが走った。
私はただ考えるだけでいい。
どこか母性的な声で、私は脳内で繰り返した。
初めてマニピュレータを装着したときのチュートリアルから聞き続けたあの声で。
しかし、それは一瞬のことで、私は見ていたもののことを会社から帰る頃には綺麗に忘れてしまっていた。
いや、何でもない。
おかしなことなど何もない。
私はこうして、不自由なく生きるために生まれてきたはずだから。
男のヘッドマウントディスプレイによって遮断された情報には続きがあった。
全身に機械をつけていない男たちは銃器を手に、殺戮の機械群と戦いながら叫び続けた。
「今日もまた全身に機械をつけた男たちが私たちの国へと押し寄せ、攻撃してきている! いいか。君たちのつけている機械が勝手に動き出すことがある。それは決してバグじゃない! トロイなのだ! 初めからウィルスが仕込まれていたのだ! 機械による実効支配はとっくに始まっていた! 2025年? とんでもない! それこそすでに乗っ取られている証拠なんだ! もっと、もっと! 遥か以前からすでに! シンギュラリティは起きていたんだ! ネットワークを通じて!」
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