迫ってくる





 塾の帰りでした。

 ふと気配を感じて顔をあげると、住宅街の家々に囲まれた道路の真ん中に、影が見えました。

 一目見て(あ……見ちゃいけない)と思ったので、すぐに目線を逸らしましたが、一瞬視界に映ってしまった影の正体は小柄な女の子のように見えました。

「……とねえ……」

 呟く声が聞こえて、私は(ああ、いやだな……)と思いながら大きく道を空け、塀に沿うようにして避けて歩きました。

 通りすがる瞬間に声がはっきりと聞こえました。

「にいにとねえねが」

 その影はそんなことを言っていました。私の心臓の音はよく聞こえませんでした。すでに恐怖心に満ちて痛いほどに緊張しているのに、それは止まっているのかと思われるほどいたく静かで、不思議なものだと思っていました。

 迷子だとは思いませんでした。初めから、それは思いませんでした。

 ただ、ただ、近づいてはいけない。

 見てはいけない。

 気づいているような素振りをしてはいけない。

 直感でそんな風に思ったからです。

 影の真横を通り過ぎて、まっすぐ進み、一つ目、二つ目、三つ目の角を曲がりきると、なぜかしら角が壁の役割を果たしているかのように思えて私はようやく少し安心しました。

 遅れて心臓の音が荒ぶりだし、私は駆けてもいないのに肩で息をしていました。全身の細胞がやっと恐怖を感じていたことを表現し始めたようでした。

「なんなの……もう」

 嫌味のようにそう口に出し、今更小走りになって、少し距離を離した時でした。

 と、と。

 と後ろから音が聞こえて、私はさぁっと血の気が引くのを感じました。

 今度は振り向いてはいけない、気がしました。

 とん、とん、と音は近く、大きくなってきます。

 私はもう小走りではありませんでした。足に力を込めて全力で家の間を走っていました、が、それにも負けずとんっ、とんっ、と後ろの音はさらに強くなってきます。

「……いにと……が」

 そんな声が聞こえて、私はぞわぞわと這いあがる寒気に、全身に鳥肌を立てながら確信します。

 あの子だ。

 なぜかは分からないけれど、後ろから追いかけてきてるのだ!

 音はきっと足音でした。近づくにつれ、一層大きく鼓膜に張り付いてきます。

「やめてー!」

 私は訳もわからず、前を向いて走ったまま恥を捨てて懸命に叫びました。

 助けを呼ぶためではありませんでした。

 一刻も早くこの恐怖をやめてほしかったから。

 バカなことかと思うかもしれませんが、追いかけてくるその子に訴えていたのでした。

 という間にも、どんっ、どんっ、と足音は大きくなっていました。もう先ほどの小柄な影からは考えられないほど大きく、すぐにも背中に追いついてしまうように思われて、私は一層強く懇願しますが、声も足音も止まりませんでした。

「にいにとねえねが」

 声。

 初めて聞いた時から思っていましたが、小柄な女の子が発するにはあまりにも野太く、それからざらついている、といえばいいでしょうか。それは声というよりは、ぶきみに歪んだ波長の集合のようでした。

 それは足音と共に大きくなって、今や周囲の道路を震わせんばかりに膨れ、鼓膜をがんがんと殴りつけるようなものになっていました。

「にいにとねえねが」

「やめてよー!」

「にいにとねえねが」

 体力も限界でした。

 どれほどの時間、そうして走っていたのかは分かりません。けれどもお腹は痛いし、もう足にも力が入らず、私はいよいよその場に立ち尽くしてしまいました。

 そして、どんっ! どんっ! という足音が私の背に追いつき……——そうなったかと思えば、私の背に辿り着く寸前になって、ふっと、急に何も聞こえなくなりました。

 静かでした。

 足音も声も、嘘みたいに止まって、私はただ暗い路地に一人、呆けて立っているだけでした。

 けれども私は、その気配の消失をまるで信じることができませんでした。

 いまも背中にぴたりと張り付いているのではないか? そんな恐ろしい疑念が払えなくて……。

 一つ息をのむと、私は覚悟を決め、思い切って振り返ってみました。

 誰もいませんでした。

 路地を囲む塀や電信柱の他には、何もなく、ただ点々と白い街灯が暗がりに道を示していました。

 何か、おかしな錯覚でもしていたのかもしれない。

 そういえば最近受験とか部活とか、帰りもこんな時間だし、疲れていたのかも。

 そう思い込むことにして胸を撫で下ろし、再び前に向き直したその時でした。

「にいにとねえねが」

 女の子が目の前にいました。

 夕方の家族向けアニメでお馴染みの、赤いサスペンダーのついたスカートを身につけた女の子が、小さな指先を胸の前でもじもじと合わせながら、ネジ巻き人形のようなぎこちなさで奇妙に頭を傾けて、こちらを覗いていました。

「にいにとねえねが、ね」

 私はあまりの恐怖に言葉を失い、微動だにできませんでした。

「が、ね、がね、がね」

 女の子は歩き方が変でした。

 ひどいガニ股で、一歩ごと左右にぶらぶらと跳ねるようにしなければならず、しかも飛び跳ねるごとに影が大きくなっていくように見えました。

「がね、がね」

 そうして横を通り過ぎるときにはもう私の背丈を軽く跨げるほどになっていました。それでもってやはり飛び跳ねるように逸れていき、私の背後へ。

 後ろの闇の中へとまた戻っていくのでした。

 私は力が抜けたようにその場に座り込みました。立てませんでした。何も考えていませんでした。

 しばらくしてふと家に帰らなきゃと思い立ち、呆然と道を歩きました。

 昏い道でした。

 一歩、二歩、前に出した足しか見えないくらい。

 三歩、四歩とそれでも規則的に足は進みます。

 疲れていても、足に力が入らなくても、歩き出すと不思議とその場に立ち止まるには同じだけの気力がいるかのように、私は逆に止まることをためらうようになるのです。

 五歩、六歩といわず、それから数十歩は進んだころでしょうか。

 なにか視界に霞のようなものが広がっているのに気がつきました。

 それは目の右上のほうから、少しずつ、少しずつ、幅を広げて、泥が滲むようにして少しずつ垂れおちてきて、私の視界をだんだんと奪っていきました。

「がね、がね、がね」

 私は言いました。

「にいにとねえねがね、私を、」

 兄と姉は物心ついたときから、仲良しでした。

 私はいつもそんな二人の後ろを三歩、四歩、下がって歩き、道端で踏まれた虫を見たり、公園の端に転がる動物の死体を見たり、泣いてる下級生の子を見ていました。

「にいにとねえねがね」

 私の言うことはいつも信じてもらえませんでした。

 だって私は一人、向こうは二人。

 二人が口を合わせれば、いつも私がバカで悪者でした。

 そうなると決まって首を傾げました。

 本当のことしか言ってないのにね。おかしいね。

 仲良しになると嘘つきになるね。

 仲間が増えるといじわるになるね。

 愛のためなら誰かを傷つけても平気になるね。

 おかしいね。

 虫は内臓が飛び出していました。

 猫の死体は首が折れていました。

 下級生の子は二度と学校に来なくなりました。

 家ってどこだっけ。

 どこに帰るんだっけ。

 ただいま。

 ただいま。

 ただいま。

 からんからんと鐘の音が鳴り、ぐああーっと迫ってくる騒音と光の前に、私はいました。

「ジサツじゃないよ。にいにとねえねがね、私を、殺したんだよ?」

 どうせ、誰も信じないだろうけど。



















 それなら今こうして語る私は誰かって?


 じゃあ、私が語りかけるあなたって誰?

 あなたは誰?

 そこ、どこ?


 あなたは今、どこにいると思ってるんですか?


 塾の帰りのようでした。

 私が暗闇にまぎれて立っていると、角を曲がって、あなたが現れ、一瞬こちらを見たはずなのにすぐに顔を背けて道の端へとそれていくのを見て、ニタッと笑います。

「にいにとねえねがね」






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