7月18日 2
冷房が効いて乾いた店内。
ウェイティングリストの最初の欄を埋め、二人は待合用の椅子に並んで腰かけている。
サイレンの音が聞こえてきた。
(救急車かなぁ)
ココロが呼んだものだ、とまでは気づかない。
「ん……なかなかの腕っぷしでした」
「我ながらよく頑張ったとは思うよ」
行為の是非には無関心。
(体が勝手に動いたんだよなぁ)
首を傾げたり斜め上を見たりはしない。
「そういえばあなた、自分の顔知らないよね」
「それがどうかしたの?」
突然の話題の転換にも快く着いていく。
「ん……着いてきて」
これにももちろん着いて行く。
連れ込まれたのは女性用化粧室で、前にしたのは洗面台。
「いやいやいやいや、なんで僕が女子トイレに? 窓か何かに映せば顔なんて」
「いいからいいから」
大きな鏡でヤマトが見たのは、彼の認識に従えば〝十代半ばのめっちゃキレイな女子二人〟だった。片方は黒い長袖のジャケットとロングスカートに、長くうねりの強い銀髪。もう片方は、黒い半そでのTシャツを着て、同色のジーンズを履いて、栗色で前下がりのショートカットを備えている。
「胸のことは置いといて、女の子にしか見えないでしょ? 喧嘩なんてまずできそうにないし、このナリで男子トイレになんか入ろうもんなら、そりゃもう、ねぇ」
「こ、この子、誰」
君だよ。
「あなただよ。身長160センチ、体重は50キロとかそこらへん」
「ずいぶん詳しいじゃん……」
このせりふに従って、鏡の中のとびきり愛らしい唇が動く。
「もうすぐ席が空く頃だね」
話が続く気配は絶たれた。
化粧室から出て間を置かず二人が案内されたのは、入口から見て右の奥の、人目に付きづらい禁煙席だった。
メニュー表をペラペラペラ。
「何が好きなの?」
「おごってくれるの?」
衝撃的な質問返しに、彼は「う」と固まった。
(僕、何も荷物を持ってない)
財布はおろか携帯端末も、ハンカチすら持っていない。所持品と言えば、左手の薬指にはまった金にも銀にも銅にも見える指輪だけ。
「あ、あのね、僕ちょっと、今持ち合わせが」
あたふたし出した相手を、メニュー表から顔を上げ、まぶたの隙間から見ているココロ。
(あれ? そう言えば僕たちの関係って……)
道中での会話を掘り起こす。
「……上司が部下におごらせるのってどうなの?」
「あぁ、そんなことも言ったっけ」
客や店員の声、食べ物の匂い、そしてBGM。
ココロはネギトロ丼を、ヤマトは生姜焼き定食を頼んだ。
「心配しないで、ここは私のおごりだから」
「いやアレだよ、さっきはなんとなくあんなこと言っちゃったけど、地位の上下は関係なくて、今はお財布がないから仕方なく」
「モテる男は細かいことを気にしない」
先のことも後のことも――そう続けられると「はい」としか返せないヤマトだった。
注文した料理はまだ来ない。会話が途切れて2分少々。血の赤が開く。
「ん……じゃあ話を始める前に。私のことは名前で呼んで」
男が初対面の女を名前で呼ぶのは難しい。
「い、いきなり名前? せめて苗字からにしようよ」
「呼びづらくない?」
(中津国さん。中津国。ナカツ、ナカチー、なかっち、なかちん。確かに呼びづらいな)
シミレーション。
(ココロちゃん、ココちん、ココっち、ココちゃん)
再びシミレーション。
(ココロ)
呼びやすそうだ。
「……ココロ」
「もうちょっと大きな声で」
「ココロ」
「よくできました」
とろりと深い色のエメラルドは、半月のそのまた半分程度。
「ん……じゃあ、改めて。あなたのアレは、私たちがカリスマと呼ぶものの片鱗なの」
「ごめん、もうちょっとビギナー向けにお願い」
「さっきチンピラをのしたでしょ。アレのことだよ。まぁ実際にはそんなちっちゃい体であんなこと、いくらカリスマがあるって言ったって非常識もいいとこなんだけど」
「火事場の馬鹿力だっただけかもよ」
小柄なココロにちっちゃいと評されては、疑問や不安など彼方へ押しやられてしまう。
「ああいう火事場じゃビビるのが普通。よしんばあなたの言う通りだったとしても、あれじゃ馬や鹿を通り越して象とかサイとかだよ」
「ココロの握力だってゴリラだろ」
「私のはコアラだから」
憤りよりも喜びの勝る音色。
「アレも、片鱗?」
〝カリスマ〟には馴染めずとも芯は掴んでいる。
「その通り。ちなみにあの時、加減はちゃんとしたからね」
「ヒビがどうだとか言ってたっけ」
恐ろしい話だ。
「ところで、カリスマって何?」
「知らない」
サイレンの音が大きくなったようななっていないような。
「し、知らない?」
「知ってる人の方が珍しいと思う」
「説明してくれる雰囲気ムンムンだったじゃん! 何だったのあのフリは!」
「なんて言うか……それっぽく振舞ってる手前、引くに引けなかったというか」
「自分に関することなのに知らないなんて」
反応は大きくなったが、腹を立てたわけではない。
「って言っても、全く知らないわけじゃないし。あなたも自分のことよく知らないでしょ。それと一緒」
「ココロはよく知ってそうだよね、僕のこと」
相手のとぼけた様が愉快なだけだ。
「身長と体重は目見当。名前はあなたの身柄を私に託した側から聞かされたの」
(託されといて好きに暴れさせたのか……僕が悪いのかもしれないけど、やっぱりそれってちょっとマズくない?)
「上司と部下だって言ってたじゃん」
早口で流し込まれても踏み込んだ感想は抱かず、真新しい思い出を使ってココロと触れ合おうとする。
「あんなのノリだよ、ノリ」
「ノリぃ⁈ もう何が何だかわかんないよ……」
「こんな状況でもそこそこ落ち着いてるあなたみたいな人の場合は、何が何だかわかんないくらいがちょうどいいんじゃない?」
「落ち着いてない!」
笑い合う二人。
店内のBGMがメロウなジャズからテクノポップスに切り替わる。
注文された品はまだやってこない。
「……ちょっと話は変わる上に今さらなこと聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「君、一体何者?」
「くせもの」
「真顔ですっとぼけられると笑っちゃうからやめて」
「和ませようと思って」
反応に困った男を置き去りに、女は黒くて小さな手帳を取り出した。
「それは?」
「身分証明書」
表紙をめくる。
「ほら、ここに」
テーブルの上に広げてみせて。
(写真撮るときくらい、目はちゃんと開けても良かったんじゃないかなぁ)
こちらから向かって右側――白地のページの上半分を占めていたのは、今この時と変わらない眠たげなココロの首から上だった。
「国家治安維持協力機構って?」
それは、顔写真の下に記された文字の列。
「警察より偉い治安機関、って言えばわかりやすいかも。そこの職員、エージェントね」
信じがたい膂力を示した己の利き腕を見やれば、彼女の話を一笑に付すことなどできず。
「マジ?」
「マジ。調べればわかるよ」
背中を反らしたように見えるが、おそらく胸を張ったのだろう。
「あのさ、失礼を承知で尋ねるよ。ココロって何歳?」
「それは……生まれてから何年経ってるかってこと?」
首を傾げる。
「僕、何か変なこと言ってる?」
傾げ返す。
「うん。そういうの、気にする人ってあんまりいないから」
(……な、何かおかしいぞ)
ようやく気付いたか。
「一応答えておくと、十五年経ってるからとっくの昔に成人してるよ」
「成人? じゅうご? ファ?」
「いや、生後十三年で成人だから……常識でしょ。どうしたの、そんなカピバラみたいな顔して」
カピバラはもっとのっすりしてる。
(本格的におかしいぞ)
目を覚ましてから初めての混乱だった。
「13歳で成人しちゃうの? ジューハチじゃなくて?」
「十八? あり得ないでしょ、そんな歳くった新成人」
甘く冷たく、淡々と。
「……僕の中の常識だと、成人年齢は十八なんだよね。最近まで二十だったんだけど、時代に即してないみたいな理由でちょっと前倒しになって」
「もしかして、ゲームか何かと現実を混同しちゃってる?」
「そんなこと……」
ない、とは言い切れず。
(おかしなこと言ってるのは明らかにあっちの方……いやでも、さっきのアレコレは確かに現実で、ココロはとにかく握力が強くて、僕もけっこうな怪力で、ってことは、もしかしておかしいのは僕? ……そうだよな。そもそも頭の中がすっからかんな時点で僕がおかしいんだよ多分)
強引に納得してこの場をしのごうとする彼は賢い。
「そうだ、さっき僕の身柄がどうとかって言ってたよね」
まだ来ない料理を待ちながら舌を回す。
「うん」
実を言うとね、とココロが続け、いよいよ何かしらの核心が尾を見せるかと思われた瞬間。
ヤマトはゲームセンターの中にいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます