林間学校の夜に

中原恵一

林間学校の夜に

 小学校のみんなで野外活動センターに泊まった日の夜、いっちゃんがおねしょしていたことを僕は知らなかった。

 次の日の朝、食堂で朝ごはんを食べていたときも、いっちゃんと同じ部屋に泊まっていたひーちゃんが言っていたこともテキトーに聞き流していた。

「昨日の夜寝る前に聞いたんだけどね、いっちゃん、お父さんに殴られたんだって」

 ひーちゃんはトレーの食事にほとんど手をつけないまま、どんよりした顔でそんなことを言った。

「へえ」

 年に一度の林間学校でテンションが上がっていた僕はそのことで頭がいっぱいで、クラスメートの一人のことにはさほど関心がなかった。

「へえ、って。やばくない?」

 ひーちゃんはこちらへ体を乗り出した。

「やばいとは思うけどさ」

 僕は適当に相槌あいづちを打ちながら、先ほどじゃんけんで勝ち取ったデザートのみかんゼリーにがっついていた。

「遊んでたおもちゃで頭を殴られて血が出た、とか」

「そっか」

 ひーちゃんは僕に尋ねた。

「どうしたらいいと思う?」

 このときの僕は、思ったことをただ素直に答えた。

「どうする、って。僕らに何ができんだよ」

 ひーちゃんはため息をついた。

「それはそうだけどさ」

 ひーちゃんは諦めたように食事を再開したが、あまり箸が進まないようだった。


 僕たちの小学校はいろんな子がいた。

 しっかり者であだ名は委員長インチョーのひーちゃん。

 元気いっぱい野球少年のゴンちゃん。

 引っ込み思案で泣き虫のいっちゃん。

 そして、一人で辞書や図鑑を読むのだけが趣味の暗いオタクの僕。

 こんなバラバラの僕たちでも、みんなまだ小学生だったせいか、たまには四人でいっしょに遊ぶようなこともあった。

 でも、今回のことはそんな僕たちでなんとかできるようなものじゃなかった。


「とにかくさ、お父さんをやっつけたらいいんだよ」

 同じ日の昼、野外活動センター近くの山をハイキングしていたときに、いっちゃんのことを友達のゴンちゃんに言ったところ、無責任な答えが返ってきた。

「……どうやって?」

 枯葉の積もった坂道を歩きながら僕は尋ねた。

「こないだテレビで『オニヨメのフクシュウ』っていうのやってたんだけどさ、ダンナさんのお父さん? お母さん? どっちか忘れたけど、キライすぎて殺しちゃったんだって。お風呂に入ってるときに、電気カミソリをバスタブに落としてビリビリー、って」

 ゴンちゃんはまるで得意げにそんな話をした。

「なにそれ、こわ」

 すると、隣を歩いていた委員長インチョーのひーちゃんが真面目に突っ込んできた。

「サツジンはハンザイだよ」

 それを聞いて、ゴンちゃんは急に白けた様子になった。

「そりゃそうだけどさ」

 ゴンちゃんはつっけんどんに聞き返した。

「でも、そしたらどうするんだよ?」

 答えに詰まったのか、ひーちゃんは返事をしなかった。

 みんなリュックサックのベルト握りしめたまま、黙って山道を歩いた。

「さぁ」

 なんと声をかけていいか分からず、僕はそんなことしか言えなかった。


 山の頂上——といっても、数百メートル程度の低い山だったが——にたどり着いてから、みんなで記念写真をとった。

 このときの写真が卒業アルバムに載っている。

 真ん中あたりではしゃぐ僕とゴンちゃん。

 その横に立って苦笑するひーちゃん。

 いっちゃんはといえば写真の隅、映るか映らないかぐらいのところでポツンと地面に座り込み、無表情であさっての方角を見つめていた。


 夕方になって、みんなでカレーを作ることになった。

 以前、家庭科の時間に問題行動を起こしてお縄になっていた僕は、担任の先生の監視のもと順調に料理を進めていた。

「いつも家でカレーに何入れんの?」

「チーズ!」

「ネギとか?」

「たまごとナットー、かな」

「それはおかしくね?」

 煮詰まってきたカレーの鍋を前に、僕は同じ班の子とそんなたわいない会話に花を咲かせていたとき——

「いっちゃんが……」

 ひーちゃんが息を切らしてこちらへ走ってきた。

「どしたん、インチョー」

 僕が尋ねると、ひーちゃんは青ざめた顔で続けた。

「いっちゃんが料理の途中でどっか行っちゃって……。帰って来ないの」

 トイレに行っただけだと思ってたんだけど、ひーちゃんは申し訳なさそうに付け加えた。

 これにはみんな騒然となった。

「夜になるとマズいね」

 男子の一人が言った。

「みんなで手分けして探そうよ」

 僕はその場の思いつきを口にした。

 しかし、先生はあくまでも僕たちを押しとどめた。

「いや、君たちはここに残りなさい。こういうのは大人がなんとかするから」

「でも……」

 先生は他の職員たちに声をかけて、懐中電灯を片手にそろそろ暗くなってきた山の中へ入って行った。

 しばらくたって、僕は耐えきれなくなった。

「やっぱり僕も行く」

 みんなの制止を振り切って、僕も勝手に捜索隊に加わることにした。


 山の中で迷子になったいっちゃんを追いかけてきたものの、山は真っ暗だった。

「おーい」

 このままだと僕自身が迷子になりそうだ。

 季節は秋。だんだん寒くなってきて、心細くなってきた頃——

「ばか。何してんのよ」

 こちらをライトで照らすものがいた。

 ひーちゃんが懐中電灯を持って迎えにきたのだった。

「インチョー! 会いたかったよぉ……」

 僕が大げさにリアクションすると、ひーちゃんは困り顔でぼやいた。

「もう、アンタが迷子になってどうすんのよ」

 そこから僕たちは「対策会議」をした。

「いっちゃん、見つかった?」

「まだ」

「心当たりはあるの?」

「ない」

 ひーちゃんはしばらく考えていたが、

「昼に山行ったじゃん? あそこは?」

「あ」

 盲点だった。

「行くだけ行くか」

 僕はひーちゃんと昼間登った山をもう一度登った。


 いっちゃんはあっさり見つかった。初め、いっちゃんは山の上で一人無言で体育座りをしていた。かなり不気味ではあった。

「こんなとこでどうしたの? ご飯できたから、帰ろ」

 ひーちゃんが優しく声をかけた。

「そうだよ。みんなでカレー食べようぜ」

 僕も加わった。

 いっちゃんはそのまましばらく沈黙していたが、最終的に一言。

「……こわい」

 何やらものすごく思いつめた顔でそれだけ呟いて、また黙ってしまった。

「そんなに家に帰るのがイヤなら、ここに住んだらいいんだよ」

 僕が慰めの言葉をかけるも、すかさずひーちゃんが口を挟んできた。

「そんなのムリに決まってるでしょ」

「じゃあどうすんだよ」

「もっと現実的な方法を……」

「もっと現実的な方法って何だよ!」

「だからそれを今考えてるの!」

 小学生の僕たちがいくら話し合っても、解決策なんて思いつくはずもなかった。

「あ、君たち! ダメじゃないか、勝手に山の中に入っちゃ!」

 後から追いついた担任の先生に見つかり、あの後僕たち二人を一時間に渡り説教を受けた。


 最終日、野外活動センターから帰るバスの中で、いっちゃんの隣の席に座っていたひーちゃんから聞いたが、いっちゃんは何度か「児童相談所」というところに電話したそうだ。しかし結局、お父さんにジャマされてあまりうまくいかなかったらしい。

 考えてみれば、林間学校の直後にいっちゃんのお父さんがわざわざ学校までいっちゃんを迎えにきたのも変な感じだった。


 その後、いっちゃんは卒業を待たずに引っ越してしまった。

 今まで普通に学校でいっしょに遊んでいたのに急にいなくなってしまって、なんだかさみしい気もしたが、当時の僕は見えている世界が狭すぎて、特にそれ以上の違和感を持たなかった。

 でも、あの後いっちゃんがどうなったかとかそういう話は全く誰からも聞いていないのだ。

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林間学校の夜に 中原恵一 @nakaharakch2

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